最近、あらためていろいろ古代史に関する本を読みあさっていると、主に考古学分野での研究成果の蓄積により、永年の「邪馬台国位置論争」にも一定の答えが見えてきたような気がする。 もちろん位置を特定する決定的な証拠(例えば当時の地図、親魏倭王の金印、卑弥呼を特定出来る遺物など)が出てこない限り、断定的に証明されないのだが、そんなモノが発見される可能性は極めて低いから、あくまでも状況証拠で判断するしかない。
で、どうも邪馬台国はやはり大和、特に桜井市の三輪山の麓一帯にあったのではないか、という感がしてきた。学問の世界では明確な科学的根拠がない限り軽々に結論付けることは慎まねばならないから、研究者は誰も断定したがらないが、時空の旅人はとりあえずそう結論付けて旅を楽しむのもまた一興だと思う。
個人的には、邪馬台国九州説を信じたい。1世紀の「漢委奴国王」のクニ以来、3世紀半ばの「親魏倭王」卑弥呼の死まで当時の倭国の経済的、文化的先進地域であった九州(特に北部九州)に奴国や伊都国といった有力なクニグニとともに邪馬台国があった、中国の後漢や魏の王朝の権威を利用して筑紫連合、さらには「倭国大乱」へて倭国連合を形成していった、と考える方が自然であるような気がする。しかし、あくまでもそれを証明する証拠(状況証拠であれ)は見つかっていない。また考古学的検証からはヤマト王権の基になるクニが九州にあって、それが東遷して近畿へ移った事を立証することもできていない。文献的には魏志倭人伝の記述が奴国、伊都国の南の九州島内にあるかのような表現になっている事から、邪馬台国九州説が出てきたのだが、その記述が誤りで、東方向への行程と読み替えると、むしろ近畿の方がしっくり来る。
私の邪馬台国九州説支持の立場は、文献や考古学的考察によるものというよりは、もともとは個人的な願望や、「そうだと面白いのにな」という空想的ロマンによるものである。残念ながら..... また筑紫のクニグニを育む地理的景観が大和の景観にきわめて似ており、古代のクニの発生、都市、王都建設の位置選定に共通のものを感じることも一因であった。福岡で育ち、周囲に数多くの遺跡や金印などの出土品や、それらしい地名が多かった事から夢が膨むのもやむを得ないだろう。
一方、邪馬台国近畿説論者にとっては有利な、それなりに説得力のある証拠が出てきている。
まず第一に三輪山麓に広がる纒向(まきむく)遺跡。弥生後期から古墳時代初期の纒向遺跡は全体のまだほんの3%ほどしか発掘されていないが、他の地域の稲作を中心として形成された環濠集落、クニ、とは異なり、指導者の意図と一定の計画に基づき造営された「都市」である様子が明らかになりつつある。しかもそこには当時の倭国各地から人々が集まったであろう事を推定させる各地の特色を示す土器が大量に出土している。もっとも宮殿や大掛かりな祭祀を行ったと見られる建物などの遺構はまだ見つかっていない。ひょっとすると、周辺に広がる大規模古墳の築造に駆り集められた各地の人々の「飯場」の跡かもしれないが。今後の発掘成果が期待される。
第二に箸墓(はしはか)古墳。卑弥呼の墓ではないかと言われてきたが、最近の年代測定法によれば、箸墓古墳は3世紀中葉に造営された可能性が高く、従来の古墳時代の始まり年代よりもさらに弥生時代後期にくい込む年代に造営されたらしい、と。卑弥呼の死、その後に「大いに塚を造る」という魏志倭人伝の記述にも年代的に符合する。この3世紀最大の前方後円墳はなぜこの纒向/箸中の傾斜地に造営されたのか。
最近の研究成果の詳細をここで記述して論ずるつもりはないが、こうした考古学的調査に基づく証拠だけでは何とも満足出来ないのが「時空トラベラー」の性質であり、まず現地へ行ってあたりの「空気」を嗅いでみねば,という事になる。
いつもの「邪馬台国ツアー」出発駅、近鉄大阪上本町を出発、近鉄桜井駅へ。そこからJR桜井線に乗り換えて一駅目。三輪駅で降りる。三輪神社へ向かう参道にでるが、今回は大鳥居近くの桜井市埋蔵文化財保存センターへ。そこで発掘調査の成果を概観してから、南北に走る古代官道の一つである、上つ道を北上する。 両側に大和路の風情を感じさせる古い民家を見ながらの家並を抜けると、道は左手に箸墓古墳の円形部分をカスって箸中集落に入る。いよいよ古代ヤマトのど真ん中。JR桜井線の無人駅である巻向駅近くに纒向遺跡の発掘跡がある。大溝の遺構が見つかったところだ。再び巻向駅を左に見ながら線路を渡り、山辺の道に向かって緩い上り坂を歩む。青空に積乱雲がまぶしい真夏のヤマト。暑い。
