2024年3月29日金曜日

古書をめぐる旅(47)The Awakening of Japan:「日本の目覚め」岡倉覚三 〜日本人が英語で書いた幕末・維新論〜

 






岡倉覚三(天心) 1905年(明治38年)Wikipediaより

これまでの「古書をめぐる旅」では、タウンゼント・ハリスやハリー・パークス、アーネスト・サトウやアルジャーノン・ミットフォードなどの外国人外交官、ジョン・ブラック、バジル・ホール・チェンバレン、ラフカディオ・ハーンなど、欧米からやって来たジャパノロジストが著した日本の幕末・維新に関する記録や論考を紹介してきたが、今回は岡倉覚三(岡倉天心)の著作を取り上げたい。日本人が日本語で著した幕末・維新史に関する書籍は山のようにあるが、日本人が英語で海外に向けて発信する幕末・維新に関する著作はそれほど多くない。それだけに不思議な新鮮さがある。海外に出向いて行った日本人と、日本にやってきた外国人という視点の違いを共通言語である英語で表現すると、その比較が新鮮なのである。母国語が日本語である場合、外国語で思考し、表現するという行為は、自分の中で日本語で形成した既存の知識や経験、思索を、再整理して定義し直すという行為が伴う。それが新たな視点や表現を生み出すということがある。

岡倉覚三は、幕末、開港後の横浜で越前藩士の家に生まれた。天心は雅号であるが、生前は自らを「岡倉天心」と称したことはなかったし、人からもそう呼ばれることはなかったという。のちに東京美術学校設立、校長就任、日本美術院創設。ボストン美術館中国・日本美術部長などを歴任し、近代日本の美術史学研究の祖ともいうべき人物。また思想家、美術史家、美術評論家として明治以降の日本美術の概念の成立に貢献した。その巧みな英語力を活かして、東洋文明、なかんずく日本文明について海外に発信した。

この「日本の目覚め」:The Awakening of Japanは、初めて渡米する途上の船中で英語で述作され、1905年にニューヨークのThe Century Co.から出版された。1907年の「茶の本」:The Book of Tea、1901年の「東洋の理想」:The Ideals of the Eastとともに英語で書かれ、アメリカ、イギリスで出版された代表的三部作の一つである(この他に未発表の原稿が没後見つかっている)。ちなみに彼は英文による著作以外は残していないので、この三部作がいわば「岡倉覚三著作全集」といえよう。「日本の目覚め」は、日露戦争をめぐる国際世論の攻防に、日本文明の源泉を辿り、明治維新とは何かを説き、当時流布されていた西洋における「黄禍: Yellow Perill」の妄説を論駁した名著である。アメリカ大統領セオドール・ルーズベルトが愛読し、英米有力紙が取り上げ、書店での全米年間売り上げ第4位を達成したいわばベストセラー書である。村岡博氏の日本語訳が岩波書店から、また筑摩書房からも訳本が出ている。日本人の著作の日本語訳、これもまた奇妙な感じがするが。

以下にその中で取り上げられた、明治維新と日本について解説した興味深い論考を整理してみた。我々が日本史の教科書や歴史小説で知る幕末/維新史の解説と、当時の西洋人に向けた英語での解説の差異に注目してみたい。


第一の論考:The Voice from Within: 内からの声

暗く長い夜に佇んでいたアジア、鎖国というChrysalis:繭の中でまどろんでいた日本の目覚めを引き起こしたのは西洋人であったと考える人が多いが、その真因は日本のウチにあったと論ずる。ペリーが黒船を率いて浦賀にやってきた時には、すでに日本人の「国民意識」が覚醒し始めていた時期であった。すなわち、鎖国の江戸時代を通じて三つの思想流派の合流が起きていた。これが維新の成就に大きく影響を与えたのだという。

① 徳川官学である朱子学に抵抗する「孔子の原典に還れ」という古学派思想の勃興。 荻生徂徠、山鹿素行など、徳川朱子学の異端であり、彼らは江戸から追い払われ地方に逃れた。

② 陽明学、すなわち「知を行為に実現すべし」すなわち「知行合一」という王陽明の教えこそ重視すべき。近江の中江藤樹、備前の熊沢蕃山 大坂の大塩平八郎など 徳川官学から異端とされ、弾圧され主流になりえなかったが、のちの維新をリードする薩摩や長州で受け入れられた。吉田松陰などによって若いサムライに大きな影響を与えるようになった。しかし儒教は、その基本が時の権力に服従することを是とするため、これだけでは維新の力にはなり得なかった。

