2023年8月6日日曜日

「ロシア 衝突の源流」を観て考えたこと 〜皇帝の支配する国家、戦争で成り立つ国家とは〜


ピョートル大帝 (Wikipedia)



NHKで特集番組「ロシア 衝突の源流」を観た。プーチンのウクライナ侵略戦争の背景を歴史学、国際政治学、戦争学の視点から分析・解説した番組で、ロシアという国の有り様について、改めて考えさせられる番組であった。4月にも放映されていたがしっかり観なかったので、今回は、1時間半、真面目に見た。曰く、ロシアの歴史は戦争の歴史だった。国家存続に戦争が不可欠であった。領土拡大という強迫観念に突き動かされた国家である。国民国家、民主主義が根付かず、常に「皇帝」という独裁者が支配した国家である。そういうショッキングなモチーフが歴史の基層部に横たわっていると言う。ロンドン大学キングス・カレッジの国際政治学者、戦争学者であるリチャード・ネド・レボウ:Richard Ned Lebow、オックスフォード大学の歴史学者アンドレイ・ゾリン:Andrei Zorinの分析をもとに考察する番組である。


私なりにその論旨を整理、要約すると(極東部分の動きは新たに追加した)、

ロシアという国家は、882年にヨーロッパの辺境に発生したスラブ民族などの小国、キーウ公国(現在のウクライナの首都キーウが首都)が起源と言われる。支配地域は現在のキーウ、モスクワ近辺の限られた地域であった。現代のロシア、ベラルーシの国名はこのキーウ公国の別名「ルーシ」が起源である。

1223年には、スラブ民族は、東方のモンゴル民族、タタールに征服され、キーウ公国は滅亡した。以降250年にわたって異民族の支配下に置かれた。この苛烈で悲惨な経験が、ロシアの歴史上のトラウマとなっており、現在まで尾を引いている。いわゆる「タタールの軛(くびき)」と言われるものである。

その後、17世紀のモスクワ大公国時代には東のシベリアまで領土を拡大するが、西ヨーロッパ諸国が「大航海時代」を迎えて盛んに世界に進出するのを横目に、文明に取り残された辺境国家としての存在感しか発揮できなかった。隣の大国ポーランドとの戦争に明け暮れる日々が続く。

18世紀になると、ピョートルが初代皇帝に即位し(1721年)、ようやくロシアは帝国としての国家形態が整う。ピョートルはロシアの近代化を強力に推し進め、西欧諸国に負けない一等国を目指して急速な改革を断行した。プーチンが最も憧れる皇帝である。ピョートルは辺境の大陸国家であったロシアを、海外(文字通り海の外)へ進出させるべく、イギリスの海軍に学び海軍力の強化に邁進した。この為に自らイギリスのポーツマスの造船所に出かけ、労働者として働き造船技術を学んだ。皇帝としてのピョートルはまず、バルト海への進出を果たすべく、制海権を握っていたスウェーデンとの戦いに挑み、勝利する。いわゆる「大北方戦争」(1717〜21年)である。1703年には帝都サンクトペテルブルクを建設し、ロシアが大国への道を歩む第一歩踏み出したとともに、領土拡大の戦争の歴史の始まりであった。

