2024年5月21日火曜日

不干斎ハビアンとは何者か? 〜信仰か理性か? 棄教者か近代比較宗教学の祖か?〜

不干斎ハビアン「破提宇子」(はでうす)
東洋文庫ミュージアム「キリスト教交流史」展示


昔男ありき。不干斎ハビアン(梅庵、あるいは慧春/恵俊)という。大徳寺の禅僧であったが、キリシタン布教全盛の時代にキリシタンに改宗しイエズス会に入会。洗礼名はハビアン。高槻のセミナリオ、臼杵のノビシャド、加津佐のコレジオで研鑽を積んで日本人修道士(イルマン)となり、イエズス会の日本での布教の理論的主柱として活躍した人物である。1565年(永禄8年)加賀の生まれ。室町幕府の終焉の時期、織田信長の時代である。1603年(慶長8年)京都下京の教会に赴任。1605年(慶長10年)京都でキリシタン布教の書『妙貞問答』執筆。しかし 1608年(慶長13年)突如、修道女とともに出奔。イエズス会脱会、棄教。その後、大阪や奈良、博多に潜伏していたようだが、晩年は禁教の側のイデオローグとして活動する。1619年(元和5年)江戸に下向し二代将軍秀忠に謁見。翌年1620年(元和6年)長崎奉行長谷川権六の勧めでキリシタン批判の『破提宇子』(はでうす)を出す。その翌年の1621年(元和7年)長崎に没す。

彼はキリシタン布教と護教のために『妙貞問答』を著し、仏教、儒教、神道を痛烈に批判する。しかし一転、棄教後の晩年には『破提宇子』を著し、キリシタンを徹底して批判する。「神も仏も捨てた宗教者。世界に先駆けて東西の宗教を相対化して解体してみせた人物」(釈徹宗)などと評されるが、しかしてその実像は?彼の著作は何を語っているのか?


『妙貞問答』の論点

仏教批判、儒教批判、神道批判を展開しキリシタン信仰の正当性を論じた書である。妙秀と幽貞という二人の尼僧が問答する形態(幽貞がキリシタンで、仏教徒の妙秀の問いに答える)で論議が進められ、上巻で仏教を批判し、中巻で儒教/道教と神道を批判、下巻でキリシタン教理の正しさを説く。イエズス会からは重要な布教書として取り上げられ、ハビアンは日本における布教のイデオローグとして重視された。ハビアン自身も執筆に参画したと言われるヴァリニャーノの教義書「日本のカテキズモ」、また翻訳に参加したのではと想定される教義書の原典「どちりな・きりしたん」がベースになっていると考えられている(海老沢有道説)。本書『妙貞問答』に関して林羅山とも論争し、羅山から「この書を焼き捨てよ」と言われた。その論点を要約すると、

仏教:あらゆる存在や現象には実体がない。すなわち全ては「無」・「空」に帰する。ゆえに仏教に「来世の救済」はない。「来世」「極楽浄土」はなく、あるのは現世のみ。現世において悟りを得て輪廻の迷いから離脱することだ。全ての存在は人間の心が生み出したものである。仏も人間も本質は同じである。釈迦も阿弥陀仏も人間であって神ではない。従って仏教は絶対創造主の存在を語っていない。
問答の中で、「仏教には、現世で功徳を積む、あるいはただ一心に「南無阿弥陀仏」と唱えることで極楽浄土へ行ける、阿弥陀仏がお迎えに来てくれる、という「来世の救済」があるではないか」と、浄土宗の信徒である妙秀に反論させている。しかし幽貞は「それは誤りで、行き着くところは「無」であり、来世はない」と断ずる(釈徹宗は、ハビアンの仏教観は天台、真言、そして禅宗に偏っていて、浄土宗や浄土真宗を端折りすぎているようだとコメント)(仏教の極楽浄土について、阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩 当麻曼荼羅(イメージの力)「往生要集」源信 法然「南無阿弥陀仏」(言葉の力)菩薩面(お練り供養)

儒教:神を語らず現世の倫理、人の道を語るだけで来世の救済はない。「太極と陰陽」の考えは、万物は人の心の動きに他ならず、人間の心が生み出したものであるとする。この点で仏教と変わらない。これは道教も同じ(三教一致)である。しかし創造主の存在を語らないで天地の成り立ちの説明はつかないとする。一方で朱子学の説く「事と理と性と気」による徳の考えはキリシタンと通じると評価。

神道:天地創造を説いていない。すなわち天地はすでにあってそこから神が生まれ出てきた。人間の夫婦の性行為をアナロジーにした創世神話。この神々は人間の欲望の姿をしている。天照は太陽/日輪の素朴な自然信仰であり神ではない。したがって教えもなく来世の救済もない。 アジア/アフリカの未開の神々の物語と同様、「あり得なく汚らわしく滑稽である」。(キリスト教布教集団が伝統的に持つ根強い未開神話観の影響を受けている)。また、日本独自と言っているが日本書紀に描かれる神話ストーリーも儒教の影響を受けているとする。

キリシタン:日本の宗教には「絶対」という観念が存在せず全てが相対的である。「来世」「救済」について一神教のようなすっきりとした説明がない。しかも 仏教、儒教、神道「三教一致」と言っており、どれも創造主の存在を語っていない。したがって真の救いは、唯一絶対神、天地の創造主デウスのもとにあるキリシタンの教えにしかないと結論付ける。


