『ベーコン書簡集:Letters of Sir Francis Bacon』1702年初版 |
ジェームス1世治世時代の書簡集 |
国王ウィリアム3世への献辞 |
『学問の発展:Advancement of Learning』1605年初版 |
1829年刊 "Dove's English Classics"シリーズとして刊行された小型本 |
美しい革装の手帳サイズ小型本 |
Sir Francis Bacon (1561~1626) (Wikipediaより) 1618年大法官就任の頃の肖像か |
「偉大なる哲学者」ベーコン:
フランシス・ベーコン:Sir Francis Bacon(1561〜1626)は、ルネ・デカルト:Rene Descartes(1596〜1650)と共に17世紀を代表する哲学者である。「知識は力なり:Scientia est potentia:Knowledge is power」という言葉で知られるイギリス経験主義哲学の祖、そして科学の父である。自然の動きを観察、思索し、そこから導き出される知識を理性の道具として実利に活用する。すなわち実験や観察を用いた科学研究の重要性を説いた。そうした外部から得られる経験知、そこから真理を引き出すという帰納法による認識論を出発点とする経験論哲学の祖である。ベーコンは近代哲学と科学の発展に大きな影響を与え、ホッブス、ロック、ヒューム、ニュートン、スミスなどイギリス啓蒙主義思想の源流ともいうべき人物である。中でもロックはベーコンの経験主義哲学を体系化した(2024年2月10日ジョン・ロック全集)。ベーコンの代表的な著作に『学問の進化』1605年、『随想録』1612年、『ノヴム・オルガヌム』1620年、没後に発表された『アトランティス』1627年、などがある。また、ベーコンは生前にその知の体系化に挑んだが未完であった。しかしその挑戦はのちのボルテールやディドロなどの百科全書派に影響を与えた。一方のデカルトは絶対的な真理を求めるために全てを疑ったのちに残るもののみを真理とした。代表的な著作が『方法的懐疑』である。「我思う故に我あり:Cogito ergo sum」という有名な言葉に代表されるように人間の内なる理性を出発点とする演繹法による合理論哲学の始祖とされる。しかしどちらも真理の認識の根源を、中世のスコラ哲学的な『神の摂理』や『信仰』という人間の外的権威ではなく、『理性』や『感覚』という人間自身の内面に見出した。こうして真理の認識が宗教の呪縛を脱し、近代哲学、科学が始まった。そういう意味でもベーコンは17世紀イギリスが産んだ、世界を変えた『偉大なる哲学者』である。
ベーコンのもう一つの顔とは?:
しかし、ベーコンにはもう一つの顔がある。それは絶対王政時代のエリザベス一世、ジェームス一世の側近にして大法官まで上り詰めた宮廷官僚、極めて世俗的な政治家としてのそれである。イギリス絶対王権からイギリス革命へと向かう激動の時代、王位継承闘争、カトリックと国教会とピューリタンの血みどろの戦い、コモン・ローと議会と王権の戦いの中で、徹底して王権に追従する毀誉褒貶の多い政治家であった。最後は汚職の罪でロンドン塔へ送られ解任される。
ベーコンは、熱心なプロテスタントの家庭に生まれ、父はニコラス・ベーコンで、ヘンリー8世、エリザベス1世の国璽尚書、大法官という宮廷の高官を務め、母は名門貴族出身でカルバン主義のプロテスタント。いわば二世政治家である。ケンブリッジのキングスカレッジに進むがギリシャ哲学より自然研究に傾倒し中途退学。法律家になるためにグレイ法曹学院へ。在籍中に駐フランス大使に伴われ、フランスに3年滞在。帰国して法律家になり、23歳でエリザベス女王治世下で下院議員となる。女王の側近の一人秘書官フランシス・ウォルシンガムの下で諜報活動に携わる。やがて女王の寵臣エセックス伯爵の庇護を受け顧問となるが、1601年にエセックス伯が失脚して処刑されると、一転してエセックス伯を断罪する側に回る。しかしエリザベス治世時代には議会における失策で女王の不興を買い出世できなかった。