この領土拡大、海外進出路線をさらに強力に推し進めたのが1762年に皇帝に即位した女帝エカテリーナ二世である。エカテリーナは、ピョートルが北のバルト海の覇権を確立したのに続き、不凍港を求めて、南の黒海への進出をめざし、クリミア半島の支配を狙った。いわゆる「南下政策」である。これが、以降1918年まで続く12回に渡る(クリミア戦争を含む)オスマン・トルコ帝国との戦争「露土戦争」の始まりである。またこの「南下政策」「領土拡大政策」が西欧諸国、特にイギリスやフランスの警戒感を産み、反ロシア感情を生み出す原因となった。エカテリーナは黒海沿岸のウクライナやクリミア、ルーマニアなどを武力で占領し、交易を独占し、ロシア帝国の版図とした。エルミタージュ美術館の財宝コレクションに象徴される帝国の富を誇ったのはこの時代である。このようにプーチンがロシアだと主張している領土や、ロシア人だ(兄弟だ!)と見做している人々は、エカテリーナの時代に武力で侵略して占領した領土/人民である。また、この時代には、フィンランドやバルト三国を占領、統治下においた他、極東ロシアの領土拡大にも力を入れ、北米のアラスカ、清朝の弱体化のスキを狙って中国沿海州、黒竜江省への領土野心をあらわにした。また極東における「不凍港」を求めて、樺太、千島列島、日本の蝦夷地、後には満州、朝鮮にまで触手を伸ばしていった。大黒屋光太夫、ラックスマン、レザノフの来航、露寇事件、ゴローニン事件、高田屋嘉兵衛の物語を通じて日本人にも記憶されている。

しかし、エカテリーナの野心は、安全保障や経済的利権を動機とした領土獲得戦争だけではなく、ロシア正教を異教徒(オスマン帝国)から守る、という大義名分を戦争の旗印として振りかざすようになっていった。これはロシア正教こそ、そしてスラブ民族こそ東ローマ帝国・ビザンチン帝国のキリスト教の正当な継承者であり、首都コンスタンチノープル(オスマン帝国の)を攻略する野望すら持っていた。これはもはや恐怖からの安全保障や富への欲望だけでない、西欧諸国からの大国としての承認を得ること、戦争の正当性を諸国に認めさせることが目的となった。これが現代のプーチンの国家観、戦争の正当化主張に引き継がれており、以降のロシア独特の大ロシア主義精神論、スラブ・ナショナリズムを形成する元となっている。

1812年には、ロシアはフランス・ナポレオンの侵攻を受け首都モスクワが陥落する。しかし、ナポレオンは、ロシアの広大な領土における補給と兵站に失敗し、冬将軍に阻まれて、ロシアから敗走する。これがいわゆるロシア人が言う「大祖国戦争」である。このときの侵略の恐怖は、かつての「タタールの軛」を思い起こさせ、そのトラウマと、領土の広大さが敵を打ち負かしたという確信が、さらなる領土拡大に走るという強迫観念にも似た行動原理のもととなった。

20世紀になると戦争の様相が大きく変わっていった。大量殺戮兵器の登場や、国家総動員体制、戦死者の急増、食糧不足、経済の破綻など、戦争が国民の生活に直結するようになった。この事による国民の疲弊と不満を、皇帝ニコライ二世は読み切れなかった。あくまでもロシアの威信をかけた対外戦争を強行したが、1904年の日露戦争の敗北をきっかけに、第一次世界大戦に参戦するも途中で離脱し、1917年にはロシア革命でロマノフ王朝は滅亡。帝政ロシアは終焉を迎える。社会主義のソビエト連邦共和国の誕生である。皮肉なことにマルクスが予言したた階級闘争とプロレタリア革命は、西欧諸国のような「市民社会」ブルジョワジーの成立もない国で起き、いきなり帝政からプロレタリア国家となったわけだ。この矛盾が歪みを生むことになる。

しかし、ロシアに皇帝はいなくなっても、ロシアの本質は変わらない。スターリンは皇帝とかわりのない苛烈な独裁者となり、彼の支配する共産党は専制的な統治機構を構築し、戦争で守るべき大義が「ロシア正教」から「社会主義」に変わっただけである。むしろ粛清により多くの自国民を死に追いやった。ナチス・ドイツとの戦争では「第二の祖国戦争」に勝利し、ベルリンに進軍、チェコ、ポーランド、ハンガリー動乱への介入、東ヨーロッパ全域を支配圏におく。そして極東においては、満州、樺太、千島列島に雪崩れ込み占領....領土拡大の野望は留まるところを知らない。1989年のソ連の東西冷戦敗北、1991年のソ連邦崩壊にあっても、結局はロシアには民主主義も国民国家も根付かず、市民社会も成立しないまま相変わらず「皇帝」が独裁的支配を続ける専制国家のままである。しかも今度は「核」という禁断の兵器を保有する専制国家である。ロシア人は、敗北の後には、必ず強い皇帝が現れて強いロシアが復活する、という「神話」化された歴史を信じたがっている。

