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表紙 |
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1904年の初版 |
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神道の巫女 |
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1906年の第9版 |
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初版と第9版 |
今年後半のNHK朝ドラ「ばけばけ」はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の妻、小泉セツが主人公。ハーンに日本の古い伝承話を数多く伝え、彼の著作に大きな影響を与えたと言われている。ドラマの展開がどうなるのか楽しみにしている。アイルランド出身のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の晩年の著作に『神国 Japan An Interpretation』(1904年)がある。これは彼のいわば日本論の集大成ともいうべき著作である。1904年9月にニューヨーク、ロンドンのThe Macmillan Companyから刊行された。ハーンは同年4月に東京にて没しており、この初版本を見ることはできなかったが、これ以降も多くの人々に読み継がれた人気の著作で、重版を重ねている。和訳本が「神国日本」として昭和7年に第一書房から戸川明三の訳で出版されている。
「神国」とは?
ハーンは、日本が「八百万の神々」の国であり、人々が自然や祖先を神聖視する文化を持っていること。日本人が生まれながらにして宗教(神道的感性)と共にあるということ。彼はこうした日本の特性に驚き、敬意を込めてこの文化を「神国」と呼んだ。特に「死者は生者の中に生き続ける」という祖先崇拝の思想に着目し、それが社会の秩序や道徳を支える基盤となっていると評価している。ややショッキングな表現であるが「死者が生ける者を支配する国」とも表している。すなわち人は死ねば墓に埋葬されて肉体は土に還る。しかし霊魂はその体から抜け出て天界に行って神になる。その神は常に生ける家族、部族、国家と共にあり守護神となる。だから祖霊を厚く敬い、家に位牌を祭り、祖霊の教えに従って生きる。かつてローマ・カトリック教会が、異教徒への布教にあたって、家族での位牌などの個人の祭祀を禁じ、破却を命じた。全知全能の神が唯一の神で祭祀の対象であるとしたが、ハーンはこれは全ての世界で受け入れられるものではないと主張する。神道においては祖霊を祀ることそれは宗教ではなく、その精神構造に根付いた習俗であり霊的体験である。これを否定してはいけないと。これらをハーンは合理主義的な研究者や客観視する批評家としてではなく、「外から見た愛ある観察者」として書いている。日本の精神世界を敬意と共感を持って世界に紹介しようと試みた。ハーンは次のように述べている。
1. 神道の本質
神道を「宗教というより習俗・感情の体系」とみなす。
祖霊崇拝には、1)家族の祖先の礼拝、家庭の祭祀 2)氏族/部族の祖先の礼拝、鎮守の神、産土神の祭祀 3)帝国祖先(皇祖神)の礼拝、国家の祭祀、がある。 その中心となるのは家族の祭祀でありこれは習俗である。そして自然物(山、川、木など)に神が宿るとされるアニミズム的感性が自然なものとして受け止められ、自然や日常の中に神聖さがあると感じている。神道は「信仰」というより日本人の精神構造、霊的体験に深く根付いた習俗である。
2. 祖先崇拝と死生観
日本では死者は消え去る存在ではなく、「家」の中に残り、子孫と共にある。
先祖は守護霊として日常生活に影響を与え、祀られ、感謝される。
これは「個人」より「家」や「共同体」を重んじる価値観と結びついている。
3. 西洋キリスト教との対比
西洋のキリスト教は「個人の救済」を重視するが、日本では「家」や「社会との調和」が優先される。西洋近代の合理主義・科学主義とは異なる「霊的直感」が日本文化の中核をなすと述べる。
4. 文化的持続力と秩序
日本人の秩序や道徳の根底に神道的世界観(目に見えないものへの敬意)があると考える。この世界観が、長い歴史の中で日本の社会的安定や美意識を育んだと評価する。そして仏教は神道とうまく習合して日本人に取り入れられた。この点が習合が起こらず受容されなかったキリスト教との違いである。
ハーンのキリスト教観 ケルト文化への共感
キリスト教を抑圧的・排他的・権威的な宗教と見ている。特に、善悪二元論的な世界観、罪と罰、地獄・救済といった構造に違和感を覚えていたようだ。またキリスト教が霊的多様性を否定し、他宗教を異端視する傾向を持つことに批判的である。「神を信じなければ永遠に地獄に落ちる」という唯一絶対神的な考え方は、彼にとって非寛容で人間的ではないと映ったのであろう。
