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2022年9月12日月曜日

古書を巡る旅(25)Sir Walter Raleigh's Select Essayes 〜エリザベス一世の寵臣ウォルター・ローリーの時代を読み解く〜



モロッコ革のバインディング



 2022年9月8日、スコットランド・バルモラル城でエリザベス二世が亡くなった。96歳であった。今年、在位70年のプラチナジュビリーを祝ったばかりで、ヴィクトリア女王の在位期間を超え、イギリス王室史上最長の君主となった。19世紀後半の大英帝国絶頂期(パクスブリタニカ)のヴィクトリア女王と同様、エリザベス女王はイギリスの歴史を象徴する女王である。その治世下のイギリスは、戦後の混乱と、戦勝国でありながら多くの植民地を失う衰退の時代に入り、老大国、英国病などと揶揄されたが、女王のソフトパワーにより安定したヨーロッパの大国の地位を維持した。今、イギリス国民の80%以上がエリザベス治世下に生まれ、エリザベス女王のいないイギリスを知らない。これからは「エリザベス後」の時代に入ることとなり、それがどのような時代となるのか漠然とした不安に駆られていることだろう。特にイギリスは戦後、ヨーロッパの一員として生きてゆく道を選んだものの、やがてEU離脱を選択した。これがどのようにイギリスの運命を変えるのか。「エリザベス後」への移行は世界の人々とってもまた一つの時代が終わり、新たな未知の時代に時計が進んだことを感じさせる出来事である。その418年前、1604年、エリザベス一世が崩御した。イングランドがヨーロッパの辺境の島国、ローマ帝国の属領ブリタニアから世界に冠たる大英帝国へと発展する基礎を築いた女王として記憶されている。さらには、その大英帝国パクスブリタニカの時代に君臨したヴィクトリア女王もイギリスの歴史を象徴する君主である。こうして見てゆくとイギリスは女王の時代に歴史の画期をなしてきた国だと理解できる。

今回取り上げる古書は、そのチューダー朝時代、エリザベス女王の寵臣として権勢をふるい、栄華を極め、やがてその後継者であるジェームス一世の時代に断頭台の露と消えたウォルター・ローリーのエッセイ集である。ローリーといえば、スぺイン/ポルトガルに対抗して東洋へ向かう北西航路を探検、アイルランドの植民地化、新大陸のバージニア植民地開拓、南米ギアナ探検と、大英帝国の版図拡大に貢献した冒険家、航海者として知られる。彼の有名な言葉「海を制するものは交易を制す。交易を制するものは世界の富を制す。すなわち世界を制す」は、まさにこの著作に掲げられているモチーフである。この頃はフランシス・ドレイク、ジョン・ホーキンス、トマス・キャベンディッシュなどの航海者、私掠船船長(あるいは海賊ともいう)が大活躍した時代である。しかし、ローリーは、こうした冒険者、海の英雄であると同時に、オックスフォード出の文人でもあり政治家でもあった。女王の宮廷では女王近衛隊長として活躍した。また詩人、エッセイスト、文筆家として名を残した。エリザベス1世に「妖精の女王」という寓意詩を献呈したほか、ロンドン塔幽閉時代に著した「世界の歴史」(ギリシャ/ローマ)という大著を残している。これと同時期に数多くの論考、エッセイなどを著しており、これらをまとめた「サー・ウォルター・ローリーエッセイ選集」が、今回紹介する書籍である。まずは、ウォルター・ローリーとはどのような人物であったのか。彼の事績を振り返ってみたい。


本書に掲載されているSir Walter Raleigh肖像




(1)ウォルター・ローリー:Sir Walter Raleigh(1554〜1619年)


