2024年1月28日日曜日

古書を巡る旅(44)W. グリフィス著「タウンゼント・ハリス伝」:Townsend Harris The First American Envoy in Japan 〜もう一つのハリス伝〜



時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 古書を巡る旅(10)「タウンゼント・ハリス日本日記完全版」The Complete Journal of Townsend Harris ...: 麻布善福寺にある タウンゼント・ハリス、初代米国公使館跡碑 益田孝、藤原銀次郎が献納し朝倉文夫が彫刻した 裏面 今日は一日雨模様。コロナ感染もいよいよ第四波が来て不要不急の外出は憚られる。こんな日は以前にゲットした古書を読んで過ごそう。そして自宅「時空旅」に出よう。 今回の古書を...

上記のブログ(2021年4月14日)でマリオ・コセンザ編著「ハリス日本日記完全版」(1930年刊行)を紹介したが、この35年前に、同じハリスの日記を元にした「ハリス伝」が刊行されている。ウィリアム・グリフィス:William Elliot Griffisの著作「Townsend Harris The First American Envoy in Japan: タウンゼント・ハリス 〜初代駐日アメリカ全権公使〜」1895年である。著者は明治初期に「御雇外国人」として日本に招聘された外国人教師で、ジャパノロジストの草分けの一人である。以前のブログ(2022年1月22日古書を巡る旅(19)「Verbeck of Japan:フルベッキ伝」)で紹介した、幕末にやってきた宣教師、フルベッキの評伝の著者でもある。前回のブログでハリスの通訳で書記官であったヘンリー・ヒュースケンの日本日記を取り上げ、このところ幕末/明治の日米交流史に関する古書の紹介が続くが、今回も、この続編としてグリフィスの「ハリス評伝」を取り上げることをお許しいただきたい。

グリフィスの「ハリス伝」は、ハリスの直筆の日記を典拠としている点ではコセンザ版「ハリス日記」と同様であるが、ハリスの生い立ちや日本赴任以前の経歴は、日記も参照しているが、グリフィス自身の筆による評伝となっている。下田入港以降の、日本滞在記録は、ハリスの日記を引用した記述であるが、全記録を詳説するのではなく、いわば抄録となっている。後半(特に条約締結後)は日記自体が逸失しているため、ハリスの手紙や日本側の記録に基づく論評となっている。全体としてグリフィスによる、ハリスの日米関係構築、日米親善交流に果たした業績を評価する評伝となっている。

グリフィス「ハリス伝」の構成:

Part I:Preparation for work in Japan 日本赴任準備
ハリスの生い立ち、ニューヨーク市教育委員会委員長として市立大学創立、その後のアジアでの貿易商、ニンポウ寧波副領事としての活動、ペリーの日本遠征で日本行きを希望したこと、初の駐日米国領事へ任命、アメリカでの出発準備から船旅の途中寄港地、シャムでの出来事が語られている。 ハリスの日記からの引用ではなく、日本での活躍の前史としてのサマリーである。主語が「Mr. Harris」または「He」で始まる文章となっている。

Part II: Mr. Harris's Journal ハリス日本滞在日記
1856年8月21日 日本、下田上陸から始まる日本滞在記 下田での領事館開設、幕府役人との交渉、江戸参府、将軍謁見、条約交渉まで、ハリス日記の記述に基づく解説が時系列的に記録されている。主語が「I」で始まる文章。

Part III: Success Repose, and Honor ハリスの貢献、成果
1858年2月27日でハリスの日記は終わっている。以降は彼の手紙や日本側の文書に基づく彼の事績と、その後の日米関係発展への貢献とグリフィスの評価が書かれている。日清戦争の勝利、条約改定という、日本が「一等国」への道を歩み始めた時期までを総括している。しかし、対日外交の主役はアメリカからイギリスへ。主語が「Mr. Harris」または「He」で始まる文章となっている。

コセンザ「ハリス日記」の構成:

イントロダクションはハリスが駐日公使に任命される経緯とその過程について
ジャーナル1:1855年5月21日から1856年4月13日(米国出発前)、
ジャーナル2:1856年4月15日から7月6日(航海日記、シャムとの条約交渉など)、
ジャーナル3:1856年7月7日から1857年2月25日(下田到着以降、領事館開設)、
ジャーナル4:1857年2月26日から12月2日(条約締結予備交渉、江戸参府に向けて交渉)、
ジャーナル5:1857年12月7日から1858年2月27日(江戸参府、将軍謁見、条約本交渉)、
断片メモ:ハリス病気療養中の断片(日記中断中の和紙に書かれたメモ)1858年5月15日、6月7日、6月8日、6月9日。