リチャード・レボウ教授によれば、国家が戦争を起こす動機には3っある。恐怖:Fear,  威信:Spirit,  欲望:Appetiteである。ロシアの戦争をこれで分類すると、

恐怖による戦争: モンゴル民族による侵略、支配「タタールの軛」、フランス・ナポレオンによる侵略「大祖国戦争」、ナチス・ドイツによる侵略

威信による戦争:ピョートル大帝の「大北方戦争」、エカテリーナ女帝のクリミア戦争、オスマン帝国との12回にわたる「露土戦争」、ニコライの戦争

欲望による戦争:エカテリーナの「南下政策」、武力によるクリミア、黒海沿岸諸国領土簒奪、中国沿海州、樺太・千島占拠、満州・朝鮮への領土的野心による戦争

この3つのカテゴリーで見るように、ロシアはいつも他民族、他国に侵略されてきたという被害者意識と恐怖が基底にあり、領土拡大が最大の防衛だとする、一種の強迫観念が生まれた。そして、一等国、大国と認知されるためには戦争で海への出口を確保し、対外戦争で領土を広げる必要があるという、いわば大国としての「承認欲求」が戦争の動機となる、やがて、戦争の大義を、領土拡大や経済的利権獲得だけではなく、ロシア正教の正当な継承者としてのスラブ民族の自衛のためであると主張し始める。ここにロシア独特の「大ロシア主義」が生まれる。恐怖と領土拡大強迫観念、そして大国としての権威の承認欲求の連鎖。こうして戦争がなくては国家として成り立ち得ない国家「ロシア」が誕生したと、レボウ教授は説明する。そして、これがプーチンの大ロシア主義の源流である。

アンドレイ・ゾーリン教授は、歴史家の自分が言うのもおかしいが、国の指導者が政策意思決定をするときに、あまり歴史を蒸し返すのは止めたほうが良い、と含蓄のあるコメントをしている。「歴史に学ばない」のではなく、「都合の良い歴史を振りかざさない」ということだ。「史実の神話化」、すなわち自らに都合の良い史実だけを選び出し、繰り返し称賛し、民族の誇りに祭り上げることの危険性を説いている。ロシアに限らず、どこの国、民族にもありがちで心せねばならない。プーチンは、ソ連崩壊の後の「強いロシア」復活という神話の世界を生き直そうとしているとも。ピョートル大帝やエカテリーナの戦争、ナポレオン撃退やナチスドイツ撃退戦争(大祖国戦争)を取り出して、繰り返し国民に「強いロシア」を刷り込み、神話化する。それが危険な妄想に繋がることは容易に予見できるだろう。「大ロシア主義」、「汎ゲルマン主義」、「八紘一宇」、「偉大なる中華民族」、こうしたナショナリスティックなスローガンが、真実性を伴わないフィクションでるあることに気づきながら、国民はそれに酔いしれてしまう。独裁者はそれを知っているのだ。そしてそれが独裁者の存在意義(レーゾンデートル)となる。やはり、ロシアに皇帝がいなくなっても、ロシアの本質に変わりはない。独裁者という「皇帝」が居座り続け、一度も真の国民国家、民主主義が成立したことがない。そして、故に「皇帝の威信をかけた戦争」が国家の存立の基盤であるという妄想から抜け出せない国であり続けている。

