2025年12月27日土曜日

日本文化とは何か? 〜外来文化の受容と変容の歴史(1)〜

 

宇佐神宮の神仏習合(宇佐市公式観光HPより)


日本文化は外来文化の「受容」と「変容」の歴史の中で形成されたと言われる。そもそも日本列島にどのようなことが起きたのか。どのような外来文化の受容が日本文化を特色づけているのか。年末恒例のクリスマスを祝い、正月を寿ぐこの季節に、「神と人間」そういう視点で「日本的なもの」とは何かを考えてみた。まずは外来文化の受容、変容の歴史を駆け足で振り返ってみよう。稲作農耕文化の流入。そして儒教と仏教の伝来。キリスト教伝来。そして黒船来航、すなわち「神の摂理から人間の理性」に基づく新宗教「近代合理主義」の伝来である。そして最後に知の巨人、折口信夫の「日本的なもの」について触れてみたい。またラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、バジル・ホール・チェンバレンの「日本的なもの」論については、次回に触れてみたい。


外来文化の受容と変容の歴史 〜「神と人間」の視点で〜

1)稲作農耕文化:

最近の研究では、稲作農耕文化の列島流入は紀元前10世紀頃と考えらられている。それまでの狩猟採集生活から農耕定住生活へと変わっていった。これはパラダイムシフトとも考えられる大きな社会的、文化的転換である。しかし急激に変化したり、征服などで民族が入れ替わったりしたのではなく、長い時間をかけて移入民と在来民とが融合していったと考えられている。この農耕定住生活は新しい文明・文化を列島にもたらすことになる。一年をかけた耕作と収穫には、労働力、土地、水、農耕器具、余剰生産物、資源の分配管理などを取り仕切るオサ(首長)が必要であり、一族がウジに 集落はムラへ、ムラはクニへと社会単位の規模がが大きくなっていった。やがては支配者と被支配者という身分、階級ができ、「王」が生まれ「国」ができる。マルクスの言うところの経済的な「下部構造」の形成だ。ここに自然崇拝(縄文的神) 祖霊崇拝(弥生的神)が生まれ、八百万の神々、一木一草に神宿るという多神教的信仰、霊的観念、そして習俗が発生した。これが古神道。やがて王の上の王、大王や国が形成される過程で、建国神話が編まれ、大王は天皇を称し、太陽神を最高位の皇祖神とする神々の序列化、体系化が行われる。やがて古神道は皇国史観による神道へと変遷してゆく。

2)儒教:

5世紀に百済の王仁が論語10巻を伝える。やがて中国から四書五経 文選が伝わり、聖徳太子は仏教に帰依するとともに儒教に基づき十七条憲法に官僚の心得を記述した。7世紀末には古事記にも影響を与え、万葉集にも漢詩が(元号「令和」の起源も)取り入れられる。何よりも漢字が文字として伝わり、平安時代にカナ文字が発明されるまでは漢字を和語に用いる(万葉仮名、変体漢文)ことで公文書の作成、歴史書や神話、詩歌が生まれた。平安時代には漢詩、漢文が貴族の基礎的な素養として定着し、文章博士菅原道真のような漢籍の最高権威が重用される。和漢朗詠集などの文学作品も生まれた。いわゆる「和魂漢才」の時代だ。陰陽道が分かれて神道と結びつく。江戸時代には儒学(朱子学)が幕府指定の公式学問となる。儒学を基本とする漢学は 日本の文化の基礎となり、知性と道徳の基本になった。宗教というより秩序を重んじる学問、倫理道徳として定着していった。主君や国家、組織への忠誠心、親孝行、長幼の序、滅私奉公などの日本人の道徳的価値観の根源となっている。

3)仏教:

