徳川家康 |
今年のNHK大河ドラマ「どうする家康」は、日本史で習った家康の意外な側面を描いていると話題になっているようだ。あまりにも優柔不断で強いリーダーのイメージがない家康と、それを取り巻く三河武士達の朴訥だが健気な忠義の姿(のちの徳川四天王)、裏切ったり戻ってきたりする家臣も。こうした人物描写を観ているのは確かに面白い。それにしても信長、秀吉、光秀の描き方ががあまりにも酷いのはいかがなものか。どれもイケすかない奴に描かれている。織田信雄はまるっきりバカ殿扱いされているし、どれも家康の引き立て役、ヒール扱いか?そもそも家康がなんとも「小者」に見えてしまうのもいただけない。秀吉の軍師、黒田官兵衛や、その息子長政など、秀吉、家康の家臣として活躍した重要人物も端折られている。前田利家、石田三成もだ。これから出るのかな?歴史ドラマには違いないが、それに仮託した娯楽劇画といったところか。どういう視聴者層を狙っているのだろう。
家康の意外な側面といえば、家康の晩年を、このドラマはどのように描くのか。後半を楽しみにしている。ともすれば家康といえば、信長、秀吉のもとで隠忍自重して我慢し、秀吉亡き後天下を取った「狸親父」というイメージがあって、しかも、江戸幕府を開くなりキリシタンを弾圧し、海外との通行を禁じる「鎖国」を始めた張本人という、外国嫌いで、マルドメのイメージがある。しかし、最近、ポルトガル、スペイン、イギリスやオランダの大航海時代の古書や史料を読み漁るうちに、そこでは日本では語られなかった、スペインやオランダ、イギリスと丁々発止やり合う「日本皇帝:Emperor of Japon」としての家康が描かれていることに驚かされる。特に、将軍職を秀忠に譲り、駿府で大御所となってからは、家康は「鎖国」どころか積極的に海外との交易を進めた日本の指導者として記録されている。家康の駿府政治/外交と言われるものである。このために駿府には多くの有能なスタッフ、顧問が家康の側近として侍っており、その中にはウィリアム・アダムスなどの外国人の顧問もいた。知られているように彼は三浦按針として旗本扱いで、領地、屋敷もあたえられ、家康の朱印状を持って海外との貿易にも従事していた。また、駿府には多くの外国からの使節が家康謁見に訪れている。今回はその外交政策について振り返ってみたい。
「鎖国は祖法」は誰が言い出したのか
そもそも「鎖国」は家康が始めたのか? 幕末、多くの外国船が日本近海に出没する時期に、幕府は「外国船打払令」を出して、イギリス船やロシア船を追い払った。またアメリカのペリー艦隊が江戸湾に出現して開国を求めた時も、幕府の役人は「そもそも我が国は「神君家康公以来、鎖国を祖法とする国である」と宣った。「祖法」とは家康が定めた家訓、いや国家方針で、幕府開闢以来、連綿と受け継がれてきた憲法のようなものだ、というわけだ。だから外国船は来てはならぬ!話し合いも交渉の余地もない。役人はこの「祖法」さえ唱えていれば何の外交判断も求められない、思考停止の免罪符となっていた。江戸時代も19世紀に入るとをそんなふうに利用されてきた。果たして家康はそんな「鎖国」という「祖法」を定めたのだろうか?そもそも「鎖国」という言葉を使い出したのは幕府ではなく、1690年に長崎に来たオランダ商館のケンペルが、幕府による統制管理貿易システムを形容したものだ。。それを蘭学者志筑忠雄が1801年になって「鎖国」と和訳したのが始まりだ。秀忠、家光が打ち出した禁教令、スペイン/ポルトガル船の来航禁止令、日本人の海外渡航。帰国禁止令、オランダの長崎出島幽閉などの、一連の政策を総称して「鎖国」と呼んだ。こうしているうちに世界の情勢は大きく変わり、19世紀幕末になって、日本近海が外国船でガヤガヤと喧しくなってくると、「鎖国」、「外国船打払令」、すなわち外国船の排除が、まるで伝統的な名誉ある孤立政策であり、「祖法」であるかの様に祭り上げられた。神君家康公はほんとにそんなこと決めたのか。大御所時代のいわゆる「駿府外交」を中心に振り返ってみよう。