ウォルター・ローリーは、エリザベス朝時代のイングランドの廷臣、政治家、軍人、探検家、作家、詩人。1554年、デヴォン州ヘイズ・バートンのジェントリー階級、プロテスタントの家庭に生まれた。メアリ一世(ブラッディメリー)の治世には、父母がプロテスタントであったため一家は迫害を受け、幼少期からカトリックに対する憎しみが培われた。オックスフォード大学、インナーテンプル法曹学院で法律を学ぶ。高等教育を終えると、1578年には異父兄のハンフリー・ギルバートと新大陸や北西航路の探検に参加した。若い頃からその目は新世界に向いていた。そして生涯その夢想を現実のものとする姿勢は変わらなかった。この異父兄達、実兄妹、母方の親戚(あのフランシス・ドレイクも同郷の同族)など同郷人が生涯にわたって彼の活躍を見守り支えた。

アイルランド植民地

1579〜1583年アイルランドの反乱鎮圧軍に参加し、抵抗勢力のカトリック教徒を虐殺したことで名を馳せた。土地を接収し分配を受け、17年間アイルランドの大地主や町長として現地を統治した。当然ながらアイルランドでは残忍な侵略者として記憶されている。アイルランドにジャガイモを入れたのはローリーであると伝えられている(諸説あるが)。しかし、やがてはこの土地からの収益を上げることも困難となり、イングランドからの移住の試みも大きな成果を上げることはなかったため、結局この土地を売却してアイルランドから撤退する。この時期、詩人のエドマンド・スペンサーと知己を得ている。

女王の寵臣

1581年、こうした軍功により、エリザベス女王の廷臣として宮廷に出仕するようになる。数々の恩賞と財産が与えられ、1585年にはナイト称号を授けられる。エリザベス女王の寵臣として出世階段を順調に上り詰め、1587年には女王の近衛隊隊長にまで出世する。また議会(House of Commons)の議員としても活躍した。ローリーは長身で美貌の持ち主であったほか、詩人としての才能もあったため、宮廷では絶大な人気があったと言われる。その一方、羨望や嫉妬からか敵も多かったようだ。すなわち「愛憎と陰謀」のターゲットになりやすかった。エリザベスが水溜りを渡ろうとした時に、自分のマントを脱いでそこに敷きエリザベスをエスコートした、というエピソードは有名で、のちの小説や映画の定番シーンとなっている。またイングランドにジャガイモとタバコをもたらした人物と伝わる。エリザベス女王に初めてタバコを吸わせた男だ。詩作にも没頭し、先述のエドマンド・スペンサー等と交流するとともに、ウィリアム・シェークスピアのライバルであり、友人でもあったクリストファー・マーロウとの交流もあり、演劇にも通じていた。こうした宮廷出仕の傍ら、新世界への探検、植民事業への情熱は衰えず、私掠船による航海を行った。

第一回ヴァージニア植民事業

1584年、これまで幾度か探検してきた新大陸において新たな植民事業を企画し、これに出資する。2隻の船を派遣し、現在のアメリカ・ノースカロライナ州ロアノーク島を探検させたののち、入植者を送り込み、イングランド初の植民地を築いた。この地をエリザベス女王に因んでヴァージニアと命名した。しかし、このロアノーク植民事業は、農業よりも金の獲得を目指した入植者の思惑違い、資金不足、先住民との関係破綻などで失敗。入植者全員が引き上げることとなった。

第二回ヴァージニア植民事業

1587年、第二回目の開拓移民をロアノーク島に送り出す。今回は、大掛かりで多様な入植者(家族ぐるみでの入植者もいた)が、ジョン・ホワイト監督の元に入植した。しかし、ちょうどスペインとの戦い(1588年のアルマダ海戦)の直前で、女王は船舶を戦争用に徴発したことから新大陸への補給が途絶え、3年後の1590年にホワイトが再びロアノーク島に補給物資を持って上陸した時には、入植者達の姿は見えず行方不明となっていた。廃屋に「CROATOAN」という文字を残して。このロアノーク入植者たちはその後どうなったのかは歴史の謎でいまだに解明されていない。全員が殺された、先住民クロアタン族に同化してしまった、散り散りになって各地へ移動した、等々諸説ある。後の先住民族の中にイングランドから持ち込まれたと思われる言葉や習慣が認められるとする研究者もいるが、これらがロアノーク入植者の末裔なのかは検証されていない。いずれにせよ「失われた植民地」として記憶されることになる。

