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2020年6月12日金曜日

古書を巡る旅(2) 〜ラフカディオ・ハーンを訪ねてロンドン、ニューヨーク、東京そして出雲松江へ〜





ラフカディオ・ハーン(日本名:小泉八雲)、本名はパトリック・ラフカディオ・ハーン(Patric Lafcadio Hearn)。1850年ギリシャの生まれ。父はアイルランド人で英国軍医。母はギリシア人でアラブの血も流れていると言われている。当時のアイルランドはイングランドに支配されていたので英国籍。
ラフカディオはミドルネームでギリシャの島の名前に由来する。彼はキリスト教に馴染めず、アイルランドの守護聖人、聖パトリックの名をとったファーストネームを名乗らなかったと言われている。
その後アメリカへ移民し、シンシナチやニューオーリンズで記者をしていた。ニューオーリンズ万博で出会った日本人の話に強く惹かれ、また女性冒険家で世界一周旅行を果たしたエリザベス・ビスランドに強い影響を受けて、日本行きを決意する。その頃イギリス人のバジル・チェンバレンによって英訳された「古事記」に出会い影響を受けたとも言われている。

日本に来てからの略歴

1890年8月30日来日。文部省の服部一三の斡旋で松江尋常中学の教師として松江に
1891年、旧松江藩士の娘、小泉セツと結婚する。
1891年11月、熊本の第五高等学校の英語教師に招聘され熊本に移る
1894年、神戸の新聞社ジャパンクロニクルに就職
1896年、東京帝国大学で英文学講師、日本に帰化、小泉八雲と名乗る
1903年、退職(後任は夏目漱石)
1904年、早稲田大学英文科講師、死去(享年54歳)雑司ヶ谷墓地に眠る

日本人は「外人」が日本をどう見ているかについて異様なほど関心を持っている国民だと感じる。私自身もかつてはそうであった。テレビ番組でも「Cool Japan!」だとか「Youは何しに日本へ?」だとか「ワタシが日本に住む理由」とか、外国人の日本観察番組が大人気だ。書籍でも「青い目の見た...」とか「台湾の若者に人気の...」というようなタイトルの本が溢れている。そしてほぼ例外なく「日本はこんなに素晴らしい!」「こんなにかっこいい!」と礼賛するものばかり。「キミたち日本人は気がついていないだろうが、ワタシたちガイジンは日本のこんなところに感動しているんダヨ」と。こういうのが日本人は大好きだ。まあ自尊心をくすぐられて悪い気はしないのだが、ほんとにそれが日本の姿、日本人なのか。なんで悪いところは言わないのか?ふと疑問に感じる。少なくともロンドンでもニューヨークでも、あまりイギリス人を、アメリカ人を「君たち日本人は我々をどう見てる?」なんて聞かれたことも話題になったこともないし、そんなTVショーを見たこともない。そもそも誰がどう思おうと関係ないという態度だ。日本人は日本を意識し過ぎなのだろうか。これはおそらく明治以降、日本が欧米列強に追いつけ追い越せ、とやっていた頃から始まって、戦後の復興期から高度成長期にそのピークに達したのでは無いかと思う。江戸時代は、鎖国ということもあってかあまり外からどう見られているかなど、少なくとも庶民は考えもしなかったであろう。古代においては中国王朝から蛮夷の国に見られないように意識していた様はよくわかるが、これも庶民レベルでは全く関係ない話だったろう。明治の文明開化、富国強兵、殖産興業というスローガンの下、日本がどれほど「東洋の非文明国」から欧米に負けない「近代文明国家」になったか、「一等国民」になったか、それを検証したくて、特の欧米人はどう見ているのかすごく気になるのであろう。