③ 次に、国学の勃興が神道の復活を促したとする。契沖、本居宣長、村田春海、頼山陽による、文献学、日本古代学研究が盛んになる。仏教や儒教といった外来の思想からの脱却 祖霊崇拝、八百万の神々、万世一系の天皇への忠節とその統治正当性の承認。神国日本という国粋思想が彷彿と湧き起こり始める。すなわちインド、中国の思想への盲従からの解放という考えが若いサムライや浪人の目を開いた。忠誠を尽くすべきは徳川将軍ではなく天皇である。日本を創造し統治してきたのは天皇であると。徳川御三家の水戸侯や親藩の越前侯、外様大名に浸透していった。彼らが尊王運動を主導し王政復古の使徒となった。最後の将軍、慶喜も水戸侯の子である。


第二の論考:The White Disaster: 「黄禍」論に対する「白禍」論

日清、日露の戦役の輝かしい日本の勝利が、西洋の称賛と、一方で警戒感を湧き起こしている事態を見て、彼は次のように主張する。日本は歴史的に侵略の意図を持って他国の領土を侵したことはない。自衛以外は全く平和維持を希求してきた。それは自足的な農業文明のゆえであって、シベリア大陸の草原を駆け巡る騎馬遊牧民的な野生とは異なる日本文明の本性に根ざすものである。この両戦争の原因は、朝鮮問題にあり、さらに100年ほど前にロシアが日本の領土を侵した露寇事件に始まる。ペリー艦隊の江戸湾来航のずっと以前からあるロシアの伝統的な対外拡張主義政策は日本の脅威であり続けた。したがって今回の戦争はロシアの満州支配、朝鮮支配の意図を隠さない膨張主義が原因である。日本は自衛のための戦争をやらざるを得なかったのだと。朝鮮は歴史的にも日本の属国であった。だが日本の古代からの融和的政策からその支配を放棄したのだと解説する。その論拠として神功皇后の三韓征伐を引用するなど、今となっては否定される歴史観が披瀝されてもいる。ただ主張の根本は、西欧列強のアジアへの武力侵攻、経済的支配など帝国主義的な圧迫こそが、アジア諸国にとっては脅威であり破壊であるという認識である。インド然り、中国然りである。古代からの東洋文明の発祥の地を現在の有様にしてしまったのが遊牧民タタールの野蛮であり西欧文明である。しかし極東の島国、日本にはこうした大陸から伝来した東洋思想・文明が保存され、天照大神以来の日本固有文明と融合したからこそ、西欧文明に対抗して明治維新が可能となったのだと。現代の視点で見ると、明治の皇国史観による偏りと言わざるを得ないが、その根本においては、一方的な西洋文明優位論(西洋におけるそれとともに、明治以降の日本の西洋文明偏重)に対して、東洋の悠久の歴史とその文明の優位性を忘れてはならないということ強く主張している。産業資本主義が物質的な欲望と合理主義による機械化を推し進めるならば、それは東洋的な価値観にとって福音となるよりは害をなすことすらあると考えた。ゆえに当時、西洋諸国に流布されていた中国、日本などのアジア人による「黄禍:Yellow perill」論に対して、彼はその妄言を嘲笑い、肥沃な大河流域に暮らす中国人や、海に隔てられた島国で長い微睡の中で暮らしていた日本人が、なぜヨーロッパに脅威を与えなければならないのか。かつてのような戦闘的遊牧民の跳梁跋扈(タタール、モンゴル帝国、コサックのような)があるとすれば、それはロシア帝国内のシベリア草原にこそあるのではないか。東洋の視点で見るとむしろ西洋によるアジア侵略、すなわち「白禍:White disaster」こそが脅威であり、アジア各国における「攘夷」すなわち排外運動が湧き起こる背景には「白禍」があることは自明である。なぜ西欧はそれに気づかないのか。そしてなぜ西洋と東洋はお互いに尊敬し合い、ともに共存する二つの文明であるよう努力しないのかと。いつになったら戦争ではなく文化で尊敬されるようになるのか。これは富国強兵一本槍に傾斜してゆく日本の近代化政策への警鐘でもある。こうした主張は、こののちに著される「茶の本」でも披瀝されている(下記引用参照)。そこでは、「茶」を通して東西文明が融合した歴史も紹介されている。「Cha, if by land, Tea if by sea」

岡倉覚三「茶の本」村岡博訳より。

「西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国とみなしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行い始めてから文明国とよんでいる。」......「もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとすれば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。」