6世紀にインドの宗教が中国・朝鮮を経由して伝わる。当初は古来からの神道崇拝者(神祇職にある豪族)との激しい「崇仏・廃仏」論争があったがやがて有力豪族、大王(天皇)が受容。7世紀末〜8世紀には「近代」国家建設にあたって、この外来宗教・思想は統治理念 国家の基礎理念として取り入れられた。東アジア的グローバルスタンダード、すなわち「鎮護国家」思想である。やがて難解な密教の導入を経て、支配者階級の思想哲学であった仏教は、平安時代には来世の救済を説く阿弥陀信仰、浄土信仰となる。さらに鎌倉時代になると多くの宗派(鎌倉新仏教)が生まれ。現世利益や、儒教と結びつき道徳的な「教え」を説く信仰として広く武士や庶民にも浸透していった。仏教は 明治の「神仏分離令」「廃仏毀釈」までは、奈良時代以降、連綿と天皇・将軍も帰依する国教的な宗教であった。特徴的な点は、日本古来の神々との習合が進み、平安時代に広まった「本地垂迹説」により神道との神仏習合が定着していった(写真の宇佐神宮における神仏習合)。神社には神宮寺があり仏僧と神官が相互に宗教儀礼を行った。天皇は神道祭祀の最高位に位置しながら、退位すると出家して仏教僧となった。日本に伝わったのは大乗仏教で、ブッダ一神教ではなく、いわば多神教的な仏教であった。

4)キリスト教:

16世紀にポルトガル、スペイン人から伝来。初めての西洋文化である。仏教の退廃、戦乱、南蛮貿易利権から、当初は宣教師の布教活動により西日本の領主、庶民に一挙に広まる。全知全能の神、唯一絶対神であり、多神教を異端、未開の習俗として排除した。仏教(Bonz)とも敵対し、寺院の破壊、仏像の破却などが起きた。これに対する反発も起きるが既存宗教勢力との融和、習合の動きなく、本国の領土的野心と一体化。やがて国の指導者からの布教への疑念を持たれるようになる。そこへプロテスタント(イギリス・オランダ)の到来で宗教戦争が日本で再燃。ついには禁教令、鎖国へつながって行く。多神教の日本では結局キリスト教は根付かなかった。一方で、西洋文化は、キリスト教布教に関心の無い、長崎の出島に押し込められたオランダ人からわずかではあるが流入してきた。蘭学である。日本人の知的好奇心を大いに刺激した。

5)近代合理主義思想:

これまでの東洋的思想(儒教、仏教)から西洋的思想(キリスト教)が流入する過程で、キリスト教は排除されたが、やがて 西洋的思想や文化は宗教から哲学、思想へと変遷してゆく。すなわち 19世紀になると、ヨーロッパにおける16世紀以降の「神の摂理から人間の理性へ」という、宗教と一線を画す哲学思想と科学が日本に入ってきた。すなわち人間の理性から始まる啓蒙主義哲学、あるいは経験主義哲学であり、ここからスタートする諸科学の発展、自由主義政治思想であり資本主義であり市場経済であった。東洋の儒教的、仏教的秩序、道徳観、政治思想に変わる西洋の「近代合理主義」思想の登場である。この受け入れをめぐって、中国や朝鮮など東洋的旧体制の隣国の激しい葛藤の時代に、いち早く日本は旧体制を捨ててこれを受容した。インドや中国における西欧列強の帝国主義的植民地支配の実態を目の当たりにし、その恐怖が背景にあった。そうしたアジアの危機的状況を反面教師とした西洋流の「近代化」、すなわち近代合理主義の受容を急速に進めた。幕末から明治にかけて「文明開花」「殖産興業」「富国強兵」など(四文字熟語のスローガン)が急速に展開された。「和魂洋才」を謳ったのもこのころである。そしてついに西洋流の「帝国主義」を我がものとし彼らと競争しながらアジアに出ていったがその試みは破綻する。終戦後は、民主主義、自由主義、個人主義、物質主義というようロッパ列強諸国とは一味違う「アメリカ教」文化が怒涛の如く流入しどっぷり浸る時代へと転換した。その明治維新から150年、終戦から80年。「東洋的なもの」と「西洋的なもの」の習合はどれほど進み「日本的なもの」に変容したのか。まだ変容プロセスの途上にある。


日本文化は多様性の賜物?