私も、明治以降、日本にやってきたお雇い外国人が書いた日本に関する著作が取り上げられ、翻訳され日本人に愛読されるのもそのせいだと考えていた。しかし彼らは別に日本人に読ませようとして書いた訳ではなく、世界に向けて未知の日本を語り、自分がいかに貴重な体験をしたかを記録したのである。その中で日本がいかに素晴らしい、欧米とは異なる神秘的な「もう一つの文明国」であるかを強調した。それを読んで日本人が感動した...「日本はこんなに素晴らしいところなのか」と。そういう視点でラフカディオ・ハーンを見てみると、彼はなぜ「怪談」とか「神話」とか「民間伝承」に拘ったのか。もう少し日本が力を入れている「近代化」を評価して欲しいものだと。確かに近代化していく日本の強みや、西欧諸国との違いや優位性についても観察し触れているが、しかし神秘的で、心穏やかで、控えめな日本人の姿から、富国強兵で、日清戦争に勝ち、傲慢さを身につけ徐々に大事なものを失いつつある日本人の姿を感じ取り始め記述している。しかし彼は基本的に霊魂や妖(あやかし)といった非現実的な世界に日本人の霊的体験と精神性を見ている。「耳なし芳一」や「雪女」などの怪談話は、日本古来からの伝承であるが、我々はむしろハーンの「怪談」の日本語訳でそれを知ったようなところがある。そういう意味でこれも「外人が見た日本」のもう一面だと感じてきた。しかし、このような「日本人」と「外人」、「ウチ」と「ソト」という日本人に特有の二分法思考による視点が必ずしも物事の本質や人間の普遍性を正しく認識し説明してくれないことに気づくことななる。

私がロンドンやニューヨークで古書店を巡るとき、そうした「外人が見た日本」的なテーマで本を探したものだった。ところが、まずロンドンで感じたのは日本はイギリスから見ると「Far East」極東であり、旧大英帝国版図にあるインドや香港やオセアニア地域に比べると馴染みが薄い、ということであった。大英図書館やLSE図書館でも、「日本」は「アジアその他」ないしは「極東」のカテゴリーで取り扱われ、書籍の数も世界の他地域に比べ相対的には少なかった。であるから古書店を歩いても日本関係の古書に遭遇する確率には限りがあった。ラフカディオ・ハーン、いや小泉八雲についても日本人には有名で馴染みがあるが、イギリス人にはどうなのかと半信半疑であった。しかし、意外にもハーンの著作は比較的遭遇する頻度が高いことがわかってきた。イザベラ・バードやアンナ・ハーツホーンの著作にも出会った。古書店主に聞くと、ハーンは、いわば著名なジャパノロジストで、英国においては日本研究者だけではなく読書家にも人気のある著者である。したがって古書もよく出るとのことであった。見つけるのもそれほど困難では無いとのことである。イギリス人は大英帝国時代以来の「World Grand Tour」の伝統があり、世界旅行が好きな国民だ。これに出かける人がよく買ってゆくという。この辺がミシュランやトマスクックの旅行ガイドブックだけに頼らない、イギリス知識人の知性と教養の片鱗が見え隠れする点だ。こうしてチャーリングクロスやセシルロードの古書店街を徘徊しハーンを探した。結局シティーのど真ん中のロイヤルイクスチェンジに店を構えるAsh Rare Booksでは「怪談」と「心」を見つけて購入した。

数年後、ニューヨーク勤務になった時に、やはりハーンを探して古書店を巡った。ニューヨークはロンドンほど古書店が多くはないが、これも意外なほど簡単に見つかった。住んでたアパートの近くのマディソンアベニューのComplete Travellerは、その名の通り旅行、地理関係の古書、古地図が豊富であった。ハーンの著作は初版本ばかりではなく種類も多い。ロンドンと同じで、店主はハーンはアメリカでも人気だという。大学でも研究されているし、学校の図書館にも並んでいて、それが古書市場に出てくると言っていた。この店でJapan an InterpretationとOut of the Eastを入手した。

このように英米においては日本人の間で知られる日本贔屓の「外人」ラフカディオ・ハーン、いや「日本人」小泉八雲としてではなく、著名な作家として根強い人気がある。それに奇妙な東洋趣味や、神秘的な不思議の国日本といった関心からだけではなく、欧米文化とは異なる日本人の内なる心情や、日本文化の内面に迫る、そういう知的な関心を寄せる人たちのバイブルである。また人間に内面に潜む不可解や神秘への憧れ、といった普遍的な心情を愛する一般の読書人の読み物としても、説話短編集、あるいは評論集なので読みやすく面白いのであろう。こうして私の「外人が見た日本」というベンチマークでの本探し、換言すれば「日本人」「外人」、「ウチ」「ソト」という二分法視点がいかにロンドンやニューヨークの古書店では通用しないかを悟った。