ヴァージニア会社の設立と植民地経営

このようにローリーのヴァージニア植民地事業は失敗に終わったが、これが端緒となり、17世紀に入ると後続の新大陸植民地事業への道筋をつけることとなった。1607年、多くの出資者を募り資本を増強し株式会社ヴァージニア会社を設立し、これによりイングランド初めての永続的なヴァージニア植民地が構築された。現在、アメリカ・ヴァージニア州ジェームスタウン(国王ジェームス一世にちなんだ)がその記念すべき最初の植民地史跡として残されている。ちなみにローリーの名は、ノースカロライナ州の州都Raleigh(ラーレイ、ローリー)として残されている。後のピューリタン(清教徒)による移住(1622年のメイ・フラワー号による)、ピルグリム・ファーザーズによるプリマス植民に先立つ15年前。イングランド最初の新大陸植民地となる。

ちなみに、先述の1588年のスペイン無敵艦隊との海戦(アルマダ海戦)。フランシス・ドレイクが副司令官として、ジョン・ホーキンスが分司令官として参加し、実質的には作戦の指揮をとってイングランドを勝利に導く華々しい成果を挙げた。ただしウォルター・ローリーがこの海戦に参加した記録はない。

ベスとの結婚と女王の不興

1591年、ローリーはエリザベス女王の侍女、エリザベス・スロックモートン(愛称ベス)と恋仲になり子供を作ってしまった。当時、女王の許可なく結婚することは禁止されていたので、女王の怒りを買ってしまう。ローリーは近衛隊長を解任されロンドン塔に投獄。ベスは宮廷から解雇された。しかし、彼は多額の財物を女王に献納し、これが保釈金となって、比較的早期に釈放された。その後、女王に認められ、二人は正式に結婚。ウォルターとカリューという二人の息子を授かる。妻ベスは生涯の伴侶としてローリーに寄り添い、二人は献身的に家族を守った。ローリーはこの後、スペインとの2度にわたる戦いで活躍し成果を上げたほか、1600〜1603年にはジャージー島の総督としてスペインに対する防衛網を構築するなど、女王を助ける功績を重ねて、宮廷近衞隊長に復活。女王の寵愛を取り戻していった。

第一回南米オリノコ河流域黄金郷探検

1595年、南米オリノコ河流域のギアナ(現在のヴェネズエラ)植民地開拓を目指して探検開始。黄金郷:エルドラド発見に取り組むが目的を達成できなかった。こうして宮廷で活躍する間も、新大陸への夢は捨て難く、絶えず進出の機会を狙っていた。

ロンドン塔幽閉

しかし、そのローリーの宮廷における権勢と栄華にも翳りが見え始める。1604年、エリザベス女王が崩御。スコットランド王であったジェームス六世が、イングランド王に即位しジェームス一世となった。ジェームスはカトリックの出身で、親スペインであったため、反カトリック、反スペインのエリザベス時代の寵臣や、実力者排除を始めた。ローリーも政敵の讒言により反逆罪に問われ死刑判決を受ける。しかし、ロンドン塔幽閉に減刑され、そこで13年間を過ごすことになる。この間、妻ベス、息子ウォルターとも会う事ができ、共に生活する事もを許されていた。ロンドン塔で次男カリュー(後述)が生まれている。詩人のベン・ジョンソンなどの友人をはじめ、比較的自由に外の人物との交流ができた。外国からの要人も訪れて、ロンドン塔には一種のローリーを中心とするサロンが形成されていたという。ローリーに同情的であったジェームス一世のアン王妃や王子ヘンリー皇太子も出入りし、彼の経験談に聞き入り経世論を交わした。この頃ギリシアとローマに関する研究書「世界の歴史」を執筆し、航海術、船舶建造や政治哲学などの著作を執筆し続ける。一方で、鶏小屋を化学の実験室に改造し、新世界植民地におけるマラリアの薬の製造や、さまざまな実験を行うなど、囚人というよりはむしろ、自らのこれからのやりたい事に備えるべく、有り余る時間を有効に活用してポジティヴに過ごした。もちろんいつ処刑されるかわからないという不安とストレスから度々体を壊したが、持ち前の頑健な身体と不屈の精神力で13年間の幽閉生活を乗り切った。

