2023年7月16日日曜日

古書を巡る旅(36)ハクルート「イギリス国民の主要な航海と旅行と発見」 〜「時空トラベラー」の大先輩は何を語ったのか?〜





リチャード・ハクルート:Richard Hakluytの「イギリス国民の主要な航海と旅行と発見」:The Principal Navigations, Voyages, Traffiqves, and Discoveries of The Eingrish Nation, made by Sea or Overland, to The Remote and Farther Distant Quaters of the Earth, at Any Time whithin the Compasse of These 1600 years... という長いタイトルの航海記録全集がある(以下では「イギリス国民の航海記」と略して紹介する)。1589年にロンドンで初版が刊行され、1598−1600年に増補されてフォリオ版の3巻として刊行された。ポルトガル・スペインの海外進出(いわゆる大航海時代)に遅れて世界の舞台に登場した新興海洋国家のイギリスで、初めて英語で出版されたイギリス人による航海記録の集大成である。改定を繰り返すうちに外国の航海記録も取り入れられるが、刊行初期においてはタイトル通りイギリス(イングランド)の航海を過去1600年に渡って振り返って記録している。ハクルートは、エリザベス一世統治の時代に、世界の海を股にかけて活躍したドレイク、ホーキンス、ローリー、キャベンディッシュなどと同時代人であり、この「航海記」には、彼らの偉業の記録が採録されている。この著作は、間違いなく後の大英帝国の繁栄のプロローグを飾る記録集であり、パクス・ブリタニカへの道筋を示した記念碑的な大作と言える。


リチャード・ハクルートと「イギリス国民の航海記」

リチャード・ハクルート:Richard Hakluyt (1552?~1616)とはどのような人物なのか。16世紀後期から17世紀初頭のイングランドの聖職者であり歴史地理学者である。その出自はあまり知られていないが、少年時代はエリザベス一世直属のエリート聖職者を養成する学寮ウェストミンスター・カレッジに選ばれて入寮し、さらに成績優秀であったため、オックスフォード・クライストチャーチに進学。そこでも優秀な成績を収め、学士、修士を取得後に、フェローとして大学に残った。オックスフォード時代にフランドルの地図学者オルテリウスやメルカトルとも出会い、大きな影響を受ける。そして地図に関する公開講座を持つようになる。そしてオックスフォードの初代の地理学教授となった。やがて女王の期待に沿うべく聖職者に戻るが、生涯をかけてイングランドの航海と海外進出について研究し、政策提言し続けた。

ハクルート自身は、ホーキンス、ドレイク、キャベンディッシュ、ローリーのように自ら航海、探検に出かけたわけではなく、外国は大使館付きの聖職者として赴任したフランスしか行ったことがない。こうしたことから彼の研究は、いわば書斎学者のそれと批判されがちである。しかし、こうした膨大で広範な航海記録や公文書、手紙などの歴史資料の収集・保存と分析と編纂は並や大抵の努力でできるものではないことは想像に難くない。彼はフランス語、スペイン語、ポルトガル語、ラテン語に通じ、オックスフォードの図書館はじめ、世界の航海に関する関連記録をほぼ全て閲読し、翻訳し書写したと言われている。時間の流れ(年代記:Chronology)と地理的な広がり(地理学:Geography)を捉えることを通して、時代を、世界を俯瞰する仕事は貴重でやりがいのあるものであったはずだ。これは実際の航海に出かけた「冒険者」とは異なる視座を持つことであり、国家の成長戦略にとっては、その複眼的な地理認識、歴史認識が枢要である。この時代のハクルートの著作がシェークスピアの戯曲集とともにエリザベス朝時代のイギリスを代表する重要作品であると言われる所以である。彼は、地理学:Geography、年代記:Chronology、歴史学:Historyと、まさに空間と時間を俯瞰する「時空の学問」を成し遂げたと言ってよいだろう。ちなみに、ヨーロッパ各国では、こうした活動に関する公文書や詳細な記録(ジャーナル・日記など)や書簡類が、公文書館や図書館によく保管されており、多くが毀損、散逸を免れて後世に引き継がれている。こうした文献を元に歴史的な出来事を検証する文献史学が発達する基礎となっていた。ハクルートもそういった遺産を保全し、活用した研究者の一人であった。現在でも「大航海時代」の全容と活動の詳細が見渡せるのは、記録を残す習慣と、こうした公文書館や図書館の役割と、文献史学者、またこれらを世に出す出版文化人の役割に負うところが多い。