1603年、スコットランド王であったスチュワート家のジェームス6世がイングランド王に即位してジェームス1世になると今度は、この王権神授説を唱えカトリックの王に取り入ろうとする。スコットランドからやって来てイングランドで半ば孤立していたジェームス1世の熱心なサポーターとなった。ベーコンは国王大権を重視する絶対王政擁護の立場に立ち、絶対君主で啓蒙君主がベーコンの法律家たちに支えられる体制が一番効率的であると考えた。しかしこの主張は非現実的であまり広く受け入れられたとは言えない(ウィンストン・チャーチル「英語諸国民の歴史」)。ベーコンは、コモン・ローによる「法の支配」、議会を重視するエドワード・コークという政敵と対立した。やがてコークを司法界から追い落とすと1618年には最高位の大法官(Lord High Chancellor)に任ぜられ、ヴェラム男爵に。続いて1621年にはセント・オルバンス子爵に叙任され国王の寵臣となって出世する。しかし、同年に議会から汚職の罪で告発され、罰金、ロンドン塔送り、公職追放、たった3年で大法官解任となる。国王の救済により4日で出獄するが、公務に復帰することなく閑居して執筆活動や科学実験に没頭した。ある雪の日にロンドン・ハイゲートで帰宅途中、鶏肉を雪の中で保存できないかという実験を思いつき、その場で地元の農夫から鳥を買ってきて実験した。その時の風邪がもとで1626年にこの世を去った。あくなき探究心と実践の人であったというエピソードとして後世に伝えられている。哲学者ベーコンの実業は宮廷官僚、法務官僚、政治家であった。
「卑しむべき政治家」?:「ベーコン書簡集」に見る彼の実像
こうしたベーコンの徹底して王権に追従する姿勢と、終生猟官運動に身をやつした世俗的な功利主義者としての生き様を窺い知る資料の一つに、今回紹介する『ベーコン書簡集』がある。この「書簡集」は王室歴史家のRobert Stephens(1665-1733)によって、ジェームス1世治世下の宮廷官僚ベーコンの手紙やメモが採録編纂され、没後76年の1702年に初めて公開、出版されたものである。ベーコンは前述のように、後世に影響を与えた著名な著作を多く残しているが、この1702年初版の書簡集は意外にもあまり取り上げられる事が少なく、極めて貴重な古書である。彼の思想を知る上だけでなく、当時のイングランドの政治情勢、イギリス法の成り立ちとその後の『イギリス革命』につながる時代背景を知る史料としても貴重なものである。また興味深いのは、本書は『名誉革命』後の立憲君主制の時代に上梓されたもので、オランダからイングランド王位についた国王ウィリアム3世への献辞がある。ベーコンの書簡やメモを振り返って、これまでのイングランド王室の事績を知り、現在、未来を考える参考になるものと信じる旨の言葉が添えてある。出版のタイミングと、この献辞の存在により、この書簡集の歴史的価値が明確になる(ちなみにウィリアム3世の死去に伴い、この献辞を取り除いた版があるようだ)。そこにはベーコンの国王ジェームス1世や国王の寵臣バッキンガム公など宮廷諸侯に対する、国政や法律、人事に関するさまざまな意見やアドバイスなどが書簡や覚書の形で記録されていている。政敵であるエドワード・コークへの手紙も掲載されていて興味深い。しかし、その行間ににじむのは、彼の哲学思想に通底する『知識は力なり』の意は、政治思想的には「知識(知性・理性)を持った人物(王)が力(権力)を持たねばならない」という絶対王権の擁護(啓蒙君主への期待を含め)の論理に見えてしまう。そのベーコンの姿は、偉大なる哲学者のイメージというより、国王への追従と処世術にたけた世俗の政治家、法律家というイメージである。また、1605年に国王ジェームス1世に献呈された『学問の発展』:Advancement of Learningにも、科学の発展に如何にジェームス1世のような英邁かつ開明的な国王が貢献しているか、を繰り返し強調するなど、ここでもとめどなく王権にへつらう姿が見える。