家康の「駿府外交」とは 外交課題とグローバル戦略構想
家康は、駿府以前から外交の重要性には注目し、秀吉政権の五大老時代から、大国スペインとの関係について色々と策を持っていたようだ。家康が天下を取ると、秀吉の武力を背景にした、強硬な外交政策に対して、家康は、諸外国との融和的な外交、交易政策を取っていった。特に、秀吉晩年の文禄・慶長の役という、明国、朝鮮との関係に大きなダメージを与えた負の遺産の清算に取り組み、早くから関係回復を急ぐ必要があると考えていた。関ヶ原の戦い、大坂の陣、征夷大将軍就任、江戸幕府樹立、幕藩体制の整備と、戦いと内政に忙しかった家康は、一応の区切りをつけると早々と、将軍の座を息子の秀忠に譲り、徳川家による将軍職世襲の先例化に先鞭をつけてから、駿府に移り、大御所として内政、外交の諸課題に取り組んだ。特に外交面では以下の課題に取り組んだ。「駿府外交」という言われるものである。
1)明国との国交回復、講和 秀吉時代の負の遺産の清算
2)朝鮮との国交回復
3)琉球との関係再整理 薩摩藩による統治
4)東南アジア諸国との交易促進のために、朱印船貿易を開始
5)スペインとの貿易 メキシコとルソン、マカオの交易ルートに参入を企図 ヨーロッパへの道 スペイン国王フェリペ三世と国書交換
6)オランダとの貿易 平戸にオランダ商館開設 オランダ総督オラニエ公と国書交換
7)イギリスとの貿易 平戸にイギリス商館開設 イングランド国ジェームス一世と国書交換
8)ポルトガルとは従来通り長崎にて貿易
このように、対中国/朝鮮/琉球との関係修復と交易再開。アジアに進出してきたヨーロッパ諸国との積極外交/交易。日本商船の積極的海外進出。これが家康の駿府外交政策の核心である。これは後世の、いわゆる「自由貿易」を目指したものではなく、幕府の統制管理下における積極貿易策、国富の増大である。当時のイギリスやフランスの絶対王権の下で行われた重商主義的政策と同じである。家康の重商主義的外交政策と言っても良いだろう。その骨子は、中国、東南アジアとメキシコ・スペイン、そしてヨーロッパとの東西貿易体制を確立することである。そのために平戸(オランダ、イギリス)、長崎(ポルトガル)のほかに、新たに浦賀(スペイン、中国)を開港し、三港体制でグローバル中継貿易のハブ機能を果たす。さらにはイギリスと北西航路(北極海経由)を開拓し、浦賀にイギリス商館を置くというものであった。こ家康の戦略は特定の国を排除するのではなく、多国間貿易体制を構築することであった。ただ、この三港分散体制の背景にはスペイン、ポルトガルとオランダ、イギリスとの対立による紛争に巻き込まれることへの警戒もあったとも考えられる。中でも、新たに浦賀を、スペイン、中国との中継貿易の拠点港にすることが目玉であった。一方で、家康はキリスト教布教は許さず、「布教/交易分離」「交易重視」が外交政策の基本であった。こうした多国間貿易構想の背景には、これまでの東アジアにおける中国王朝中心の貿易体制、いわば華夷思想に基づく朝貢貿易システムを打ち破り、新たに、日本をハブとした開かれた東西交易システムを打ち立てようとしたことがあると考えられている。換言すれば、明国との国交回復は目指すものの、室町幕府時代の中国王朝との朝貢貿易である「勘合貿易」から脱して、日本をアジアとヨーロッパを見据えた新たな海洋国家に成長させようとした。
