2023年12月30日土曜日

古書をめぐる旅(42)エドワード・モース著「日本の住まい・その内と外」Japanese Homes and Their Surroundings 〜知のわらしべ長者が見た日本人の住まい〜

 

東京(20年前は江戸と呼ばれていた街)の俯瞰図




東洋美術家のビゲローへの献辞

Newton Hall Cambridge蔵書印



2023年も押し詰まった年の瀬。いつもの神保町の北澤書店で、エドワード・モースの日本に関するもう一つの著作を見つけた。最初の著作は、以前のブログ(下記参照)で紹介した「日本・その日その日:Japan Day by Day」(1917年刊行)であるが、これに先立つ15年前に、日本人の住まいと暮らしについての著作を発表した。これが、今回紹介する、1888年にボストンで刊行された「日本の住まい・その内と外」:Japanese Homes and Their Surroundings である。これは今は無くなってしまった貴重な江戸時代から明治初期の日本家屋とそこでの暮らしの観察記録である。いわば「生物学者が観た日本の建築と暮らし」である。彼の知的好奇心と収集、分類への情熱はとどまるところを知らない。これは古民家ファンにとっても貴重な参考書でもある。皮肉にも、日本にはこのような参考書が少ないという点でも希少であると言って良いかもしれない。モースは、生物学者として、腕足類貝の採集に日本にやってきて、3000年前の集落遺跡(大森貝塚)を発見し、この時代を縄文時代と名付けた。また、東大で生物学の教授として教鞭をとり、最新のダーウィンの進化論を伝え、日本の生物学、考古学の父を言われた。また、彼は生物学者、考古学者の枠を超えて、日本の文化に魅了され、その「美」と「価値」を再発見し、世界へ発信した。東大を辞めて1882年に再来日した時には、日本の陶磁器や工芸品、庶民の生活雑器や民具のコレクターとして名を馳せていた。彼が招聘したビゲローや、フェノロサ、岡倉天心らとともに日本の古美術の収集と保存に努めた。ボストン美術館の膨大な日本美術コレクション、特に浮世絵コレクションはビゲローの寄贈によるもの。セーラム・ピーボディー博物館の日本古民具の膨大なコレクションは、モースが寄贈したものだ。珍しい貝の採集に始まり日本美術のコレクションに終わる。以前のブログ(2021年9月5日古書をめぐる旅(13)「日本・その日その日:Japan Day by Dayで、私はこう締め括った。「私はモースを「研究界のわらしべ長者」と名付けておきたくなった」と。

ご維新から20年、明治の東京はまだまだ江戸の面影が色濃く残っていた。その街並みと建造物と、そこでの人々の生活。それは東洋と西洋に違いはあれ、彼の母国アメリカやヨーロッパにおいて、産業革命以降、押し寄せる近代化という物質文明の波で失われてしまった、あの時代の情景であった。かつての住まいとそこに育まれた暮らし、その集積である都市景観に想いを巡らすとき、pre-industrial revolution ageの名残がここ明治東京には残っている。やがて、この景観と暮らしも近代化の波をかぶり、無惨に失われるのも時間の問題に思えるし、日本人は過去を振り返ろうともせずに、西欧社会から入ってきた物質文明の受容に向けて突き進んでいる。しかし、現時点では「まだ」ここにその姿が残っている。これを観察し、記録しておく必要があると考えた。モノトーンの甍の波が印象的な東京の街並みが、失われた時代の記憶を甦らせた。これはこの頃日本を訪れた西欧からの訪問者が一様に感じた第一印象であった。むしろ失われた過去への愛惜の感覚であったと言っても良いかもしれない。現代の日本人にとってみても、戦後の昭和30年代頃までは幾分かは残っていた生活スタイルの名残を感じる人もいるだろう。私も、子供の頃に訪ねた祖父母の家の玄関や縁側や床の間の佇まいの記憶にそを見出す。それは非日常の古民家などではなく日常の住宅であった。明治のベアトの写真に写し取られた愛宕山からの東京(江戸)の景観はつい最近まであったのが、今やその痕跡を見つけ出すのも難しくなった。モースは、その簡素で抑制されているが、全体としては調和の取れたある種芸術的な佇まいと、飾り気がなく礼儀正しい人々の人柄に、真の豊かさとは何か、幸せとは何か。そこに西欧が獲得した物質的な繁栄とは異なるものを見出した。もちろんそうした、日本で発見した豊かさや幸せは、封建的社会制度、身分制度、古い因習という負の側面と表裏一体のものであり、近代化とは、そうしたものを含めて社会全体を変えてゆくムーヴメントであるのだが、これからの日本が、東京が、近代化という名のもとに変貌し、古き伝統を消し去ってゆくことに愛惜の念を抱いたとしても不思議ではあるまい。