コセンザはこの日記公開、刊行にあたっては、先行するこのグリフィスの著作に言及し、出版社Houghton Miffin社から出版の承認を得ている。ハリス日記の寄託者であるハリスの姪、日記の収蔵機関であるニューヨーク市立大学にも謝辞を述べている。

このように、この二冊はハリスを取り上げ、日本の幕末維新史、日米交流史、またアメリカのヨーロッパ列強に対抗する東アジア戦略の研究書としても興味深く、歴史資料として押さえておくべき重要著作である。ただ、前述のように、そのスタイルと、刊行の時代背景、出版に込めたメッセージは異なっている。グリフィスは、ハリスの人物像描写に力を入れて、幕末におけるハリスの日本の門戸開放、日米関係発展に貢献した役割を浮き立たせている。そのメッセージは、明治日本の驚異的な進歩への驚きと称賛である。日清戦争に勝利し、念願の条約改定も進み、日本が列強と肩を並べる「一等国」の道を歩み始めた所で終わっている。まさに、ハリスがその「道」に繋がる扉を開け、基礎を作ったのだとその業績を高く評価している。しかし、アメリカは内戦勃発(南北戦争)で、対日外交どころではなくなる。ハリスは帰国し幕府は倒れ、アメリカに代わってその外交主導権を取ったのは討幕派、維新政府を支えたイギリスである。「America First!」で急にいなくなるアメリカ。ペリーの後に来て条約を締結したエルギン卿とオルコックのイギリス。その移行過程を繋いだのはハリスであると。グリフィスの忸怩たる思いが表れている。そうした日本が世界に向けて「一等国」デビューを果たしつつある1895年(明治27年)の刊行である。一方で、コセンザの業績は、ハリスの日記の完全版を紹介するという、いわば文献史学的な意義があると思われる。もちろんその日記公開の趣旨はハリスの功績を改めて紹介しようというものであるが、問題はそれを刊行するタイミングである。すなわち、刊行年の1930年(昭和5年)は、満州事変前夜という昭和初期の太平洋の平和が危うくなっていった時期であり、まさにコセンザ教授の巻頭の一行「To The Peace of The Pacific:太平洋の平和に向けて」にそのメッセージが凝縮されている。太平洋の東西の国の「歴史的出会い」を思い起こし、ハリスが念じた日米の友好親善関係を、もう一度思い出そうではないか。そして日米が、手を取り合って太平洋の平和に協力しようというメッセージである。そして、ついに起きてしまった日米の戦争、そして終戦。新たな日米関係のスタートにあたり、1959年(昭和34年)に出された第2版の巻頭言で、マッカーサー駐日米国大使が、「ハリス日記」刊行にあたって、コセンザと笠井重治の戦前、戦後を通じた日米友好関係強化への貢献を称えていることが象徴的である。

ちなみにこの1895年グリフィス版初版、1930年コセンザ版初版、さらに1959年の第2版(マッカーサー大使の巻頭言つき)の3冊とも、日本の衆議院議員でのちの日米文化振興協会会長の笠井重治氏の旧蔵書である。マッカーサー駐日大使の巻頭言にあるように、戦前から戦後の日米両国が困難な時期にあったときに、笠井氏とコセンザ教授の果たした日米友好への貢献は高く評価されるべきであろう。このハリス日記の出版が、その努力を象徴するものである。しかし、今回グリフィス博士の著作を手に入れてみると、そこにもグリフィス博士と笠井氏の、「ハリス伝」刊行を通じた交流の姿が見えてくる。昭和2年と思われる、グリフィス博士から笠井重治氏宛のハガキ(日本国内郵便一銭五厘切手)と、W.Griffis夫妻写真、Francis King Griffis, William Elliot Griffisの署名入りの礼状が、笠井重治氏の旧蔵書であった本書に添えられている。大事に本書と共にしまって置いたものだろう。グリフィス夫妻と笠井重治氏の交流を示す貴重な資料である。当時の笠井氏にとってグリフィス博士は、明治初期の日本を知る「大先輩(当時おん年84歳、年齢差43歳)」である。グリフィス博士は、コセンザ教授の「ハリス日記」の出版を見ることなく、ニューヨーク発の世界大恐慌、やがて日米関係がキナ臭くなり、太平洋の平和に影が差す事態を見ることなく、1928年(昭和3年)に他界している。



グリフィス著「タウンゼント・ハリス伝」1895年初版

ハリス肖像


表紙



William Elliot Griffis:ウィリアム・E・グリフィス(1843〜1928)

