2024年9月18日水曜日

古事記は「やまとごころ」の原典? 〜「日本紀の御局」紫式部はなぜ参照しなかったのか〜

 

古事記 神武天皇東征の図


今年のNHK大河ドラマ「光る君へ」は、平安時代の「源氏物語」の作者、紫式部が主人公の物語だ。NHK大河の主人公といえば戦国武将か幕末維新の英傑、というお定まりのパターンを打ち破る快挙だ。日本の歴史は、軟弱な平安貴族ではなく猛々しい武士によって作られたものだ、と刷り込まれた頭には新鮮な驚きだ。武断的な政治よりも文人政治。武士道よりももののあわれ。剣よりも筆。今年の平安娯楽エンターテイメントには歴史を俯瞰する新たな視座を与えてくれる楽しみがある。そしてまた思いがけない気づきを与えてくれる。

その一つが平安時代の朝廷コミュニティーにおける「日本書紀」(日本紀)の重要性である。源氏物語を読んだ一条天皇は「源氏物語の作者は日本紀の知識を持っているようだ。物語とは別に日本紀を講じてもらいたいものだ」と評したと、紫式部は「紫式部日記」に誇らしげに書いている。そのため彼女は「日本紀の御局」とあだ名をつけられた。この一条天皇の指摘は、源氏物語にはそのストーリーや登場人物のモデルに、日本書紀の隠喩が通奏低音として流れていることを示唆するとともに、日本書紀が正史として重要視され宮廷人の重要な教養科目であったことを明らかにしたものである。平安時代には、男性貴族の間では白楽天や李白のような漢籍、漢詩の素養が重視され、公文書はすべて漢文で書かれたので漢文は必須能力であった。ひらがなは女性の文字とされ和歌や男女間の交歓に用いられた。日本書紀は和書であるが正史であるので漢文で書かれている。主人公の紫式部(まひろ)が和歌だけでなく漢詩の優れた才能を持ち、「女性ながら」漢文で日本紀に通じる才女であった事から、道長に彰子中宮の女御として抜擢されたに違いない

このように日本書紀(日本紀)は正史として、当時の朝廷では、基礎的な知識・素養書として、定期的に文章博士によって講書され読み習わされた。いわば宮廷学の基本テキストという位置付けであった。この事がこのドラマでも描かれている。日本書紀がドラマの中で言及されるとは、さすが倉本宏一先生の時代考証、大石静さんの脚本である。また、源氏物語はモデルとなる人物やエピソードが日本書紀に登場する人物や説話に仮託されていると論ずる著作があり話題となっている(倉西裕子「源氏物語が語る古代史」)。まだ読んでいないが興味深いので今後是非取り上げてみたい。このように平安時代には日本書紀が朝廷における学びの対象になっていたわけだが、その理由の一つは、おそらくその編纂の経緯にあろう。日本書紀の編纂には、藤原一族繁栄の基礎を築いた藤原不比等が深く関わっており、「大化の改新」における不比等の父、中臣鎌足の事績を大きく取り上げるなど、日本書紀には、いわば「藤原史観」が色濃く現れている。藤原一族による摂関政治全盛時代の平安時代に正史、教科書として取り扱われたのも故なしとしない。

一方で、「古事記」の方はどうであったのか。現代人の我々は「記紀」として日本書紀と一括して取り上げることが多いが、意外にも平安時代には古事記が歴史書として論じられることは少なかった。とりわけ古事記で詳細に語られる神代の物語はほとんど公式には取り上げられていなかったようだ。紫式部も源氏物語の中で古事記を引用したり、神話の物語に仮託したりした形跡はほとんど見えない。『紫式部日記』に言及のあった、一条天皇の「日本紀」は明らかに日本書紀のみを指している。そもそも古事記は日本書紀とは異なり、漢文ではなく漢字を音に用いた和語(いわゆる「変体漢文」)で書かれており、公式な書籍という理解ではなかったようだ。さらに当時は稗田阿礼の実在性や太安万侶という人物への懐疑などがあり、古事記が勅撰の歴史書かどうかも疑わしいと考えられていたのだろう。その内容も編年体で書かれた日本書紀と比べると、神話(神代の物語)が全体の三分の一を占め、日本書紀には記述のない高天原神話や出雲神話に多くの紙幅が費やされているなど内容が大きく異なっている。「女子供が好む有象無象の物語」(酷い言い方だが)と考えられていた節がある。せいぜい日本書紀の副読本的な位置付けで学者に読まれたことはあったようだ。そもそもこの頃になると万葉仮名で書かれた「万葉集」が解読困難になっていたように、「古事記」の変体漢文も解読できる人が限られていた可能性もある。その後は時代を経るにつれ、さらに顧みられることが少なくなり徐々に朝廷の表舞台から姿を消してゆく。鎌倉時代には、一部の公卿家や神道の卜部家、吉田家などで秘本扱いで書写が行われたが、世間の日の目を見る機会はなかった。室町時代には現存する最古の写本である真福寺本が登場する。江戸時代に入ると、一部の研究者によって古事記は偽書であるとしてその存在と内容の信憑性を疑う意見まで登場する。