第三の論考:Restration and Reformation: 王政復古と改革

明治維新については、その大容を次のように説明している。日本は古来、インド文明から伝わった仏教思想、中国文明から伝わった儒教思想を受容し、そして日本固有の神道思想が日本を形造り、それらの外来文明の咀嚼と変容により内部に力を蓄えたからこそ、260年に及ぶ徳川絶対王政を打倒し、650年にわたる武士中心の封建的諸制度、特権を破壊し、黒船来航にも自己を見失う事なく、列強の脅威にも耐えて、討幕運動の内戦状態にあっても外国の軍事介入を阻止して新国家を樹立できたのだと。それが明治維新なのだと。すなわち西欧列強の思想と圧力が明治維新を起こしたのではないと主張する。近年の憲法制定や議会の招集といった西洋からやって来たとする民主主義的な思想、制度ですら、日本においては、天皇の御心から出たもので、東洋の伝統に則った歴史的な思想受容の付加的(accretion)所産であって、その中に生まれたものであるという。したがって王政復古:restoratinという、一見時代錯誤に見える政治的ムーブメントが、革新:reformationに繋がったのだと。要すれば、こうした変革は西洋からきた思想や近代産業によって起きたのではなく、それがきっかけではあったが、東洋思想や日本独自の思想の蓄積によってなされたものだとする。

こうした岡倉覚三の主張は、彼の東西文明の深淵に関する豊かな知識、それに基づく弁舌爽やかな論説にワクワクと愛国心を掻き立てられる。しかし、その根本にある「文化で評価され尊敬される国」になるべきであるとする彼の主張が、その後、むしろ彼が危惧した通り、「戦争により評価されるような一等国」になってゆく事態を、どのようにとらえたのであろう。また今となっては、万世一系の天皇への忠誠と神国日本という「日本文明の独自性」が日本の革新の源泉であり強みであるという主張。まして民主主義、自由主義が天皇の御意になるという主張については違和感があり、その後の歴史を知る者にとっては受け入れ難いところである。日本の革新が、なぜ古代の支配者である天皇を再び政治の表舞台に引っ張り出す「王政復古」という形でなされなければならなかったのかを説明しようとしたものであろうと考えたい。あるいはインドや中国などのアジア諸国とは異なる「日本文明の独自性」を強調しようとしたのであろう。この辺りの議論は日露戦争勝利を取り巻く国際世論の賞賛と警戒、日本人の手放しの高揚感、西洋式近代化礼賛。それ等に対する日本の「国学的知識人」の苛立ち、反論と警鐘という空気を知ることができて興味深い。以前紹介した外国人ジャパノロジスト達の、「王政復古」についての冷めた理解(封建領主の一人である「Tycoon:タイクン」から。忘れられていた「Mikado:ミカド」への政権交代)とは異なる主張である。換言すれば、これは維新成就から35年余を経た「今」振り返る「尊王攘夷思想」の「今日的」解釈と言っても良いかもしれない。


第四の論考:Reincarnation and Peace:再生と平和

また、彼は工業主義の俗悪性と物質主義の狂躁は、日本の芸術にとって有害であると断じている。「万事が競争」は多様性を生み出すのではなく、単一性しか生み出さない。そして「安ければ良い」ということが「美しさ」に取って代わる。忙しく競い合うことの「合理性」が、理想の結晶:crysralization of idealsに必要な「余暇:leisure」を享受する余地を与えない。かくして日本の芸術は近代功利主義に損なわれ、その独自の個性に有害な影響を与えるだろうと憂えている。これはこと芸術に限った話ではなく、「強欲な資本主義」、「経済合理主義優先」の弊害が叫ばれる現代に通じる論考であろう。もとより経済合理性と芸術は相容れない。洋の東西、時代を超えて「合理性」の意味を不断に考える必要があることを示唆している。

一方で、日本人は、これまでの長い歴史の中で繰り返し押し寄せてくる多様な外来思想に洗われながらも、常に自己の本性に忠実であり得た。この民族的な資質があったればこそ、最近の西欧思想の大襲来にも、自己を見失うことなく対処できたのだ。そのような日本の自由と活気が、インド、中国ではすでに失われてしまったものを日本で保管し、保持し続け、総合的に消化して理解する資質を育てた。こうした日本文化が持つ外来文化の受容と変容の伝統、それが日本の強みであるとする理解はこの頃から共有され始めたのであろう。この「受容」と「変容」の伝統は今でも日本人の特質だと考えられているが、ここれが他のアジア諸国とは異なる「日本の強み」という主張は、当時の西欧列強諸国を、あるいは西欧文明礼賛一辺倒の日本を意識して述べられたものであろう。しかし、これがのちに「大和民族の優越性」だとか、「八紘一宇」「神国日本」などという選民思想に変質し、国粋的な思想へと傾斜してゆく姿を、この時の彼はまだ想像できなかったであろうか。あるいはそれを是認したのであろうか。それが戦争に突き進む「一等国」の道につながるとは想像しなかったのか。