このグローバル戦略構想実現のためには、まず最初に、秀吉時代の文禄・慶長の役で関係が断絶した明国、朝鮮との講和と国交回復(貿易の再開)に取り組まねばならなかった。まず朝鮮との国交回復に取り掛かった。また明国に朝貢していた琉球王国との関係再構築に取り組む。また、アンナン、シャムなど東南アジア諸国から日本との交易の期待が高まり、日本の商船が東南アジア諸国に進出することを奨励し、幕府の公認貿易許可書である朱印状を発行した(朱印船貿易の開始)。これは、相手国に幕府の朱印状を持っている商船、商人とだけ貿易をするように求めるもので、幕府の管理貿易であるともに、かつて近隣諸国に恐れられた倭寇対策でもあった。これには大坂や堺、博多、長崎の豪商も参入し、また諸藩も商人の海外進出を支援して朱印船貿易に参入した。朱印状は日本人だけでなく、長崎のポルトガル人宣教師、ジョアン・ロドリゲス(30年以上長崎に滞在し「日本教会史」などの著作がある)もイエズス会財政立て直しのために、朱印状を得て貿易に乗り出した他、ウィリアム・アダムスやヤン・ヨーステン、クァッケルナック/サントフォールトなど、オランダ船リーフデ号の元乗組員で、その後日本に定住した人物も、家康の朱印状を得て、東南アジア各国との交易に出かけている。
一方で、スペインがマカオ、フィリピン・ルソンとメキシコ・アカプルコの間に航路を開設したことを見て、家康はその航路の中間にある日本の浦賀を中国との貿易の中継地にする提案を、フィリピン・ルソン経由でスペインに打診する。この三国間貿易のビジネスモデルは、スペインは自国の金銀を流出させることなく、日本の銀で決済することで中国から産物を買い付け、其の売却で大きな利益を得ることができる。日本はその中継による利鞘を稼ぎ、為替利益が得られる、という「三方良し」モデルである。以前、ポルトガルが長崎を拠点にこの三角貿易モデルで大きな利益を得ている。また、石見銀山の開発に必要な鉱山技術、精錬技術をスペイン(ポトシ銀山で実績のある)から導入することも重要な国家戦略であった。これは家康が秀吉政権の時代からスぺインに打診していたと言われている。こうして、家康は、石見銀を決済通貨とし、中国の絹を主力交易品とした、中国、東南アジアとメキシコ、スペイン、ヨーロッパを結ぶ東西交易圏を設け、その中継貿易のハブとして日本を位置付けた。家康は具体的に、ウィリアム・アダムス(三浦按針)に命じて、伊東で初の洋式外洋帆船を建造させた。またアダムスをアドバイザーに浦賀湊を国際的な貿易港として整備させたと言われている。日本に漂着したスペインのフィリピン総督ドン・ロドリゴに、家康のスペイン国王宛の親書を持たせて、浦賀港からこの船でメキシコに送り出している。太平洋を横断した初めての日本船となる。家康はこのようなグローバル・ジャパン構想を持っていたわけで、駿府にはヨーロッパ各国、琉球、朝鮮、東南アジア各国から大御所への謁見を求める使節が訪れる様になっていった。
駿府外交の変容と家康の死
しかし、家康の構想は、次第に修正を迫られる事態となってゆく。まず、朝鮮との国交回復には成功し、対馬の宗氏の仲介で朝鮮通信使交流が始まった。また、琉球の薩摩勢力への組み入れにも成功する。しかし、この朝鮮、琉球を介した明国との国交回復、貿易復活は、明国側の頑強な拒絶(いわゆる「海禁政策」)により挫折する。その後、国と国との勘合貿易ではない、私貿易の唐船は寄港する様になるが、ポルトガルが中国と日本とヨーロッパの三角貿易で大儲けした様な高収益構造にはならなかった。中国が本格的な貿易相手になるには、1644年の明朝の滅亡、清朝の成立を待たねばならなかった。