こうしたベーコンの姿勢を、「最も輝ける、最も賢明な人物、そして最も卑しむべき人物」と、イギリスが誇る詩人で風刺家のアレキサンダー・ポープは評している。現代でもこのポープの評価が定着しているようで、日本における政治思想研究者である原田鋼も、ベーコンの人物像を「科学的思索力と世俗的な適応力との間のズレをこれほど顕著に示した思想家は数少ないであろう」と評している(『西洋政治思想史』)。近代哲学・科学の祖とは言え、日本ではデカルトほどの人気がないのはこのせいなのであろうか。また、ヘンリー8世時代、1529年に処刑された大法官トマス・モアが、国王権力に対してコモン・ローの独立を主張した硬骨漢として歴史に名を残し、支配階級トップの大法官という地位にありながら、庶民的な視点とヒューマンな精神を失わなかったとの評価に比べ、どう見てもベーコンは道徳的に優れた人物には見えない。「偉大なる哲学者」、「卑しむべき政治家」。どちらもベーコンの実像であるが、この両者に矛盾はあるのだろうか。バートランド・ラッセルは、「ベーコンは当時の人物としては特に他者に比べて劣った人物であったわけでないし、かといって優れた人物であったわけでもない。言ってみれば道徳的には普通の人物であった」(『西洋哲学史』)と評している。当時の宮廷内では王権へのへつらいや政敵を貶める陰謀、賄賂など普通のことであったから、それだけで特に卑しむべき人物というわけではないということのようだ。ただラッセルは、ベーコンのこうした極めて世俗的な政治家としての生き方が、ベーコンの哲学者としての功績に一定の影響を及ぼしたと批判的評価をしている。ラッセルはベーコンの主治医で血液循環論を打ち立てたハーヴェイの「彼は大法官のように哲学を書いている」という言葉を引用し、「ベーコンが世俗的な成功に対する関心がもう少し無かったら、哲学者としてもっと優れたことがやれたであろう」と評している。
魔術から科学へ:
実はベーコンという人物は今なお謎に満ちたところがある。シェークスピアはベーコンのペンネームであるとか、『薔薇十字団』という秘密結社の会員として暗躍したとか、ハイゲートの実験の時の風邪で死んだのではなく、生きて密かにドイツへ逃亡した、といった伝承がまことしやかに語られている。これは彼が生きた時代は、暗い中世から光溢れるルネッサンス、そして科学的合理性の近代への通過地点で、ベーコンのような知性が経験した複雑で矛盾に満ちた『境界の時代』であったという背景を理解する必要がある。ラッセルの批判にこういうのがある。「ベーコンは学問の進化の中で数学を十分に説いていない。あえて避けているようである。また科学的アプローチを重視したが、当時科学がなしつつある多くのものを見落としている。コペルニクスを無視し、ケプラーすら無視している。これは科学に対する怠慢である」(『西洋哲学史』)と。経験論(実験、観察による)と数学という哲学的問題が潜んでいるが、実は17世紀初頭のイギリス社会はまだ『魔女狩り』が盛んに行われていた。ともすれば科学が錬金術と同義であったり、数学が占星術や魔術と同一視されたルネッサンス期の考えを引きずっていた時代であった。まさにベーコンが開こうとした『魔術から科学へ』の時代の前夜であった。彼が仕える国王ジェームス一世も、即位前に「悪魔論」1598年を著して『魔女狩り』や『火焙り刑』を支持していた。さらに神の意思による王権の絶対性を主張する『王権神授説』(フィルマーが唱導し、ロックが「政府二論」で批判した)の信奉者でもあった。こうした時代の空気の中、知識人や思想家が魔術や妖術と関わることを避け、そのような嫌疑をかけられることを恐れた。ベーコンはそんな『魔女狩りパラノイア』が蔓延する17世紀初頭のイギリスで科学的学問の進歩の重要性、人間の理性に基づく真理を説いたのだが、それには多くの困難と危険が伴い、その中で慎重に進めなければならなかったに違いない。まして国王に追従する廷臣としては、処世術としてもその言動には慎重を期したことだろう。