2024年7月28日日曜日

古書をめぐる旅(53)『The Mikado's Empire:皇国』ウィリアム・グリフィス著 〜近代日本史学の始まりの書〜





晩年のグリフィス夫妻肖像写真


今回はWilliam Elliot Griffis:ウィリアム・エリオット・グリフィスの著作「The Mikado's Empire:皇国」を紹介したい。著者のグリフィスはアメリカのオランダ改革派教会の宣教師である。ラトガース大学の出身でそこで教鞭を取っていたが、越前福井藩藩校「明新館」に招聘されたお雇い外国人教師である。版籍奉還に伴い東京の大学南校へ移る。彼の略歴、幕末維新時期の活躍、功績についてはこれまでのブログ(後掲)で述べてきたので、それを参照願いたい。本書は彼が日本から帰国したのちの1877年にNew York:Harper & Brothersから出版された第二版。初版は前年の1876年。以降重版を重ね、ラフカディオ・ハーンも来日に際して持参している。

本書『The Mikado's Empire:皇国』は、2部構成となっており、第1部が日本史概説。第2部が彼自身の日本滞在記である。彼の主著ともいうべき重要著作である。今回は第1部の日本史概説を中心に読み進めてみた。日本という国の成り立ちを古代に遡り解説し、そこから現代の(明治の)日本の姿を、「王政復古」「Mikado:天皇」の国の出発という視点で描いている。明治天皇が近代日本を統治する英邁な君主であると敬愛の念を示し、その天皇制のルーツと、その後日本が辿った天皇・貴族・武士との緊張関係の歴史、そして統治権威と統治権力の二元構造を述べている。彼は福井藩に招聘されていたが、版籍奉還、すなわち幕藩体制の崩壊(雇い主の福井藩の消滅)、封建体制からの決別という日本史の大転換期に身を置くこととなった。日本が近代化を進める国家体制として、天皇主権国家としてスタートするという歴史の現場を目の当たりにした。しかし、国学の流れを汲む尊皇攘夷思想に影響された日本人とは異なり、近代科学者、あるいはプロテスタントの合理的神学理解として、この王政復古を見つめている。明治天皇を敬愛するも、一方的な皇国史観や専制君主制を受け入れたわけではなかった。西欧諸国ではこの頃すでに近代的な国民国家が成立しており、国王を戴くイギリスも立憲君主制国家であり、まして独立戦争、南北戦争を経験したアメリカは共和制の人民主権国家である。グリフィスはその世界から日本にやってきた知識人である。特に紀元前660年に遡るとされている皇統の紀元を記述する歴史書、日本書紀と古事記に触れ、その史料批判を行なっている点に興味を惹かれる。彼が歴史学者であるという認識は現代でもあまり共有されていないかもしれないが、以下に述べるように、彼の本書で展開された日本史概説が日本の歴史学研究に与えたインパクトは大きい。そういう点で、この著作は、幕末・維新期にやってきた外国人の数ある日本見聞録の一つと片付けてしまうことはできないと考える。

本書の第一部は、近代的史学研究手法を持ち込んだ最初の日本史概説とも言える。 歴史研究の要諦は歴史資料(古文書や史書など)の記述を鵜呑みにせず、その編纂の時代背景や編纂者の意図などを読み解くことで史実を特定してゆく、いわゆる史料批判が基本である。当時すでに当たり前のこととされていたこの歴史研究姿勢を最初に日本に持ち込んだことに大きな意義がある。その後、帝国大学に史学科ができて、その初代教授にドイツから招聘された御雇外国人が就任した。外国人教師が史学科の初代となった理由は、こうした近代史学研究手法を日本に伝えることにあった。明治日本では、物理や化学、あるいは医学のような自然科学領域においては『科学的手法』『近代合理主義』を取り入れるのに躊躇はなかった。一方で歴史や文学、法律・政治・経済のような人文・社会科学研究領域に『科学的手法』を取り入れるには時間がかかった。こうしたアプローチをとった初期の研究者は外国人であり、いわゆるジャパノロジストを呼ばれたアーネスト・サトウ、ジョージ・アストン、バジル・ホール・チェンバレンなどのイギリス人が名を連ねる。アメリカ人にもその先駆的役割を果たした人物が登場する。その一人がこのウィリアム・グリフィスである。これ以降、久米邦武、津田左右吉(「神代史の新研究」1913年、「古事記と日本書紀の新研究」1919年)など日本人研究者の中に、こうした科学的手法による歴史研究、史料批判が定着し、そうした研究姿勢が主流になってゆく。しかしそれは大正デモクラシーの時代を待つ必要があったし、軍国主義傾向が強まるにしたがって、そうした研究姿勢が筆禍事件の餌食になっていったことを忘れるわけにはいかないだろう。