ハクルートの著作は、アカデミックな研究成果としてだけではなく、具体的な航海記録に基づいた海外情報が豊富で、多くの航海者にとって実用的な指南書として重用された。イギリスの艦隊にはこのハクルートの「イギリス国民の航海記」が常備されていたという。さらに、新興海洋国家イングランドのあるべき姿、成長戦略を指し示した政策提言書でもあった。初版の献辞は、エリザベス女王の側近である枢密顧問官フランシス・ウォルシンガムに贈られている。先行する大国スペインの海洋帝国モデルを意識しながら、イングランドの国家成長戦略にとって、北米植民地開拓の重要性を強調し、北西航路(北米ニューファウンドランド沖の北極海航路)、北東航路(北海、バレンツ海、ロシア沖の北極海航路)によるアジアとの交易ルート開拓の重要性を説き、具体的な政策提案をしている。いわばスペイン・ポルトガル帝国というオールドモデルに対して、「イングランド帝国」(後の大英帝国につながる)というニューモデルの創出とその道筋を提起している。これは、同世代人であるウォルター・ローリーの論考集に語られている国家ビジョンとも共通する(2022年9月12日「古書を巡る旅25:ウォルター・ローリー論考集」)。すなわち「脱ローマ・カトリック=脱ローマ帝国レガシー」である。これはいわばイギリスの「脱欧入亜」思想と言っても良いかもしれないい。ヨーロッパを出て、北米(西インド)とアジア(東インド)に新しいイングランド帝国を打ち立てる。二人のどちらが影響を与えたのか分からないが、当時のイングランドのインテリジェンスを象徴する「時代空気」であったのだろう。まさに本書は、フランシス・ドレイクのアルマダ海戦におけるスペインの無敵艦隊撃滅の翌年に初版が刊行されており、当時のイングランド人の歓喜と熱量が伝わってくる。これがエリザベス一世の国家戦略意思決定に大きな影響を与え、後の「大英帝国の繁栄と平和」(Pax Britanica)の時代に繋がっていったことは、我々後世に生きるものが歴史で学んだとおりだ。こうした視点からも、地理学者として、年代記作家としてのハクルートの事績の重要性は議論の余地がない。ハクルートは同時代を生きたシェークスピアの戯曲集と並ぶ、壮大な「イングランド叙事詩」の作家だとさえみなされている。イギリスでは彼の功績を顕彰して、1846年に「ハクルート協会」が設立され、王立地理学協会メンバーによる評議会、研究支援、著名な「ハクルート協会叢書」シリーズを発刊するなど、イギリス地理学の重要な活動の中心となっている。この影響を受けて、オランダでも、「東方旅行記」などのインド三部作を著した同時代のリンスホーテン:Jean Huygen von Linschoten (1563~1611)を顕彰する「リンスホーテン協会」が設立されたことは以前のブログで述べた(下記の過去ログ参照)。


ハクルート協会の紋章

日本に関する記述

しかし、意外にも日本では、このハクルートの地理学者としての評価と、本書の歴史資料としての評価があまり高くないのか、これまで歴史地理学、政治地理学を始め、地理学全体の研究対象として見落とされてきたきらいがある。例えば、ハクルートの「イギリス国民の航海記」は、そのリプリント版は全国の大学図書館で所蔵されているが、その定本とも言うべき初版は、日本の研究機関での所蔵は京都大学経済学部と国際日本文化研究センターだけである。これほどの歴史上の知の巨人で、シェークスピアと並んでエリザベス朝時代を代表する人物とイギリスでは評価されているにも関わらず、その著作には十分に関心が払われておらず、日本における研究はまだまだ未踏の荒野と言っても良いかもしれない。おそらく、歴史学の視点から見ると、この時期の日欧交流史研究にとって、日本に関する記述が少なく、あってもポルトガル、スペインの記録からの翻訳、引用で、一次史料としての価値が低いとみなされていたせいであろうか。また、地理学の視点から見ても、明治期に欧米から入ってきた地理学:Geography概念がドイツやフランスの学者の理論、学説中心であったせいだ、と指摘する研究者もいる。しかし、本書には、日本に関する記述も決して少なくはなく、英語で記述された初期の日本関係文献としても極めて貴重な史料であると考える。確かに当時のイギリスでは、スペインやポルトガルの航海者、イエズス会の宣教師が記録に纏めた日本関連の史料や手紙が、英語に翻訳されることが少なかったようだ。この点で、オランダはスペインの植民地であったこともあり、こうした史料がオランダ語に翻訳されていた。しかしマッフェイの「インド誌」などは、ハクルートが文中で紹介している通り、イギリスのRichard Willeiにより英訳され、そのなかの日本に関する記述が掲載されている。このWillieに関しても日本ではあまり知られていないが、イエズス会に近い聖職者であったようだ。これらの英語文献は当時のイギリスがどのように日本に関心を持って研究していたかを知る貴重な史料である。またキャヴェンディッシュ艦隊がドレイクに続き世界一周航海から戻り、フィリピンからアカプルコに向かうスペイン船拿捕で二人の日本人を獲得し、プリマスに連れ帰った記述が見える(後述)。こうしたキャヴェンディッシュ艦隊航海記録をハクルートは収録している。ただ日本に関する言及が少ないというだけで史料としての価値が低いと断ずる事はできないだろう。日本でも更に深化した研究が進められているいるようなので期待したい。

以下に日本に関する記述を幾つか抜粋する

1)ハクルートによる、女王の側近である枢密顧問官フランシス・ウォルシンガムへの献辞のなかで、新しいターゲットしての日本に言及している。後述のキャベンディッシュ艦隊が連れ帰った二人の日本人の能力に注目し、また、日本は他のアジア諸国と異なり、北方の寒冷地であるので、イギリスの羊毛貿易の可能性を指摘し、南回りルートに対抗する北回りルート開拓など、様々な提言を行っている(第一巻 献辞・序文)

2)Richard Willieの詳細な「日本報告」記述。Willieの「東西インド旅行誌」は、イエズス会のマッフェイ「インド誌」から日本関係部分の情報、ルイス・フロスの京都からの書簡が出典となっているようだ。これが初めての英訳の日本情報である。日本の地理的な位置、気候(寒冷であると報告されていることが、上述の毛織物の市場をして有望と見る根拠になったようだ)、統治制度(高位の聖職者:仏教指導者?、王:天皇?将軍?、判事:武士?)産物、銀山(石見)の存在、日本人の気質(健康で長寿、礼儀正しく、名誉を重んじる、知的好奇心が旺盛など)、主要都市はみやこと鹿児島? 中でも興味深いのは日本の大学:Universityについての紹介記事である。全国に5箇所あり、そのひとつがBandu(足利学校のことか?)でもっとも権威がある、と。やや首を傾げたくなるような解説も見える。Willie自身が日本に赴き、現地で見聞した報告ではないが、日本に関する興味に満ち満ちた記述である。ハクルートがこれをわざわざ引用、掲載したところに彼の日本への関心の強さが見える。(第四巻に収録)