ベーコンの汚職の告発と投獄、大法官解任は、身内優先、情実政治で議会の反発を受けていた国王の寵臣、バッキンガム公の宮廷内のスキャンダルのスケープゴートにされたものであるが、こうした「魔術から科学へ」というセンシティヴなコンテクストの中で理解すべきであるとする見解もある。しかし、ベーコンが世俗の処世リスクを恐れず果敢にそのような妄執の時代に挑戦していたら、「科学への怠慢」とか「道徳的には普通の人物」とか「哲学者としてもっと優れたことがやれたはず」などというラッセルの批判は受けなかったことだろう。ベーコンは、彼の代表的著作『ノヴム・オルガヌム』の中で、『知識』こそが『イドラ』(偶像)、すなわち間違った先入観や妄想を排除して真理にたどり着く源泉である、とした経験論哲学を唱導したにもかかわらず、彼自身が『イドラ』に取り囲まれ、脅かされて、それに沈黙を強いられた人物になってしまった。
ロンドン塔投獄は偉人への道?:
このように偉大なる哲学者であるベーコンの実人生は、宮廷官僚、政治家として王権力への追従と、政敵との争いという世俗の垢にまみれたものであったのだが、世俗の混沌の中でもがいた人物は彼だけではない。以前のブログ(2022年9月12日ウォルター・ローリーのエッセイ集)で紹介したウォルター・ローリー:Walter Reighleyも、同じ時代を生きた廷臣の一人である。ローリーは政敵やスペイン大使の讒言によりロンドン塔に13年間幽閉され、その獄中で『世界史』(History of the World)や論考集などの後世に残る名著を書いている。またロンドン塔内にマラリアの治療薬を開発するために実験施設を設け研究に勤しんだ。科学の時代の到来を示唆するエピソードを残している。それは彼の新大陸植民地開拓にかけた情熱の冒険者、宮廷における知性、詩人として人望を集めた実人生の集大成ともいうべきものであった。断頭台に立ったローリーは、首切り役人に斧を見せるよう求めて、「よくキレる斧は劇薬だが、全ての病を解決してくれる」と述べて颯爽と冥界へ旅立った。その死刑執行はスペイン王の圧力によるものであったが、その適法性をイングランドのコモン・ローで根拠付けをしたのは他ならぬ法務長官ベーコンと主席判事コークであった。またベーコンに先立つ100年前にヘンリー8世のカトリック離脱に反対した、時の大法官トマス・モア:Thomas Moreは、コモン・ローの王権からの独立を主張し、大法官を辞任。国王の怒りをかい1529年に死刑判決を受けた。彼は従容として残虐な処刑に赴きつゆと消えた。モアは、先述のように大法官という宮廷官僚のトップに立つ高位高官であったにもかかわらず、庶民の目線を持ち続けたヒューマニストでもあった。人々が自由で平等に暮らす、社会主義的な理想国家「ユートピア」を描き出したことが彼の思想を表している。ベーコンも科学の発展した国、理想国家「アトランティス」を描いて見せたのは偶然ではないだろうが、モアとは違いその目線の先に絶対王権の安定以外の地平は見えていなかった。科学の発展は誰のものだと考えていたのか。王政復古後の専制的な王権に抵抗した啓蒙思想家でホイッグ党(議会派)の創始者の初代シャフツベリー卿:Lord Shaftesburyもロンドン塔へ送られ、保釈中にジョン・ロック:John Lockeと共にもオランダへ亡命し、やがて帰国して名誉革命に繋げた。ベーコンも政争に巻き込まれて、最後はロンドン塔に送られるが、日頃の国王への追従が効き、国王に救出されて3日で出獄している。絶対王権と闘いロンドン塔、断頭台、亡命、が後世に『偉人』と評価されるための通過儀礼だとすれば、ベーコンが王権に抵抗して亡命するか断頭台のつゆと消えていたら、もっと彼の評価が上がったのかもしれないというのは妄想だろうか。ちなみに彼の政敵、エドワード・コーク:Edward Cokeも絶対王権と戦い続け、失脚、ロンドン塔投獄ののち、1628年歴史的な「権利の請願:Petition of Right」を起草し、イギリス法制史、政治史に名を残した。当時はこのような血生臭い宮廷内の政治闘争の物語は枚挙にいとまがないが、その苛烈な人生を歩んだ人物が何を成し遂げ、後世にどのように評価されてきたかには違いがある。