元々グリフィスの専門は歴史学ではなく、プロテスタントの宣教師であり、かつ化学や物理を教えるために福井藩に招聘された科学者であった。しかし、彼の日本史概説は彼が元々持っていた科学的な研究手法や合理的思考法が日本史研究においても存分に発揮されたものであると見ることができよう。特に、先述のように日本書紀や古事記の神話と歴史の区分の曖昧さ(むしろ神話を歴史的事実であるとする筋立て)は、記紀編纂の時代背景や当時の政治的な環境、為政者の政治的な意思に着目して読む必要がある。結果、「神武は実在しない創作された初代天皇」との見解を明確に示すなど、今では定説となっている記紀解釈を提示した。日本古代史研究における史料批判、科学的史学研究の嚆矢となった。グリフィスは、古い神話を歴史だと信じている人ばかりではなく、今や日本人でも、欧米に留学したり、近代的知識と合理的思考に触れた人なら、同じ答えに辿り着くとしている。日本古代史の研究はこれに続きチェンバレンの1882年(明治15年)の古事記英訳、1887年(明治20年)のアストンの日本書紀の研究に繋がってゆく。しかし、チェンバレンは歴史と神話を区分せず、いわば神話学的な視点から古事記を世界の神話と比較して、そこに日本に固有のストーリーはないと論じるなど、グリフィスの歴史学研究アプローチとは異なっている。1903〜1925年に刊行されたJames Murcoch:ゼームス・マードックの「日本史」全3巻(2022年8月1日 The History of Japan, by James Murdoch )は、ジャパノロジストによる最初の体系的な日本通史と言われているが、ここにはグリフィスと同様の史料批判手法が用いられているほか、日本書紀と古事記を中国王朝や朝鮮半島の歴史書との比較研究を展開している。しかし、グリフィスのこうした明治初期の研究成果は日本の歴史学会からはあまり評価されていないようだ。アジア協会や日本史学会創設に尽力し、多額の寄付をしたにもかかわらず、設立メンバーには選ばれず、いわば学外者として関与するにとどまっている。学会の閉鎖性というべきか。今日でもグリフィスが近代的な日本史研究の先駆者の一人であるという認識は薄いようだ。

彼は幕末・明治期の御雇外国人に関する研究にも力を入れ、招聘者のリスト(今でいうデータベース)を作成した。本人はもとより、その親族や友人、子孫、子弟などからも詳細な聞き取りを行い、日記や手紙、政府内外の記録など文献資料にも当たる網羅的な研究である。これは母校のラトガース大学図書館のグリフィス・コレクションに収蔵されている。その中から前回紹介したフルベッキ伝やタウンゼント・ハリス伝などが生まれている。こうした研究活動や著作発表は、実証的な史料収集と事実(史実)を特定する活動を軸とした歴史学研究の成果というべきものである。現在でも幕末維新史研究の重要な史料となっている。こうした功績から日本政府から叙勲を受けている。グリフィスを明治初期における『お雇い外国人教師』の一人、ジャパノロジストとひとくくりにするのではなく、グリフィスの歴史研究者としての評価をより正しく認識する必要があると思う。そういう意味でもこの『The Mikado's Empire:皇国』は日本史研究の歴史の画期となる著作であると考える。


2022年1月22日「古書をめぐる旅(19)』フルベッキ伝

2024年1月28日『古書をめぐる旅(44)』タウンゼント・ハリス伝









追記:なぜ『日蓮の法難』が巻頭に登場するのか?