3)キャベンディッシュの世界一周航海。フィリピンからアカプルコに向かうスペインのガレオン船サンタ・アナ号をカリフォルニア半島沖で襲撃し、金銀財宝を奪い、乗員を上陸させて命を助けた後に船を焼き払った。この航海中最も大きな「成果」であったことが記述されている(1587年)。この事実はスペイン側の報告にも在り、ハクルートはそれも本書に取り上げている。其の中で拿捕したスペイン船の乗組員の中に、日本人の若者、クリストファー(20歳)とコスマス(17歳)がいて、彼らはクリスチャンであるらしいこと、日本語の「読み書き」が出来、しかも短期間に英語を習得し、不自由なくイギリス人と会話ができるようになったことが記述されている。キャべンディッシュは、この二人を得難い有能な人材としてプリマスに連れ帰った。二人は3年ほどイギリスに滞在後、再びキャベンディシュの南海航海に同行し、ポルトガル領のブラジル・サントスの攻撃などに参加した。しかしキャヴェンディッシュ艦隊の遭難と彼の死を最後に二人の名前が出てこなくなる。ハクルートは、上述のように、この件を序文でも取り上げている。(第八巻に収録)

4)太閤秀吉の朝鮮出兵記事(イエズス会士ルイス・フロイスの報告書の記録の英訳)。数ページに渡る詳細な報告で、朝鮮出兵と中国(明国)征服計画の顛末について引用している。これはまた朝鮮半島に関する初めての報告である。これまで朝鮮半島に関する情報は乏しく(島であるのか半島であるのかも不明とされていた)貴重である。これに関連して日本国内の報告に続き、北方の津軽、蝦夷に関する記述が見える。この記事は、スペインの航海者フランシスコ・ガリ:Francisco Gualle or Gali)がマカオからメキシコへの航海を記録し、周辺国の状況を報告したもので、台湾や琉球のほか、上述のような日本に関する記述が含まれている。この原典はルイス・フロイスのイエズス会への報告書であり、本人は日本に寄港していない。また、この報告記録は、オランダの偉大な航海者リンスホーテンに引き継がれ、彼の「東方旅行記」などの三部作のネタ本としても貢献した。このように、16世紀末の日本に関する記録は、もとはイエズス会士、ポルトガル・スペイン航海者によるものが原典で、それを後発国であったオランダやイギリスが翻訳して活用した。ハクルートがここでガリの記録を引用したのも、日本や朝鮮、台湾、琉球といった東アジアの情勢が、イギリスの北西・北東航路開拓に必要な地理情報(地政学的情報)であったからであろう。ハクルートの提言もあり、当時のイギリスにおいては、スペイン・ポルトガルに対抗するアジアへの新ルート開拓(北極海航路)が企画されており、其の情報収集と研究が進められていたことがここからも読み取れる。(第十巻に収録)


ウィリアム・アダムス(三浦按針)についての記述はあるか?

ちなみに同時代人であるウィリアム・アダムスの1600年の日本到達について、ハクルートは言及していない(索引にもアダムスの名前は出てこない)。アダムスの日本からの手紙が、イギリス東インド会社総督スマイス卿に届き、イギリス国王ジャームス一世に上奏されるのは1611年になってからである。またオランダ・マフー艦隊のリーフデ号が日本に到達し、数名が生存しているというニュースは、同じオランダのファン・ノールト艦隊によって1603年にヨーロッパにもたらされるが、ハクルートはこれらの出来事に言及していない。何故なのか。歴史上、この時期にイギリス人の航海者、探検家、商人または聖職者で日本に到達した人物はいない。ウィリアム・アダムスが唯一初めてのイギリス人である。しかし、かれはオランダのマフー艦隊リーフデ号の航海士として日本に来ており、イギリスでは其の名が知られていなかった。オランダ商館の記録、イザーク・コメリンの「オランダ東インド会社誌」には登場するが、イギリス人の書いた記録に見えるのはずっと後のことである(おそらくジョン・セーリス「日本航海記」が初出?)。その後のアダムスの手紙と仲介で実現した、1613年の国王ジェームス一世によるジョン・セーリスの日本航海とイギリス商館の平戸開設についても記述はない(この本の刊行後の出来事である)。

たしかに、当時のイギリスにとって、中国、東インド(今のインドネシア)市場への進出に出遅れたせいもあって、そちらをキャッチアップすることが急務で、日本への関心が相対的に低かったことがあろう。東インド交易圏でのオランダとの争い(アンボイナ事件など)も熾烈になっていた。ジョン・セーリスが日本の皇帝徳川家康に謁見し、平戸に商館を開設するもわずか10年でオランダとの競争に破れ、日本から撤退している。ウィリアム・アダムスという歴史の奇跡とも言うべきイングランド人が、日本の皇帝家康の臣下、三浦按針として活躍していたにも関わらずである。小説の題材になるロマンチック・ストーリーとしては、後世にたびたび取り上げられたが、現実的な外交戦略としてはこの奇跡を活かしきれなかった。再びイギリスにとって日本が外交上の関心の対象となるのは、250年後の19世紀、幕末から明治維新にかけて、そして日英同盟にいたる時代を待たねばならない。すなわち東西文明の「セカンド・コンタクト」以降のことだ。これは皮肉にも1776年にイギリスから独立を果たした北米植民地、アメリカ合衆国のペリー艦隊に、1854年に日本開国の先を越されたからである。そしてウィリアム・アダムス(三浦按針)の名が、日英の人々の記憶に蘇るのもこの時期になってからのことであった。


「クリストファ」と「コスマス」とは?

