この宮殿は大化の改新の後、都が明日香の地を離れて生駒、金剛、葛城山系の西、すなわち海に近い難波へと遷都されるのにともなって造営された。このころの大阪は、今と違ってこの難波宮が位置する上町台地がまるで海に突き出た半島のように南北に連なっていて、その西側、すなわち今、大阪の中心街となっている地域は、直接瀬戸内海に面した難波の津、その東側、すなわち今の東大阪のあたりは、太古の海が入江となった河内湾の痕跡、河内湖とその周辺の湿地帯であった。
この上町台地上には、南の端に聖徳太子建立になる四天王寺が、さらに時を下ると、北の高台、難波宮跡地付近に大坂石山本願寺が一大勢力を誇り、やがてそれを織田信長が攻め滅ぼすと、その跡に豊臣秀吉が築いた大坂城がそびえていた。特にこの太閤さんはこの大坂を天下一の町に作り上げたことはいまさら言うまでもない。上町台地上の大坂城と南の四天王寺との間に大きな道を作り、平野郷から住民を移住させて平野町を設けた。また多くの寺をこの地域に集めて寺社町を作り上げる。今も四天王寺夕陽丘から谷町筋、松屋町筋にかけては多くの寺院が軒を連ねている。さらに太閤さんは大坂城を中心に、城のすぐ西に武家の町、上町を、東横堀を開削してその西に商業地船場を。その南には長堀、道頓堀を設けて島之内を。城の北には大川を隔てて天満。さらに船場の西を新たに開発して西横堀開削、西船場を。こうして今の大阪の地割の基礎がこのころ築かれた。
話はそれるが、この太閤割りは、九州博多にも残っている。九州平定を終えた秀吉は、戦乱で焦土と化した商業都市、国際貿易都市博多を自ら視察し、縄張りを指揮して再建している。博多の太閤割りだ。これが今の福岡市博多区の街区の基礎となっている。すなわち東の石堂川、西の那珂川に挟まれた地域に、東西南北の「流れ」、「通り」による区割りを設けた。博多の豪商、神屋宗湛、島井宗室等が居ればこその再建ではあるが、大阪と基本的な都市設計思想を共有している。
大坂城はその後、既知の通り、大阪冬の陣、夏の陣で落城し、豊臣氏が滅亡するわけであるが、この大坂城と大坂の町は、その豊臣を葬った徳川によって再建され、皮肉にも城はより壮大なものになり、町はその後に天下の台所と呼ばれるような大都市になる。ちなみに今の大阪城公園として保存されている大阪城は豊臣時代の城ではなく、それをを完膚なきまでに破却し、その跡にそれを覆い隠すかのごとくに再建されたいわば徳川大坂城の遺構でる。
この上町台地に程近い天王寺区北山町は父が生まれ育った町だ。父は大阪赤十字病院で生まれたが、その病院は今も近鉄上本町駅の東の線路沿いに存在している。天王寺第六尋常小学校(今は天王寺図書館と幼稚園になっている)、旧制高津中学(今の府立高津高等学校)時代までの幼少期、青春期をここで過ごしていて、織田作之助(高津中学卒)や司馬遼太郎(上の宮中学卒)もこの地で父と同時代の時空を共有している。ちなみに時代は下るが、我らの時代のヒーロー小田実は旧制天王寺中学から、戦後の学制改革で北山町にある府立夕陽ケ丘高校へ転籍して、戦後の焼け野原となった大阪の町をここ上町台地から展望している。
子供のころには父から北山町の話をあまり聞いたことはなかったが、祖母からは良く聞かされた。もちろん私は大阪の町に住んだことはなかったので、懐かしさなどは感じなかったし、それがここ北山町での話だった事も、当時は認識していなかった。しかし、奇しくも今、初めての大阪に赴任し、単身赴任生活をこの北山町の近くの烏ヶ辻で過ごしている。大正から昭和初期の地図を天王寺図書館で見せてもらって確認したところ、北山町は、戦後整備された東西の高規格道路(現在の長堀通り)で分断され、父が生まれ育った家の番地は、いまは石が辻町に編入されている。しかし確かにその路地が確現存している。
会社へは毎朝、古代の朱雀大路跡に比定され整備されている、難波宮・大阪城までの南北約5キロの「歴史の道」を歩いて通っている。その途中には赤十字病院も高津高校もある。旧大軌百貨店も今は近鉄百貨店上本町店となり、デパ地下はわたしの日常の食料調達場である。近鉄上本町駅は、私の「ヤマト時空旅行」の出発駅だ。壮大な歴史の流れのなかで時は移ろい変わっても、同じ上町台地という空間を共有し生活する人々が連綿といる。歴史をいろどった人々がここを歩いた。そして父がここを歩いた。私もまた同じ道を歩く。戦争で焼け残った北山町の佇まいに父の面影を追い、四天王寺さん、生国魂さん、高津宮、上六の町を生活の場としている自分の不思議と因縁を肌で感じている。父は4年前に私のアメリカ赴任中になくなったが、もし生きていたら、たくさんこの上町台地を語り合えただろうに。聞きたい事もいっぱいあるんだけど.....
四天王寺 |
大阪城 |
難波宮跡 |
(上町台地には歴史を動かした証が,今に受け継がれている。難波津と河内潟の間に突き出した半島であった時代から