ところが江戸時代、寛政年間になると、本居宣長が、賀茂真淵の影響を受けて(いわゆる「松坂の一夜」)、日本の古典を学び直し、「やまとごころ」を思い起こせよと、古事記や源氏物語をを取り上げて解題、注釈しようという古典研究活動が始まった。とりわけこの頃、解読不能になっていた変体漢文(和語)で書かれた古事記の写本を集め、読みを確定し、意味を正し、文脈を読み解く研究が続けられた。そして、苦心の末に古事記の注釈書として、「古事記伝」が完成し、1798年(寛政10年)に刊行された。宣長は「古事記伝」の冒頭で、日本書紀は漢文で書かれ「からごころ」を意識したもので日本の本当の姿を表していない。和語で書かれた古事記こそが「やまとごころ」を表した古典である。として日本書紀を排除している。しかしのちには、古事記は日本の「心」と「姿」を描いたもので、日本書紀は日本の「歩み」を描いたものである。として日本書紀の重要性も否定していない。本居宣長は仏教や儒教といった外来の宗教や思想を「からごころ」として排し、日本古来の思想や神道を「やまとごころ」として重視した。古事記を。いわば「やまとごころ」の原典として尊重し、そこに日本人の精神があるとした。神道に関しても従来の「からごころ」の影響を受けた仏家神道や儒家神道を批判し、日本古来の神典である古事記によるべきであるとした。この研究と著作の発表により、長きにわたって忘れられていた古事記が俄かに脚光を浴びることとなり、こうした研究が国学の隆盛を導き、やがて水戸学が起き、幕末の「尊皇攘夷思想」、維新の「王政復古」、そして「万世一系の天皇」「皇国史観」の流れを産んだ。古事記はこうして、いわば「皇国史観の神典」「神道の聖典」に祭りげられていった。もっとも本居宣長自身は必ずしも上古の制度の復活を勧めたわけではない。国学という呼び方にも異議を唱え「古学」と称した。すなわち「やまとごころ」の源流を辿る古典研究を目指したものであった。

ちなみに、宣長は「源氏物語」の注釈も行なっていて、一連の講義を開いている。それをまとめたものが『源氏物語玉の小櫛」である。現代でも源氏物語の解説書として重視されしばしば引用される。ここで宣長は源氏物語を「もののあわれ」の文学と説明し、その根底に「やまとごころ」があると断じている。ただ、紫式部は漢籍に通じる才女であり、また「日本紀の御局」と称せられたくらいで、「源氏物語」も漢籍(白楽天、李白など)からの引用や、仏教の教え、漢文で記述された日本書紀からインスピレーションを得ている。すなわち漢詩の「からごころ」と和歌の「やまとごころ」を習合した作品でなのである。「蛍の巻」で光源氏が玉鬘と物語論を語る場面がある。日本紀のような歴史書は物事の一面しか語っていないが、虚構である物語は物事を多面的に描き、結局より多くの真実を語っている、と語っている。北村季吟の『湖月抄』は漢文で書かれた日本紀と和文で書かれた物語を重ね合わせた物語が源氏物語であると注釈しているのに対し、宣長は「からごころ」の日本紀の影響を無視する。「やまとごころ」の物語こそ「もののあはれ」を描くものであると、かなり強引な解釈を示している。