最後に、一体戦争というものがいつ無くなるのかと問う。西欧では国際道徳が、個人道徳の高さに遠く及ばないところに残されたままであるという。あの自己犠牲の騎士道精神はどこへ行ってしまったのだと嘆く。しかし、これは外国人ジャパノロジストが一様に日本の武士道精神を維新大業の基礎となる精神だとし、自国の騎士道精神の衰退と比較して礼賛するのとは異なる視点であろう。侵略国に一片の良心もなく、弱小国を迫害し、収奪し、自立・自衛できない者は奴隷にする。頼むに足るものは未だに剣のみである。爆弾と病院、キリスト教の愛と帝国主義、平和のための軍備拡張。日本の王政復古の理想はこのような矛盾に満ちたものではない。維新革新の目標はそこにはない。「武士道精神」よりは「茶の湯精神」としたのは、この後の著作「茶の本」においてであり象徴的でもある。東洋の夜はようやく明けようとしているが、世界はまだ黎明期にある。西欧は我々に戦争を教えた。彼らは一体いつ平和の恵みを学ぶのだろう。しかし、後世の歴史を知る我々から見ると、日露戦争以降、加速してゆく富国強兵、軍国主義的な傾向、アジアが非難したはずの「白禍」を日本が行う。そしてついにはその破綻という日本の近未来を見なかったことは彼にとって幸いだったのであろう。「戦争を教えた西欧」に追随してしまった日本を彼は彼岸でどのように論考し解説するのだろう。彼の思想の不可解さでもある。


私的総括

今回、岡倉覚三の「日本の目覚め」を読んで感じることは、彼が、総体的に西欧諸国に向かって「日本はこうである」と主張、解説している点は、一方では、うちに向かって「こうあるべきである」とする主張につながっているように思う。日本の伝統を置き去りにして極端な近代化政策、富国強兵策に突き進む日本の現状に対する懸念と危機感の表明である。彼は、本書の読者として日本人をあまり想定していないのかもしれないが、行間に滲むメッセージにはそういうことを読み取ることができる。それはこの後に出された「茶の本」により明確に表現されている。それにしても、日本の文化、思想を英語で、米英の出版社からで海外に向けて発信することが思ったより希少であり、それゆえに重要であること改めて感じた。それは単に英語が上手い、などというテクニカルの問題ではなく(いやそれも極めて重要な問題であるのだが)、論考の背景にある東西文明に対する広範で奥深い知識、日本文明に関する理解と、独自の洞察力に裏打ちされた明確な主張があることである。グローバル・ボーダーレス時代、インターネット時代であれば尚更、このような国境を越えた発信と双方向コミュニケーションのハードルが低くなっているはずなのだが、それが現代の日本人にできているのだろうか。明治の頃の先人たちは、知識の吸収にしても情報発信にしても、当時日本が置かれていた困難な状況をなんとか打破しなければという強い問題意識とハングリーな精神が横溢していたように思う。岡倉覚三の著作の英語表現とその知性に、明治人のパッションを感じる。いつの間にか我々日本人は、どこかにハングリー精神を置き忘れてきたのではないか。世界を見る視座を、問題意識を、そして自らの意見を失ってしまったのではないか。知性へのパッションを忘れてしまっているのではないか。当時にしても、それほど多くそのような知識人がいたわけではない。岡倉天心、内村鑑三、鈴木大拙、新渡戸稲造くらいかもしれないが、確実にいた。 残念ながら、日本語でいくら書いても世界には伝わらない。せいぜい海外の日本研究者、ジャパノロジストの関心に引っ掛かれば、彼らの卓越した語学力とセンスによって翻訳されて紹介されるだろう。まさに「ガラパゴス」とはこのことだ。かく言うこのブログもそうだ。Googleの英訳ソフトもまだまだだ。AIなどのテクノロジーは思いの外当てにならない。かといって自分の英語表現には自信がない。「日本の目覚め」はまだ遠いのか。


参考年表:主としてWikipedia、岡倉古志郎氏の記述による

岡倉覚三(岡倉天心)1863年(文久2年)〜1913年(大正2年)