第二回オリノコ河流域黄金郷探検と死刑判決

1617年、ジェームス一世から、南米オリノコ河流域ギアナの黄金郷(エルドラド)開拓のミッションを与えられ出獄。ローリーは63歳の渋い男になっていた。エリザベス時代に続く2度目のギアナ探検を行うことになったが、この地はスペイン領であったため、スペイン人との対立を避けるように条件つけられていた。探検は多くの犠牲を伴ったが、結局は、黄金郷の発見には至らず、再び失敗する。その中でスペイン人との争いで長男ウォルターを失くしてしまう。さらに、この探検でローリーの部下がスペイン人を殺害した、という抗議がスペイン大使からなされ、ローリーを死刑にするよう要求された。結局ローリーはその罪で死刑判決を受け、ついに断頭台へ送られることになる。スペイン王の圧力に国王ジェームスが抗しきれなかったためである。ジェームスは先代のエリザベスと違い、スペインとの融和策を重んじていた。各国との戦争を避ける方向へ妥協を繰り返し、海軍力の整備も怠った国王として知られる。後世「平和王」などと呼ばれ、一見平和を愛する名君のように聞こえるが、時勢はそんな悠長な状況ではなかった。エリザベス一世時代にスぺインとの戦争で勝利(1588年アルマダ海戦での無敵艦隊撃滅)し、スペインやカトリックの影響から脱したように考えがちであるが、事態はそれほど単純かつリニアには進行してゆかない。衰えたとはいえスペインの影響力は依然大きく、フェリペ2世は艦隊の立て直しを図り、以降もイングランドをたびたび脅かした。イングランドが大英帝国への道を歩むにはさらに長い時間を要した。またイングランドではカトリックとプロテスタントとの対立の間で絶対王権を維持してゆくことの困難さに歴代のイングランド王は直面していた。それにしても外国での事件で、スペイン王の圧力によるイングランドの廷臣の死刑が果たして妥当であるのか。独立した「法治国家」イングランドの法「コモン・ロー:Common Law」によって裁かれるべきではないのか、という議論があった。そこで、この死刑判決は、以前の「反逆罪」による死刑執行が猶予されていたものを、今改めて執行するものである、という法理が用いられた。これは大法官でローリーの政敵フランシス・ベーコンの論理であった。結局、スペイン、ローマ・カトリックの圧力もさることながら、これを奇貨として反王権の勢力を一掃する意図があったことは明白である。時代はピューリタンの出現と清教徒革命につながる「反絶対王政」、「反ローマ・カトリック」ムーブメントが勢いを増してゆく時代、いわゆる「イギリス革命」の前夜であった。

断頭台へ

1619年、ホワイトホールの断頭台に引き出されたローリーは、実に冷静で、死を怖れぬ勇気に満ちていた。公開処刑に先立って、彼は集まってきた人々に堂々と長い演説をした。それは「反絶対王権」「反ローマ・カトリック」をモチーフとした実に詩文のような美しい感動的な演説であったという。最後に首切り役人に斧を見せるように頼んだ。首切り役人は涙ながらに「あなたの首を切る私の罪をお許しください」というと、ローリーは「この斧は確かに劇薬であるが、全ての病を治すものである」と述べた。彼は2回振り下ろされた斧で絶命した。首は防腐処理されて、妻のベスの元に届けられた。ベスはそれをローリー卿を慕って集まってきた人々に見せたという。その後ウェストミンスタ大聖堂の隣の聖マーガレット教会に彼の胴体と共に埋葬されている。愛憎と陰謀の渦巻くイングランド宮廷は、絶対王権と、国の独立と、国教会を守るための「断頭台による決着」という歴史を歩み続けた。ロンドン塔が歴史を作ったとも言える。そしてローリーもその「断頭台の歴史」に名が刻まれることになった。