古書の楽しみの一つに、以前の所有者の痕跡を探すことがある。この古書が辿ってきた歴史と、その背後に見え隠れする所有者たちの物語がある。蔵書票やメモ書きやメッセージ、また栞が挟まっていたり、メモ用紙が挟まっていることもある。鉛筆での下線やチェックは、その読者が何に興味を抱いたのかを知る手がかりになる。ロンドンで入手した「怪談」には個人の蔵書票があり、その横に万年筆で「To ... From...」が記載されている。誰にプレゼントしたのだろう、息子、娘なのか、恋人なのか、友人なのか... 想像が膨らむ。「怪談」をエキゾチックな極東の日本の伝承物語として興味を持ったのか、あるいは日本を理解する一助としたのか... またニューヨークで手に入れた「神国」には「愛する可愛い妻へ」と書かれている。日本に強い興味を抱いていたであろう妻にクリスマスのプレゼントとして贈ったらしい。その夫の心を思う。また神田神保町で手に入れた「骨董」には「1930年東京の英国大使館にて」とノートがある。日本が戦争の時代に突入する満州事変が起きた前年だ。この所有者はやがて、この本を残し、交戦国となった日本を退去したのだろう。どんな思いでハーンの描いた精霊の国日本を離れたのであろうか。イギリスでもアメリカでも、かつて日本と戦争した国の人々が、愛を込めて妻や子供や友人に、ハーンの日本に関する本を贈り愛読した。その痕跡がありありと残されている。戦後日本の連合国GHQによる統治を指揮したダグラス・マッカーサーと、その書記官であったボナー・フェラーズはハーンを読んで日本を研究した。とりわけボナー・フェラーズはハーンの愛読者で何冊もの著作を所有し日本滞在中も手放さなかったという。そこから得られた日本と日本人への内省的な理解が、GHQの民生統治の基層にある。かれは滞在中、ハーンの遺族を訪ね交流を深めたという。

日本人が外人からどう見られているか、という一方的な関心事や、戦前の「敵性外国語」書籍だから読まない、といった、そんな偏狭なものの見方ではなく、広く深く人間のうちなる精神を読み取ろうとする試みに、多くの人々が共感し、その感動を共有したのだ。その心は、文字通り、洋の東西を問わず、国家同士の非人道的で非生産的な戦争に左右されることもなく、深い普遍的な人間の物語として読み継がれてきたことを知る。そこには著者とその著作にまつわる物語だけでなく、その書籍を読み継いできた所有者が記したメッセージやノートやチェックなどの痕跡に、その心情、家族や友人との交流の物語を発見することができる。これこそ古書をめぐる旅の面白さだ。



古書店巡りクロニクル

1)Ash Rare Books ロンドン(1993〜96年に訪問)
 もとはCityのRoyal Exchangeにあったが、ネットで調べると現在はSouth Bankに移転し盛業中のようだ。旧店舗は歴史的建築物の中にあり、ここに居るという体験自体が「時空トラベル」で、いつまでも佇んでいたい素晴らしい空間だった。古地図も豊富で、16世期のベルギーの地図製作者ヤン・ヤンソンの日本地図をここで手に入れた。額装までやってくれた。

 Kokoro「心」: 
 1896年ロンドン初版本 神戸時代の著作
 Kwaidan「怪談」:
 1904年ボストン/ニューヨーク初版本 東京帝国大学英文学講師時代の著作

2)Complete Traveller Antique Bookstore ニューヨーク(2003〜06年に訪問)
 Madison Avenueにある。現在はオンラインのみとなってしまったが、旧店舗は「古書の大海」に揺蕩う、という言葉がぴったりの智のラビリンス、時空のワンダーランドであった。店主は趣味人、教養人がメガネかけて、パイプ燻らしているという、如何にもこの場にぴったりの人物であった。「用事があれば声かけてくれ」という人と人との距離感。質問すると丁寧に調べて答えてくれる誠実さ。何時間でも過ごすことのできる心地よい空間であった。こうして店舗が街中から消えてゆくのは寂しい。

 JAPAN An Interpretation「神国」:
 1904年ニューヨーク初版本 東京帝国大学英文学講師時代の著作
 Out of the East「東の国から」:
 1895年ボストン/ニューヨーク初版本 神戸時代の著作 熊本での話が描かれている

3)北沢書店 東京(2019年〜)
 神保町の老舗洋古書店。「巣篭もり」中、オンラインで購入。本業はもちろん欧米古書を扱う伝統的な老舗店であるが、それだけでなく最近は店主の代替わりに伴ってDisplay Booksという、インテリア要素を入れた古書シリーズを提案している。しかもオンラインショップで受け付けている。古書のイメージをガラリと変える新しい感覚の「アンティークショップ」と言って良い、今注目の「古書店」だ。エドモンド ・マローンのシェークスピア全集やチェスウィック版シェークスピア文庫集など、美術品とも言える美しい古書をここで手に入れることができた。