上記3)で記述されているクリストファーとコスマスとはどのような人物であったのか?日本のどこからきたのか等、彼らの出自などは全くわかっていない。ネット上でサーチするも、この二人に関する文献は殆ど見当たらない(英語版Wikipediaにハクルートと後述のパーチェスの記事の引用があるのみ)。また、スペイン側の記録でも、(先述のようにハクルートに引用されているが)サンタ・アナ号がキャベンディッシュに拿捕された件は報告されているが、そのなかに拉致された人物として、彼らの名前は出てこない。おそらく身分のある、重要人物と認識されていなかったのであろう。時代的にはキリシタン大名、大友・有馬・大村の天正遣欧使節(1582−90年)と同時期であり、これらの少年達と年齢的にも同世代である。日本を出た理由、出身も不明であるが、秀吉によるバテレン追放令やキリシタン弾圧政策が始まる以前であることから、迫害を逃れてというわけではないだろう。この頃、ルソンに日本人が交易を目的に出かけた時期であることと関係があるのかもしれない。また、九州には大友・有馬などキリシタン大名が広い支配地域を有していて、下級武士や領民にもキリシタンが多かった。スペインによるルソン占有が1570年であることから、キリシタンの中にはイエズス会宣教師に伴われてマニラに渡航したものがいたのかもしれない。戦に負けた地域の住民が奴隷としてポルトガル商人に売られたり、主君を失った武士が傭兵として雇われて渡海したケースもあった。この時代、フランシスコ・ザヴィエルがマラッカで出会った日本人Anjiro(アンジロウ)のように、現代の我々が想像する以上に日本人は(自分の意志の有無に関わらず)海外に出かけていた。クリストファーとコスマスは、歴史の表舞台には登場しない、当時の日本人の海外渡航の一端を垣間見ることが出来るケースだ。また、ハクルートの「イギリス国民の航海記:初版」の続編としてSamuel Purchaseによって書かれた記事の中で、この二人の日本人に関し、航海中の船員同志の金銭関係のトラブルや、ブラジル遠征にまつわるポルトガル人との確執に関する記事が見える。ここでも彼らの出自や、その後の消息には触れられていないが、キャベンディッシュのブラジル遠征に同行したことは間違いなさそうだ。はからずも、この二人が、記録に見える初めて太平洋を横断した日本人であり、初めてイギリスに渡った日本人でもある。そして大西洋を横断してマゼラン海峡に達した初めての日本人でもある(参考著作:森良和著「リーフデ号の人びと」)。彼らに関する新資料が発見されることを大いに期待したい


天正遣欧使節に関する報告と北極海航路による日本到達の提言

ハクルートは、先述のように、本書の1589年の初版のウォルシンガム卿への献辞や、改訂版の巻頭で幾度も日本に言及しており、これからイギリスが向かうべき新天地の象徴のような日本への関心を表明している。また、本書には記述が見えないが、ハクルートがフランス駐在中に、イエズス会の東インド管区長ヴァリニャーノが日本から連れてきたクリスチャンのプリンス5人が、ローマ法皇に謁見した(天正遣欧使節 1582−90年)との報告を、重要ニュースとしていち早く本国に伝えている。こうした折も折、先述のごとく、キャベンディッシュが連れ帰った二人の日本人の若者「クリストファ」と「コスマス」について取り上げ、その知的能力の高さに着目し、時宜を得た貴重な人材と評価したわけだ。また他のアジア諸国に比して寒冷な日本はイギリスの主要な産物である毛織物の輸出対象国として有望であることや、銀を産出する(石見銀山)こと、太閤秀吉の朝鮮出兵にも言及して、はじめて朝鮮半島情勢について分析している。イギリスにとって北米植民地開拓とともに、アジア進出が、いわば国家成長戦略であった。その際、先行するスペイン・ポルトガルの南回りルートに対抗すべく、イギリスが目指していた北西航路、北東航路によるアジアへの航海ルート開拓が検討され、実際に幾度も探検も行われた(ヘンリー・ハドソンの探検など)。この新ルートでは、蝦夷地や日本、朝鮮が、いわばアジアの入り口、ゲートウェーであリ、その戦略的な重要性をハクルートは指摘しているのである。この試みは現実には実現せず、イギリスはそのアジア進出ターゲットをインド亜大陸と中国に向け、植民地帝国を築いていったことは周知のとおりである。ユーラシア大陸の東西両端に位置するイギリスと日本を直接結ぶ北極海交易ルートは、奇しくも日本でも徳川家康が三浦按針(アダムス)とともに構想し、その実現に向けてアダムスに外洋帆船を作らせ、そのハブ港として平戸ではなく、浦賀を開港させることを企画している。実現しなかったとはいえ、歴史における「共時性:Synchronicity」あるいは「同時発生:Co-incidences」という言われる現象がここでも見られるのが心を揺さぶる。顧みるに、現代のイギリスがEUを離脱して、AUCUSや東アジア、日本との連携を深めてゆく国家戦略のルーツは、このころに遡ることが出来るのではないかと考えるようになってきた。