グリフィスは、本書の巻頭に『日蓮の法難』の図を掲げている。これは、鎌倉龍ノ口で役人が日蓮を処刑しようとしたが、突然現れた輝く光が刀を砕いて斬首できなかったというエピソードを描いたものだ。日蓮の受難と超自然パワーを表すもので、いわばキリストの受難と復活を彷彿とさせるものがあると感じたのであろうか。彼は日本の仏教史における日蓮の存在を高く評価している。日本の仏教は、6世紀の伝来以来長く庶民の信仰からは遠い存在であった。難解な教義や哲学的思索などを説いた仏典の理解には、サンスクリット語や漢文が解読できることが必須で、インド・中国から渡来した高僧や、中国で学んで帰国したエリート留学僧によって学ばれ、伝達され、国家統治の思想(鎮護国家思想)として天皇をはじめとする政治的支配層に共有された。グリフィスは、のちに空海の出現を一つの日本仏教の画期とし、同時期の最澄の、いわば『比叡山スクール』に育てられた弟子たちの出現(のちの鎌倉仏教の開祖たち)に着目している。グリフィスは「仏教はキリストのいないカトリックである」と書いている。すなわち救世主がいない教義(ドグマ)というわけだ。面白い表現だ。かつては聖書はギリシャ語やラテン語で書かれていて、カトリック修道院で学んだ僧だけが、教義を解し教えを布教した。そういう点では仏教もカトリックも庶民は経典や聖書を読むことができなかった。仏教ではその教えを庶民に説く布教者も限られていたので、仏教が庶民の来世の救済や現世利益への信仰というコンテクストで受容されることもなかった。13世紀の鎌倉時代に入って現れた革命的な宗教者で、比叡山スクール出身の日蓮は、既存宗派を論破し、法華経こそが仏教の最高の経典であり、庶民は難しい経典を読まなくても「南無妙法蓮華経」を唱えれば成仏できる(救済を得ることができる)と説いた。既存の観念を打ち破る画期的な論法は、民衆の心を捉え、そして時の権力者に恐れられるのが常である。日蓮は権力や他宗派による弾圧にも屈せず宗旨を貫いた。グリフィスは、日蓮を「仏教中興の祖」であるとしている。16世紀のキリスト教伝来の時にもイエズス会宣教師にとって最大の難敵は日蓮宗のBonzu:坊主・僧侶であったし、今でもキリスト教布教にあたって越えるべきハードルのひとつだと考えている。一方で、親鸞を日本仏教のプロテスタントだと見做していることも興味深い。浄土宗の開祖である法然も「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも極楽往生できると説いている。いずれも比叡山に学んだ新仏教宗派の開祖であり、来世の「救済」を説いたことで仏教の新たな地平を開いた。キリスト教プロテスタントの宣教師らしい評価なのであろうか。宗教改革のリーダーであるルターやカルバンの姿を投影したのかもしれない。

その一方で、グリフィスの日本の宗教、仏教や神道に関する眼差しは、この時期に日本にやってきた外国人のそれとはことなっていることに気づく。すなわち、キリスト教以外の宗教をエキゾチックではあるが野蛮な信仰、習俗と見る。『文明開花』とは『キリスト教化』することであって日本の『文明開花』は単なる西欧の模倣であると見る。いわば『キリスト教vs異教徒』という二項対立の視点である。いわゆるジャパノロジストの中にも多かれ少なかれこのような深層理解が潜んでいることが多い。しかし、グリフィスはプロテスタントの宣教師であるにもかかわらず、仏教や神道を相対化して理解することができるジャパノロジストの一人である。先ほどの日蓮、親鸞論などもその象徴であろう。こうした観点で日本に接した人物のもう一人は、ラフカディオ・ハーンである。彼の眼差しとグリフィスの眼差しには共通するものがあるように思う。どちらも日本人の宗教観や日常の宗教行事に親近感と慈愛の目を持って接している。いやむしろ宗教や信仰の問題というよりは日常生活に根ざした習俗の中に自然に対する畏敬や祖霊に対する敬いの心を見出した。ただ、二人の違いは、グリフィスがキリスト教宣教師であるのに対し、ハーンはキリスト教に懐疑的、ケルト的である。グリフィスとハーン。この二人の日本観。またチェンバレンやサトウのそれについてはまた別の機会に詳しく比較考察してみたい。


『日蓮の法難の図』が巻頭に掲載されている


2024年7月14日日曜日

「カメラの聖地」大井町散策 第二弾 〜ついにニコンが帰ってきた!の巻〜

ニコン新本社/イノベーションセンター(報道発表資料から)

工事中の新本社屋(6月7日現在)



時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 「カメラの聖地」大井町散策 〜Nikonのある町〜: こんな昭和な街並みも残る  大井町と聞いてどんな街をイメージするだろうか? 競馬場?大井埠頭?元京浜工場地帯?大井町阪急?きゅりあん? 鉄道ファンなら(といっても中高年以上)国鉄大井工場か。少なくともさしたる名所旧跡も見当たらないし、はやりのお洒落なお店もないの...(2017年3月10日のブログ)

ニコンは7月11日、今月7月29日に新本社とイノベーションセンター(研究開発センター)を港区港南から品川区西大井に移転、開業すると発表した。Nikon Fなどの歴史的な名機を生み出した旧大井工場跡地という、ニコンの前身の日本光学工業の創業(大正6年)の地である。2017年の工場取り壊しの後長く空き地になっていたが、2022年から新社屋建設工事を始めていた。

ニコンファンにとっては、ライカが創業の地ウェツラー:Wtzlarに本社、ライツ・パーク:Leitz Parkを開業したのと同様の感動を持って迎えられる出来事だ。日独のカメラのライバルであり、世界の二大ブランド、ニコンとライカが、ついに創業の地に戻った。ライカといえばWetzlar Germany、ニコンといえばOi Japan。これは歴史的なことだ。ライツ・パークは今やウェツラーの名所となっており、世界中のライカファン憧れの聖地となっている。この『ニコン・パーク』もニコン・ミュージアムを併設するので、大井は新たなニコンファンの『聖地』として世界から巡礼者が多く訪れることであろう。スマホ全盛時代にあっては、ハイエンド・カメラはイノベーティブな精密機器であるだけでなく、高級ブランドカメラとして、特にブランド価値の高いニコンやフジフィルム、ライカは高い付加価値を持つ商品を生み出す企業に変容しているのだ。憧れのカメラの聖地をめぐる旅。これはマニアにはたまらない。