日本の住宅は、西欧住宅のようにカラフルに彩色されない、内部も過剰に装飾されていない。木と土と紙の素材を生かした建具、壁や塀、自然や外部と親和性を保った家屋構造、狭い敷地に自然を取り入れた坪庭、家具を置かない畳の部屋、小さな床間と季節の生花、履き物を脱いで上がる部屋、細かい細工が施された欄間や襖、その引き手まで。全体には簡素な作りであるが、部分にこだわりを見せる。それがある種の調和をもたらす芸術性を持っている、とモースは述べている。簡素な作りは一見粗末になりがちだが、そうならない美意識と知恵には日本人の精神性すら感じる。茶室がその最たるものだと。建築家でも、大工でも、建築史家でもないモースが、外装から内装、外形構造と間取り、細かいパーツの意匠から、その使い勝手まで、仔細に観察し分析し、記録している。さらには工夫された大工道具と、職人の仕事ぶりの詳細まで、綿密な検証と考察を展開していることに驚きを禁じ得ない。彼は東京だけでなく、全国を旅して、各地の住宅、人々の暮らしを観察し記録している。西欧人がみたエキゾチックな日本という、ツーリスト的な観察や感想ではなく、そこに人類にとっての普遍の価値観と法則を読み取るという、生物学者の観察、収集、分類という習性を感じることができる。もちろん、「新種を発見した時の驚きと興奮!」というナイーブな歓喜がその知的好奇心の底に通奏低音として流れてはいることを見逃すことはできないが。

モースはまた、機械化によらない手仕事の美、生活の中で生まれてきたアーティスティックな工芸への憧憬をナイーヴに語っている。西欧の宮廷や貴族のマナーハウスを飾るジャポニズムブームの豪華な美術品ではなく、庶民の日常生活の中で生まれ、使い込まれた「お道具」や「手仕事」の中に美を見出す。こうした価値観はビゲローやフェノロサ、岡倉天心らの文化財保存運動、英国におけるウィリアム・モリスの「アーツ・アンド・クラフツ運動」に大きな影響を与え、さらには柳宗悦らの「用の美」、「民藝運動」へとつながってゆく。後述するように、彼の「博物学」的な観察眼と真理の探究の姿勢が垣間見える。本書に収録されている多くのイラストは彼自身の手になるものである。モース自身が「手仕事」の達人であったと言える。彼は左右両手使いであったと言われており、大学での講義の時にも自在に右手/左手を駆使して図を黒板に書いたという。イラストから伝わるその技巧だけでなく、博物学者らしい緻密な観察眼と、日本の文化や人々への愛情に満ちた眼差しが心を打つ。いくつかを下記に紹介したい。現代に生きる我々こそ、失われたあの時への、激しい憧憬と哀惜の念を感じるに違いない。


ベアトの写真から描き起こした東京の都市景観。



日本の住居建築


東京の二階建て住宅 板塀に囲まれ、庭を持つ

京都の住宅の門構え

町家の坪庭と旅籠

茅葺き屋根

茅葺き屋根を葺く道具

茅葺き屋根の軒下の雨受け

客間の構造

農家の台所

履き物を脱いで部屋に上がるので下駄箱がある

縁側の戸袋と手水鉢

囲炉裏

引き出し、食器棚付きの階段

暖房は火鉢で

枕と就寝方法

タオルハンガーのシンプルさとデザインの多様性に感心している

客間/床間/書院

襖の引き手デザインのセンスに驚嘆

錠前 シンプルだが堅牢な構造


モースは正式な高等教育を受けていない研究者であった。こうした点で牧野富太郎博士を彷彿とさせる。しかし、猛烈なその収集と観察と分類へのエネルギー。止まることのない知的好奇心の背景には、この時代の博物学的な視点があったように考える。「博物学:Natural History」は、自然界を分類学的に捉える学問。動物界、植物界、鉱物界の「3界」を、採集/収集、観察、分類する学である。学校教育で言う生物学や地学の領域がそれに相当する。欧米では「Natural History:自然史」と言われていたものを、日本では明治になって「博物学」と訳した。リンネの植物分類学などが代表的である。大航海時代からプラントハンターが世界を巡って珍しい植物の採集に勤しんだ時代があった。彼らは、未知の固有種が豊富な日本に非常な関心を抱き、オランダ商館に赴任してきたテュンベリーのような、リンネの高弟である学者もいた。帰国後はウプサラ大学の学長となったような人物である。ケンペルもシーボルトも医者であり博物学者であり、そこから出発して、日本という国全般を俯瞰し、観察して、資料収集し、分析するをいう方向に進んでいった。アメリカのペリー提督は、日本への遠征に際しシーボルトから指南を受けている。モースも同じ博物学的視点とパースペクティヴで明治日本を観察し、世界と日本の双方に影響を与えた。しかし、博物学を構成する動物学、植物学、鉱物学は、20世紀に入ると、結晶解析や分子構造解析など、化学、物理学的な手法により実験的に証明することが研究の主流となっていった。さらには生化学、ゲノム解析による分子生物学の発達のため、博物学は「学」としては廃れてしまった。しかし、その一方であまりにも専門分化してしまった自然科学研究の姿勢が、自然界を全体的に俯瞰する視座を失わしめたとも言える。モースのような研究領域を超えて膨張する知的好奇心を受け止めるアカデミックな受け皿、あるいは大学研究機関における「講座」がなくなってしまった。いや、当時ですらモースのような研究者を受け止める大学がなかった。牧野富太郎や南方熊楠も同じだ。彼らのような知の巨人を見ていると、この溢れ出る知性、止まることを知らぬ好奇心を萎縮させないような俯瞰的視座の涵養と、それを可能ならしめる居場所が必要なのではないかと気づかされる。19世紀にはまだ自然哲学、自然史という18世紀的な視点がまだ息づいており、進化論を腕足類貝の研究で証明してみせた知の巨人モースにもそれがを見ることができる。その視点は過去のものではなく、むしろ今となっては新鮮に見える。この現代風に言えば、異分野の「生物学者」が著した「日本の住まいと暮らし」と言う著作の存在がそれを一層際立たせているように思う。

2021年9月5日古書をめぐる旅(13)Japan Day by Day, Morse