脱線話 大伴家持のこと:
最後に話が脱線するが、偉人といえば思い起こすのは、日本の奈良時代における偉大なる万葉歌人、大伴家持のことである(2023年4月10日大伴家持と万葉集)。ベーコンの時代を遡ること900年前の人物であるが、彼は万葉集に多くの秀歌を残し、最終的には万葉集の集大成を行なった人物として歴史にその名が記憶されている。しかしその実人生は、名門の大伴一族の当主として、宮廷官僚として、皇位継承争いや藤原一族との激しい権力闘争に巻き込まれ、出世栄達、失脚、左遷、復活、そして死後の官位剥奪。そして復権という、これでもかという浮き沈みの激しい人生であった。ベーコンの場合との違いは、彼のような処世術にたけた政治家ではなく、むしろ宮廷権力闘争に翻弄されつつも、隠忍自重して一族の名誉と国家的な文化遺産だけは守り通した点であろう。しかし、ベーコンにしても家持にしても、このような俗世における権力闘争や世渡り人生の中から、どうしてこのような世界に大きな影響を与えた哲学思想や、今なお心に響く文学作品が生まれるものなのだろうか。心身ともにストレスフルな日常から、しばし逃避し、哲学的思索に耽ったり、自然の観察や実験に没頭したり、詩歌の世界に身をゆだねたりすることは心のカタルシスを得る上でも必要なことであったのかもしれないと凡夫は思うのだが。不本意な失脚ののち、残された人生を思索と著作活動に当てることは波乱の人生を観照し総括する上でも有意義であろう。偉大なる思想や文学作品はそんな徒然のなせる技だったのか。それにしても人間はまだまだ不思議な存在だ。『偉大なる哲学者』と『卑しむべき政治家』という二面が一人の人格に具現する。経験論的にも合理論的にも認識し得ない真理があるようだ。西田幾多郎のいう、第三の認識、超理性的認識論による説明が必要なのか。ベーコンの人生は彼の経験論哲学、科学的手法、帰納法では説明できない。
参考文献:
この機会に学生時代の教科書や参考文献を引っ張り出してきて、50年ぶりに読み返してみた。学生時代には理解が及ばなかったことや、資本主義的合理性の中で実利を求めて駆け足で過ごし、世渡りに終始する社会人人生で、看過したり、取りこぼしてきたことが如何に多いことかとあらためて気付かされる。特にラッセルを読み返してみると、当時としても学生にとってはわかりやすい筆致で哲学を解説する書として人気があったが、そのわかりやすい文章の中に深淵なる真理が語られていることに気付かされる。読み物風に通読するのでなく、あらためて問題意識を持って熟読玩味したい。『パンのための学問』から離れて少しゆっくりこうした古典や歴史に触れる時間が持てることに感謝し勉強し直してみたい。ベーコンや大伴家持ほどではないが、誰の人生にもそれなりの波乱とストレスがあった訳だし、凡夫たる自分自身も彼等に倣って残された時間を先人の境地に立ち返り、知識を再整理し、思索し、駄文にまとめてみるのも悪くないだろう。「小人閑居して善を為さず」の所業となるかもしれないが。
西田幾多郎 『哲学概論』岩波書店 京大の哲学講義教科書
原田剛 『西洋政治思想史』学生社 これは学生時代の必読書であった
バートランド・ラッセル 市井三郎訳 『西洋哲学史』みすず書房 当時一番影響を受けたイギリスの哲学者
この「ベーコン書簡集」:Letters of Sir Francis Bacon 1702年刊行の初版は、ネットで検索してもヒットしない。現在古書市場ではなかなか見当たらない。かつて米国の古書店で取り上げられたことがあるが現在では削除されているようだ。英米の大学図書館に「ベーコン書簡」として検索できるものはあるが、後の時代に編纂されたベーコン全集に収録されたものか、ほとんどが20世紀に入ってからの研究者による論文による引用だ。和訳本も見つからない。日本の大学図書館で1702年『書簡集』初版本を収蔵しているのは岡山大学図書館だけである(国立情報学研究所CiNii Books)。本書の稀覯性が気になる。