『破提宇子』の論点

一方で、一転して晩年にキリシタン批判書として書かれ、イエズス会からは「地獄のペスト」として忌み嫌われたのが本書である。キリシタン禁教政策を進めた長崎奉行長谷川権六に協力、彼の勧めで著したとされる。日本の宗教の実情とキリシタンの実情を理解するハビアンだからこそ書けるとして、彼は布教から一転して禁教の理論的支柱となった。その論点を要約すると、

キリシタン批判のベースにあるのは「絶対」という傲慢への反感、いわば絶対の相対化である。 天地創造神話はキリシタンに特有のものではない。どの宗教でも語られている。
デウスを唯一絶対神と言いながら「三位一体(父:デウスと子:キリストと精霊)」でなければ救済を語れないではないか。(これはキリスト教に内包する矛盾であると言われている。「三位一体」を日本の布教では強調しなかったのは、その矛盾を避けるためであるとされる)
キリシタンにおいても神は人間の投影である。イエス・キリストも人間夫婦から生まれ、聖ヨハネ、聖パウロなど聖人も全て人間であり神ではない(これはイスラム教徒からも預言者キリストを神として扱っていると批判されている)。

キリシタンは仏教の「無」について正しく理解していない。仏の「無知無徳」こそが真実である。デウスの「諸善万徳」には、憎しみと愛の選択という人間の性が常に伴う。すなわちデウスは人間が作り出した神である。(19世紀の思想家フォィエルバッハは「神は人間の投影である」と「キリスト教の本質」1841年で論じたが、ハビアンはその220年前にすでに同じ結論に至っている)

「人間は他の生物とは起源を異にする別の生命体である」「人間は神が自分の姿に似せて造った」というキリスト教の人間観、生命観を批判し、「万物は事(現象)と理(本体)によって成立している」。それ以外の言説は人を惑わすだけであるとする。(仏教と朱子学、日本古来のアニミズムを習合した考えに立った人間観を提示している)

また、聖書の、人類の起源に関するストーリの矛盾を指摘し疑念を提示した。すなわち、なぜ人間はリンゴ(アマボシ)を食べただけで罪(原罪)を負わされ極楽を追われたのか。なぜ創造主デウスは自分が生み出したアダムとイヴを救済しなかったのか。しかも二人を騙したのは堕天使/悪魔ルシファー。その悪魔はデウスが生み出した。(書いてあることは論理矛盾だ)

全知全能の神デウスの救済は、天地開闢以来5000年、キリストの出現、復活から1600年と、6600年も経っているのに、なぜいまだに人間に届いていないのか。

最後に、唯一絶対神という思想は、君子や家父長の言うことを聞かないということで、日本の社会秩序を乱し、キリシタンは異教徒の国を滅ぼし征服するための宗教である(この辺りの言説は、この書を書かせた長谷川権六による示唆の影響か?)


ハビアンは変節の棄教者なのか

本人が自覚していたか否かは別として、彼の宗教観は、宗教者の「信仰」によるそれではなく、「理性」による合理的理解によるものであると感じる。そういう観点から、この二冊の著作に表された各宗教批判は、世界で初めて著された「東西宗教の比較宗教論」である。

ハビアンは元々禅宗(臨済宗)の修行僧であり、瞑想、公案のトレーニングを受けてディベートと比較手法を身につけ、すべてを相対化する指向性を身につけていた。一方でキリスト教の絶対なる中軸を学び、同時にキリシタン布教と共に入ってきた西洋文明の最新の科学的知見(大航海時代的な世界観)、合理的思考を学んだことから、仏教、儒教、神道を俯瞰し、批判的に分析する「外部の視点」を獲得することが出来た。この「外部の視点」の獲得は重要で、彼の思考の基層にあるものである。しかし、皮肉なことにその視点、合理的思考法は、今度はキリスト教に向けられることになり、その教義が批判的に分析され解釈されることとなる。『妙貞問答』で用いたロジックを『破提宇子』で写し鏡のように用いている。その過程でキリシタン教義の矛盾や誤りに気付き、そうした、いわば比較宗教学的アプローチが、先に批判した仏教教義の新たな側面の発見と理解につながる。結局、彼は宗教の本質に気づき、また絶対を相対化して分析、比較評価することにより「宗教とは何か」を論じたのである。彼は、そういう意味で世界でも最初の近代合理主義思想家であったのではないか。今から400年前、ヨーロッパにおける啓蒙主義時代の始まりより100年以上前に出現した「早すぎる近代合理主義者」であったと言えるかも知れない。あるいは、プロテスタントの「合理的視点」からのカトリック批判に通じる、一種のルターやカルバンのような宗教改革者の視点を持っていたとも言えるかもしれない。ただしこの頃のキリシタン教義は聖書が布教書になっていなかったし、プロテスタントの教義への理解(カトリックとの違い)もなかったであろうから、彼がプロテスタントの視点を持っていたとは思えないが。