またキリスト教的道徳観がしばしば「他者への支配の道具」になっていることに懸念を示している。こうした教義や道徳感の押し付けは、スペインやポルトガルがキリスト教布教を領土的征服、民族支配の道具として用いた事例として理解されるとしている。彼にとって本来の宗教とは、人々の感情や生活に自然に溶け込むものであり、上から押し付けられるものではないと考えた。
ハーンはアイルランドや古代ケルトの神話・妖精譚などに親しんでおり、その霊的多様性、自然信仰、死者との交感に強い親近感を持っていた。日本の神道や民間信仰、伝承を理解する際にも、このアイルラン人の心の古層に息づくケルト的感性が彼の内面で共鳴していたと考えられる。この、いわば「ケルト回帰」は年少期にカトリック教育を押し付けられそれに違和感を持ったことがきっかけとしている。さらに子供の頃から木、石、水などに霊が宿るとするアニミズムの感性を自然なものとして受け入れており、それが日本文化との親和性を高め、「一木一草に神宿る」「八百万の神」的世界観は、彼が「子どもの頃に感じていた世界の神秘」に近いと感じた。日本においてもアイルランドにおいても、大陸周縁部の島国には大陸の文明、宗教を受容する以前の、その土地古来からの宗教、習俗がありそれが人の心の古層に今も息づいていると納得したであろう。単に日本が好きだ、という以上に、自らの心のルーツやオリジンに触れる感覚を得た、という方が当たっているかもしれない。
彼は文中で「私の心は東洋的であるよりも、むしろ古代ケルト的である。私は教会よりも森に神を感じる」と書いている。
「イエズス会禍:The Jesuit Peril」という一章
ハーンのこうしたキリスト教観と日本の歴史への眼差しにおいて注目すべき一章が本書に掲載されている。題して「The Jesit Peril:イエズス会禍」である。イエズス会の伝道活動、キリスト教の布教は日本にとって大きな厄災であったとする。キリスト教化することが征服の前提であったアメリカ大陸の先住民やその文化をキリスト教布教で抹殺し征服した歴史を日本で繰り返さなかったことは、家康の国と文化を守るための冷静で賢明な政策であったと、その功績を高く評価している。弾圧や島原の乱で大勢のキリシタンが殺害されたは、これをイエズス会のあやまった活動のせいであり日本が被った厄災であると断じている。この一文は、明治期の欧米人が見た「キリシタン弾圧、禁教令、鎖国」史観としては衝撃的だ。これほどまでにキリスト教伝道(特にイエズス会、フランシスコ会、ドメニコ会の誤った方針)が日本に災いをもたらし、それを家康が賢明にも見抜いてそれを防いだ、という歴史観を欧米人側から表明した評論は少ないだろう。大抵は異教徒によるキリスト教殉難の歴史の一環として取り上げられる。スペイン、ポルトガルによるキリスト教(カトリック)布教の失敗の原因は、やはり日本人の祖霊信仰、多神教的宗教観を理解しなかったこと。あるいは容易に「奇跡」で信仰を獲得できると信じたこと。また天皇の存在(家父長的な神の体系のトップに位置している)の意味を軽視したこと、日本の為政者の力量を見誤ったことだとする。そこにプロテスタント国のイギリス、オランダが現れ、家康に宗教対立の実相、世界各地の植民地化が報告されたことだ。少数の派遣軍部隊で軍事的にあれよあれよという間に征服されたアメリカ大陸の諸文明のようなわけにはいかなかった。またハーンは明治になって、禁教令が廃止されてもキリスト教信者は増えていないのはなぜか?と問うている。
こうした彼の主張を今見てみると、皇国史観、神道至上主義、家父長制度礼賛、個人より国家、というふうに見えるかもしれないが、これは一面的な見方であると感じる。たしかにバジル・ホール・チェンバレンの「Sympathetic understanding of Japan」ような批判(古書を巡る旅(12)チェンバレン「日本事物史」)もあったが、彼の主張は、一神教、キリスト教至上主義への懐疑が第一義であって、こうした自然と祖霊を礼拝する霊的、多神教的な宗教観がその一方に厳然としてあることを西欧諸国に知らせたかった。そしてそうした「一木一草に霊が宿る」「祖先の霊魂の存在」「聖霊の声を聞く」という宗教観はヨーロッパにおいてもキリスト教布教以前にヨーロッパ諸民族の心の底にあった霊的観念ではないか、ということを思い起こさせることであった。ハーンは読者として欧米人を想定しており日本人に向けて日本を論じたつもりはない。「神国」の真の意味も日本人が受け止めがちなそれとは異なるメッセージがそこにある。ハーンの宗教というもの信仰というものには初源的で普遍的な共通する心があるはずという指摘は、現代の一神教の教条主義者たちの寛容性を欠く終わりの見えない血生臭い対立に一石を投じるものとなると考える。宗教とは何か?宗教、信仰の原点に立ち戻れ!ちなみに、本書にはアーネスト・サトウ、ウィリアム・アストンなどの引用言及はあるが、バジル・ホール・チェンバレンに関する引用がない。なぜか?