話を戻すと、このように古事記が日本人の思想の基本的な神典として脚光を浴びたのは、18世紀末という比較的新しい時代の出来事であったことを思い起こす必要がある。古事記は712年(和銅5年)の元明天皇への献上以来、一貫して日本の歴史の原典、皇国史観の神典、神道の聖典として表舞台で取り上げられたわけではないのだ。それまで長く忘れ去られていた古籍がこのように本居宣長によって発掘されたことで、やがて幕末維新の尊皇攘夷思想、討幕運動、そして王政復古へとつながっていった。さらには廃仏毀釈、皇国史観による「万世一系の天皇」「現人神」「神国日本」「八紘一宇」といったスローガンも、こうした寛政年間に再発見された古事記に起源を求めることができる。しかし、寛政年間といえば、天明の飢饉を乗り越え、社会が安定し、平和が続き経済も安定していた江戸幕藩体制の爛熟期であった。なぜそうのような時代に盛んになった古典研究たる国学が、やがて幕末維新という国の近代化の時期に尊皇攘夷や討幕といった「革命思想」につながっていったのか。古事記がその聖典になったのか。明治維新の持つ二面性がその背景にあるように思う。明治維新(文明開花、殖産興業、富国強兵)は国の近代化、西欧化を進める一大国家事業であったが、同時に650年続いた武家政権、260年続いた徳川幕藩体制の解体と国家再建事業でもあった。国の近代化もハードルが高いのだが、この長く続いた武士の世を終わらせることのハードルは途方もなく高かった。このために国学が果たした思想的役割は大きい。そして古事記に語られる「皇国史観」の再認識が、すなわち「天皇中心の政治体制への回帰」が、社会の基層に岩盤のように存在する「武士の世」を終わらせる新思想となり、新国家建設のロジックとして活用された。したがって「明治維新:Meiji Restoration」は「革命: Revolution」ではなく「王政復古:Restoration」なのである。西欧諸国に伍した国の近代化のために古事記の古代世界に戻る必要があった。なんと皮肉なことであろう。これは必ずしも本居宣長の目指した国学/古学の帰結ではなかったかもしれないが、後世において「王政復古」のイデオローグとして担ぎ出されたことになる。天皇が主権者として支配する国家。それは大日本帝国憲法第一条に明文化された。ただそれは古代の統治制度をそのまま踏襲するのではなく、イギリスの立憲君主制のようでいて、ドイツの専制皇帝制のようでもあるという、日本の古代天皇制(まさに古事記が成立した8世紀初頭の)に、西欧の近代君主制と議会制を潤色したような「王政復古」であった。しかしその理念である「皇国史観」だけはしっかりと根付かせた。その根拠としての古事記をいわば聖典化して、皇民はそこに書かれていることは史実であると、戦前まで教育されそう信じてきたのである。

戦後は民主化政策に伴い、「皇国史観」の否定が行われ、天皇が自ら人間であることを宣言し、「国民主権」が憲法に謳われる。天皇は「国民統合の象徴」となる。そして古事記も「聖典」の呪縛から解き放たれ、自由な研究が進められるようになった。しかし、いまだに古事記に関しては国家創世神話へのノスタルジア、日本古来の歴史書の存在というプライドから、意識無意識のうちに書かれていることは史実であると信ずる(信じたい)という心情から抜け出せていない。しかもこれは仏教や儒教や、まして西欧思想などの外来思想の影響を受ける以前の日本独自(やまとごころ)の姿だという理解に心動かされる人も多い。そうした歴史観、国家観が披瀝されている著作を今でも目にすることがある。これはもはや合理的な史実認識というより、超越的なストーリーへの信仰である。歴史書というからには、書いてある物語を鵜呑みにするのではなく、その背景を理解し史実を確定するために批判的に解読するという、科学的文献研究姿勢が不可欠であることは言うまでもない。また日本の文化が、大陸からの稲作農耕伝来に始まる様々な外来文化を受容し、独自に変容してきたものであることは紛れもない事実である。元来、文明や文化というものは人の交流に伴って伝搬し、受容され、変容されてその地域に根付いていったものである。この古事記もそうした外来思想の影響の例外ではない。古事記編纂は仏教も儒教も伝来後の所為であるし、そこに展開された多神教的神話は世界中の神話にその痕跡が読み取れるし、多くの伝承も大陸や南方のそれに「祖型」を見ることができる。多分に儒教的思想も随所に表れている。そこで宣言された国家観は明らかに華夷思想の受容と日本的変容である。大陸の王朝の存在を強く意識しつつもう一つの「中華世界」の存在を主張している。それを記した文字自体が外来の漢字を受容し変容させたものではないか。あるいは、古事記が日本精神の神典、神道の聖典であると言うのであれば、それは聖書がキリスト教の聖典であるのと同じである。聖書は歴史書ではない。そこに記録された神の教義を信仰しその奇跡を信じても、それは人間の歴史を語ってはいない。神話と歴史、神の摂理と人間の理性。神学と哲学。信仰と科学。17世紀のベーコンやデカルトが開いた近代合理主義哲学思想と科学の発展の恩恵を共有するならば、そして科学的合理主義を明治期に受容し近代化を図ってきたことを自負するならば、神話と歴史を分けて考えなくてはいけない。本居宣長が言うように、古事記に記述されているのは「日本のあゆみ」:歴史ではなく神話に仮託された「やまとごころ」である。古事記は、世界から伝わった思想、伝承や習俗といった多様な文化の受容と、日本独自の多神教的習合、変容から生まれた稀に見る古典遺産であり、「やまとごころ」はそのようにして育まれた。そのような視点で古事記を読むべきであろう。そうしたものであるが故に翻訳され(ウェイリーやサイデンステッカ)世界の人々に広まり愛されているのである。文化の持つ普遍性である。