宗教とは、世俗世界の外側を提示することによって「世俗を相対化」するものである。創造神、来世、前世、彼岸、霊界などの観念はその典型である。世俗世界と異なる価値体系を持つからこそ人は宗教に救済を求める。生と死の意味づけがなされる。来世をどのようなものと語るかは宗教の生命線である。したがってハビアンは来世をよく語らない宗教は宗教ではないし、救済がなければ信仰の対象とならないと考えた。とても論理的で、ある意味で合理的な宗教観である。この時代、仏教僧からキリシタンに改宗したり、またキリシタンを棄教するものも多く出た。その全員がこのような宗教の持つ世俗観、来世観への共感、あるいは反発により信仰したりそれを捨てたのかどうかはわからない。知識欲、交易動機であったり、一方で食い詰めてキリシタンになったり、権力者に強いられて入信したり棄教したり、宗教遍歴の動機はさまざまであったろう。ハビアンの場合も棄教の動機はいまだによくわからない。まだキリシタン禁教令が厳しくなる前であるので権力による棄教圧力はなかったであろう。修道女との出奔が原因であったとする説もあるが、飛びつきたくなるゴシップ話であるが、その後のハビアンのイエズス会への手紙(質問状)で、そのような事情は語られず、教義に関して深刻な疑問を感じたことが述べられており、それが棄教の原因だと思われる。また日本で布教活動に携わるパードレやイルマンへの疑心や、日本人信者に対する彼らの見方への不満があった節もある。ハビアン自身イエズス会で布教活動に重要な役割を果たしたにもかかわらず、パードレにはなれなかった。棄教後も洗礼名ハビアンを名乗り「破提宇子」を執筆しているので、イエズス会を脱会したが棄教はしていない、とする解釈もあるがこれはありえない。どのような事情があったとしても、少なくとも彼の二つの著作から読み取る限りは、彼の宗教に対する合理的理解(来世と救済の説明の合理性)から生まれた根源的な懐疑が、彼の棄教に大きな影響を与えたのだろう。信仰でなく合理的理解。この点で遠藤周作の「沈黙」で描かれたフェレイラ神父と彼を慕って日本にやってきたロドリゴの「信仰と棄教」という究極の葛藤とは異なる。遠藤周作のハビアン評価が低いのはそのせいか。

彼の「宗教に対する合理的理解」は、神話や聖書のストーリーの矛盾、非合理性を指摘する分析、評価手法、論旨に端的に現れる。理路整然としていて分かりやすい。今でもカルト的な宗教や霊能者の予言とやらを論破するときによく用いられるロジックである。これは信仰によるものではなく理性によるものである。先述の聖書におけるストーリーの論理矛盾の指摘などがそうである。あるいは日本書紀に描かれる神代のエピソードなども論理矛盾が多い。しかし信仰とはそのような矛盾なき論理的帰結によるものではない。非合理的なもの、超自然的なものこそ信じるのである。でなければ「奇跡」が信仰への導きになることはないだろう。彼は結局、信仰を持った宗教者というより、近代的科学としての比較宗教学の視点を習得した宗教者であった。いや最後には宗教者であることを捨てたのかもしれない。本人はそのような自覚はなかったかも知れないが、現代人の目にはそのように見える。また日本の宗教は、さまざまな外来宗教、思想を受容し、あらゆる信仰を相対化して取り入れ、咀嚼する(変容と言って良いか)「習合型」多神教の性格が強い。唯一絶対神の一神教のような宗教とは異なる。かつて「日本教」を唱えた山本七平は、ハビアンにその日本型多神教の祖型を見たと言っている。これに対し、釈徹宗は、ハビアンには日本の宗教の祖霊信仰という側面が欠けている。山本七平の「日本教」も同様であると批判している。ここまで見てきてなお謎多き人物であるが、それでも日本の思想史に画期を成した稀有な知性を持った知識人であったと言えるのではないか。少なくとも、キリシタン布教に大きな貢献をした日本人イルマンにして、晩節にキリシタン禁教側に回った変節の棄教者、などとして片付けるのは正しい評価ではない。

キリシタンの日本布教にあたって用いられた教義書や教養書については、2023年11月5日 キリシタン版「コンテムツス・ムンヂ」を参照願いたい。「カテキズモ」にも「どちりな・きりしたん」にも、今思えばそこにハビアンの姿が見え隠れする。彼の日本におけるイエズス会の布教活動への貢献は非常に大きかった。それだけに彼の棄教は衝撃的であった。それは単にキリシタン布教活動にとってだけではなく、神とは何か、宗教とは何かの問題を突きつけたという意味においても衝撃的であった。

注:「デウス」はラテン語のDeusを語源とし、父性を持った唯一絶対神を表す。キリシタン布教時にはその唯一絶対神を日本語の「神」と訳さずに「デウス」と訳した。布教当初には、日本人に理解しやすくするために、仏教的唯一絶対神の名を借り、大日如来の「大日」と訳した。ゆえに仏教僧侶や庶民からはキリシタンは仏教の一派だと誤解された。これはザビエルに付き従った日本人イルマンのヤジロウの間違った仏教理解(大日如来は唯一絶対神ではない)に基づく訳語で、のちに訂正された。


参考書:

釈撤宗「不干斎ハビアン 神も仏も棄てた宗教者」
遠藤周作「日本の沼の中で 殉教と棄教の歴史」「沈黙」
山本七平「日本人とは何か」「日本教徒」





東洋文庫ミュージアム展示
1868年(明治元年)刊行の復刻版である
まだキリスト教への警戒心があった時期の復刻である


東洋文庫ミュージアム展示
1592年刊行「どちりな・きりしたん」天草版


1600年刊行「どちりな・きりしたん」長崎本
ハビアンの著作の底本と考えられる



2024年5月11日土曜日

古書をめぐる旅(50)『The Tale of Genji ' Lady Murasaki :源氏物語』紫式部、アーサー・ウェイリー英訳版

Lady Murasaki The Tale of Genji

Arthur Waley (1889-1966)


今年のNHK大河ドラマ「光る君へ」の影響か、源氏物語がちょっとしたブームになっているようだ。テレビの歴史番組、旅番組や、ラジオの教養講座、SNS、ネット/リアル書店の古典、歴史コーナーには、源氏物語や紫式部、平安時代をテーマにしたものがずらりと並んでいる。歴史ドラマといえば、サムライ、武士が出てくる戦国時代、天下統一、幕末維新ものが多くて、平安貴族が主役の物語はあまり見かけない。なんとなく日本人の歴史観の基層に、武士=カッコ良い、英雄、忠義、高潔な精神。一方、公家=みやび、軟弱、有職故実、もののけに恐れ慄く、恋愛にうつつを抜かすという捉え方がされてきた。日本史を振り返ってみれば、12世紀の武士の台頭から19世紀の大政奉還、明治維新まで、700年以上にわたって日本では武家中心の時代が続いた。軍事部門のトップ、征夷大将軍が統治権力を持ち続けた、いわば軍事政権の時代であったといっても良い。明治維新以降も、王政復古で武家政権が崩壊し、幕藩体制、武士制度は廃止されたにもかかわらず、富国強兵、国民皆兵が叫ばれる中、今度は庶民にまで武士道精神を叩き込み、忠君愛国、お国のために死ぬことを教えてきた歴史がある。平安時代などの、ある意味戦乱のない平和な時代(汚れ仕事に携わらない支配階層だけなのだが)は国民を鼓舞する小説にも歴史物ドラマにもならない。そんな暗黙了知の中、源氏物語が注目を浴びることとなったのは偶然だろうか。大河ドラマも、戦国もの、幕末維新ものはネタ切れ感があるのか。司馬遼太郎史観にも飽きたのか。侵略戦争が常態化しつつある21世紀の世界へのアンチテーゼなのか。

紫式部「源氏物語」を今から100年前に英語に翻訳して世界に知らしめたイギリス人がいた。それは「The Tale of Genji Lady Murasaki」として発表され、1000年前(当時は900年前)の日本に登場した世界最古の女流作家による文学作品である。しかも現代にあっても長編小説として多くの人々から愛される物語、世界の奇跡などと評され世界中で重版、各国語の翻訳が出た。イギリスでは発表当時、シェークスピア、ジェーン・オースティンにも匹敵すると評された。時代はちょうど第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の時期である。

彼はアーサー・ウェイリー:Arthur Waley。東洋文学の研究者で翻訳家、詩人である。1889年、イギリス・ケント州タンブリッジウェルズの中流家庭に生まれた。成績優秀で名門ラグビー校、ケンブリッジ大学キングスカレッジへと進学し、ギリシア語、ラテン語など古典語を学んだ。しかし、視力低下に襲われ学業継続が困難になり1910年に中退。1913年に大英博物館の東洋部門の学芸員に採用された。彼の履歴書によると、語学はフランス語、イタリア語など主な欧州言語は流暢に喋ることができ、ギリシア語、ラテン語、ヘブライ語、サンスクリット語を読むことができるとあった。たぐいまれな語学力があったことがわかる。大英博物館では東洋の美術や書籍、書画を担当したため、中国語、日本語、モンゴル語、アイヌ語を学ぶ必要があり独学で学び始めた。のちにロンドン大学東洋学院:The School of Oriental Studyでそれらを本格的に学んだ。また当時ロンドン留学中であった日本人の八木秀次(あの八木アンテナの創業者)にも日本語を学んだという。1929年には大英博物館を退職し、その後、第二次大戦中は英国情報部の日本語検閲担当として4年間勤務した。この間に源氏物語の英訳に取り組み出版している。しかし、彼の研究と作品成果は、大学や、研究機関に籍をおく研究者、翻訳家としてのそれではなく、むしろ自由人として東洋文学に魅了され研究、翻訳に取り組んだ結果と言える。ロンドンの文化人・芸術家のサロン、ブルームズベリーグループに属していたが、いわば孤高の人であった。