と同時に、地元住民としては、かつて『京浜工業地帯』の中心の一つとして賑わった大井町に、ニコンの最新の研究開発センターとミュージアムを備えた新本社が戻ってきたことは歓迎すべきことである。ニコン社員の通勤ルートであったJR京浜東北線大井町駅から続く「光学通り」の先に、文字通り光学機器のメッカが再生されたわけだ。現在ではJR横須賀線、湘南新宿ラインの西大井駅が開業し、新本社はその駅前に位置するので、こちらが最寄り駅となる。かつての貨物専用の品鶴線が通る昭和なモノ作りの工場地帯から、大井町、西大井が世界のニコン、レジェンドとイノベーションの中心に進化する第一歩であることを祈りたい。地元にそれほど大きな雇用を創出することはないだろうが、高度成長期の活気が去り、シャッター通り商店街が連なるワクワク感が薄れていたこの地域に、新たな『輝き』が生まれることを期待したい。

ちなみに、ニコン経営陣にそんな『聖地』回復!などという意図があるのかどうかは分からないが、地元のニコンファンはこのように勝手に興奮し舞い上がっている次第である。


2024年7月11日 ニコン報道発表資料











JR西大井駅

ニコン報道発表資料より


(撮影機材:Nikon Z8 + Nikkor Z 24-120/4)

2024年7月5日金曜日

古書をめぐる旅(52)『A History of the English-Speaking Peoples:英語諸国民の歴史』Winston S. Churchill:チャーチル著 〜 イギリスはヨーロッパなのか?第二弾〜


Winston S. Churchill  A History of English-Speaking Peoples, London, 1956~58

Sir Winston S. Churchill (1874~1965)
(Wikipedia)



今日、イギリスは総選挙の結果が明らかになり、労働党が大勝し14年ぶりに政権交代となった。首相となるキア・スターマー:Kier Starmerは労働者階級出身で中道左派。専制主義と極右ポピュリズムの亡霊が世界を覆う世の中で、議会制民主主義の母国イギリスで中道政権が圧倒的な票差で選ばれたことは意義深い。ただ、イギリスでも大敗した保守党の票の一部をファラージ率いる民族主義新党Reformが奪い議席を確保した。内政問題山積のイギリスで、スターマーが外交にどれほどの力量を発揮できるのか未知数だと言われている。外交政策はヨーロッパとの関係を重視する立場ではあるが、労働党政権になっても保守党政権時代に国民投票で決まったBrexitは変わらないだろう。ただアメリカでトランプが大統領になると英米関係には大きなギャップが生まれることだろう。これをどう乗り越えるのか。これからイギリスはどこへゆくのか?そして迷走のアメリカこそどこへゆく?

2019年3月26日のブログ、 時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : イギリスはヨーロッパなのか?: のなかでウィンストン・チャーチルの著作『英語諸国民の歴史』に言及した。まさにこの時世に合わせたように、その全4巻を入手することができたので紹介したい。この混沌とした時代にチャーチルの歴史観と政策の現代的意義を噛み締めてみたい。1956年に初版がロンドンで刊行された。チャーチルは政治家としてだけでなく、著述家、歴史家としても名を残しており、『第二次世界大戦回顧録全6巻』1948~54やこの『英語諸国民の歴史全4巻』1956~58などの大著を世に出しており、1953年にはノーベル文学賞を受賞している。もっとも本人は文学賞ではなく、政治家として平和賞を望んでいたそうだが。


本書の構成:

イギリスという国の成り立ちから、エリザベス一世の絶対王政、イギリス革命の時代、大英帝国の成立、ヴィクトリア朝まで、旧大英帝国とその植民地、自治領(ドミニオン諸国)、すなわち英語を共通言語とする国々の歴史を4巻にまとめた、いわばパクスブリタニカ通史である。

第1巻:ブリテンの誕生:The Birth of Britain
第2巻:新世界:The New World
第3巻:革命の時代:The Age of Revolution
第4巻:偉大なる民主主義:The great Democracies