このように振り返ると、大陸周辺部に位置する日本列島の住人は、海の向こうからやって来る実に多様な外来文化を、長い時間をかけて受容し咀嚼して「日本化」してきたことがわかる。いやそもそも列島外からの人の流入がそれを進めた。外来文化は人の移動に伴って入ってきた。すなわち日本文化あるいは「日本的なもの」とは「多様性」がキーワードとなることに気づく。もっともこれは特に日本文化に関してのみ当てはまる特殊な文化史というわけではない。世界史的に見ても、異文化や異民族との交流(戦争、征服も含め)による文明・文化の興亡と進化は、むしろ普遍的事象であったし、隣の中国、朝鮮を見るまでもなく、いわば「多様性」の相剋が持続可能な文化、民族、国家を産んだことは一様に理解するところである。人類10万年の歴史をさかのぼれば、屈強と言われたネアンデルタール人が絶滅して、肉体的に弱いホモサピエンスが生き残った理由の一つは、生存に適した土地を求めた移動と冒険心、その過程で人種的多様性、文化の多様性を受け入れたことだと言われている。日本人は列島の外の各地から移住してきた人々と列島人が代々混ざり合って形成された集団、民族であることは最近のDNA分析の結果からも証明されている。その人の移動に伴ってもたらされた文化がブレンドされて新しい文化が生まれたのである。日本は単一民族国家だ、日本古来の「やまとごころ」「惟神の道」の国だと言っているその本質は、このように多様性のプレンド文化が基底となって生まれたものである。そして日本人はそうした外来文化に対する寛容さと、それを独自のものにする強かさという特質を有している。それが外来文化の「受容」と「変容」の中身なのだ。


「やまとごころ」「からごころ」

江戸時代の国学の勃興を考えてみよう。この時代的な思潮の流れはとても示唆的に思える。仏教が国家宗教 儒教(朱子学)が国家の公式学問であり、知育、徳育科目であった時代である。さらに主に医学、本草学など科学科目としての蘭学が盛んでもあった。一方で、日本古来の「やまとごころ」「もののあわれ」を復興し、蘭学、漢学など外来文化や思想、すなわち「からごころ」を排した日本古来の精神を学ぼうというムーヴメント、すなわち国学が盛んになった。賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤、契沖である。本居宣長は古事記の研究注釈や源氏物語、古今和歌集などの古典講釈が盛んに行なった。こうした運動の中で、徳川幕府が統治の基本に据えていた仏教や儒教でなく、神道が「惟神の道」として重視され、その典拠となる古事記を聖典化した。これは日本の支配者は将軍ではなく天皇である、という政治思想、「皇国史観」の表明である。のちに水戸学、そして幕末の尊王攘夷思想、討幕運動へとつながる。しかしこれが明治維新の西欧列強に対峙する国家近代化の「革命思想」の原点となったのは皮肉だ。しかものちには天皇への忠誠心を求める「武士道」精神(武家を否定しておきながらこれもまた皮肉だ)、さらには「忠君愛国」「八紘一宇」「偉大なる大和民族」という国粋主義へと変異していったことは改めて解説の必要もないだろう。しかし、国学者が重視した「やまとごころ」の聖典、古事記にも、「もののあはれ」の源氏物語にも、そもそも儒教、仏教の影響(「彼らが言う「からごころ」)が色濃く現れていることは否定できない。何よりも用いられている文字は中国からの漢字である。日本古来の思想、精神の中にインド、中国などの外来文化の影響を拭い去ることはできない。神話においてすらそうである。これはちょうど西洋文化の思想、精神の基礎にギリシア、ラテンがあるのと同じだ。日本文化を愛する気持ちに変わりはないが、その文化に外来のものを排した国粋的なものを求めることは合理的ではない。多様性。それが「日本的なもの」なのである。それを指摘した人物の一人が折口信夫だ。


折口信夫の「日本的なもの」とは?