今回紹介する全集

手元にある全集は、1927−28年にロンドンとトロントのJ.M.Dent and Son Limited、ニューヨークのE.P.Dutton and Co.から発刊されたもの。全10巻からなり、地図やイラスト(原書にはない新しいものを含む)が豊富に取り入れられた読み物としても魅力的な全集である。「航海記」は、初版以降、度々改定、追補が行われている。1598年の初巻以来、1598−1600年には3巻本に増補された。しかし、ハクルートの収集した資料は、とても3巻に収まるものではなく、さらに新しい情報も、アップデートされなくてはならなくなった。本書が刊行されて以来、イギリスが積極的に海外進出し、次々に新発見や新情報がもたらされたからである。彼の死後は、Samuel Purchasによってハクルートが集めた資料が引き継がれたが、かれの編集方針や研究姿勢は評価が分かれる。この後、ハクルートの残した資料とそれ以降の資料を体系的、組織的にを保護しようという動きが高まり、彼の死後230年を経た1848年に、王立地理学協会の主要メンバーにより「ハクルート協会」が設立された。現代でも「ハクルート協会叢書」として世界の航海、探検の記録を収集出版し続けている。こうして「航海記」に漏れた資料や新資料が、新たに一流の地理学者たちの手で整理、編集されて、1903−5年にはグラスゴーで新「航海記」12巻が刊行された。またこの後、イギリス関係だけを選定したEveryman's Library版の8巻本が、またさらに1927−28年には、イギリス以外の旅行者による記録2巻を追加し、地図やイラストを多く挿入した新しい全集が刊行された。手元にあるものがそれである。この連綿と続く全集の追補、再版、さらにはハクルート以降の動きについては、新たに叢書刊行でカバーするなど、継続的な研究事業をみて、ハクルートはあの世で喜んでいることだろう。


1589年「航海記」初版の表紙

1927年版表紙とエリザベス女王肖像

全10巻 1927−8年版


コロンブスのサンタマリア号

枢密顧問官フランシス・ウォルシンガム卿へのハクルート直筆の手紙

ロバート・ソーンの世界地図

キャベンディッシュ艦隊が連れ帰った日本人クリストファーとコスマスの記述

トーマス・キャベンディッシュ

ウォルター・ローリー

フランシス・ドレイク



参考;過去ログ

2021年12月12日 東西文明のファースト・コンタクト「バテレンの世紀」

2021年12月28日 東西文明のファースト・コンタクト「カピタンの世紀:オランダ編」

2022年1月8日 東西文明のファースト・コンタクト「カピタンの世紀:イギリス編」


2023年7月2日日曜日

古書を巡る旅(35)Black's Young Japan Yokohama and Yedo 〜「近代日本ジャーナリズムの父」が見た幕末・維新のニッポン〜


John Reddie Black's "Young Japan Yokohama and Yedo" 2 volumes in 1880, 1881


本書は、幕末・維新の時代に横浜を拠点に新聞発行人として活躍したジョン・レディー・ブラック:John Reddie Blackが著した「ヤング・ジャパン:Young Japan Yokohama and Yedo」である。この「ヤング・ジャパン」は、条約締結の1858年(安政五カ国条約)から、西南戦争(1877年・明治10年)1879年(明治12年)までの21年間の記録で、外交官でもなく、新政府のお雇い外国人でもない、民間のジャーナリストが見た幕末維新のニッポンを記録したものとして貴重な著作である。また、日本(横浜)において印刷出版された最初期の英語版書籍でもある。第一巻(1880年)は横浜居留地16番の彼の事務所で、第二巻(1881年)は横浜居留地70番のJapan Gazette:ジャパン・ガゼット社で印刷。横浜のKelly & Co.:ケリー社から出版された。この初版本がロンドンのTrubner & Co.:トラブナー社から世界に配本された。本書は、いわゆるプライベート・プリント本であり、このイエロー・クロスのハードカバーの初版本は現存する部数が限られているため古書としても貴重である。再版の希望が多かったため、1883年には、ニューヨークでアメリカ版が出版されている。


ジョン・レディー・ブラック:John Reddie Black (1826-1880)

スコットランドの代々名門の海軍士官の家に生まれ、彼自身も学校卒業とともに任官するが、やがてこれを辞し、1854年にオーストラリアへ移住。一時期そこで何でも屋的な商社を起こし成功するが、数年で事業をたたみ、歌手デビューする。インド、上海、香港、長崎などを公演で渡り歩く。その公演で1861年に横浜へ。横浜で新聞事業に携わることになる。彼の息子は、日本初のイギリス人落語家、快楽亭ブラックである。

彼が携わった新聞は、次の通り。

1)The Japan Herald 1861年 日本初の新聞(週刊)。長崎を拠点にした印刷出版業界の名家ハンサード家が、横浜に移り創設した新聞の共同編集人に選ばれ、主筆となって社説を書いた  横浜居留地60番

2)The Japan Dairy Herald  1863年 日刊紙に 横浜居留地28番

3)The Japan Gazetteを発刊 1867年 横浜居留地70番

4)The Far East 写真誌を発刊 1870-1875年  横浜居留地98番

5)日新真事誌 1872年 初めての日本語新聞を創刊 東京築地

ブラックはこのように新聞発行人、新聞編集者として活躍した他、各紙の主筆としても論陣を張った。日本初の日本語新聞「日新真事誌」を発行したことで「近代日本ジャーナリズムの父」と言われている。新聞がまだ日本ではいわば「ニューメディア」であった時代で、初期においては地域の情報誌といった体であったが、週刊から日刊へと本格的な新聞事業へと発展させた。当時の内外の事情を知るために不可欠な情報を提供。さらに論説により世相分析、政策批判も展開し、ジャーナリストとしての批判精神を十分に発揮している。日本人の購読者は当初少なかったようだが、福沢諭吉はこのブラックの新聞を、彼の研究、講義の情報ソースの一つとして熱心に購読し、翻訳して塾の教材とした。