後世、ウォルター・ローリーは、小説や戯曲の世界で、あるいは映画でエリザベスの寵臣にして、大航海時代の伝説の「海賊」「冒険野郎」的な扱いをされがちであるが、実際の彼はこのように知性に溢れ、人間的な魅力に溢れた政治家であり、また文化人としても人望を集めた人物であった。今回紹介する彼の著作からは、さらに政治思想家としての側面を読み取ることができるだろう。


(2)「サー・ウォルター・ローリーエッセイ選集」:JUDICIOUS AND SELECT ESSAYES AND OBSERVATIONS, By that Renowened and Learned Knight Sir WALTER RALEIGH Printed by T.W. for Humphrey Moseley 1650

本書はロンドンの出版者、ハンフリー・モズリー:Humphrey Moseleyが、ロンドン塔幽閉時代にローリーが表した、エッセイや論考、手紙などの原稿を入手し、そこから4稿を選定して「エッセイ選集」として出版したものである。1650年の初版である。

その4稿とは次のようなもので、元はそれぞれ別個の冊子(別個の表紙がある)となっていたものを合冊したようである。

    1)船舶、錨、羅針盤、装備品などの発明に関する論考、イングランド、フランス、スペイン、ヴェネチアの海軍力の強みと弱みに関する論考。そしてオランダの急成長の原因についての論考

「世界の歴史」の執筆で示された幅広い知識と歴史に関する深い洞察力、自らも多くの航海と探検活動、植民地経営で得られた豊かな経験と鋭利な分析に基づく論考であり、非常に説得力がある。オランダの海洋帝国の伸長に言及しているところが興味深い。また海外植民地開拓が王国の発展に不可欠であるとも。ただ、彼の経験や知識が東インド(東洋)に及んでいない点が見て取れる。同時代のドレイクやキャベンディッシュがマゼラン海峡を通過し、世界就航航海を達成したこと。東インド(東南アジア、フィリピンなど)を探検したことに対する距離感が感じられる点が面白い。事実、この時期にはすでに、ウィリアム・アダムスがオランダ船で日本に到達し(1600年)、徳川家康に重用されて、アダムスの尽力で、イングランド国王ジェームス一世から家康宛の親書が、1613年には東インド会社経由でジョン・セーリスによって届けられている。平戸にはイングランドの商館が既に開設されている。ローリーはこうした日本を含む「東インド」の情勢に言及していない。彼の得意領域はやはり「西インド」であった。

    2)通常の戦争の原因に関する論考。そして侵略戦争の疑問。ブリテンがローマ帝国に勝利して以来、聖職者は常にイングランド国王に従ってきたこと、ローマ・カトリック教皇が市民の生活においても、聖職者の仕事においてもイングランドの合法的権力を有したことはない、ということについて。

このエッセイも、彼の歴史観、政治的な信条、宗教上の信念に基づく論考である。反ローマ・カトリック、反スペインの姿勢を明確に論述し、やむを得ない戦争(大義ある戦争)と侵略を目的とした戦争(大義なき戦争)とを区別した戦争論を展開している。ローマ・カトリックをいわば古いヨーロッパの(ローマ帝国のレガシー、系譜に連なる)価値観と思想の代表と捉え、イングランドがやがて古い秩序と価値観を打ち破り、古代ローマ帝国に代わる世界帝国としての繁栄を獲得する、という未来を予言するような論説となっている。そのためにはスペインやフランスとの融和ではなく「大義ある戦争」に備えなければならない、と。後の大英帝国の発展と栄光を導き出す萌芽が見える論考である点が非常に興味深い。また現代のイギリスがEUから離脱して独自の道を歩み出す、いわば「脱欧州」思想の原点はここにあったのかとさえ考える。