明治期の「お雇い外国人」、ジャパノロジストの一人である。日本に関する多くの著作を残しており、The Mikado's Empire,  Japanese Fairy World,  Japan: In History,  Folk-Lore and Artなどがある。アメリカ・ペンシルバニア州フィラデルフィア生まれ。ニュージャージー州のオランダ改革派教会系のラトガース大学卒業。そこで教鞭を取り、理科を教える。幕末に留学生としてラトガース大学に在籍していた福井藩士、日下部太郎の縁で、1870年(明治3年)日本に渡り、福井藩藩校「明新館」で1年間理科(科学と物理)を教えた。越前福井藩は松平春嶽の代から、早くからラトガース大学へ若い藩士を留学生として出し、外国人教師を招聘して若者の教育に力を入れていた。版籍奉還で福井藩が無くなると、1872年(明治5年)ラトガース大学の先輩宣教師、大学南校(帝国大学の前身)の教頭となっていたフルベッキの招聘で東京へ移り、大学南校へ移籍。物理と化学を教えた。1875年(明治8年)帰国後は宣教師となり、日本に関する著作の執筆や講演に精力的に取り組んだ。グリフィスの功績の一つは、幕末/明治期の「お雇い外国人」の記録を後世に残すべく、1858〜1900年の間に幕府や明治新政府に雇われて来日した外国人の資料を収集し整備したことである。このために本人だけでなく、その子孫や親族、教え子や友人などの関係者を巡り、聞き取りや手紙、日記などの資料収集に努めた。こうした調査、資料収集、研究の一環として、このTownsend Harris評伝、Verbeck of Japanに関する著作、Matthew Perryの評伝が生まれた。また彼の代表作、The Mikado's Empire 1876年もその一つである。グリフィスが収集した膨大な日本関係資料(グリフィス・コレクション)が、母校ラトガース大学アレクサンダー図書館に保管されている。


グリフィス肖像(Wkipediaより)



Mario Emilio Cosenza:マリオ・E・コセンザ (1880−1966)

ニューヨーク市立大学(CUNY)古典語学教授、前ブルックリン・カレッジ学長 前ニューヨーク市立タウンゼント・ハリス高校校長。ニューヨーク市立大学の創設者であるタウンゼント・ハリスの日記の完全版刊行に力を入れ、ジャパン・ソサエティー、笠井重治氏の協力を得て1930年に刊行に至った。


コセンザ肖像(ニューヨーク市立大学HPより)

コセンザ版「ハリス日記完全版」1930年初版と1959年第3版



笠井重治(1886−1985)

笠井重治は戦前から日米友好に尽力してきた山梨県選出の衆議院議員であった。身延町の出身。戦前に旧制山梨中学からアメリカのシカゴ大学に進学し、ハーバード大学の行政大学院(今で言うケネディー・スクール)卒業後、日米開戦前の排日運動盛んな米国で日米友好親善の重要性についての講演を続け、一方で、反米感情高まる日本でも講演を行い、太平洋の平和:The Peace of The Pacificを熱心に説いて回った人物である。米国に多くの友人を持ち、Dr. Cosenza:コセンザもその一人であった。そしてこの「ハリス日記」の出版にも協力した。戦前の国会議員選挙に何度も出馬したが、大政翼賛会に属さなかったため落選して苦労している。戦後、衆議院議員に当選し、GHQのダグラス・マッカーサー元帥にも幾度も嘆願書や提案書を出し、日本統治のアドバイスや善政を引くよう要望し続けた。その時の縁で、のちの駐日アメリカ大使ダグラス・マッカーサー2世(マッカーサー元帥の甥)にこれまでの日米友好への努力が高く評価され、その功績が序文で言及されている。衆議院議員引退後は日米文化振興協会の会長を務めた。墓は多摩霊園にあり、彼の事績を記した石碑がある。ちなみにコセンザ教授の「ハリス日記」1930年の初版本は、この笠井重治の蔵書であった(蔵書印と蔵書ナンバーがある)。また、グリフィス博士の「ハリス伝」1885年も笠井重治氏の旧蔵書である(蔵書ナンバー付き)。彼は多くの日米関係史に関する蔵書を有していたようで、神保町の北澤書店が笠井氏の蔵書をまとめて引き取ったという。本書には(前述のように)グリフィス博士から笠井重治氏宛の自筆のハガキと、夫妻の写真を添付した謝礼のカードが添えられてされている。グリフィス博士、コセンザ教授との思いの詰まった貴重な書籍を不肖私が手に入れたというわけだ。大切に後世に繋いでゆかねばならない。


笠井重治肖像(Wikipediaより)

本書に挟まれていたグリフィス博士から笠井重治氏宛の葉書(昭和2年6月4日の消印)と、夫妻の写真、サイン入りのカード。



グリフィス夫妻の写真(晩年のものと思われる)