もう一つの柱であるスペインは、もともと日本との交易にはそれほどの興味を抱いていなかったが、中国との中継貿易と、銀山開発いう日本側の提案には興味を示した。ただ、すでにポルトガル領マカオにその拠点を有していた(この時期ポルトガルとスペインはスペイン王がポルトガル王を兼任し合邦している)こと。また彼らの植民地である南米(現在のボリビア)ポトシ銀山からは良質で豊富な銀が採れたこと。そして、フィリピンとメキシコの航路(彼らにとっては自植民地間ルート)を独占していた彼らにとって、日本の中継はそれほど魅力的ではなかった。銀山開発は取れ高の半分をスペインに上納するならOKという法外なもので家康は乗らなかった。したがって、スぺインにとってより重要なことは、日本でのキリスト教の布教であった。布教させるなら交易しても良い。そしてプロテスタント勢力であり、私掠船(海賊行為)による被害で敵対するオランダ、イギリスの日本での活動は絶対に受け入れられなかった。こうして、1611年にスペイン王フェリペ三世の親書を持って駿府の家康に謁見したセバスチャン・ビスカイノとの交渉は、「交易と布教の両立」、「オランダ/イギリスの排除」この2点をスペインは頑強に主張して譲らず、「キリスト教布教禁止」と「オランダ/イギリス排除は絶対受け入れない」とする日本とは平行線で、結局交渉は決裂した。ビスカイノは失意のうちに日本から立ち去る。仙台藩からメキシコ/スペインへ使節として派遣された支倉常長もスペイン王に会うことすらできず帰国する。この交渉決裂の直後、1612年に家康は「寛永の異教令」、すなわち禁教令を出してキリスト教を禁じた。これは、スペイン側のあくまでも日本での布教にこだわる意図に対して手を打ったもので、交易も禁ずるのちの「鎖国」政策の一環としての禁教令とは異なるものであった。
一方、キリスト教布教を前提としないプロテスタント国のオランダとの通商は、アダムスの仲介で成功した。この関係は幕末まで240年続く。イギリスとの関係も、やはりアダムスの尽力で交易が始まった。家康は、スペインの貿易相手としての魅力を評価していたが、一方で、(キリスト教布教の危険性とは別に)スペインに独占的に貿易をコントロールされることを避ける必要性も感じていた。そこで、スペインに敵対するオランダ、イギリスの存在意義を評価した。優れたバランス外交と言って良い。偶然とはいえ、アダムスの登場は家康にとって僥倖であったと言っても良いだろう。しかし、アダムスと家康が構想したイギリスとの北西航路開拓は、イギリス側からの探検、開拓も進まず、またイギリスはアンボイナ事件以降、オランダとの東インド市場で競争に敗れて、平戸の商館を閉鎖し、1623年には日本から撤退する。ウィリアム・アダムスという「歴史の奇跡」ともいうべき人物を得ながら、イギリスはこのチャンスを活かすことができなかった。この「平戸撤退」が後に、その50年後の1673年、イギリス船リターン号で、サイモン・デルポーが、国王チャールズ2世の親書を携えて、再び交易を求めて長崎に来航したときの幕府の対応に影響を与えた。オランダ商館の情報により、チャールズ二世の王妃が、カトリックのポルトガル王の王女である事が分かり、それを理由に交易を拒否したとされている(オランダにチクられた?)。しかし、イギリスは、家康の朱印状の有効性を主張したが、家康の許可を得て平戸に商館を開設したにもかかわらず、一方的に撤退した事を咎めた。対日本貿易を独占していたオランダの妨害工作と言って良いだろう。これによりイギリスとの交易再開は、幕末の1854年のエルギン卿使節による日英和親条約締結を待たねばならない。しかし、この時の長崎奉行の対応はイギリスに好意的なもので、イギリス船の入港を許し、家康の朱印状を持っていたので、幕府の許可はすぐに出るだろうと考えていたようだ。