    3)イングランドの王立海軍とその活動に関する優れた観察と記述について。プリンス・オブ・ウェールズ ヘンリー皇太子に捧げる

航海者であり、軍人であり、新大陸における植民事業者としてのローリーの知識と経験に基づく極めて詳細な「ローヤル・ネイヴィー」論。海軍力の強化とシーパワーについて多くの具体的な課題の分析と提言、解決策を記述している。まさに彼の本領発揮というべき論文である。ローリーを敬愛したヘンリー皇太子へ献呈された、いわば海軍学教科書であるだけでなく、こののちの大英帝国海軍のあるべき姿を示している点が興味深い。

    4)ギアナへの航海に関するローリーの弁明

これは、スペイン大使から告発された、南米ギアナへの探検に関わる犯罪行為とされる事件に対するローリーの弁明書であり、死刑判決に対する抗弁書である。多くの部分で自分の責任ではないという「Aplogie:言い訳」が滔々と述べられているが、幾多の困難な戦いの中で失われたり、傷ついた部下(自分の息子ウォルターを含み)に思いを馳せ、彼らはイングランド国王のために戦い死んでいったのだ。なぜスペイン大使の言うことを聞くのだ、と感情的に述べているところなど涙を誘う。巻末には、死に臨んでローリーが書いた最後の弁明の手紙が掲載されている。このエッセイ集は、こうした悲劇的な手紙で締めくくられている。


(3)出版者ハンフリー・モズリーの出版意図と時代背景

出版人のモズリーは、シェークスピアやミルトンなどの著作や詩集を出版してきた17世紀イングランド・ロンドンの著名な文化人であった。この書籍にも多くの彼の出版物の広告:Advertisementが掲載されている。特に共和派のミルトンの詩集の企画には力を入れた。まさにピューリタンの時代(1642~1660)に活躍した出版者である。この「ローリーエッセイ選集」が出版された1650年は、イングランドでは清教徒革命(1642~1649)が起き、王党派と議会派の対立が極点に達する中、国王チャールズ1世が処刑(1649年)され、王政が打倒され、議会派クロムウェルによる共和制が始まったその翌年である。こののち1660年にはチャールズ2世の「王政復古」、さらに1688年の「名誉革命」へとにつながる激動の時代である。王党派と議会派の争いの中で絶対王制(王権神授説)から立憲君主制(権利章典)へと歴史が大きく転換する時代の始まりであった(最近ではこうした一連の革命の時代を「イギリス革命」の時代と呼んでいる)。

そんな時期にモズリーがローリーの著作を出版した意図を考えてみたい。それはモズリーが「エッセイ選集」で選んだローリーの論考や手紙で理解できる。以下の論点に集約できるだろう。すなわちスペイン王室に抑えられた現王政への批判。「ローマ・カトリック」への抵抗の意思。また新興海洋国家イングランドにおける海軍力強化や海洋進出の重要性。これはジェームス1世が海軍力の整備を怠ってきたことへの危惧感の表れであろう。その上で、スペインとの戦いやローマ・カトリック教会との戦いの中に、のちの大英帝国発展の萌芽を見出だし、新大陸への進出や東洋への進出というイングランドが生きる道を示した。こうして選び出されたエッセイ集の中に、新しいパラダイムが古いヨーロッパの秩序や価値観を打ち破ってゆくという時代の流れが示唆されている。別の視点から見ると、絶対王制から立憲君主制への移行過程における初期の絶対王権への批判という、政治思想史的な評価が見てとれる。絶対王政批判という点でも、ローマ・カトリック批判という点でも、また新世界における権益奪取争いという点でも、スペインを打倒すべき「旧型の帝国モデル」として明確に位置付けている。そしてイングランドが「新しい帝国モデル」を打ち出すのだ、と。出版者モズリーは、ローリーのこうした時代を先取りする論考の「現代的意義」を示したかったのであろう。この「ローリーエッセイ選集」の出版意図は、モズリーによる冒頭の献辞にも表れている。これはウォルター・ローリーの次男(あのロンドン塔で生まれた)カリュー・ローリー(1605−1666)に宛てられている。カリューはこの時、議会(House of Common)の議員であった。その中で偉大なる父君の優れた論考、メッセージは後世の子孫に残すべき至宝である。これらを熟読玩味して父君を敬愛し、これからの思索と行動に役立てるように願っていると。そしてこれは全ての知性あるイングランド人に向けてのメッセージであることを信じていると締めくくっている。