ブリテン島は古代ローマ時代にはケルト人やゲール人が住む辺境の島であった。その後、ローマ帝国に征服されブリタニア属領になるが、ゲルマン人の移動や、バイキング(デーン人)の侵入、さらにはノルマン人の侵入など、大陸からの絶え間ない異民族の侵入にさらされてきた島であった。ようやく11世紀、1066年の『ノルマンの征服』で大陸から侵攻してきたノルマンディ候ウィリアムが、土着のサクソン王ハロルドを破り、ノルマン王朝を打ち立てイングランドを統一した。これ以降ブリテン島に異民族が侵入し王朝が交代するする歴史に終止符が打たれた。しかしブリテン島はヨーロッパ大陸の周縁部という地理的、地政学的な立ち位置から、絶え間なく大陸との人の出入りがあり、イングランド王がブリテン島と大陸に領地を持ち、その攻防を繰り返し、その過程でフランスの領土を失った失地王ジョンが、貴族の議会によりマグナカルタを認めさせられるなど、近代につながる政治思想、政治制度、法治主義という文化と歴史の発祥の地となった。16世紀後半にはチューダ王朝のヘンリー八世、エリザベス一世の時代にイングランドは強力な絶対王政を確立し、ローマカトリック教会から離脱して英国国教会(プロテスタント)を立てる。さらにはスコットランド王メアリーを処刑して、イングランド王がスコットランド王を兼任する。さらには当時、大航海時代を切り開いた大国スペインの無敵艦隊を破り、ヨーロッパの辺境国から七つの海を支配する世界帝国への道を歩み始めた。新大陸アメリカ植民事業を進め、アフリカからの奴隷貿易により北米植民地の綿花を輸出商品に育てた。1600年にはインド植民事業を担う東インド会社を設立した。17世紀には王政の廃止で共和政移行、王政復古、ピューリタンによる革命など、『イギリス革命』の時代となり、名誉革命、権利の章典で立憲君主制への道を歩み始める。18世紀にはアメリカの独立でカナダ以外の北米植民地を失うことになるが、産業革命と植民地獲得により地球の東へ遠征を進めてゆく。こうして19世紀になるとヴィクトリア女王のもとイギリスは大航海時代における覇者となり、オランダから奪った南アフリカ、西インド諸島、中東、インド、ビルマ、マレー、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、さらには香港を中国から割譲され植民地化して「日の沈まぬ大英帝国」全盛時代を誇った。帝国主義、いわゆるパクスブリタニカの時代だ。

そして本書には記述されていないが、そのイギリスの時代(パクスブリタニカ)は20世紀に第二次世界大戦で勝利したにも関わらず、多くの植民地が独立し、アメリカの時代(パクスアメリカーナ)を迎えることとなり終焉を迎える。そして冷戦時代をアメリカと共に生きてゆく道を歩み始める。チャーチルはそのイギリスがたどった歴史を俯瞰する中から、戦後のイギリスの立ち位置を指し示してきた。


『アングロ圏構想』という妄想?

本書で描かれたこの七つの海を支配した大英帝国の栄光の歴史はイギリスの人々の記憶から消え去ることはない。かつてあのローマ帝国の属領であったブリタニアが、そのローマ帝国をも遥かに凌駕する世界帝国になったという歴史の記憶がイギリス人の国家意識の基層にある。そして英語が世界の共通言語になったという自負。Brexitは、そんな栄光のイギリスはヨーロッパの一国となってEUのルールのもとでこじんまりと余生をおくる老大国でいいのかという思いは意外に強い。そういったノスタルジアだけでなく、かれらはヨーロッパの大陸諸国よりも、英語を母国語とする人々、共通の君主をいただく立憲君主制、自由主義に基づく議会制民主主義、コモンロー、英国風のライフスタイルに共感してくれる人々、国々との連帯感の方が強い。そういう意味でイギリスはヨーロッパ、EU:European UnionではなくBC:British Commonwealthなのだ。すでにかつての植民地は独立していても、その共通言語英語と共通の自由主義的、民主主義的政治制度、共通の文化的バックグラウンドという紐帯は、地理的に近いヨーロッパ地域との紐帯よりも強いのである。そんな心情がイギリス人の底辺に潜んでいる。こうした考え方は、戦後これまでも多くのイギリスの政治家や政治思想家によって夢想されてきた。いわゆる「アングロ圏:Anglosphere」という概念あるいは構想だ。同じような構想にCANZUK:Canada/Australia/New Zeeland/United Kingdomというのもある。すなわちイギリスとイギリスからの移住植民地(カナダ、オーストラリア、ニュージーランド)、すなわち旧自治領・ドミニオン諸国(British Dominion)。それにアメリカ合衆国を加えた、いわば「アングロサクソン共栄圏構想」である。これには大英帝国の属領としての南アフリカ、西インド諸島、インドやビルマ、マレー半島、香港は入っていない。白人中心の移住植民地、あるいはそこから独立した国の集まりである。あまり現実的な構想であると思われてはいないようだが、今でもそういうレトリックが語り継がれているところに、この構想(妄想)の根強さがある。