参考過去ログ:





2024年9月1日日曜日

古書をめぐる旅(55)『フランシス・ベーコン書簡集』(2) 〜続編:フランシス・ベーコン VS. エドワード・コーク〜



Edward Coke and Francis Bacon
National Portrait Gallery


前回のブログで、このベーコン書簡集が、「偉大なる哲学者」としてではなく、王権への追従と処世術に長けた「卑しむべき政治家」としてのベーコンの姿を知る上で貴重な資料だとして紹介した。しかし、この書簡集の価値はベーコンの名声を貶めることにあるわけではない。その重要性は、王権に対する議会の優位性、コモン・ローの優位性と『法の支配』というイギリスの立憲君主制の成立の歴史、世界に影響を与えた近代政治思想、憲政史の成立経緯を知る上での貴重な歴史文献であるという点においてである。この書簡集に度々登場する彼の政敵エドワード・コーク:Edward Cokeとの法律論争、政治対立にそれを知ることができる。

時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 古書をめぐる旅(54)『フランシス・ベーコン書簡集』 〜偉大なる哲学者と卑しむべき政治家〜: 『ベーコン書簡集:Letters of Sir Francis Bacon』1702年初版 ジェームス1世治世時代の書簡集 国王ウィリアム3世への献辞 『学問の発展:Advancement of Learning』1605年初版  1829年刊 "Dove's ...



『ベーコン vs コーク論争』:

この書簡集で最も興味を惹かれるのは、フランシス・ベーコン(Attoney General:法務長官)とエドワード・コーク(Chief Justice of Court of Kings Bench:王座裁判所首席裁判官)という二人のライバルの熾烈な戦い、すなわち『絶対王権擁護派』と『コモン・ロー/議会優位派』の争いにまつわる書簡である。世に言う『ベーコン vs コーク』論争という歴史上の司法権論争、政治闘争の顛末が、ベーコン側の視点で描かれていることである。具体的な裁判事案において、国王大権を重視した判決を求めるベーコンと、コモン・ローに基づく判決を出そうとするコークの法律論が生々しく記述されている。ベーコンは国王やその側近のバッキンガム公(当時はまだサー・ジョージ・フィラー:Sir George Villier)へ盛んに手紙やメモを送り、国王への忠誠と、法律論争における自説の正しさを強調している。またコークに対する長々とした意見書が残されており興味深い。後世の英米法の歴史、政治思想史を知るものとしては、ここに表出するベーコンの主張が『法の支配』『立憲君主制』『議会制民主主義』の持つ価値観への対抗概念としての『国王大権の優越』として描かれている点で興味深い。一方のコークの反論はベーコン書簡集には採録されていない。しかし、彼の思想と理論は彼の著作と判例集に明確に表明されており今に伝わっている。コークは国王からの「王は法律の枠外だ」という叱責に対して「国王といえども神と全ての法律の下にある」という、13世紀の著名なローマ法学者ヘンリー・ブラクトン:Henry de Bractonの法諺を引用して反論している。これは『法の支配:Rule of Law』『法の優位性:the Supremacy of Law』として近代憲法の基礎となる法理論である。この時ベーコンは国王の法務長官として、『国王大権の優位:the Authority of the Crown』を支持し、コモン・ローの優位は王権を危うくする法理だとしてコークを激しく叱責している(詳しくは後述)。結局、コークは敗れて王座裁判所主席判事を解任される。こののちコークは法曹界を離れ政界に転じ、議会の中心的人物として絶対王権に対峙することとなる。一方のベーコンは国王の信任を得て大法官へと大出世する。さらに子爵、男爵に叙せられる。まさに彼の処世術が功を奏し、念願の宮廷官僚トップに登り詰め、貴族に列せられた瞬間であった。しかし、そのベーコンに思いがけない結末が待っていた。司法界で失脚させられたコークは議会をリードし、ついにベーコンを収賄の罪で告発して、大法官解任、ロンドン塔送りにという劇的な幕切れとなる。国王に救済されてロンドン塔を出獄したもの、ベーコンはこののち公職には復帰せず、余生を執筆活動と自然観察、科学の実験に没頭する。大法官ベーコンのキャリアは終わり、哲学者、科学者ベーコンはこうして生まれた。