幕末の日本においては、新聞社やジャーナリストといった、はっきりした業種、職業が確立していたわけではなかった。ブラック自身も、オーストラリアで事業を始めたり、歌手になったり、インド、中国などアジアの流浪の旅に出て転々としたのちに横浜にたどり着いたというのが実情で、彼が回想しているように、具体的な目的があって日本に来たというわけではない。当時の横浜居留地にはヨーロッパやアメリカから流浪の末やってきた「山師」的な人間が多くたむろしていて、ハリー・パークスやアーネスト・サトウの言葉を借りれば、「横浜居留地はヨーロッパの掃き溜め」とさえ表現される状態であった。ブラック自身も、最初は歌手としての公演でやって来ただけで、特に日本に留まるつもりもなかったが、横浜で競売人や、新聞の共同発行人になったことで、家族を呼び寄せ定住し始め、結局20年近く滞在することになった。当時、ブラックも多くの欧米人の友人から、開国したばかりの日本でのビジネス・チャンスの話や、一攫千金の夢を聞いていたが、特にそういう関心はなかったとも回想している。しかし、まるで呼び寄せられたように横浜居留地16番に個人の小さな印刷所(いわゆるプライベート・プリンター)を開設し、情報誌、書籍(このYoung Japanも)の印刷を始めた。ブラックはその美声とともに文章はわかりやすく人気があったようだ。また育ちの良さからセンスと教養に満ちており、ジャーナリストとしての取材、分析、そして編集に関わる能力をいかんなく発揮し始めた。彼の社説やYoung Japanの記述を読むと、現在にも通じるジャーナリズムの矜持とも言うべき姿勢が貫かれている。すなわちジャーナリスティックなフィクションやセンセーショナルな論調を避け、事実に基づいた報道、論評に徹することを心がけていた。新聞先進国イギリスのジャーナリズムの伝統であろうか。とても流浪の末にたどり着いた「山師」とは言えない能力を発揮する。ある意味、若い頃の教育が基盤となって、たどり着いた日本で、天職を見つけ、其の能力を開花させたたというべきかもしれない。


John Reddie Black (1826-1880)
横浜で撮影されたもの
隣りに住んでいたベアトの写真館で撮影したのだろうか

The Daily Japan Herald
(横浜開港資料館HPより引用)


「ヤング・ジャパン」の執筆

ブラックは、幕末の混乱の中で、条約の履行の停滞、兵庫開港、大坂開市の遅れに関して、幕府の政策の一貫性のなさ、ミカドを説得できない不甲斐なさに、批判的な記事、論評を載せていたが、同時にこうなった遠因はアメリカやイギリスの強引な外交にあると分析している。しかし、混乱しているとはいえ幕府こそが条約締結した正統な政権であり、薩摩や長州は反乱勢力だと見做している点が興味深い。のちにパークスやサトウが薩長寄りになってゆく視点とは異なる。一方で、絶対君主ではない徳川Tycoonは、容易に他の有力な封建領主たちにとって代わられる脆弱性があるとも見ており、絶対君主制から立憲君主制へ移行していったイギリスでは、すでに遠い過去のものとなっていた封建領主(君主)制度が、これからの日本で生き延びるとも思っていない。この辺りはパークス、サトウなどと歴史観を共有している。維新後も、ミカドの政府(明治新政府)の矢継ぎ早の政策について、其の拙速さや、未熟さが混乱を生み、大君の政府が残した「条約改正」問題が重い負の遺産としてのしかかっていることについても、事実に即した分析と論評により、大君政府から引き継いだ「産みの苦しみ」だとしている。初めての日本語新聞「日新真事誌」発刊にあたってはハリー・パークスの力を借りて新政府から発刊許可を取りつけたが、民撰議員設立の動きに板垣退助らの自由民権運動の活動を取り上げ、政府の方針に批判的な記事を書いたこともあり、ブラックは、新政府により、新聞発行人から太政官政府左院顧問という「お雇い外国人」に体よく召し上げられた上で解雇されるという、陰謀とも言える策略により新聞の廃刊を余儀なくされる(当時制定された「新聞紙条例」の規定により外国人オーナーの新聞が禁止されたため、とする説もある)。かれは憤然として拠点を上海に移し、新聞を発行し続けるが、1880年に再び東京に戻り「ヤング・ジャパン」全2巻の執筆に取り掛かる。

そういう時代背景の中生み出された「ヤング・ジャパン」は、1858年(安政5年)から1879年(明治12年)までの21年間の記録で、彼が新聞の発行人として書いた数々の記事や論説を振り返り、かつ、ハリスやオリファント、オルコックなどの先人が残した記録や著作を参照、引用し、パークスやサトウの助言も得ながら編纂したものだ。巻頭言でこうした先達への謝辞を述べている。しかしブラックはこの著作にジャーナリストとしての精力を注ぎ込んだ。とくに、先述のように政府から言論統制を受け、日本での新聞が廃刊に追い込まれた直後であったから、彼の言論人としての批判精神が凝縮されている。そういう意味においてもこの「ヤング・ジャパン」は、外交官でも、新政府のお雇い外国人でもない、民間のジャーナリストが見た貴重な幕末維新史の史料として価値がある。本書は、各章の冒頭に、其の章の内容の見出しが列挙されており、出来事を検索することもができる。また、前半(ブラックが取材せずに資料等から引用した事件など)はわかりやすい読み物風に書かれているが、後半になるに従って年月日にそった時系列的な記述の歴史書の体裁となっている。