ハーバート・スペンサーの日本への助言書簡
ハーンの著作は人気を博し、1904年の初版以来、2年間で9版を重ねている。手元にはもう一冊、1906年2月の第9版がある。出版社はニューヨークのGrosset & Dunlap社である。興味深いのは、初版にはないハーバート・スペンサーから金子堅太郎あての日本に関する助言書簡が追録されていることである。
当時ダーウィンの進化論に影響を受け、それを社会に適用した社会進化論、適者生存論がスペンサーによって唱えられた。これは一世を風靡し、欧米だけでなく日本でも盛んに研究され取り入れられた。モースや森有礼がスペンサーについて著作を発表し、帝国大学で講義した。ハーンもおおいに影響受けたと思われ、たびたび彼の社会進化論的な解釈を本文中で展開している。初版には間に合わなかったが、このスペンサーの書簡を追補しようと考えたにちがいない。
条約改正が外交課題として佳境に入っていた時代、伊藤博文、森有礼ら政府高官はスペンサーなど欧米の有識者に日本の外交課題や進むべき方向についての意見を求めた。そうした政府の意を受けて金子堅太郎はハーバード留学ののちルーズベルトなどの人脈を活用してアメリカ、イギリスの重要人物との接触を試みていた。ロンドン滞在中にスペンサーに会おうとしたが、結局は書簡を送ることにした。これに1892年8月26日にスペンサーから返信があった。スペンサーは日本について強い興味を抱いており日本にとっては格好の知識人(知日派)であった。しかし彼は、日本は西欧制度を一挙に入れる(replace)のではなく、日本古来の制度に接木(grafting)するように導入すべし」という保守的な助言をした。例えば外国資本を無闇に入れてはならない。土地を外国人に売ってはならない。外国人との結婚を奨励してはならないなど、極めて保守的な内容であった。憲法(1889年)も国会(1881年)も出来たばかりの未熟な国に、治外法権、関税自主権撤廃は時期尚早と。社会の発展段階、国家の成熟度に合わせて徐々に進めるべしと。
ハーンはこれを読み、予想通り保守的な助言だとしつつ、スペンサーに共感している。ハーンは日本の伝統的な文化や思想が西欧化することで一気に失われることを恐れていた。たとえ日露戦争で日本の軍艦がロシアの軍艦を轟沈させたとしても(この時点ではまだ日露戦争の結果は分かっていなかった)、軍事的成功と産業的成功は別であると主張。当時の日本の富国強兵ムードに危機感と違和感を抱いたハーンの警鐘と言って良いだろう。しかしハーンは「やがてそんな心配をしなくても良い時代がやってくるだろう」、「その時には(スペンサーのいう)保守主義を捨てても危険はない。しかし現在一時だけは保守主義を救済の力としなければならない」と締めくくっている。スペンサーの死後、The Timesに公開された書簡をハーンの著作「神国」に掲載する予定であったものと思われる。この時ハーンはすでに亡くなっていた(1904年4月)ので、出版社は彼の遺志をついで改訂版で追補した。ちなみに金子堅太郎は、スペンサーの助言に謝意を示した上で、日本は古来、外国文化を受容し上手に変容してきた歴史を持つので心配ご無用、と返信している。
この追補は、日露戦争開戦と富国強兵に傾斜してゆく日本、伝統的な考え方や価値観が崩壊してゆく日本。急速に変わりゆく日本の行末を危惧するハーンの心情を表すものとして重要であると考える。いわば本書「神国」全体に通底するハーンの観察、主張を最後にスペンサーが追認してくれると考えたに違いない。自由民権運動が国会開設、民選議員制度で懐柔され、日清戦争に伴う三国干渉への反発、「臥薪嘗胆」、むしろ「民権」より「国権」優先の空気が漂う時代であった。明治政府はただ一途に「一等国」への道を直走った。スペンサーの助言を横目に、ハーンの懸念をよそに、条約改正、富国強兵の道をつきすすんだ。1894年の日英、日米通商航海条約で初めて幕末以来の懸案であった「不平等条約」解消、「平等な改正条約」が調印された。しかし日本政府は市場を開放し、外資の導入、外国人の土地所有、外国人との結婚は認めたものの、実態は厳しく外国に規制を設ける保守的なものであった。ハーンはスペンサーの保守的な助言はここに生きているとしている。しかしハーン自身も日本人と結婚し日本に帰化し、小泉八雲と改名したが、その子孫は、その「保守主義」のせいで高級官僚や高級軍人などへの登用に制約が設けられた。急速な変化で古き良き日本の伝統が破壊されてゆくのは忍びないが、「保守主義」が守られたことで家族には思わぬ制約ができてしまった。日本を愛し帰化したハーン、いや小泉八雲は複雑な心境であったと思う。