一方のコークは、こののちジェームス1世の息子で王位を継いだチャールズ1世に対し、1628年「権利の請願:Petition of Right」を起草し、「清教徒革命」の起点となった。これがイギリス憲政史、政治史に残る業績を残す。『立憲君主制』、すなわち王権に対する議会とコモン・ロー優位、『法の支配』という現代につながる憲法思想、政治思想の登場となった。やがて議会によりオランダからイングランド王に招かれたオレンジ公ウィリアム(即位してウィリアム3世)とメアリー2世はこれを受け入れ、「権利章典:Bill of Rights」に署名する。これが名誉革命である。この『ベーコン書簡集』は、1702年に出版され、この国王ウィリアム3世に献呈された。こうした歴史の上に成立した王権であることを認識すべしという趣旨なのであろう。まさにこの書簡集の出版と国王への献呈自体が歴史的な出来事と言っても過言ではない。このようにベーコンは政治的敗者となり、コークは憲政史上に名を残すこととなった。これが「偉大なる哲学者」ベーコンのもう一つの姿であった。ただこの書簡集の編者であるロバート・スティーブンス:Robert Stephensは、「コークはあまりにも有能で偉大なる法律家であった。ベーコンは法律家としてはそれには及ばなかったが、偉大な哲学者で科学者であり、その政治的な敗北にもかかわらず、払われるべき敬意に変わりは無い」と解説している。


その要点と顛末:

論争の要点をまとめると、ベーコンの、国王大権を絶対視(the Authority of the Crown)。王権神授説を支持し絶対王政擁護という立場。すなわち議会と裁判所は国王大権の下にあるという考えに対し、コークは中世以来のイングランドの伝統であるコモン・ローと裁判所の独立、議会/庶民院の優位(the Suprimacy of Law)を主張。王権といえども法の下にある、すなわち議会と裁判所は王権の下にはないとした。イングランドは13世紀の「大憲章:マグナカルタ」以来、スペイン、フランスなど大陸諸国に比べ、議会に対して王権が相対的に弱いという歴史を歩んできた。しかし、とはいえ王権と議会の間には常に緊張関係が続き、この17世紀初頭のチューダー朝からスチュアート朝という絶対王政下の議会と司法、その王権との関係に改めて論争を巻き起こしたのが、この『ベーコン vs コーク論争』であった。

ことの発端は裁判所の管轄争いであった。1606年コークは民事高等裁判所主席判事:Chief Justice of Common Pleasに就任し、コモン・ロー重視を鮮明にした。コークはコモン・ロー裁判所として民事高裁、王座裁判所、財務府裁判所の権限を拡大。エクイティ/衡平法裁判所である大法官裁判所:Court of Chancelie、国王の行政部裁判所である星室庁裁判所:Court of Star Chamber、、国教会の裁判所である高等宗務官裁判所:Court of High Commissionなどのコモン・ロー以外の裁判所の権限拡大の動きと対立した。また「コモン・ローに反する制定法は無効である」とし、王権よる恣意的な立法に対する違法性(違憲性)を主張した。また国会の立法権に対するコモン・ロー裁判所の優位も主張した。これはのちにイギリスでは踏襲されなかったが、アメリカ合衆国憲法に定める(日本国憲法にも定めがある)「違憲立法審査権」につながる法理である。そもそもスコットランドから来た国王ジェームス1世は「王権神授説」(ロバート・フィルマー)の信奉者であり、イングランドの伝統であるコモン・ローを理解しようとしていなかった。ベーコンは国王大権擁護の立場からこうしたコークの法思想を批判。国王ジェームス1世に議会や裁判所との関係について法的な助言送り支援した。ジェームス1世は、1613年にはコークを王座裁判所主席裁判官:Chief Justice of  Court of King's Benchに昇進させた。これは一見栄転のようでいて、コークを自分の目の届くところに置くとともに、無報酬に近い名誉職ポジションへの異動させた左遷であった。一方ベーコンは国王直下の権力ポストである法務長官:Attoney Generalに昇進する。

1616年、国王の側近サマセット伯爵ロバート・カーの殺人事件裁判では、ベーコン(国王の法務長官:Attoney General)とコーク(コモン・ロー裁判所としての王座裁判所主席裁判官:Chief Jastice of the Court of King's Bench)は、最初は協力して、訴追、裁判手続きを進めたが、その裁判過程で「裁判所は国王大権の擁護者たるべし」というベーコンと、「裁判所は国王と人民の調停者たるべし」とするコークの思想的な対立が鮮明になってゆく。また国王が裁判に介入しようとする動きに対し、コークは「法解釈は国王ではなく裁判官に任せるべきだ。なぜなら彼らは法律の専門家であり、イングランドの慣習法、判例法に関する知識と経験を有しているから」と反撃した。また、ベーコンは、裁判官は国王によって任命されるのだから、いかに強力な権限があると言っても他の廷臣と同様に国王の指示に従うべきである(「君主の下の獅子:Lion under the Throne」論)と。さらに、そもそも王権は神の意思に由来するもの(王権神授説)であり、「法は国王が作るもの」したがって「国王は法律の上にある」とするのに対し、コークは裁判官が国王の恣意で解任されるようなら公正な裁判はできないとその独立性を主張。また、先述のように「国王といえど神とすべての法律の下にある」(ヘンリー・ブラクトンを引用)、なぜならば「法が国王を作った」と反論した。ベーコンは、コークの法理論、コモン・ロー裁判所の独立は国王大権を危うくする危険思想であるとして非難。この論争は法律問題ではなく、コークが政界における権力の増大を図ろうとする政治闘争だとして個人攻撃にまで発展した。結局ジェームス1世はベーコンの助言を聞き入れ、コークは王座裁判所主席裁判官を罷免され司法界を追放される。前述の通り、ベーコンはその後、国王の絶大なる信頼を得て1616年には枢密顧問官、1617年には国璽尚書、1618年には宮廷官僚のトップ大法官:Lord Chancelorと順調に出世階段を駆け上る。ベーコンは「人間の理性による真理」を説く経験論哲学の開祖であるが、同時に「神の啓示のよる真理」も否定しなかった。『科学』と『宗教』の二元論。これは彼の哲学的思索から生まれた論理的帰結なのか、それとも政治的処世術の中で培われた功利主義的帰結なのか。