最初に源氏物語に出会ったのは、大英博物館で見た絵巻の一枚、光源氏の須磨の場面であったという。その絵と和歌に魅了されて源氏物語を日本から取り寄せて読み始めた。そして読むだけではなくその翻訳を試みた。日本の古典語は語彙も少なく、文法も簡単なので数ヶ月もあれば読めるようになると豪語している。とはいえ辞書もなく、参考文献もない翻訳作業は孤独な仕事で、その完成は至難の業であったろうことは想像に難くない。そのハードワークを励ましてくれたのは夢に出てくる紫式部:Lady Murasakiであったと回想している。「あなたが翻訳を諦めたら、私の物語を世界に紹介する人がいなくなってしまう」と訴えられたと。1925年から1巻ずつ「桐壺」から順次翻訳を開始し、毎年1巻ずつ出版した。出版はロンドンの著名な出版人ジョージ・アレン&アンウィン:George Allen & Unwinである。1933年に第6巻を翻訳し終えて完結した。その間に清少納言の枕草子の抄訳:The Pillow-Book  of Sei-Shonagonにも取り組み完成させた。1935年には6巻合冊版が出版された。本書がそれである。翻訳にあたっては、江戸時代1673年(延宝元年)に著された源氏物語の注釈書「湖月抄」(北村季吟)を参照した。今でも源氏物語を読み進めるときに重用される注釈書である。これを読み解くことも大きなハードルであったはずであるが、驚異的な語学脳で「湖月抄」の注釈を読みながら、8年かけて源氏物語完訳を果たした。彼の翻訳は語学的にも正確であるが、説明的ではなく、文学的にも洗練された魅力あるものである。英文学作品としても批評家や読者から高い評価を得られている。元々英語の読者を相手に書かれたので、イギリスやアメリカで多くの愛読者を得て居ることは不思議ではないが、フランス語、ドイツ語などに重訳され読者が広まっていったほか、後述のように日本でもその英訳本に魅了される人々が現れる。

ウェイリーは、このように源氏物語や枕草子、また能や謡曲の英訳に取り組み、世界に日本の古典文学作品の魅力を広めたことで、日本人は彼を、日本びいきの日本研究者、ジャパノロジストと捉えがちである。しかし彼の仕事は日本の古典作品に限らず、論語、詩經、西遊記、陶淵明、李白、白楽天など中国古典にも及び、むしろ日本古典の翻訳は彼の全仕事の5分の1程度であった。東洋の文学に興味を持ったのも中国の詩に触れたことであったと言っている。中国から入り、その延長で日本を研究することになる。イギリスでありがちなパターンだ。

また彼は現代日本語はほぼ喋れなかったし、生涯一度も日本や中国を訪れたことはなかった。戦後、1959年に勲三等瑞宝章の叙勲があった時にも来日しなかった。これは、彼が日本の古典文学を通じて抱いている世界と現実の日本の姿の差異に幻滅したくなかったからだ、と説明する評論家もいるが、一方で、単に長い旅が嫌いだっただけだという人もいる。またイギリスでもナイトの称号、勲章を受けたが、ほとんど前向きな反応を示さなかったと言われ、そのような栄誉に関心がなかったようだ。こうしたマルチリンガルな言語脳を持った天才的な人物が、西欧には時々現れる。全く未知の言語の解読に魅入られ、それを母国語である英語で魅力的に表現する。いや彼自身が入念に選んだ言葉と研ぎ澄まされた感性で表現する。彼が日本や中国の古典に取り組んだのは、そうした言語へのパッションからであった。

それでも日本では、彼をジャパノロジストの一人とみなしているが、もしそうだとしても明治の御雇外国人教師、バジル・ホール・チェンバレンの書斎学派的なジャパノロジスト(「古事記」の翻訳、「日本事物誌」などの著作がある)、日本に永住したラフカディオ・ハーンのようなジャパノロジスト(「怪談」などの民話の英訳を多く出した)と比較すると、どちらの類型にも当てはまらない。チェンバレンが「神の愛と赦し」を得たキリスト教徒の目で、異教徒の国、日本を研究の客体として捉えたのに対し、ハーンは、むしろキリスト教に違和感を抱き日本人の基層に存する精霊信仰に共感し、ケルト精神と自己同体化したのとも異なる。そもそも日本に来たことがないウェイリーは、キリスト教徒vs異教徒という視点とも無縁であったし、まして日本精神と自己同体化することもなく、純粋に難解な言語解読とその体験から生まれる詩の世界を再創造することに大いなる魅力を感じ没頭した詩人であった。

彼の翻訳の考え方には独特のものがあったと言われる。すなわち、翻訳とは、単に他言語で書かれた文章をその通りに移し替えて訳するのではなく、一旦、その文章表現を解体:dismantleした上で、再構築:re-creationすることであると言っている。例えば、源氏物語に通底する「もののあはれ」というモチーフ。すなわち「あはれ」という言葉が幾度も出てくるが、ウェイリーは、これを「心が動かされる様子」と捉え、感動したり、悲しんだり、呆れたり、嬉しかったり、その場面場面に応じた異なる言葉に置き換えている。このようにウェイリー版を見てゆくと、次のような特色を持っている。第一は、今述べたように、「言葉の置き換え」である。帝:Epmperor, 光源氏:Shining Prince,更衣:Gentle Women of Wardlobe, 女御:Lady of Bedchanberなど西洋人にもわかりやすい言葉に置き換えている。しかし、これが現代日本人にも理解しやすいという効果を生み出している。第二は、敬語の省略。日本の古典文学における敬語の用法は複雑で、これがストーリーを読みづらくしている理由の一つである。第三に主語を明確にしたことである。そもそも日本語の文章は主語を書かないことが多いので、これも文脈の理解を難しくしている。英語国民にとっては主語/述語の文章構造は基本であり、主語が誰なのかを明確にすることは必須であったろう。したがって、彼の英訳は現代人にとって(日本人にとっても)源氏物語をより読みやすく親しみやすくしている。翻訳では「原作の思想は生き残るが言語は残らない」。解体されたオリジナル言語を、再構築された翻訳の中に読み取る作業を翻訳者と読者はしなくてはならない。それが彼の考える翻訳である。