家康の朱印状から60年ほど経った、いわゆる「鎖国」時代であったが、この頃はまだ「祖法」を振りかざした「外国船打払令」のような、有無を言わせぬ排外政策は取られていなかった様子が見える。一方で、オランダとイギリスの対立により、徐々にオランダの世界市場における相対的位置が低下。イギリスがムガール帝国への進出、清国へのアプローチなど、のちの「大英帝国へのロードマップ」を描き、步を進めた始めた時期でもあった。オランダが日本の唯一の海外情報源であったことの意味を考えさせる出来事でもある。
こうして結局、家康の駿府外交政策の重要な柱であった、明国との講和とスペインとの交易、浦賀港ハブ化構想は実現しなかった。アダムスの仲介で実現したオランダ、イギリスとの通商関係樹立は実を結んだものの、1623年にはイギリスも撤退。何より1616年には、その家康が没し、駿府外交政策は大きな変容を余儀なくされた。
「鎖国」への道
二代将軍秀忠は家康の駿府外交政策を引き継がなかった。家康の死の直後、1616年8月に、「元和二年八月八日令」により、キリスト教禁教、バテレン追放令、外国船の寄港は平戸、長崎に限り、浦賀を閉港する。ただし中国船はこの限りにあらず。諸大名によるヨーロッパ諸国との直接貿易禁止、朱印船の渡航対地の制限など、大きく駿府外交政策の転換に舵を切る。いわゆる「鎖国」政策の始まりである。家康の外交顧問として重用されたウィリアム・アダムス(三浦按針)も、領地は安堵されたものの、秀忠からは遠ざけられ、平戸で1622年に没している。
また、次の三代将軍家光は、さらに「鎖国政策」を推し進め、1624年にはスペイン船の来航禁止。1633年、日本人の海外渡航禁止、帰国禁止、帰国すれば死罪。1635年中国船の来航は長崎に限定。1639年、ポルトガル船来航禁止。1641年、オランダ商館の平戸閉鎖、長崎出島への移転、と一連のいわゆる「鎖国政策」を完成させる。西国大名の台頭と、キリシタンの流入を恐れるあまり、海外に進出した日本人の冒険的商人たちや、航海者、戦国の日本を飛び出して海外に活路を開こうとした若者たちは、帰国の道を閉ざされ、帰国すれば死罪という過酷な仕打ちが待ち受けることとなった。やがて海外拠点に形成された日本人街も消滅してしまう。この間1637〜8年には「島原の乱」が勃発し、キリシタン弾圧と内政強化(幕藩体制の強化)を加速させ、ますます世界に向けて国を閉ざす。家康のグローバル戦略の成果は、長崎出島に押し込められたオランダとの通交だけになってしまい、幕府統制管理下に置かれた長崎出島が、幕末までの200年余り唯一の海外への窓口となった。こうして、家康が構想し、押し進めた、いわば重商主義的な日本のグローバル成長戦略、海洋国家としての世界への雄飛というビジョンは、その息子と孫によって幕引きされてしまった。
グローバル・ヴィジョナリー・リーダーとしての家康
我々が教えられてきた「日本史」の教科書的には、家康といえば、信長、秀吉に続く「天下統一」の事績が強調される。そしてキリスト教の脅威から日本を守るために鎖国した江戸幕府初代将軍とみなされている。しかし、世界史的には、見てきたように、家康は、大航海時代/大発見時代という世界のトレンドを視野に入れて、海外戦略を立案、実行した日本の「皇帝:Emperor」とみなされていたことを忘れてはならない。「鎖国」どころか、むしろ積極的に海外との交易を広げ、日本人の海外進出を進め、ヨーロッパとの交易を促進するために平戸、長崎に加え浦賀に港を開設するなど、日本がグローバル化する世界市場で生き残り、成長する道を模索した。