ウォルトン作曲の『英語諸国民の歴史のための行進曲』という曲がある。これはウインストン・チャーチルの『英語諸国民の歴史』を堂々たる行進曲にしたものだ。英語を共通言語とする世界、すなわち大英帝国の歴史を高らかに歌った作品だ。ロンドンのロイヤルアルバートホールで毎年夏に開催されるクラシック音楽の祭典、プロムス:Promsで必ず演奏される曲である。このプロムスは単なる音楽祭ではない。大英帝国の栄光をみんなで共有し、思い起こし、讃えようという一種の国威発揚イベントだ。参加者全員がユニオンジャックを打ち振り、感涙に咽びながら声を合わて「威風堂々」「Rule Britannia !」を斉唱する。戦争に負けた日本にはあり得ない愛国的高揚感が堂々と披瀝されている。この辺が戦勝国イギリスと敗戦国日本の違いだ。歴史に対する悔悟の念も遠慮も感じられないこのストレートな愛国表現には違和感も感じるが、少なくとも負ける戦争は絶対すべきではないと感じさせられる。

この様な戦後のイギリス人の心情の底辺にうごめくかつての栄光へのノスタルジアや愛国心に基づく観念を読み解くと、Brexitは必ずしも不思議な動きではないことを理解させられる。たしかにかつての大英帝国構成地域(英連邦とドミニオン諸国)の現在の市場規模は依然としてイギリスにとって無視できないだろう。しかし、現在の地政学的環境の変化、経済活動や市場のグローバル化、アジア地域の経済躍進の時代に、時間を巻き戻してかつての大英帝国時代の観念に戻ることはない。肝心のアメリカは再びトランプが大統領になった時点で、自国中心主義:America Firstを取り、どこの国・地域であれ二国間貿易協定を主張して譲るつもりはないし、ヨーロッパの安全保障を請け負うつもりもない。カナダは大西洋を隔てたイギリスやフランスよりも、国境を接したそのアメリカとの二国間自由貿易連携にしっかりと取り込まれてThe Americasの国として生きている。オーストラリアやニュージーランドは発展するアジア経済圏の中で生き残る道を、白豪主義の放棄、移民政策の転換も含め突き進んでいる。安全保障はイギリスではなくアメリカに依存している。かつての移住植民地は遠く離れた母国イギリスとの歴史的、文化的、精神的、そして言語的な紐帯はともかく、それぞれの地政学的な立ち位置を認識して新たな生き方を歩み始めている。そういう21世紀の時代にナショナリズムを前面に出して物事を整理、理解、決定してゆくやり方は、結局アメリカのトランプのAmerica First, Make America Great Againとなんら変わりはない。あるいはヨーロッパ大陸諸国におけるナショナリズム、反移民を謳う極右政党が多数の支持を獲得しポピュリズム政治に傾斜してゆくのと同じ道ではないのか。ロシアや中国の様な専制主義国家が国際的な融和と協調よりも、自らの支配権力の確立と自国利権優先主義を、武力行使を含めて推し進めていることに危機感を覚えるが、それ以上にこれに対抗するはずの『自由と民主主義のアライアンス』が崩壊の危機に瀕する事態を見たくない。人類がその歴史の中で血で贖いながら築き上げてきた『普遍的価値』が音を立てて崩れていくのを看過するわけにはいかない。イギリスはその『普遍的価値』を生み出してきた国ではなかったか。アメリカはその『普遍的価値』を新大陸に実現するために独立戦争を戦った国ではないのか。


チャーチル『英語諸国民の歴史』が伝えるものは?:

ウィンストン・チャーチル著『英語諸国民の歴史』(1956~58年刊)が、こうした『アングロ圏構想:Anglosphere』の元祖のように取り上げられがちである。しかし彼がこれを表した時代は1956年、冷戦真っ只中という時代である。単純に大英帝国の夢よもう一度!などというナイーブな愛国的妄想を抱くほどチャーチルは未熟でも愚かでも懐古趣味でもない。アングロサクソンの栄光の歴史を賛美しつつも、通史として英語諸国民が築き上げ、引き継いできたレガシーを振り返ることで、彼は、今差し迫っているソビエト共産主義国家の脅威に対抗するために、これからのイギリスとコモンウェルス諸国が生き残る道を説いているのである。とりわけ、イギリスの目の前に立ちはだかっているアメリカ合衆国(イギリスから生まれた)との付き合い方について示唆しているのである。英語諸国民のレガシーとは何か。アメリカとそれをどのように守り継いでゆくのかということである。