ただ、コモン・ロー裁判所に対するエクイティー(衡平法)裁判所という司法の二重構造はイングランド独特のものであり、元々は中世以来のコモン・ローによる法の固定化と、判断結果の妥当性に関する不満(特に商業活動の活発化・資本主義の伸長に伴う)に対する対策として、大法官裁判所が国王の慈悲や調整を求める「請願」を受け付ける場として現れたことに始まる。国王の行政部裁判所(星室裁判所など)もチューダー朝時代にはそのような「衡平」の観点から運用されていた。したがってエクイティー裁判所自体が反動的な裁判所であったわけではなく、むしろ法の進化に伴う産物であったことは注意しておかねばならない。しかし、チューダー朝時代にうまく機能していたエクイティー裁判所や行政部裁判所が、スチュアート朝のジェームス一世、チャールズ1世になって、「王権神授説」に基づく国王大権の絶対性擁護の場として利用され始め、コモン・ロー裁判所と対立。臣民の不満が爆発するに至ったことから、このような争いに発展した。それがベーコン vs コーク論争の実態であった。

一方のコークは司法界から追放された後、活躍の場を議会:Parliamentへ移し、下院:House of Commonの議員(MP)として王権と対峙してゆく。当時の下院は、ジェントリー層(平民の地主)出身者で占められており、王権に対する議会の持つ憲政上の立場をよく理解していない議員が多く、またコークのような法律の専門家が少なかったことから、彼はメキメキと頭角を表し、ジョン・ピム:John Pym(のちにコークの後継者となる)、ジョン・エリオット:John Eliot(のちに投獄され獄死する)などの有力議員の信頼を得て支持者を増やし議会をリードする。国王ジェームス1世の失政を糾す「大抗議:Protestation」を起こし、ピムと共に投獄される。やがて、1628年にジェームス1世の後任、チャールズ1世の時代になると、国王の専制主義的統治に異を唱え、「権利の請願:Petition of Rght」をピム等の議員と起草。議会を無視した課税、借金、法律に寄らない逮捕、拘束に対し抵抗など、王権の専横を止める動きに出た。1642年のピューリタン革命の引き金を引いた。コークは、1215年にジョン王が署名した歴史的な「大憲章:Magna Carta」を貴族や聖職者の権利を守るためだけのものではなく、すべての臣民を守るためのものであるとして、歴史的なドキュメントに再び光を当てた。「大憲章はその上に王を持たない」と論じた。この思想が『権利の請願:Petition of Right』を生み出し、さらに彼の死後、1688年の名誉革命の時に国王ウィリアム3世が署名した『権利章典:Bill of Rights』につながった。ただ、コークは王権そのものを否定することはなく、彼の死後に起きたクロムウェルの共和制のイデオローグとはならなかった。むしろ王政復古:Restoration後の『立憲君主制』への道に導く役割を果たした。コークが近代法において「法の支配:Rule of Law」の原則を打ち立てた功績は大きい。


ベーコン書簡集に滲み出る臨場感:

ベーコン書簡集には、政敵エドワード・コーク宛の手紙が2通採録されている。1通は長々とした手紙で、貴族らしく極めて婉曲で、トーンとしては親愛なる友への助言という形をとっているがかなり厳しい論調の手紙になっている。三つの問題点を指摘しているが、基本は、先述の論争ポイントにあるように、国王大権を守れ、それが国王に任命された裁判官の務めであるという主張で貫かれている。またコモン・ロー体系の判例集としての不完全さと、法としての客観基準とするための整備、編集の必要を述べている(のちにコークの「判例集」に対抗してベーコンとしての判例集」Report編纂を試みている)。さらに、法律家としての敬意は払うが間違いを放置すると好ましくない結果が自身に跳ね返るだろうと、婉曲ではあるが警告に近い助言をしている。長文ではあるがこの書簡からだけでは、後世に整理された「ベーコンvsコーク」の論点は美文の中に埋もれていて、現代の凡人にはクリアーに理解できないのが悲しい。一方で、国王への手紙では、裁判所の管轄権をめぐる争いについて自説を展開し、いかに自分が国王に忠誠心を持っているか、国王大権の擁護者であるかを繰り返している。コモンロー裁判所と大法官裁判所の管轄権についても、コモンロー優位の危うさ、さらに「その危険思想に対する警戒感」を申し立て、コークの罷免を助言するなど、生々しい攻防のありさまが描かれている。これらの書簡を読むと、歴史の現場にタイムスリップして「ベーコン vs コーク論戦」をライブで観戦する感がするが、17世紀イングランド宮廷における論争とはこのようなレトリックで行われていたことを知ることができる。現代でもイギリスのインテリや教養人は論争で大声をあげて相手を誹謗中傷することは品格に欠けることと考えている節があるが、その中身は辛辣で皮肉たっぷりである、その伝統のルーツを見る感がした。

また、この書簡集には、やはり国王ジェームス1世宛の手紙が多数採録されている。公務に関して書簡(報告、連絡、相談、許可、同意)を送ることは宮廷官僚の業務執行上の義務でもある。まして王権に追従する廷臣としては不思議なことではないだろう。ベーコンが国王と議会と裁判所の関係を調整しようとする努力の跡が見える。興味深い書簡に、ベーコンが自分の著作『Novum Organum』を国王ジェームス1世に献呈した時の書簡と、それに対するジェームス1世の礼状がある(1620年10月)。ベーコンは、この前の著作『Advancement of Learnings』でも述べているが、本書でもいわば『科学立国政策』を国王に提言している。そのような中世的な神学の世界から脱した科学的な革新国家が、英邁な君主によって導かれる姿を理想として描いている。ジェームス1世はベーコンの著作のファンであった様子が返信からわかる。王権神授説の信奉者で、魔女狩りを支持する『悪魔論』を書いた王であるが、ベーコンの語る、科学の可能性に興味を示す合理主義的なインテリ国王の側面を覗かせている。また、ベーコンもそんな国王を「史上稀なる(伝説のソロモン王にも劣らぬ)英邁で開明的君主」と持ち上げることを忘れていない。国王への追従はとどまるところを知らぬ。文字通り「陛下の慎ましやかなるしもべ:Your humble servant」、「最も従順なる家臣:Your most obedient subject」ベーコンである。

またベーコンの後ろ盾であり、ジェームス1世の寵臣であったジョージ・フィラー:Sir George Villier(のちにバッキンガム公爵)宛の手紙も数多く採録されている。これもベーコンが宮廷内で出世し生き延びてゆくには欠かせないコレスポンダンスであることは言うまでもない。よく知られる『ベーコン政治マニュアル』は数回の手紙に分かれている。ベーコンは1618−1620年にバッキンガム公宛に、国政運営、議会対策、裁判所対策など広範な国政に関する留意点をまとめ、バッキンガム公が国王中心の政治を担うに相応しい政治家になるよう助言する、いわば国政指南書を贈り続けた。しかしバッキンガム公はこのベーコンの助言を十分に理解せず、国王の寵愛をいいことに派閥政治、情実政治、身内優先の特権政治に終始し議会と対立。コークがリードする議会から弾劾を受ける。結果としてベーコンもこれに巻き込まれることとなる。先述の通りベーコンは1621年、議会から収賄の罪で告発され、有罪となってロンドン塔送り、大法官解任となるが、彼の失脚は、こうしたバッキンガム公の政治スキャンダルが引き金となり、スケープゴートにされてしまったとも言われている。この書簡集の背景で蠢いていたベーコン失脚のシナリオが徐々に透けて見えるようでスリリングだ。