1863年(文久2年)開港場である横浜で福井藩士の家に生まれ、維新後東京に移る。

1875年((明治8年)東京外国語学校、東京開成学校(東京帝国大学)で政治学、理財学を学ぶ。

1881年(明治14年)英語が得意でアーネスト・フェノロサの助手となり。日本美術品の収集、保存にあたる。

1884年(明治17年)フェノロサと法隆寺夢殿の秘仏「救世観音菩薩像」の調査を行う

1886〜1887年 文部省美術取調べ委員団の一員として、フェノロサとともに欧米視察(東京美術学校設立のため)日本の影響を受けたアール・ヌーヴォーに触れる。

1890年(明治23年)東京美術学校校長 副校長はフェノロサ

1893年(明治26年)清朝末期の中国を視察

1894−1895年 日清戦争 下関条約 三国干渉

1898年(明治31年)醜聞のため美術学校長を辞任に追い込まれる。教え子の橋本雅邦、横山大観らと日本美術院創設

1901−1902(明治34−35年)インド周遊 タゴール、ヴィヴェーカーナンダ、ニヴィディッタ等と交流

帰国後ビゲローと交友関係

1902年(明治35年)日英同盟締結

1903年(明治36年)ロンドン、ジョン・マレー社から、The Ideals of the East- with special reference to the art in Japan出版。「東洋の理想」発表。

1904年(明治37年)ビゲローの紹介でボストン美術館中国・日本美術部に。ボストンと日本を行き来する生活に。この頃、茨城県、五浦にアトリエ、六角堂を構える。

1904−1905年 日露戦争 ポーツマス条約

同年、The Awakening of Japan「日本の目覚め」をニューヨーク、ロンドンで出版

1906年(明治39年)The Book of Tea「茶の本」をニューヨークで出版

1910年(明治43年)ボストン美術館中国・日本美術部長に就任

1910年(明治43年)韓国併合

1911年(明治44年)帰国

1912年(明治45年)明治天皇崩御 大正へ

1913年(大正2年)新潟県赤倉温泉の別荘でで死去


2024年3月18日月曜日

皇居三の丸尚蔵館「皇室のみやび」第3期展覧会を鑑賞 〜5番目の国立博物館誕生〜




昨年11月に皇居東御苑内にオープンした「皇居三の丸尚蔵館」を訪ねた。ここは平成元年(1989年)に上皇陛下と香淳皇后から、皇室に代々受け継がれた美術品が国に寄贈されたことを機に、平成5年(1993年)に開館した三の丸尚蔵館がその基となっている。開館30周年を機に、施設を拡充することとし、昨年10月に管理・運営が宮内庁から独立行政法人国立文化財機構に移管された。東京、京都、奈良、九州に次ぐ第5番目の国立博物館になった。展示面積はこれまでの160平米から690平米に拡大され、2026年(令和8年)の全面開館時には1300平米へと大幅に拡充される。 収蔵庫面積も大幅に拡大されるという。

その開館記念に、昨年11月から「皇室のみやび」展が開催されており、その第1期「尚蔵館の国宝」、今年一月から第2期「近代皇室を彩る技と美」、そして3月12日の今回の第3期「近世の御所を飾った品々」、そして第4期は5月21日から「三の丸尚蔵館の名品」が開催される。入館はネットでの日時指定予約が必要。入館料は一般1000円(70歳以上は無料)。ミュージアムショップなどの施設はまだオープンしていないが、図録は販売している。皇室の貴重な美術品のほとんどが写真撮影OKであるのが嬉しい。

今回、第3期は、京都御所に伝わる品々を展示している。国宝の藤原定家「更級日記」写本(鎌倉時代))が展示されている他、藤原行成の「雲紙本和漢朗詠集」(平安時代)、伝狩野永徳の「源氏物語図屏風」(江戸時代)、狩野常真「糸桜図簾屏風」(江戸時代)などが展示されている。源氏物語ゆかりの品々が並んでいるのが楽しい。こうした皇室の貴重な美術品の数々、歴史的に重要な資料が公開され展示されることは大歓迎だ。皇居東御苑は外国人観光客の人気のスポットだが、そこに皇室由来の逸品を鑑賞できる新たな国立博物館が加わることになる。2年後の全面開館が待ち遠しい。



新装なった部分。右手の旧館は取り壊されて改築中

旧三の丸尚蔵館
現在は取り壊さている

散手貴徳図衝立 狩野永岳 (江戸時代)




以前に比べ展示室が2箇所に増え、それぞれ広々としたスペースでゆったりと鑑賞できる。



以下に、撮影が許可されている作品の中からピックアップしてご紹介したい。「近世の御所を飾った品々」、どれも京都御所伝来の逸品である。こうした「禁裏」に伝わる名品が誰でも鑑賞できる時代になった。