纒向のゆるい傾斜地の中程に立ってあたりの風景を見回すと、古代人が好む甘南備型の山容(低くてなだらかな三角形の山)の三輪山と纒向山、初瀬山の三山が背後に控え、大和青垣山系が纒向扇状地の東に壁のようにたたずむ。古代都市、クニの舞台設定としては理想的な地理的環境に見える。 ふと見上げると真っ青な空を背景に青垣と三輪山の上に夏雲がせり上がっている。あたりは「とよあしはらみずほのくに」にふさわしい田園地帯が広がり、箸墓古墳は緑の海原に浮かぶ島のようだ。さらに彼方に二上山を背景に美しい大和国中の風景が一望の下に見渡せる。
しかし当時はこのような扇状傾斜地では水耕栽培での稲作は無理だった。集落の周囲を取り巻く掘り割りを形成する事も困難であった。現にここでは縄文時代の集落遺跡は発見されているが、弥生時代の環濠を伴う耕作集落遺跡は発見されていない。そのような事からも、ここ纒向遺跡はこれまでの弥生系の農耕を目的に形成された集落、クニとは異なり、「都市」あるいは初期ヤマト王権の「王都」として建設されたのかもしれない。さらに後世までここが「都市」ないしは「王都」として存続した形跡も実はない。4世紀中頃に突然消滅しているのだ。やっぱり土木工事の「飯場」跡かな。
この纒向、箸中の微高地上には数多くの古墳が点在している。大和(おおやまと)古墳群だ。特に箸墓古墳は3世紀後半、古墳時代初期最大(278m)の前方後円墳で、その近くにも南北約8キロの地域(いわゆる「山辺の道」沿い)に渋谷向山古墳(景行天皇陵)や行灯山古墳(崇神天皇陵)などの古墳時代前期の巨大前方後円墳が並んでいる。また卑弥呼の鏡とされる、三角縁神獣鏡が33枚も発見された事で騒がれた黒塚古墳や、埋葬形式が確認出来るホケノ古墳などなど。
古墳造営にはこれを築造出来るだけの技術と人をかき集める事の出来る権力、財力が必須であるから、弥生時代末期の3世紀以降にこれだけの古墳の主がいたことになる。この中の誰かが初期ヤマト王権を造った大王であったとしても不思議ではない。それが倭国連合の統合の象徴として各クニグニの王によって擁立された邪馬台国の卑弥呼だったのかもしれない。箸墓古墳は宮内庁の参考陵墓で、発掘はおろか立ち入りも許されていないので謎は解明されないままだが、記紀によれば倭トトト日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓であるとされている。
こうしてこの地にたたずんでいると神聖なる三輪山の麓の大和古墳群や纒向遺跡のあたりが、やはり邪馬台国だったのだ、という「気配」を感じる。少なくとも初期ヤマト王権発祥の地で、ここから大王の時代を経て、天皇(すめらみこと)を中心とした大和朝廷の体制へと変遷していったのだろう、と。
しかし、そうだとしたら、それはそれで新たな疑問がわいてくる。大陸文化との交流の窓口であり、当時の倭国の最先進地域であった北部九州ではなく、大陸からはなれ、外海から隔絶された瀬戸内海に接する近畿にどのようにして強大なクニ、政権が生まれたのか。やがては先進地域であった北部九州の筑紫王権を併合してゆくほどの政権に成長していくわけだが。
また、壬申の乱後の7世紀、天武朝から編纂された日本書紀や古事記に記されている、天孫降臨神話や神武天皇の九州日向からの東征神話が史実に基づくものではないにしても、日本の文明が大陸に近い西から東へ発展していった事を示唆しているのではないか?という疑問にどのように答えうるのだろうか。
当時は中国や朝鮮半島の動乱の時代。こうした東アジア情勢とは無関係な立場に倭国が置かれていたとは思えない。倭の王達に権威を与える中華帝国の皇帝にも、文化や技術を伝える朝鮮半島の王にも大きな変遷があった時代だ。大陸から多くの亡命者や難民も押し寄せたであろう。こうした動きが倭国連合の形成、やがてはヤマト王権確立にどのような影響を与えたのか。
邪馬台国位置論争は、すなわちヤマト王権の成立過程、倭国におけるヤマト体制の確立過程の解明論議の一側面に他ならない。古代史の謎はまだまだ解明されてない事が多い。いろいろ想像しながら大和や筑紫を巡る「時空旅」はまだまだ続く。