400年の時間と国境を越えた文化と空気が混ざり合い、今なお昇華し続けている街。
豊臣秀吉の甥、秀次により開かれた城下町にして、世界に羽ばたく近江商人の故地。
江戸期には朝鮮通信使が江戸へ向かう途中逗留した街。
時代が下り、明治期には米国から渡来した宣教師ウイリアム・ヴォーリズがその独特の世界を築いた街。
新町通りの街並みは伝統的建造物保存地区に指定されている、美しい瓦屋根と千本格子の建物に見越しの松を配した見事な家々。八幡山を背景とした街並は古き良き繁栄の時代の景観を今に伝えている。この新町通りはよく整備されていて、観光客にも人気の街であるが、近江八幡は全体として昔の風情を良く残しており、路地に一歩入れば、タイムスリップしたような普段の町屋の生活に出会うことができる。
八幡掘りは一時期、その役割を終え、哀れにも悪臭を放つドブと化していたそうだが、市民の手で見事に美しい水の流れと水辺の景観を復活させた。今では近江八幡の観光コースの一つになっている。この時期はちょうど菖蒲と紫陽花が両方咲いていて、水辺にその美しさを競っていた。この絶好の被写体を狙った「往年の写真小僧」たちがはしゃいでいる様子がほほえましい。
瓦ミュージアムでは、我が家の家紋を配した軒瓦の展示を発見。わが一族のルーツは土佐の高知だが、その祖先の故地はここ近江の長浜だと聞いている。山内一豊公の近江長浜から遠州掛川、さらに土佐高知への移封に伴って一族も移動したとか。ありそうな話である。ともあれここ近江の地に我が家の家紋を発見したことで、一族のSAGAもあながち事後に作られた話でもなさそうな気がしてきた。
近江八幡は美味しいお菓子の町でもある。「たねや」である。このような伝統的な和菓子屋と、「クラブハリエ」という洒落たカフェと両方を展開している。全国展開しているので口にしたことがある方も多いだろう。本家はここ近江八幡だ。
このように彼が後世に残した業績は多彩である。建築物をとっても、日本の各地に彼と彼の設立した一粒社(現在も建築事務所として東京、大阪、福岡に事務所を持って活動している)が残した建築作品の数々が、大体が指定文化財として丁寧に保存、使用されている。その多くは関西学院、神戸女学院、西南学院などのミッション系の学校や教会のそれであるが、個人の住宅や東京の山の上ホテルなどもある。大阪心斎橋の大丸本館の壮麗な建物が彼の作品だと知って驚いた。
わが父祖の地、近江については、まだまだ勉強不足で、一度訪れたくらいではその風土と歴史と時間の流れを理解することは難しい。しかし、まさに時空を超えた旅の目的地としては、押さえきれない魅力を秘めている気がする。重いカメラをぶら下げて、再訪するときを楽しみに、とりあえず今日は失礼します。