チャーチルは『英語諸国民の歴史』のなかで『アングロ圏:Anglosphere』という概念を使わず,『英語を使用する諸国民:English-Speaking Peoples』という概念を用いている。彼は、英語を使用するアングロサクソン民族の政治的・文化的業績を賞賛している。アングロサクソンは絶えず戦争に勝ち,貿易を拡大し,自由・安全保障・福祉を促進したが,それらはすべて自由主義的な政治文化と制度のおかげであると述べる。彼は,アングロサクソンの文化的優位性を信じていたが,他の民族に対して人道的に振る舞う義務があるという自由主義的な信念も持っていた。それゆえ,彼はナチス・ドイツによるアーリア人の優越性や反ユダヤ主義を鋭く批判し,イギリスはヒトラーに対して最後まで戦うと宣言したのである。第2次世界大戦が勃発すると,チャーチルはアメリカがヨーロッパ戦線に参加するように説得した。しかし、アメリカがイギリスに対して行った支援は,イギリスの戦争遂行を支えるために必要な政策であると同時に,アメリカが自由主義的な国際秩序の形成を推進し、大西洋憲章に示された民族自決の原則をヨーロッパの帝国主義国,特にイギリスに尊重させるために必要な政策でもあった。アメリカはイギリスの戦争遂行を支援する一方で、イギリスはアメリカによってその帝国主義的野心を放棄するよう圧力をかけられる。ここでチャーチルは英米が共有する歴史的紐帯を思い起こさせるためにためのレトリックとして英語諸国民の共通の歴史と将来の団結について言及した。チャーチルにとって、英語を共通言語とする英米の深い歴史的関係を強調することは,植民地帝国は解体に向かうが、イギリスの利益を保護し,アメリカの野心を尊重する新しい国際秩序を形成するための基礎であり,西側諸国の安全保障と繁栄を守り,自由主義的文明の新時代を築くために必要なものであった。そして、本書ではその歴史的根拠を語っているのである。

チャーチルが英米の特別な関係を初めて公にしたのは,戦後の1946年3月5日にアメリカで行った歴史的な「鉄のカーテン」演説であった。この演説のなかでチャーチルは「英米は議会制民主主義や自由主義、コモンローという共通の遺産によって結びつけられており,それは数世紀にわたって進化し,これまでの幾世代の移民によって世界各地に伝道されて来た」と壮大な叙事詩をアメリカ国民に語りかけたチャーチルのこの歴史観は人々の心を打つものであったし間違ってはいない。脱植民地化は大英帝国を崩壊させたが,自由,民主主義,法の支配といった『普遍的価値』を共有する緩やかに結合した共同体を残したからである。「鉄のカーテン」演説は,英語使用諸国民がナチス・ドイツのファシスト枢軸に対して勝利し,彼らが新たに直面するソビエトの共産主義に対する戦争(冷戦)に乗りだす時に行われた。まさに戦後レジームを創造した重要なリーダーの一人がチャーチルであった。

チャーチルは戦後レジームの中でのイギリスの勢力圏を次のように示した。第 1の勢力圏は英連邦:British Commonwealth,第 2の勢力圏はドミニオン諸国とアメリカ,いわば『アングロ圏:Anglosphere』、第3の勢力圏は連合ヨーロッパ( United Europe)であり,イギリスはそれらの勢力圏の結節点にあると主張した。しかし,チャーチルにとって,連合ヨーロッパ、のちのEUへの関与は,冷戦下におけるイギリスの安全保障と英米同盟への関心に比べれば 低くならざるをえなかった彼にとって核心的な問題は、ソ連、共産主義の侵略の可能性があるなかで、アメリカが西ヨーロッパに防衛的な関与を続けるか否かであった。現代のNATOの置かれた状況に類似する。一方で、確かに 1960年代になると,アングロ圏やコモンウェルス市場はイギリスにとってそれほど大きな経済的利益を生まなくなり,イギリスが連合ヨーロッパの一員となって再出発することを望む声が大きくなった。そしてEUに加盟することとなった。しかし,アングロ圏構想は消え去ることなく冷戦終結後に復活することになるのである冷戦終結後の世界においても、依然としてソ連の残滓であるロシアの専制主義と領土的野心の危険性は薄れておらず、むしろウクライナ侵略に見られるような剥き出しの軍事力による脅威が増している。そんな中イギリスとその仲間達にとって安全保障の観点からアメリカが(ヨーロッパ諸国よりも)、以前にも増してより重要であるという認識が生まれることも不思議ではない。その重要性を強調し、アメリカの繋ぎ止めに、チャーチルが用いた『英語諸国民』が共有する普遍的価値観というレトリックとして強調してみせることの重要性が再認識されている。アメリカには今も昔も、基本的にはヨーロッパや他国のことに関心を払わない自国優先の伝統がある。トランプの『America First』は今に始まった話ではない。しかし、アメリカは民主主義と自由、法の支配、自由貿易という『普遍的価値』を共有する国として、戦うべき相手が現れた時には勇猛果敢に登場してきた(ナチスドイツ、ファシズム、共産主義との戦い)。それは、その登場を促したチャーチルのような有能な政治家にして歴史思想家がいたからとも言える。残念ながら今のトランプを『普遍的価値』や自由のための戦いに引っ張り出せる現代のチャーチルはいるのだろうか。新首相スターマーにそれを期待したいが、トランプを大統領に選んでしまうアメリカ人の心を打つレトリックで『普遍的価値』に基づく紐帯を語れるのか。もはやチャーチルの『英語諸国民』というレトリックは、『deal』を叫ぶトランプには通用しないだろう。そもそも『普遍的価値』をトランプは共有しているのだろうか。世界は新たな局面に入りつつある。