私にとっては、イングランドの「伝説の冒険者」、ウォルター・ローリーの表した初版本に巡り会えたこと自体が興奮である。そして彼のメッセージに込められたイングランドの未来が、彼が夢見た通り、やがて大英帝国という七つの海を支配する海洋帝国の出現となって実現したこと。まさにローマ帝国を超える世界帝国が出現したこと。その端緒となる考察がここに展開されていることを発見して興奮した。彼は、巷で語られているような冒険者や海賊の域を超えており、歴史家であり、政治思想家であったことの証明の一つがこの著作である。この本自体が間違いなく歴史的な遺産であると同時に、イギリスだけでなく世界の歴史を研究するための一次史料として重要であることも否定できないであろう。

本書は1650年の初版本である。我が蔵書の中では一番古い書籍である。手帳サイズの小型の本で、紙質、活字、スペルは17世紀ルネッサンス期の佇まいである。しかし初版から370年以上経過しているにしては状態が良い。それにしても驚きは、17世紀イングランドでは、すでに現代の出版事業に近い活版印刷技術と製本技術、編集、出版事業が成立していたことだ。そうした書籍の出版、販売を商行為として、文化事業として担った「出版言論人」がロンドンに存在したことだ。ちなみに日本はこの頃、三代将軍家光から四代将軍家綱の時代で、井原西鶴や市川團十郎、坂田藤十郎などが登場し、江戸や上方で町人文芸や歌舞伎が盛んになっていった時期である。そういう点では、この時期の日本の文化成熟度も世界に誇るべきものだが、惜しむらくは蔦屋重三郎のような出版人が登場するのは18世紀後半のことである。

話をこの本に戻すと、カーフ革装のバインディングは、のちに(19世紀中葉と思われる)換装されたものであるろう。この本には所有者の蔵書票がある。家紋と共にYarborough Appuldurcombeと記載されている。ヤーボロ伯爵家のアプルドルクーム・ハウス(ワイト島に現存する居館)の蔵書であったことがわかる。所有者は、本書が歴史的な意義を有する貴重な書籍であることを理解し、蔵書として長く保存するために革装にしたのであろう。このような名家所蔵の稀覯書がどのようにして我が手元にやってきたのか。これはいつも「古書を巡る旅」のなかで、さまざまな妄想を湧き起こさせる。神保町の北澤書店店主が、何年も前にイギリスのヨークの古書店「スターン:Stern」で入手したものだという。ある時期、かの名家も何らかの事情で蔵書を処分せざるを得なくなったのだろう。そしてヨークの歴史ある古書店の店頭に並んだ。それを日本の神保町の古書店主が購入した。待てよ?ヨークでスターン!?もしかして18世紀の作家ローレンス・スターンに繋がりがあるのか?彼はヨーク大聖堂の司教であったはずだ。とまあ、色々と関連する妄想が止まらない。しばらくは妄想の迷宮に遊んでみることとしよう。