国宝 藤原定家写本「更級日記」
藤原定家は自身も認める悪筆だという。

雲紙本和漢朗詠集 巻上」伝藤原行成(平安時代)
能筆三蹟の一人藤原行成の字は流石に達筆。達筆すぎて読めない。

「糸桜簾屏風」狩野常信(江戸時代)
簾になっておりこの向こうに平安美人画が設られている。


「源氏物語図屏風」伝狩野永徳(江戸時代)
若紫の場面

「四季図屏風」渡辺始興(江戸時代)

古歌屏風」八条宮智仁親王(桃山時代)


「北野天神縁起絵巻」(室町時代)
子供の道真が父に「自分の父となるように」と告げに来たところ
道真が人ではなく神であることを示唆する場面だとか

「菊花流水蒔絵厨子棚」(江戸時代)

「尾長鳥・小葵蒔絵鉄刀木小箪笥」(江戸時代)
一橋徳川家からの献上品


「菊花散蒔絵十種香箱」(江戸時代)
香道のお道具一式



「蔦細道蒔絵文台・硯箱」(桃山時代)
蒔絵の硯箱と同じ蒔絵の文台のコラボレーションが見事
伊勢物語に題材を取ったデザイン


菊花流水蒔絵歌書箪笥(江戸時代)
持ち手がついた和歌の冊子を収納する引き出し

「箏 銘 團乱旋」(室町時代)

「笙 銘 錦楓丸」盛尊(鎌倉時代)



龍笛 銘 春鶯啼(平安時代)


(撮影機材:Nikon Z8 + Nikkor Z 24-120/4)



2024年3月15日金曜日

「アーツ・アンド・クラフツとデザイン展」探訪 〜ウィリアム・モリスの系譜を辿る〜

展覧会図録
大阪大学名誉教授藤田治彦氏の解説
モリス肖像と代表作の一つ「格子垣」(1864年)





千葉県立美術館で開催されている「アーツ・アンド・クラフツとデザイン」展(1月30日〜3月24日)を観てきた。これはブリティッシュ・カウンシルの後援、日本における早くからモリス展を企画してきたブレーントラストの企画協力で、去年4月の松本市美術館を皮切りに、久留米市美術館、そごう美術館、山梨県立美術館、そしてここ千葉県立美術館で締めくくりとなる巡回展である 

モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動だけでなく、その影響を受けたアメリカにおけるティファニーなどによるムーヴメント、そしてフランク・ロイド・ライトの建築に受け継がれたデザインまでを展示している。また千葉県立美術館の独自企画として、「千葉とアーツ・アンド・クラフツ」として千葉ゆかりの浅井忠、豊田勝秋、高村豊周の作品も展示されている。

今回はモリスとモリス商会作品とアーツ・アンド・クラフツ展覧会協会のメンバーの作品を中心に見て回った。特に、古書ファンとして見逃すことができないのは、ケルムスコット・プレスの私家本原本5点が展示されていたことであった。この貴重なヴェラム装の原本を見ることができたことは大きな収穫である。また、我が家が長年のファンであるロンドン・リージェント・ストリートのリバティー商会や、ニューヨークのティファニーグラスの作品も一部展示されており、さらにはフランク・ロイド・ライトの建築にも触れている。一連のモリスの系譜を俯瞰できる展示であった。

また今回の展示には含まれていないが、モリスはロンドンの下町で現在も活動を続けている古建築保護協会(1877年創設):SPAB(The Society for the Protection of Ancient Buildings)の創設者である。この協会は、建築家、美術家、デザイナーなどのメンバーが運営しており、歴史的な古建築の保存に関して、「破壊的な修復」に反対するAnti-Scrapeを唱え、対抗することを目的とした活動を行っている。1895年に設立されたナショナル・トラスト:National Trustの活動に各種の協力と助言を行なっている。「破壊的な修復」どころか、「完全破壊」してしまう国に住まうものとしては、このような活動が続き、歴史的建築遺産を守り続けているイギリスは羨ましい国だ。モリスのレガシーがここにも生きている。

以下に、個人の好みでいくつかの展示作品を選んでみた。


(1)ウィリアム・モリス&モリス商会

ウィリアム・モリス:William Moris (1834-1896)は、オックスフォード・エクセター・カレッジに、最初は建築を学んだが、ジョン・ラスキの思想に影響を受ける。のちに社会主義団体を立ち上げる。またラファエル前派の画家、詩人のダンテ・ガブリエル・ロゼッティと知己を得て大きな影響を受け活動を共にする。親友のエドワード・バーン=ジョーンズとともにロゼッティに学び、レッド・ハウスで家具や内装の仕事を始める。やがてこの場所に生まれたのがモリス・マーシャル・フォークナー商会である。同商会は1861年設立されたが、やがて1875年にはモリス商会に改組される。