第一巻は、開国、条約締結後の日本、すなわち幕末の日本(大君の時代)が描かれている。特に印象的なのは、攘夷の嵐が凄まじく、次々と発生した外国人の殺傷事件が連綿と記述されている点である。ヒュースケン暗殺、東禅寺事件、生麦事件など、教科書にも出てくる事件だけでなく、我々が知らない殺傷事件も次々に明らかにされており、フランス人、ロシア人のほか中国人、日本人の被害者も多かったことに驚かされる。外国人とその追随勢力は殺す、というテロリズムが跳梁跋扈する国であったように描かれていて、読んでいて気が滅入る。当然、横浜居留地に住む外国人としては無関心ではいられない事件の数々であり、関心が高くて当然であろう。しかし、ブラックは、先述のようにセンセーショナルな筆致を極力抑え、一連の事件の背景を分析している。幕府側が攘夷浪士の取締に苦慮した様子もよく理解しているが、幕府の「賠償金を払えば良いのだろう」との解決姿勢には批判的である。当事者のハラキリで一件落着にも納得しない。いっぽうで薩英戦争や下関戦争においては、欧米側の賠償金にこだわる戦後処理姿勢にも苦言を呈している。いずれの場合も「金」よりもお互いの「尊厳:dignity」を重視した解決を図るべきであると主張している。ジャーナリズムとしてはこうした血なまぐさい事件を多く取り上げねばならない一方で、ブラックは「一部の階級(サムライ)を除き、日本人は愉快で好感が持てる人々である」と書いているのが救いだ。サムライも、全てが刀を振り回してテロに走る人々ばかりではないが、暴力で否やを言わせない空気が横溢していた時代であったことは間違いないだろう。やがてこうした「攘夷派」と言われた若いサムライたちが、薩英戦争、下関戦争を通じて、攘夷一辺倒の行動では事態は変わらないことを学び、方針を転換してゆくのだが、ブラックは薩長の勢力を最後まで信用していなかったようだ。ミカドの政府が大君の政府に代わって安定した統治を行うには、武力倒幕で問題が解決するわけではない。その先にはさらに険しい道程が待っている、と。

ブラックの「攘夷事件」の論説を読んで感じるのは、残念ながら日本人の意識の中に、最後は暴力で黙らせる、という深層心理が潜んでいることの恐ろしさである。その後の日本の歴史においても、この幕末のサムライの「攘夷」、「一撃必殺」思想は消えていない。これは中世の武家政権成立以来の「サムライ・メンタリティー」の延長だろうと考える。日本は鎌倉幕府以来、戦国時代を経て650余年の武家政権(軍事政権)の時代が続いたことを思い起こす必要がある。軟弱な平安貴族や京都の公家よりも、質実剛健な鎌倉武士や戦国武将に好感を持つ。そんな歴史観、価値観が今も続いている。その封建的な武家による政権を終わらせること(王政復古という形で)がいかに歴史的な大事業であったかは想像に難くない。しかし、そんなミカドの政府も、やがてサムライでもない一般庶民、ブラックが言う「愉快で好感が持てる庶民」にまで武士道精神を叩き込み、国家のために死ぬことが美風だとする価値観を教育し始める。武家文化を日本文化の華として礼賛する。しかしフェノロサや岡倉天心が世界に訴えた日本文化は、武士道ではなかった。ブラックはサムライでない日本人にこそ共感を持っていた。本来の日本人は平和で愉快で、他人への思いやりを持った人たちで、攘夷テロに走るサムライを、日本人に一般化してはならないと強調している。また、彼は日本人を中国人との比較において、西欧文化であれどこであれ、新しい外来文化を積極的に取り入れようとする人達であると書いている。中国人は、外の文化を野蛮なもの、外国人は中国にひれ伏し従属すべきものと考えている(中華思想、華夷思想のことと思われる)。これが「攘夷」:排外主義の原点だと。この彼の中国観が的を得ているかどうかは別にして、日本人の古来からの外来文化の「受容」と「変容」という伝統が、新しいパラダイムを生み出す基である。そしてそれは「攘夷」という排外主義からは生まれない。江戸時代の「鎖国」のさなかにも長崎のオランダ商館を通じて西欧の文明、文化を取り入れてきた。現代的な意味における「多様性」や「開かれた社会」のコンセプトとは異なるであろうが、日本の進むべき方向を示したと思う。