折口信夫はある講演の中で、「和魂漢才」「和魂洋才」とは、和魂を生かすために主体的に漢才や洋才を取り入れることだと言っている。内なるものにこだわらず外から取り入れたものを改良してより良いものにするのが日本文化の特色だと。それが「日本的なもの」だと。したがって外国文化を排除するのではなく、どんどん取り込んでより大きな和魂の日本になれ、と言っている。これは戦前の講演であるから「やまと魂」的なトーンが読み取れるが、当時としては画期的であったろう。古事記や万葉集にも四書五経や文選などの漢籍の影響を読み取っている。欧米文化も含めて外国のものを排除せず取り入れて咀嚼して「日本的なもの」に変容する。これが彼の「和魂」、すなわち「やまとごころ」の理解であり、学としての国学、民俗学(新国学と称していた)への取り組み姿勢の基本であった。

折口はまた「神と人との関係」から日本文化を考えた。キリスト教の神は全知全能の唯一絶対神であり、宇宙の創造主である。もちろん人も神が作った。その絶対神に選ばれ「契約」を結んだものだけが神の愛に包まれ救済される。一方の日本の神々は、絶対的な創造神ではなく、生まれては消える神々で、遥か彼方の他界、異界からやってくる客人、すなわち「まれびと」である。その姿は見えない。人々は山や岩や樹木などの依代に神の存在を感じ、それを迎え祭りでもてなす。祖霊神は親子関係、一族のもので天界に魂は住んでいるが家にも帰ってくる。それを迎え祀る。日本では神が人を創造し選ぶのではなく、人が神を選ぶ。その関係は唯一絶対でも契約関係でもない、次々に生まれ出てくる多様な自然神、祖霊神である。仏教ですらブッダが唯一絶対神ではない。阿弥陀如来や大日如来や薬師如来、観音菩薩や地蔵菩薩、不動明王など、さらには法華経が信仰対象となることもある。人は死ぬと仏になる。お盆になると家族のもとに帰ってくる。古神道の祖霊信仰と融合している。日本に伝来してきたのは北方仏教(大乗仏教)で多神教的な仏教である。折口は、人と神は「契約」ではなく「和」でつながると言う。

折口の言う多神教の神々には外来の神も参加する。ただ一神教的「契約」ではなく「和」を持って貴しとなす「神と人の関係」という文化は、「唯一絶対」を主張する神に対しては不寛容であるようだ。それが一神教が根付かない理由かもしれない。「外来文化の受容と変容」と一口に言っても、それほど単純明快ではない。取り入れたいものと取り入れたくないもの、消化できるものとできないものがある。「受容」と「拒絶」の葛藤の中で取捨選択した結果の「日本的なもの」なのだ。折口の研究アプローチは、文献資料を中心とする歴史学ではなく、人々の間を歩き回り、見て周り、聞いて回る民俗学アプローチである。この点で柳田國男と双璧をなす民俗学者である。地方の民間の伝承や、祭り、芸能、習俗など中心に「神と人間の関係」を見つめたもので、その中に「日本的なもの」を見出した。そしてそこに一神教の絶対神の姿を見ることはなかったのであろう。折口の「国学」は、本居宣長が古典の研究というアプローチで「やまとごころ」を見出そうとした手法とは異なっている。だからこそ民俗学を「新国学」と称したのであろう。

日本に伝来した「近代合理主義」が、本家の欧米文化圏で混沌としてきた現代、外来文化の受容と変容により文化を形成してきた日本。これからどのように「日本的なもの」を見出し、リアル空間、サイバー空間に溢れる「文化」を取捨選択するのか。さらに能動的に発信して独自の文化を築いてゆくのか。次の文化パラダイムに転換する歴史的な岐路に立たされているように思う。


参考:上野誠「日本を見つめる巨人折口信夫」NHK R1「心を読む」

この他の「日本的なもの」の論考は下記を参照

2024年3月29日 古書を巡る旅(47)The Awakening of Japan:岡倉覚三『日本の目覚め』

2024年6月10日 古書を巡る旅(51)Bushido : 新渡戸稲造『武士道』