旧所有者の蔵書票が添付されている。
ヤーボロ伯爵家の紋章

ローリーの肖像と表紙

出版人ハンフリー・モゼリーによる
ウォルター・ローリーの次男、カリュー・ローリー氏に向けての献辞



第一の論考

第二の論考

第三の論考

ローリーの弁明



(4)ジェームス一世と日本

先述のように、ジェームス一世は、ローマ・カトリック教国であるスぺインやフランスとなるべくことを起こさないように融和的な政策をとる一方で、東西インド、すなわち新大陸と東洋の交易拡大と植民地化を進めた王でもある。1600年にオランダ船リーフデ号で日本に漂着し、その後徳川家康の側近として仕えた三浦按針、ウィリアム・アダムスは、イングランド、ケント、ギリンガムの出身の航海士であった。彼は日本からオランダ商館を通じて故国イングランドの東インド会社宛に手紙を送り、イングランドと日本との交易開始を提言した、しかし彼の手紙が東インド会社総督スマイス卿に届くのは彼が日本から手紙を出した10年後のことであった。このように何年もアダムスの手紙が留め置かれた理由は、オランダがイングランドの日本進出を妨害しようとしていたためとか、イングランド自身が日本よりも東インドでのポルトガルとの争いに忙殺されていたため、など諸説ある。いずれにせよ、手紙を入手したスマイス卿は早速国王ジェームス一世に上奏し、その勅許と信任状を持ってジョン・セーリスが日本に向かい、徳川家康と貿易協定を結んだ。1613年には平戸にイギリス商館が開かれた。ジェームス一世は日本に強い関心を持ち、セーリスの「日本航海記」を何度も読み返したと言われている。しかし、家康は彼はジェームス一世がカトリックやスペインシンパだったことを知っていたのだろうか。ちなみに、先述のようにローリーの著述に日本に関する言及はない。


参考過去ログ:

ウィリアム・アダムス、トーマス・キャベンディシュ、ジョン・セーリスの航海については、下記ブログを参照。



(5)「ローリー」という表記に関して

彼の名前、Raleighはなぜ、日本語では「ローリー」と表記されるのか。もっとも本書の中で、英文でもRaleighやRaleghと記述されているところ、Rawleighと記されているところがある。この時代の人名の綴りは割に適当であったらしいが、後者なら「ローリー」と発音できなくはないが。イギリスでも、アメリカでも「ラーレイ」ないしは「ラーリー」と発音されている。彼のヴァージニ植民地事業を記念して命名されたアメリカ・ノースカロライナ州の州都Raleighは「ラーレイ」と発音されている。「ラーレイ」は東部のリサーチトライアングルの中心都市でもあり、多くの大学や研究機関が集積している。私も仕事の関係でIBM Raleigh Reserch Centerを訪問したことがある。しかし、このIBMラーレイ研究所が、まさかウォルター・ローリーの名前に由来するものとは全く考えなかった。西欧人の名前をどう表記するかで苦労した明治期の日本人が、ペルリやハルリス、ヘボン、コンドル、フルベッキ、ギョエテなどと表記したのと同じ類なのだろうか。確かに映画「エリザベス ゴールデン・エイジ」では一瞬「ローリー」に聞こえなくもない「ラーレイ」発音である。とりあえず本ブログでは、通例に従って全て「ローリー」で通したので悪しからず。ちなみにトラックを意味するイギリス英語「ローリー」はLorry、日本のミュージシャンの「ローリー寺西」はRollyだ。

    曰く「ローリーとは俺のことかとラーレイ云い」かあ...


ノースカロライナ州ラーレイ市の写真集
右下がウォルター・ローリー卿の銅像


参考:

ローズマリー・サトクリフ著 山本史郎訳「女王エリザベスと寵臣ウォルター・ローリー」上下巻。

櫻井正一郎著「最後のウォルター・ローリー 〜イギリスそのとき〜」

映画「エリザベス 黄金時代」ケイト・ブランシット主演