彼の英訳『源氏物語』を読んだ正宗白鳥が、原文の源氏物語はぬらぬらした退屈な文章の羅列だが、彼の翻訳を読んで、ようやくその面白さがわかった。まるで朧月夜から太陽の下に引き出されたようであると評している。これは上述のようなウェーリーの翻訳方針の効果なのであろう。これに対して、ウェイリー英訳と同じ年の1933年に、初めての現代語訳『源氏物語』を刊行した与謝野晶子は、彼の英訳は英語作品としては評価するが、紫式部の言語の美を理解しない賞賛は意味がないと批判している。与謝野晶子は日本人として初めて源氏物語を現代日本語で甦らせたという自負もあったに違いない。と同時にウェイリーのThe Tale of Genjiはもはや彼自身の英文学作品なのだと認めた。

また、彼は東洋の古典を何でも翻訳するのではなく、独自の選定基準があったようだ。それは「翻訳に値する質を持っているか」ということもあるが、むしろ英語にしやすい作品を選んだ。曖昧な表現や、英語で解釈できない表現、理解困難な例えなどは避けた。枕草子翻訳が4分の1の抄訳である理由もそうした取捨選択の結果であったという。源氏物語も「鈴虫の帖」を省略している。その理由は述べていないが、こうした選定基準に合致しなかったのだろう。しかし、彼の英訳版源氏物語は、彼自身が持つ詩人の才能と感性に基づいた翻訳で、「千年前の日本の古典もまるで昨日書かれた英文学作品のようだ」と文芸書評に書かれている。この批評は的を得ているだろう。また20世紀イギリスを代表する女流作家でブルームズベリーグループのメンバーであったヴァージニア・ウルフも紫式部の「源氏物語」を驚きを持って絶賛し、ウェイリーの英訳を賛美している。彼の翻訳は詩的で華麗である。英文学作品として読んでも魅力的である。紫式部が和歌の名手で、物語の練った表現に多くの和歌を用い、直接的な描写を避けて華麗で幽けき表現にしているところに共鳴できたからかもしれない。一方の清少納言の作品は、「ためず」に思いついたままを書き綴った随筆である点が彼には魅力が薄かったのかもしれない。

晩年のウェイリーは東洋の古典研究から離れ、西欧の古典に回帰しようとした気配がある。1948年、ケンブリッジに留学してきたアメリカの新進気鋭の日本文学研究者、ドナルド・キーン:Donald Keeneによれば、まずケンブリッジで憧れのウェイリーに教えを乞うために手紙を書いたが返事がなかった。この頃のウェイリーは東洋研究者とみなされることにうんざりしていたのかもしれない。しかし、ある日突然、ケンブリッジのキーンの学寮をウェイリーが訪ねて来た。キーンは部屋でワグナーの「ニーベルンゲンの指輪」を聞いていたという。ウェイリーはのちに知人に「キーンという男は日本の古典を勉強したいと言っているくせにワグナーに魅了される変人だ」と評していたという。やがて30歳の年齢差と距離感が縮まって二人は友人となり、キーンの生涯に大きな影響を与えた。そもそもキーンが日本文学研究を志すきっかけとなったのは、学生時代、1940年にニューヨーク・タイムススクエアーの古本屋で手に入れたウェイリー訳の源氏物語のぞっき本(ジャンクボックスに放り込まれていた)であったという。厚いのに安かったからお得だと思って買ったと言っている。しかし、そこに描かれている物語の世界は、戦争や暴力ではなく、愛が中心であると。ちょうど第二次世界大戦が始まった年である。キーンは、富国強兵の成れの果てに世界を相手に戦争を起こした日本にも、こんな愛の世界が存在するということを確かに読み取った。ウェイリーはまたエドワード・サイデンステッカーにも影響を与え、1976年にはウェイリーに続く第二の源氏物語英訳を出した。ウェイリーは生涯一度も日本に来たことはなかったが、サイデンステッカーとキーンは、二人とも日本に永住あるいは帰化し、日本の土になった。

なお、ウェイリーの再訳版として、佐復秀樹訳(2008−2009年)、毬矢まりえ/森山恵訳(2017−2019年)がある。また、NHKラジオ「日曜カルチャー」で連続放送中の「源氏物語 英訳本を再和訳してわかったこと」で毬矢まりえ氏がこのウェイリー版について解説しており、非常に参考になる。先述の英訳に際しての、言葉の言い換え、敬語の省略、主語の明確化が、さらに日本語に再訳すると、難解な古文の物語を一層分かりやすくしてくれるし、新たな解釈がそこに現出している。これを訳者はこの古代日本語→現代英語→現代日本語という訳を「らせん訳」と呼称している。そこから新たな世界が見えてくる。これはまさにヘーゲル弁証法の「止揚」:Aufhebenではないか!