そういう目線と視野を持った、今風に言えば、グローバル・ヴィジョナリー・リーダーであったと言えるだろう。しかし、彼の後継者は、その外交戦略を引き継がず、むしろ、国を閉ざす「鎖国」の道を選んだ。日本側の資料(江戸時代に編纂された「徳川実紀」等の、いわば徳川家の公式記録)には、その様な世界情勢に目を向けた「国際派」としての家康のプロフィールや事績は消され、家康を東照大権現として神格化して、家康の子孫たちが進めた「鎖国政策」のルーツを神君家康公に求め、徳川幕藩体制を維持するために、代々守り継ぐべき「祖法」であるとした。
しかし、家康の外交政策の事績は、海外の資料に顕著に見ることができる。宣教師の報告書や手紙、オランダ/イギリス商館の記録、手紙、アダムスの手紙、オランダ使節ニコラース・ボイクの報告書、イギリス使節セーリス航海記録などヨーロッパ側に残されている公式、非公式の記録、あるいはそうした一次史料を研究した後世の歴史家の著作に描かれた家康は、日本側の資料からは見えてこない「意外な姿」で描かれている。言ってみれば、彼は、大航海時代に新興の海洋国家として、重商主義的政策により、新興国であったイギリスの発展をリードした、エリザベス一世のような絶対君主と対比される人物として描かれていることが興味深い。例えば、ジョン・セーリスの駿府、家康への謁見記録には、その皇帝の尊厳ある佇まいにひれ伏し、その城がイギリスよりも壮麗であることに感動している様が記述されている(「ジョン・セーリス日本航海記」)。駿府の家康は「皇帝:Emperor」で、江戸の将軍秀忠は「王:King」と理解されている。駿河:Surugaはロンドンよりも大きく殷賑な都会で、街は清潔に整備されている。皇帝に謁見を求める諸外国の外交使節たちが、順番待ちで列をなしている。皇帝との謁見では、イングランド国王ジェームス一世の親書を皇帝に直接渡そうとして、アダムスに嗜められ、側近が皇帝に渡す礼儀となっている事に戸惑っているが、守備よく皇帝から貿易許可書をもらい、日本にイギリス東インド会社の商館を開くこと許可されたことに感謝している。次に、セーリスは、将軍秀忠に謁見するために、駿河から江戸に旅立ったが、その途中の街道は極めてよく整備され景色が美しい。そして江戸:Yedoは駿河:Surugaよりもさらに大きな都会であると書いている。もう一つ、スペイン人の見た家康像で、面白いエピソードとして紹介したいのは、スペインの宣教師が本国に送った報告書の中で、「日本の皇帝、家康が民間の商船に与えた朱印状は、決して相手の領土や植民地を侵略したり、艦船を襲撃して財物を奪ったりする事を許可するものではない。ただ相手国との貿易により商業的な利益を得ることが目的である」と報告していることである。イングランド国王の私掠船許可状(いわば海賊行為の公認)とのアナロジーを懸念する必要はないと本国に注意喚起しているわけだ。イングランドやオランダの私掠船に襲撃されて大きな被害を受けていたスペインらしい報告だ。しかし、家康の朱印船貿易の担い手である、日本人の航海者や商人達が、イングランドのホーキンスや、ローリー、ドレイク、キャベンディッシュのような冒険的航海者として世界に羽ばたいていたら、日本の江戸時代はもっと違った時代になっていただろう、と密かに妄想する。