こうした俯瞰的な通史分析は、ロシアが戦争に取り憑かれた国であり、周辺国にとっては危険な救い難い国であるかの印象を与えるであろう。私の限られた在欧経験だけで判断してはいけないが、振り返っても、フィンランドの友人の露骨な反露感情、ポーランド人留学生のソ連の属国ではないというアイデンティティー主張、イギリスBBCのロシア番組「Hungry Bear Next Door」の人気、亡命ウクライナ軍人のシニカルなロシア論など、ヨーロッパにおけるソ連やロシアへの警戒感情を日常的に感じたものである。同じことはユーラシア大陸の反対側の日本にも言えるだろう。歴史的に、ロシアは隣人であっても真の友人であったことはない。フィンランド人とトルコ人が親日的である理由を知っているだろうか。彼らが学んだ歴史の中に、日露戦争と日本のイメージがある。その意外な評価と反響に驚いたことも。洋の東西、知らない国の人同士が、皮肉なことにロシアという「隣人」を通じて共感関係を生み出しているのだ。確かに、現在のロシアの聞く耳もたぬ態度とウクライナの惨状を見ていると、こうした戦争の歴史が、ロシアの源流であるという説明に納得させられるし、プーチンの政治思想にそういうDNAが刷り込まれていることも間違い無いだろう。しかし、私は、かつて紹介したクロパトキンの「ロシアから見た日露戦争」や、ゴロヴニンの「日本幽囚記」でも触れたように、ロシア知識階級の啓蒙主義的な思考様式や、倫理観、事態を客観視できる「公平な観察者の視点」、相手に対する共感力やレスペクトを有す人間の存在に期待している。トルストイやドストエフスキー、チェーホフ、チャコフスキーのロシア文化のヒューマニズムにも期待している。18世紀末から19世紀初頭、ロシアでは貴族や知識人たちの西欧旅行が盛んになり、カントやゲーテに接して共感し、感性の西欧化が進んだと言われている。(H.M.カラムジン「ロシア人旅行者の手紙」)。啓蒙主義的な思想だけでなく、西欧流の立憲君主制や議会制度についても研究が進んだ時期があったとも言われている。ロシア帝国の領土拡大の尖兵として極東にやってきた、海軍士官ゴロヴニンやリコルドにそうした西欧流の知性と教養の片鱗を見るのは、こうした時代背景があったからであろう。「国家としてのロシア」と「ヒューマンなロシア人」のパラドキシカルなギャップを感じる。国家のありようと、そこにいる人間のありようは分けて考えなくてはならないようだ。

ロシアは、おそらくこの先、衰退の時期に入り、プーチンが夢見るような「偉大なるロシア」はやって来ないだろう。プーチン亡き後、経済の停頓と縮小により国家の衰退と、社会の混乱、国民の困窮を経験することになるだろう。現代の戦争は、必ずそういう副作用を伴い、大国といえど、衰亡の道を歩むきっかけとなるという歴史の教訓(アフガニスタン戦争がソ連崩壊につながったことを経験しているのではないのか)は誰もが知っているところだ。その中から政治体制の激変が起こるであろう。しかしその再生の道の先にあるのは、今度こそ戦争によって成り立つ大国ではなく、平和によって成り立つ普通の国になってほしい。幾度かの試練を経て今度こそは国民国家、民主主義国家、平和国家へと脱皮してゆくことを期待したい。間違っても「欲望の資本主義」の道を歩んではならない。そのためにもウクライナを見捨ててはいけないし、今度こそロシアの市民による民主化(すなわち市民革命)を支援しなければなるまい。そしてこれはロシアに限った話ではないということにも気づくであろう。

(広島原爆投下から78年の今日、東京にて)


メモ:

1945年(昭和20年)

7月26日 ポツダム宣言発出 日本は無視

8月6日広島原爆投下

8月9日長崎原爆投下

同日 ソ連、不可侵条約を破り満州、朝鮮、樺太、千島列島に侵攻

8月14日 ポツダム宣言受諾 無条件降伏

9月2日 降伏文書調印


参考文献:

Richard Ned Lebow :

「A Cultural Theory of International Relations」

「The Challenge to Contenporary International Plotics」

「なぜ国家は戦争をするのか」