産業革命による大量生産で工芸品の質が低下することを危惧。中世のもの作り手法に範を求めて、手仕事による工芸の質的向上と技法の継承を目指した。また多くの職人が職を失い、彼らが単純労働に従事する工場労働者になっていくことにも強い危機感を持っていた。職人の手仕事の復興、保存を目指した。このように彼が目指したのは芸術・工芸復興運動であると共に、同時に社会運動の側面をも有していた。彼自身社会主義者であることを自認している。製品としては、当初は教会のステンドグラス製作などを中心としていたが、テキスタイル部門を強化し、織物やプリント、綿布、壁紙などの室内装飾に力を入れた。そして「アーツ・アンド・クラフツ運動」へと発展してゆく。


代表作の一つ「いちご泥棒」(1883年)

「るりはこべ」(1876年)


「ガーデン・チューリップ」(1885年)


「フリトレイリー」(1885年)


キャビネット(1900年頃)と肘掛椅子(1890年頃)

暖炉の衝立(花の鉢)(1890年ごろ)
ゴブラン織



(2)アート・ワーカーズ・ギルドとアーツ・アンド・クラフツ展覧会協会

1884年に、芸術作品や工芸、建築に携わる職人のアート・ワーカーズ・ギルド:The Art Workers Guildが、モリスの盟友で画家のエドワード・バーン=ジョーンズを中心に、ウェッブ(建築)、ウィリアム・ド・モーガン(陶芸)、W.A.S.ベンソン(ランプ)、それに社会主義芸術運動を提唱したウォルター・クレインなどが参加して立ち上げられた。当初は総合芸術、ないしは合同芸術(Combined Arts)と称していたが、美術と工芸(Arts and Crafts)の名を冠した。のちに、このトレンドを作ったモリスも参加し、こうして「アーツ・アンド・クラフツ運動」が始まった。

そして、このアート・ワーカーズ・ギルドメンバーが中心となり、その下部組織としてアート・アンド・クラフト展覧会協会:The Arts and Crafts Exhibition Societyが1887年設立。
その翌年には、デザイナー、工芸家、建築家たちによる合同芸術(Combined Arts)を、美術と工芸(Arts and Crafts)と命名した展覧会を開催。以降、毎年ロンドン・リージェント・ストリートのニュー・ギャラリーで開催されることとなった。しかし、次第に頻繁な開催に伴う作品の質の低下が見られるようになったので、1893年にモリスが会長に就任してからは3年に一度の開催とし、作品の質の向上に努めた。その成果もあって優れた製品/作品が登場するようになり、ここから多くの工房作家や事業家が生まれ育ち、モリスの系譜を引くイギリスの、いや世界のアーツ・アンド・クラフツ運動の揺籃となる。しかし、こうした手仕事による工芸品は、機械化された量産品に比べ高価になり、皮肉にもその運動の理念と裏腹に、徐々に庶民の手の届かないものになっていったことも否めない。




「ポピー」C.F.G.ヴォイジー(1895年ごろ)


「夏」ウォルター・クレイン(1870年)


蓋付きマフィン銀皿(1900年ごろ)
チャールズ・ロバート・アシュビー
ギルド・オブ・ハンディークラフト


銀ボウル(1915年)
エドワード・スペンサー

置き時計(1900年ごろ)
アーチボルト・ノックス

銀製宝石箱(1900年ごろ)
アルバート・エドワード・ジョーンズ

銅製小箱(1904年)
ジョン・ピアソン

ボウル
ウィリアム・バトラー
ジェームズ・パウエル・アンド・サンズ
モリスの依頼を受け、中世ステンドグラスの色再現や伝統的吹きガラス手法を用いた美しい作品を生み出した