アーサー・ウェイリーとドナルド・キーン
ケンブリッジ・キングスカレッジで

ダストカバー付き6巻合冊本

ダストカバーを外す


表紙

主要登場人物リスト

1925年の第1巻から1935年の合冊本までクロノロジー


2024年5月6日月曜日

旧朝倉家住宅とヒルサイドテラス 〜猿楽町の新・旧コントラストが物語る街の歴史〜


旧朝倉家住宅主屋


この連休は、前回紹介したように、ヒルサイドテラスフォーラムで開催された「マイケル・ケンナ」写真展に行ってきたが、もう一つのハイライトは、このヒルサイドテラスを始めとする、この街をプロデュースしたといっても良い朝倉家の本邸、「旧朝倉家住宅」を訪ねたことである。代官山、山手通りのいわばポストモダン建築の街並みと対照的なコントラストを見せる純和風の木造家屋。この街の歴史の物語を知る散策となった。「旧朝倉家住宅」は、現存する数少ない関東大震災以前の大正期和風住宅の特色をよく残す建築・庭園遺産である。国の重要文化財に指定されている。主屋は木造二階建て、ほぼ全室が畳敷の和室で、一階には絨毯時敷きの大広間がある。旧華族や政財界の重鎮の邸宅と異なり、洋館も洋風の広間も設定がなく、一階に比較的小さな洋室が一間あるだけである。屋根は重厚な本瓦葺き、外装は下見板ばりである。今では都内でなかなか見ることのできない貴重な木造邸宅建築である。庭は、南西の崖線という地形を取り入れた回遊式庭園。高低差がかなりあるせいか、池は設けられていない。敷地総面積は5,400平米と、都会には貴重な広大な緑のスペースが広がる。その隣の旧山手通り沿いに展開される代官山ヒルサイドテラスは、戦後に朝倉家が所有していた土地が再開発されたエリアである。

朝倉家は江戸時代以来続く旧家で、明治初期には精米業を営んででいたが、周辺の都市化の急激な進展に伴い農地を手放す農家が増え、農家から土地を買取り、住宅街を建設するなどで一帯の大地主として成長した。この建物は、戦前の東京府議会議長や、渋谷区議会議長などの要職を務めた朝倉虎次郎氏によって大正8年(1919年)に建てられたものである。しかし戦後は、一帯が戦災で焼け野原となったこと、占領政策の地主制度解体に伴い事業が大きく縮小されてしまった。残された猿楽町一帯の土地を再開発するために朝倉不動産を設立し、当主の友人であった建築家の槇文彦氏に計画立案、設計を依頼し、「代官山集合住宅計画」を開始。1969年から1998年にかけてA棟からF棟、アネックスまで順次開業して行き、現在のヒルサイドテラスが生まれた。すなわちこの街の景観と文化を創造したのが朝倉家と槇文彦氏であったという訳だ。今でもその斬新で洗練されたデザインの都市景観は、この猿楽町、代官山を東京でも人気の街にしている。しかし、関東大震災や戦災にも生き残った朝倉家邸宅は、朝倉家事業の戦後の困難期に、中央競馬界に売却され、その後は旧農林省の所有を経て、旧経済企画庁の渋谷会議所として最近まで使用されていた。現在は文部科学省(文化庁)を所有、管理団体は渋谷区となっている。平成16年に国の重要文化財指定。一般に公開される施設となっている。(以上、「旧朝倉家住宅」パンフレット、Wikipediaより意訳引用)。この朝倉家住宅と庭園が「再開発」と称して取り壊され、「複合商業施設」とやらに変貌しなかったことは幸いなことである。この古い伝統美と新しい伝統美の共存こそ、この街をユニークで魅力的にしている。

この猿楽町は我が家にとっては懐かしいところである。40年ほど前にイギリスから帰った後に、アメリカに赴任するまでの5年ほど住んだところである。長男は地元の幼稚園、小学校に通い、長女はここで生まれた。ちょうど行政改革、民営化の時代で、当時文書課に配属されていたので極めて多忙な日々を送った時期である。そうしたこともあり、ゆったりとこの界隈の雰囲気を楽しむ余裕もなく、子どもたちの幼稚園や小学校の行事に参加することも少なく、育児は妻に任せっきりの「昭和な亭主」であった。家族に申し訳ないことをしたと思う。それでも社宅敷地内にあった小高い丘の頂に大きな桜の木があり、季節になると社宅や近所の子供達がその下でござを引いて花見をしていことを思い出す。また西郷山公園に子供たちを連れて遊びに行った記憶はある。代官山界隈は、戦前は猿楽町の南西の崖線沿いにできた山手の邸宅街で、戦後しばらくはその面影が残っていた。旧山手通りの現在のレストランASOがあるところには以前は瀟洒な洋館があり、息子の小学校の同級生が住んでいて時々遊びに行ったりしていた。こうした一定のまとまった敷地を確保できる地域であったことからか、デンマーク大使館、エジプト大使館などの外国公館の所在地にもなった。また戦後高度経済成長期には大企業や外資系企業の社宅や集会場用の敷地も確保できたわけだ。現在では猿楽社宅と某米国航空会社社宅跡地に、蔦屋書店を主テナントとする商業施設「代官山T-SITE」ができ、週末には人が繰り出す人気のエリアとなっている。この日も、連休の人出で賑わい、外国人観光客も多く界隈は混雑していた。40年前もヒルサイドテラスもあり、有名フレンチレストランや、おしゃれなパティシエの店があったりで、それなりに人気の街であったが、渋谷から桜ヶ丘を上った一歩奥の山手で、代官山駅前に同潤会アパートがあったり、基本的には渋谷の雑踏を離れた閑静で瀟洒な住宅街といった風情であった。少なくともこれほどの人出はなかった。ちなみに、我が家が猿楽町にいた頃は旧朝倉家住宅は、経済企画庁の渋谷会議所で、一般には公開されておらず敷地に入ったことはなかった。当時は、鬱蒼とした杜の中にこのような和風の邸宅と回遊式庭園があることを知る由もなかった。