書簡は、政治や公務にとって重要なコミュニケーション媒体であり、公的な記録としての性格も持っている。また引退後に書く自伝的な著作とは異なり、まさに現役真只中のリアリティーと臨場感に溢れている。そう意味において歴史研究に欠かせない重要史料である。ベーコンの書簡は、ギリシャ哲学、スコラ哲学、ラテン語の人文系素養と科学的知識を持った知性と教養の人、上流階級ならではの表現で書かれており、多くの格言、詩、偉人の言葉の引用が散りばめられている。また、婉曲な表現や暗喩、尊敬語や謙譲語が多用され、国王を持ち上げ、へり下り、バッキンガム公を持ち上げ、コークをこき下ろす内容が美しい修辞法によって綴られている。それはあたかも一編の詩を読むようである。しかし、現代の人間にとっては一読しただけでは意味不明な表現が多く、加えて17世紀初頭の古文書の英語解読には難儀する。もっとも現代の役所の公文書も繁文縟礼あるいは玉虫色表現で、結局何をいっているのか意味不明なものが多いのでそういう点では似たり寄ったりとも言えなくはない。それにしても古文献解読には訓練と古典に関する知識、教養が不可欠だ。よく、報告書やプレゼンテーションは「アナログで書くのではなくデジタルで書け」などと諸先輩方にご指導賜った現代の組織人にとっては、そもそもアナログで書く文章とは、凡人の筆による「言語明瞭意味不明」な文章ではなく、このような「美文」のことであったかと、妙に感心させられおかしい。若き日に携わった労使交渉の記録や妥結書の玉虫色の表現を「労働文学」などと揶揄していたのを思い出す。



参考文献:

1)ウィンストン・チャーチル「英語諸国民の歴史:A History of English Speaking Peoples」1956年刊 第2巻「The New World」2024年7月5日「古書をめぐる旅(52)」チャーチル「英語諸国民の歴史」

第2巻の『ジェームス1世時代』のパラグラフで、ベーコンとコークの論争が現代的視点で解説されていてわかりやすい。ベーコン書簡集の17世紀英語と修辞法に難儀すると、このチャーチルの著作が良き解説書に見える。チャーチルはコークの役割をより高く評価している。ここではベーコンを経験論哲学/科学の父というより王権擁護派の宮廷法務官僚と看做している。概してイギリス、アメリカの憲政史、政治史的視点で見るとコークの果たした役割の方が重要視されており、このチャーチルの評価が定説なのであろう。「ベーコンにお会いしたければ哲学の部屋へお越しください。こちらではちょっと...」と言っているようで。

2)英米法概説』田中和夫 有斐閣 昭和46年初版、48年改訂

学生時代の英米法に関する基本書である。第3章の「法の支配」でエドワード・コークの紹介と、コーク vs ベーコン論争が取り上げられている。第6章の「コモン・ローと衡平法」で歴史的背景、論点が詳細に解説されている。




エドワード・コークに対する助言、意見

バッキンガム公への政策提言

国王ジェームス1世への「Novum Organum」献呈

国王ジェームス1世からのベーコンへの礼状




エドワード・コーク:Edward Coke略歴:

Edward Coke (1552-1638)

法律家。政治家にして、コモン・ロー・議会の国王権力に対する優位性を理論化し、『権利の請願』を起草したイギリス憲政史を飾る功労者。法律家、政治家としてはベーコンよりもコークの方が歴史(近代法制史、政治史)に名を残している。

1552年 ノーフォーク、ノリッジに生まれる
1567年 ケンブリッジ、トリニティー・カレッジ卒業  オックスフォードと異なりプロテスタント色が強い
1572年 インナーテンプル法曹学院卒業
1578年 法曹資格取得
1589年 下院議員にHouse of Common
1592~1594年 法務次官:Soliciter General
1606-1613年 民事高裁主席裁判官:Chief Justice of Court of Common Pleas 
コモン・ローの優位を説く
1613−1616年 王座裁判所主席裁判官:Chief Justice of Court of King's Bench 
1614年 ケンブリッジ大学 High Steward(副学長)
1616年 国王、法務長官:Attoney General ベーコンとの対立で解任。
同年 ベーコンは大法官:Lord Chancelorに
1620年 ピューリタン、アメリカへ移住開始(ピルグリム・ファーザーズ)
1621年 法曹界を去り議会:House of Common議員(MP) 王権と対峙。
同年 ベーコンは議会からの汚職告発で大法官解任 引退
同年 国王に対する議会の「大抗議」Protestation」 同志のジョン・ピムと共に投獄
1626年 ベーコン死去
1628年 新国王チャールズ1世に対し、『権利の請願:Petition of Right』起草 議会の承認無き課税、法律無き逮捕を禁ずる。イギリス革命:Civil Warの口火を切る
1629年 政界を引退
1634年 死去(82歳) 彼の後継者ジョン・ピムが『反絶対王権』闘争を継続
1640年 チャールズ1世 短期議会 議会無視を続ける
1642−1649年 ピューリタン革命 国王チャールズ1世処刑、クロムウェルの共和制
1660年 王政復古 チャールズ2世即位
1688年 チャールズ2世追放 名誉革命 ウィリアム3世/メアリー2世即位 『権利章典:Bill of Rights』


主要な著作:

『判例集全13巻』:Reports 1600-1615,1656 イギリス慣習法の基礎をなす
『イギリス法提要全4巻』:Institute of the Law of England 1628-1644

文学のシェークスピア、哲学のベーコン、法律のコーク。