 KOTTO「骨董」:
 1927年ニューヨーク初版本 東京帝国大学英文学講師時代の著作 
 1930年2月14日British Embassy Tokyoの個人の所有
 Japanese Miscellany「日本雑記」 :
 1901年ボストン初版本 東京帝国大学英文学講師
 1982年Yushodo Booksellersからの復刻版(300部限定)


怪談(KWAIDAN)1904年初版本

雪女の挿画

耳なし芳一


心(KOKORO)

ロンドン、ニューヨーク、東京と
それぞれの都市で出会ったハーンの著作
どれも個性的で美しい装丁だ


出雲松江散策 (2008年に訪問)

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)はまるで出雲に長く住まったような印象があるが、実は一年ほどしか滞在していない。また滞在中には本を出していない。しかし松江での日本生活の第一歩は彼に大きなインスピレーションを与えた。後に出版した「Glimpses of Unfamilier Japan」に書かれている、松江大橋を渡る人々のカラコロという下駄の音で目が覚める朝のシーンが印象的だ。これが彼が夢見た日本の現実(リアリティー)であった。夢と現実は、時として大きな乖離があるものだが、彼にとってここ松江で目にし耳にする日常的な現実は、まさに夢見た通りであった。特に妻の小泉セツの語る怪談話や民間伝承がのちの著作の基層になっている。松江では本を出さなかったが、この松江での生活と体験が、あの代表作「怪談」や「心」などの名著を生み出した。松江という街が彼の抱いていた日本のイメージとぴったり一致していたのであろう。大きな感動を与えた。

彼はなぜそのように怪談、幽霊、精霊などの日本固有の民間伝承や神話の世界に惹かれたのか。古事記に出会ったことがきっかけとも言われるが、その前に、少年期の体験、すなわちカトリック学校の教えに馴染めず、次第にアイルランドに古くから伝わるケルトの精霊信仰に興味を持っていったことがあったようだ。そのようなキリスト教伝来以前のケルト源教の心霊説話に親しんだ幼少時代の影響で、日本の、やはり仏教伝来以前の自然崇拝、精霊信仰、祖霊信仰の基礎にした神話、民間伝承に強く惹かれたのであろう。特にバジル・チャンバレンの英訳「古事記」に影響を受けたのも事実だろう。彼とは来日後も親交を深めた。このように日本人の祖霊信仰に共感を覚え、神道のような経典もなく教えも説かない宗教を邪教と考えるキリスト教的な宗教概念に違和感を感じたのも、このケルトの体験があったのかもしれない。こうして小泉セツの語る怪談、伝承、や「雨月物語」「今昔物語」の中の説話を題材とした「再話集」を次々と書いていった。

しかし、彼は松江を去り、熊本、神戸、東京と移り住むに従って、徐々に日本の美しい内面ばかりではなく、文明開化や富国強兵により近代化を果たしてゆく日本に、何か大事なものを失ってゆく姿を見るようになる。時代は1894〜95年の日清戦争の勝利を経て、1904年の日露戦争へと、日本が大陸へ、戦争へと突き進み、念願の「一等国」への道を歩き始めた時期である。彼は徐々に日本に幻滅していったとも言われている。岡倉天心が「茶の本」で「西欧諸国は日本が平和な文芸にふけっていたときには、野蛮国とみなしたものである。しかるに満州の地で大々的殺戮を行い始めてから文明国と呼んでいる。それならば日本は喜んで野蛮国に甘んじよう」と書いた。この心情をハーンも共有したに違いない。この辺りの評論は晩年の著作に現れている。こうした心境の変化は時代背景があってのことではあるが、彼が最初に暮らした松江の思い出はひとしおであったことだろう。1896年に日本に帰化したとき(この時は東京にいて東京帝国大学に教職を得た)、かれは日本名を妻の姓「小泉」と、出雲の美称(枕詞)である「八雲立つ出雲」の「八雲」を採り小泉八雲と称した。こうして松江は彼の原点となり小泉八雲とは切ってもきれない関係となった。


「八雲立つ出雲」の夕景
穴道湖大橋
松江大橋
ハーンが橋を渡る人々の下駄の音で目が覚めた松江最初の朝のことを書いている

松江城
松江城天守

天守から松江の街を展望す
武家屋敷街にある「小泉八雲旧居」
その並びに記念館が開設されている

武家屋敷
現在は美術館になっている
塩見縄手