ボウル
ウィリアム・バトラー
ジェームス・パウエル・アンド・サンズ


扇形カットグラス花器
ジョン・ウォルシュ・ウォルシュ
バーミンガムのガラス工房 装飾ガラス、カットガラスの
製品で人気

ワセリンガラス花器
ジョン・ウォルシュ・ウォルシュ




(3)リバティー商会

こうしたロンドン・リージェントストリートのニュー・ギャラリーを拠点としたアーツ・アンド・クラフツ展覧会は、イギリスやアメリカにおける運動の展開をさらに促し、先に紹介したジェームス・パウエル・アンド・サンズ、ジョン・ウォルシュ・ウォルシュ、ジェームス・ディクソン・アンド・サンズなど多くの工芸家や、工房、事業家を生み出していった。その一つがリバティー商会である。1875年にアーサー・ラセンビー・リバティーによって設立され、モリスの製品も販売したが、自らの工房を持ちモリスのライバルでもあった。やがて他の作家や工房の製品も扱い、テキスタイル、ファッション、家具、金工、陶芸、グラス、グラフィック等、さまざまな制作と販売を手がけるようになった。展示されているアーチボルト・ノックスの銀、錫製品もリバティーを代表する製品である。ロンドンのリージェント・ストリートのニュー・ギャラリーの向かいにリバティー商会百貨店を開業し、現在の独特のハーフチェンバー洋式の建物は1924年に建てられた木造の歴史的建築である。まさにその建物に象徴されるように、店内を歩くとギシギシと床が軋む独特の雰囲気の百貨店はArts & Craftsのワンダーランドと言って良いだろう。またリバティー商会は日本や中国、インドなどアジアの美術、工芸品を輸入し、ジャポニズム、シノワズリ、オリエンタルのトレンドセッターとなっている。今でも日本人観光客に人気のリバティープリントが有名。



リバティープリント

ピューターとエナメルのティーセット(1900年ごろ)
アーチボルト・ノックス
リバティー商会の主要デザイナーの一人
銀製品よりも安価なピューター製品を得意とした


(4)ケルムスコット・プレス

モリスは1888年の第一回アーツ・アンド・クラフツ展覧会で、エメリー・ウォーカーの「文字の印刷」という講演を聞き、以前から装飾本やカリグラフィー制作に強い興味を持っていた彼は、大きな刺激を受けた。モリスの書籍制作の熱心な誘いにも関わらず彼女の協力は得られなかったものの、折々の指導を受けて、1891年に、モリスはハンマースミスの自宅ケルムスコット・ハウスにケルムスコット・プレスを設立。自ら印刷機を持ち込み出版事業を始めた。私家版印刷工房であり、まさに芸術作品、工芸品と言って良い美しい限定版の書籍を次々と生み出した。

彼は、理想の書籍として、次の三要素を重視した。

① 選び抜かれた活字しか用いない。このために自ら中世の書籍の活字に範をとり、ゴールデン活字、トロイ活字、チョーサー活字を生み出し、無駄のない簡素な活字体にこだわった。

② 美しい用紙、耐久性と見た目の質感を重視する。手漉き紙、リネン紙、どうさ紙(インクが滲まない紙)を選び、表紙にはヴェラム(羊皮紙)を使った

③ 版面レイアウトに拘る。中世の写本、印刷本の「余白の法則」を活かした字間、語間、行間を注意深く取り入れた。

こうして53点、67巻、1万8千部以上の本を出した。時々、美術館などで展示を目にすることもあるが、古書業界では稀覯書として、高値で取引されている。従来の古書の概念を超えた工芸作品としての価値が評価され、年々その人気がエスカレートしているようだ。今回展示されていたのは5点だが、まだまだ多くの彼の作品が古書市場に潜んでいるに違いない。ただ残念ながら庶民の手の届くところにはなさそうだ。


「ユートピア便り」(1892年)
22世紀のロンドンを旅するというファンタジー。モリスが描いた理想郷。15世紀イタリアの活字をもとにして生み出したゴールデン書体。挿絵はモリスの別荘ケルムスコット・マナー

「ダンテ・ガブリエル・ロゼッティのソネットと抒情詩」(1893年)
ロゼッティの詩に大きな影響を受け、彼としばらく同居していた。


「サミュエル・テーラー・コールリッジ作品集から詩選集」(1896年)


「クースタンス王と異国の物語」(1894年)と「アミとアミーユの友情」(1894年)
ここに展示されていないがチョーサーの著作もある



千葉県立美術館とその周辺



県立美術館エントランス

千葉ポートタワー





(余談)
話は変わるが、ここ千葉みなと公園エリアに立つと、初めて来たのに不思議なデジャヴを感じる。いや、この景観、佇まいをどこかで見たことがある。そう。我が故郷、福岡の「シーサイドももち」である。福岡タワーがシンボルタワーとなったベイエリアの海浜公園、すぐ隣に福岡市立博物館などの文化施設とオフィスビル、マンション街。福岡ドームとホークスタウンを遠望する。千葉ポートタワー。県立美術館、市役所、千葉ロッテマリーンスタジオ遠望..... あれと生き写しだ。もちろん千葉市と福岡市はその成り立ちや、歴史、気候風土、立地も異なるが、このベイエリアだけは、びっくりするほどよく似ている。驚いた!一瞬福岡へワープしたかと思った。


福岡タワー