第二巻では、将軍の大政奉還、戊辰戦争、箱館戦争、新政府の樹立、条約改正、不平士族の反乱や西南戦争など、新生日本が抱えた大事件について時系列的に詳しく書かれている。維新のなった1868年3月23日に、イギリス公使ハリー・パークスが京都の明治天皇に拝謁した際に、パークス使節団が攘夷派の刺客に襲撃された事件についても、この第二巻に詳細に記述されている。「最後の攘夷」と言われた事件である。この時公使一行を守った後藤象二郎、中井弘の二人に、ヴィクトリア女王から感謝のサーベルが贈られたことが書かれている、最近発見され話題になったサーベルである(現在、丸の内の静嘉堂文庫美術館で公開展示中)。また新政府の体制の不安定さや、征韓論などの対外政策の混乱など、産みの苦しみとはいえ、日本のような税制、財政政策も通貨管理も未成熟な新興国における内乱や対外戦争が、その国家財政に与える影響がいかに大きいか指摘している。迫りくるロシアの領土的な野心や,清国の統治能力の衰退に伴う東ジアの不安定化という日本を取り巻く情勢を理解しつつも、国力にふさわしくない周辺国への外交圧力(朝鮮問題)や、台湾出兵などの軍事力の膨張にも警鐘を鳴らしている。この辺は大英帝国的大国史観が現れているが、やがて日英同盟という形でイギリスが日本を支援するアライアンスに繋がってゆく。そして、国会開設、自由民権運動の高まりの中で、国権主義と民権主義の対立を見て、民権論の立場から政府批判を展開したことで、先述のように新聞発刊を潰され、言論抹殺されてしまう。それでも、ブラックは一時避難していた上海から横浜に戻り、新聞で言えないならとこの著作を執筆した。こうした出来事は、当時の政府にとってブラックの言論人としての影響力が無視できないものであったことを物語っていると考える。幕末・維新の記録、といえばハリス、パークスやサトウのような米英の外交官や、チェンバレン、フェノロサのような政府の御雇外国人が見聞し記録したものが多い(和訳もされている)のだが、在野のジャーナリストの立場から見聞した幕末/維新の記録が、もう一つの視点から歴史を見直してみるという、貴重な経験をさせてくれる。どこかラフカディオ・ハーンの日本を見つめる眼差しに近いものを感じる。そういえばハーンもジャーナリスト出身であった。

もう一つ、彼が残した重要なエピソードが一つ。17世紀初頭に日本に来た最初のイギリス人、ウィリアム・アダムス(三浦按針):William Adamsの住居跡、夫婦の墓を発見である。日本に来たペリーも、ハリスも、エルギン卿・オリファント、オルコック、パークス、サトウも、アダムスの日英関係史における「最初の第一歩・First encounter」に果たした役割に言及しているが、アダムスが日本で生きた痕跡を、1872年に彼の没後260年たった日本で、地元の伝承や古文書などを頼りに探索し、発見したウォルターなる英人があり、それを新聞で取り上げて世界に紹介したのがブラックである。かれの写真誌であるFar East紙で紹介している。このおかげで、いまは日本橋按針町に石碑が建立され、横須賀の按針塚に夫妻の墓が維持されている。またアダムスの出身地、イギリス・ケント州ギリンガムに記念碑も建った。これは、彼の母国の偉大な先達に対するレスペクトの表明であり、アダムスのレガシーを歴史の闇に埋もれさせてはいけないという、ジャーナリストとしての役割を果たしたものとして記憶さるべきであろう。

この膨大な二巻の大著には、まだまだ興味深いエピソードがふんだんに含まれている。読み物としても面白い。これからゆっくりと時間をかけて読み進めてみたい。もちろんハリスやオリファントやオルコック、パークス、サトウなどの英米の外交官の残した記録や著作、チェンバレンやハーンなどの著作とも読み比べてみると、より歴史の真相に迫る事ができるだろう。興味が尽きない。

この「ヤング・ジャパン:Young Japan」全2巻は、ブラックが残した唯一の著作である。そして西南戦争についての章を執筆途中、1880年に心筋梗塞で世を去った。歌手としての公演でたまたま寄った横浜で、ブラックは思いもよらない人生を歩むことなった。そして母国に帰ることなく、いまも横浜外人墓地に眠る。かのウィリアム・アダムス(三浦按針)と同様に、まちがいなく歴史にその名を残したブラックは、まさに「人生至る所に靑山在り」の人生を送った「さまよえるスコットランド人:Flying Scotsman」である。


イエローのハードカバー



表紙



横浜居留地図
下がBundとよばれたイギリス桟橋の一番館から、フランス桟橋の二十番館まで

真ん中の二階建ての建物がブラックが住んだ居留地16番。その左隣はベアトの写真館

台風の被害をうけた16番館


参考(世界的なネット古書販売サイトAbe Booksでの紹介記事):

An important primary source, written by the former editor of the "Japan Herald," the "Japan Gazette," "Far East," "Nisshin Shinjishi" among several other publications, the author was especially qualified in reporting the news. This current work is his most exhaustive account of both foreign and Japanese activities in Yokohama from its early opening in 1858 back to 1879.  During this 21 year Period, history was made, for Japan was now open to the West, and the flow of ship and goods made Japan aware of her backwardness. Printed in Yokohama at the author's private printing office, this work covers the author's personal observations of the arrival of Lord Elgin, Mr. Alcock, Japanese experiences with foreigners, murdered Russians, assassinations of foreigners, the murder of Mr. Henry Heusken, Mr. Oliphant and rebel Satsuma forces, Ohara Mission, account of Choshu forts cannon attacks upon foreign vessels, Sir Harry Parks, life in Yokohama, trade, start of "Japan Times," Chamber of Commerce, &c. * This work also covers "The King of Liu-kiu's own Story. * Perhaps the most comprehensive early resource on Yokohama & foreigners there done during this period. All editions were identical in this aspect, and the contents are identical. A contemporary insight to Yokohama life. On the verso of the title page it states: Vol.1: "Printed at the Private Printing Office of the Author, No.16, Yokohama, Japan." . Vol. 2: "Printed at the "Japan Gazette" Office, no.70, Main Street, Yokohama, Japan." . While the title page states at the bottom, "London, Trubner & Co., Yokohama, Kelly & Co 1880, 1881" this book was only published in Yokohama, but distributed by Trubner in London. The publisher "Kelly" is referring to a later change in that publisher's name to "Kelly & Walsh." . Regardless of the above irregularities, the book was clearly privately printed in Yokohama at John R. Black's office. A very rare and early Yokohama printing in English.