だが、やはり、家康の10年余りの駿府外交だけではそれは無理であった。残念ながら、後継者にその器量と目線がなく、有力な重商主義的な経済思想家も、彼の意志を継ぐ重臣も生まれなかった。家康に育てられた航海者、冒険的商人たちは、花咲く前に海外に打ち捨てられた。東インド会社のような株式会社も生まれなかった。結局、家康の後継者たちは、重商主義的な貿易拡大という積極策による幕府政権の強化よりも、封建領主的な守りの姿勢、幕藩体制強化に傾倒していった。海外との貿易が持続可能な国家事業として育つにはもう少し時間が必要だった。そういう間に「鎖国」してしまったのでその成長のチャンスはなくなってしまった。それにしても、家康は、天下統一、江戸開府の「将軍」であっただけでなく、世界史に名を残す日本の「皇帝」であったことは記憶されるべきであろう。そして、日本史的にもその事績を再評価すべき時が来ているのではないか。日本とイングランド。こうしたユーラシア大陸の東西両端に出現した絶対君主の政策と事績は、其のありようの違いこそあれ、同時代を共有する歴史のSynchronicity(共時性)、Co-Incidences(共に事を起こす)の典型的な事例の一つである。この後に日本とイングランドがたどった道は大きく異なってしまったが。日本史を世界史の視点で見直すことで、新たに発見することは多いし、未来を見据える視点を養うこともできる。
参考:家康の駿府外交政策関連の年表
1600年 オランダ船リーフデ号豊後に漂着 のちにウィリアム・アダムス(三浦按針)、ヤン・ヨーステン(八重洲) 家康の外交顧問に
1600年 関ヶ原の戦い 征夷大将軍に
1603年 江戸幕府 江戸開府
1604年〜 日本商船の海外渡航の許可 ルソン、アンナン、トンキン、シャム、カンボジアなど19地域と「朱印船貿易」を開始
1605年 将軍職を秀忠に譲り、駿府へ。1607年駿府城修築 大御所政治、駿府外交の始まり
1606年 朝鮮との国交回復 講和成立
1607年 朝鮮通信使に接見
1606〜1609年 薩摩が琉球侵攻し支配下に
1610年 琉球国王尚寧 家康に謁見
1610年 明国に勘合貿易復活を要求 拒否
1614年 琉球国王を仲介に明国との国交回復を打診するも拒否
1609年 オランダ・オラニエ公の使節来訪 アブラハム・ファン・デン・ブルック、ニコラス・ボイグが家康に謁見 オランダと交易開始 アダムスの仲介で平戸にオランダ商館開設
1609年 スペイン船漂着 フィリピン総督ドン・ロドリゴ 家康に謁見
1610年 ロドリゴ、アダムス建造の船で、家康のスペイン国王宛の親書を持ってメキシコへ帰国
1611年 スペイン国王フェリペ三世の親書を携えてセバスチャン・ビスカイノ来訪 家康謁見 しかし交渉決裂
1612年 これを受けて、寛永異教令 キリスト教布教の禁止 ただ、これは「鎖国」の前触れではない
1613年 仙台藩の支倉常長 メキシコへ 1615年スペイン本国へ
1613年 イギリス国王ジェームス一世の親書を携えてジョン・セーリスが家康に謁見 イギリスと交易開始 アダムスの仲介で平戸にイギリス商館開設 浦賀案は実現せず
1614〜15年 大坂の陣 豊臣家滅亡
1616年 家康、駿府にて没す
1616年 家康死後、秀忠により「元和二年八月八日令」キリスト教禁止 ヨーロッパ船は平戸、長崎に限定 諸大名による海外貿易の禁止 朱印船貿易の制限 「鎖国」への第一歩
1620年 ウィリアム・アダムス 平戸にて死去
1623年 イギリス 平戸から撤退
1623年 家光、第三代将軍に 矢継ぎ早の「鎖国政策」
1624年 スペイン人の来航禁止
1633年 日本人の海外渡航、帰国の禁止
1635年 中国船の寄港は長崎に制限
1637〜38年 島原の乱
1639年 ポルトガル船の来航禁止
1641年 オランダ商館の平戸閉鎖、長崎出島へ いわゆる「鎖国政策」の完成
参考:過去の関連ブログ
2022年1月8日 東西文明のファーストコンタクト カピタンの世紀②イギリス
2021年12月28日 東西文明のファーストコンタクト カピタンの世紀①オランダ