今回の再訪で、この猿楽町、代官山の賑わいのその基を作り、プロデュースしたのが、訪れた朝倉家住宅の家主であった朝倉家であることを改めて知った。土地にはにはそれぞれの歴史が刻まれていて、それがその土地の表情になっている。そうした土地に我が家も小さな足跡を残したことを感慨深く振り返る歳になった。


旧朝倉家住宅玄関

正門
「渋谷会議所」の表札がはずされている

正門から玄関までは鬱蒼たる緑の道

門からの道を進むと奥に主屋と玄関が現れる

車庫
郊外であったため車が必需であった


庭園側からの主屋

回遊式庭園 ただし池はない 



庭園内には灯籠や名石が多く配置されている




手水鉢

額縁庭園

丸窓

二階居室

一階廊下突き当たり

重厚な本瓦葺きの屋根

二階広間

二階縁側

二階和室


一階洋室




旧山手通り沿いのヒルサイドテラス

F棟



ヒルサイドテラス案内板

テナントはすっかり入れ替わっている

ヒルサイドテラスフォーラム



昭和初期の洋館だったが、今は人気レストランに


猿楽社宅跡地の今 すっかり変わって跡形もない。

社宅跡地には某有名書店T-SITEが

我が家跡推定地

社宅の石垣がわずかに往時の面影を止める

40年ほど前の猿楽社宅古写真(「公団ウォーカー」サイトより借用)



(撮影機材:Nikon Z8 + Nikkor Z 24-120/4)



2024年5月3日金曜日

マイケル・ケンナ展@代官山ヒルサイドフォーラムへ 〜懐かしの猿楽町界隈も徘徊〜

 イギリス人でアメリカ西海岸を拠点に活躍する写真家のマイケル・ケンナの写真展が代官山のヒルサイドフォーラムで開かれた。彼は世界中で50年以上にわたって写真を撮り続けているが、1987年に日本に来て、日本の神秘と静謐の精神世界に魅了されて写真を撮り続けた。「私が初めて日本をおとづれた時、その美学、精神的かつ宗教的な側面、人々の好奇心や親しみやすさ、寛大さに衝撃を受けました」と述べている。特に彼を惹きつけたのは北海道の真冬の世界。「それは冷厳な水墨画、漢字が記された純白のキャンバスのように見えました。それ以来、この場所を愛してやまないのです」と。

彼はハッセルブラッドを手に、スクエアーフォーマット、フィルム、モノクロ、長時間露光、彼自身によるゼラチンプリントで作品を作り上げている。彼が表現する日本のモノトーンと陰影のグラディエーションは、とても素人がマネできるものではないが、どこか自分の心象風景にある「静謐」が見えるような感覚にとらわれるのが不思議だ。まるで「そうそう、同じ写真を撮ったことがある」と思わず言ってしまいそうになる。しかし、それは我がフォトアーカイブには存在しない、実は心のアーカイブに存在することに気付かされる。

ゆっくりと作品を堪能した後は、もちろん彼の写真集を手にいれて、写真の余韻冷めやらぬまま、連休で賑わう代官山の通りを意気揚々と引き揚げていった。

猿楽町はその昔住んだところだ。ついでにぶらぶら散歩して帰ろう。それにしても、この界隈、かつての面影がなくなってしまっている。しかし息子の通った幼稚園と小学校を訪ねてみたらまだあった。住んでいたアパートは跡形もなく取り壊されて、辺り一帯が今風のおしゃれな「複合施設」に生まれ変わっている。なんだか見知らぬ街になってしまった猿楽町、異世界を今浦島が徘徊している。確か、桜ヶ丘から坂道を下ると渋谷のはずだが、向こうには高層ビルが聳えているので坂の上にいる気がしない。この坂を下って良いのかと迷いつつ歩くとそこはもう一つの異世界であった。エンドレスの工事が続く。ここはあの時の渋谷なのか。マイケル・ケンナの静寂世界から一気に現実の世界に引き戻され、連休の雑踏に吸い込まれてゆく。


代官山ヒルサイド・フォーラム

マイケル・ケンナ展









ヒルサイド・テラス



昭和初期の洋館は人気レストランに



アパートの石塀が痕跡として残っていた

小学校は今も健在

桜ヶ丘

リフレッシュ渋谷!

(撮影機材:Nikon Z8 + Nikkor Z 24-120/4。マイケル・ケンナ展は撮影OKであるが、作品の雰囲気を再現することはできないので、展示風景中心とした)