日本への眼差し:

ところで、チャーチルは本書で日本をどのように位置付けているのだろうか。もちろん日本は「英語諸国民の国」ではないし、大英帝国の植民地であったこともないので、本書の主題の一つではない。索引で見ると「Japan」は全4巻通じて2箇所しか出てこない。日露戦争と第一次大戦後の建艦競争と軍縮交渉の場面だけだ。日英両国の歴史の17世紀のファースト・コンタクトも19世紀のセカンド・コンタクトにも触れられていない。それにしてもチャーチルは日本に関する知識も関心もはそれほど高くなかったようで、そもそも極東の外交課題には多くの関心を寄せていなかったようだ。しかし日英関係の長い歴史、イギリス王室と日本の皇室の交流を重視しており、彼の意識の中では東洋における国の中で日本は別格の扱いであった。現実の外交政策では、もっぱらヨーロッパやクリミアにおける対ロシア政策において日英同盟が極東側からロシアを牽制するのにちょうど良い同盟であると考えていた。日本が引き起こした満州事変についても、大英帝国がインドでとった帝国主義的な手法と共通するものであって理解を示し、日本の利権確保がイギリスの利権に影響を与えるものでない限り、非難する意図はなかったと言われている。またアジアにおける旧移住植民地・ドミニオン諸国(オーストラリア、ニュージランド)の安全保障の観点からも日英同盟は重要であった。しかし、満州権益、アジアの自由貿易確保に強い利害を有し、日本の帝国主義的な大陸進出に懸念を抱いていたアメリカ(そしてドミニオン諸国の一員であったカナダ)からの強力な圧力を受けて、アメリカとの関係を重視する立場から1921年イギリスは日英同盟を破棄した(更新しなかった)。さらに満州事変から日中戦争へと事態が拡大してゆく中で、中国におけるイギリス利権に脅威が感じられるとアメリカに背中を押され反日政策に転換していった。もともと歴史上も日英両国は良好な関係にあったし、ユーラシア大陸の東西両端に位置する島国という共通点もあり、ロシアという共通の仮想敵を抱え、利権をめぐって対立する関係でもなかった。それだけにチャーチルにとっては、日本を敵対国と見ることには抵抗があり、戦争直前まで日本融和策を取ろうとしていた(駐英大使重光葵の回想)。ホームであるヨーロッパにおいてナチスドイツやソ連の共産主義のような脅威に備えることと、第一次世界大戦後、急速に力をつけてきたアメリカとどのように安全保障上のアライアンスに組み込むか、といった問題こそチャーチルの核心的課題であり、それに比べると日本は良くも悪くもプライオリティーの高い課題になりにくかった。しかし、日中戦争の拡大で中国におけるイギリスの権益が脅威にさらされ、資源を求めて南方進出して来た日本にアジアの帝国植民地が攻撃されるに至っては、アメリカと歩調を合わせざるを得ない所へ追い込まれた。ダメおしはイギリスの正面の敵ナチス・ドイツと日本が同盟を組むに至ったことである。のちにチャーチルは「回顧録」で日英同盟を破棄したことは間違いであったと回想している。日本の親英米派を見捨てて、日本を孤立させナチスドイツに走らせてしまった。歴史にタラレバはないというが、あのとき、チャーチルを含め日英両国の指導者にもう少し歴史を振り返り、将来に向けて俯瞰的な視野があれば、その後の歴史は変わっていたかもしれない。明治維新以来の同盟関係にあった日英両国。イギリスを味方につけることが出来なかった日本。アメリカに唆されて日本を見放したイギリス。敗戦国のリーダーとして処断された親英米派の広田弘毅や近衛文麿の悲劇とともに、戦勝国のチャーチルの政治家、歴史家としての評価も、この点においては減点されなければなるまい。


Volume I: The Birth of Britain

Volume II: The New World

Volume III:  The Age of Revolution

Volume IV:  The Great Democracies

ヘンリー8世時代のヨーロッパ

大航海時代へ