2009年9月7日月曜日

柳本古墳群 古代ヤマトを歩く (その2)




JR桜井線の柳本駅からまず黒塚古墳を目指す。暑い!真っ青な夏空の下、太陽が容赦なく照りつける。遮るモノもなし。買ったばかりの帽子が役に立つ。そもそも帽子姿の自分がとっても嫌いなのだが、そんな事言ってられない。
カメラが熱くなっている。

柳本はこの辺りでは比較的大きい集落だ。古代の官道「上つ道」が集落を南北に貫く。この「上つ道」を横切り、駅から5分ほど東へ歩くと右手に黒板塀の堂々とした屋敷が見え、その左手に掘割と前方後円墳が見える。ここが景初3年の年号入りの三角縁神獣鏡が33枚と画文帯神獣鏡1枚が出土した黒塚古墳だ。このときは、これこそ魏志倭人伝に記述がある卑弥呼に贈られた魏鏡100枚の一部で、邪馬台国がここ大和地方にあった事を証明するものだ、と騒がれたものだ。

その後、三角縁神獣鏡は九州を含め全国の古墳から続々と500枚余り出土し、どれがオリジナルの魏鏡でどれが国内で製造されたコピーなのか解明出来ないこと、そもそも中国では一枚も出土していないことなどで、本当にこれらが魏鏡なのかが確認出来ていない。結局、邪馬台国論争における黒塚古墳熱は冷めてしまったかに見える。

古墳そのものは円墳部の頂上に埋葬する竪穴式で、古墳時代初期、すなわち3世紀後半から4世紀前半の築造であろうと言われている。被葬者は特定出来ていない。石室部分は古墳の規模に比してかなり大きく、また盗掘を受けていないため副葬品もよい状態で出土している。その出土状況は隣接する資料館に復元されている。現地は埋め戻されており、石室を示す表示が設置されている。

円墳部頂上は眺望が開けており、遠くに箸墓古墳、さらには三輪山、大和三山が見渡せる。一体は発掘後美しい公園として整備され、周囲は掘割を隔てて重厚な屋敷群に囲まれており、古墳というよりは城跡のような雰囲気をただよわせている。

ちなみに、この古墳部は「黒塚」と呼ばれ、中世から戦国時代にかけて砦として利用されたようで、その遺構も見つかっている。また江戸時代には柳本織田家の拠点として活用され、黒塚の東には広大な織田家屋敷が(いまは小学校になっている)、また堀割り周辺には武家屋敷が(先ほどの堂々たる黒板塀のお屋敷もそうか)広がっていた。だからなんだ。柳本の集落がやや城下町的な雰囲気を保っているのは。大和におけるその後の織田家と言えば、大宇陀の松山も織田信雄の末裔が住んだ城下町だった。

黒塚古墳から東へ向かうと、国道を隔てて行燈山古墳(宮内庁管理の崇神天皇陵)が威容を誇っている。ここからはいわゆる「山辺の道」が南北に山麓を縫うように様々な史跡をつないでいる。「山辺の道」をやや南に下るとやはり大型の渋谷向山古墳(宮内庁管理の景行天皇陵)が。いずれも濠に取り巻かれた大王の陵墓にふさわしい堂々たる造りだ。

柳本古墳群にはこの二つの大型古墳を中心に、廻りには中小の古墳が集積している。先ほどの黒塚古墳も行燈山古墳が立地する丘の稜線上に位置している。すぐ後ろ(東側)には竜王山がそびえ、その山麓に繋がる傾斜地の高台から見渡す大和盆地の景観は素晴らしい。ヤマト王権の地にふさわしい位置だ。逆に、これらの威容を誇る巨大建造物は、下から見上げる民にとっては大王や豪族達の権威のシンボルに見えたことだろう。

多くの中小古墳群は天皇陵の培塚だと言われているが、そもそもこの二つの大型古墳が天皇陵であるかどうかはまだ調査、確定されていないので、培塚と言い切れるか結論付けは出来ない。また濠も後の世に農業用として構築されたものもあり、天皇陵だから周濠があるという訳でもなさそうだ。

被葬者と言われている崇神天皇は、日本書紀に「ハツクニシラススメラミコト」と記されており、事実上の最初のヤマト王権の大王であったと言われる。神武天皇と、その後の八代の天皇は「欠史八代」として実在せず、8世紀の日本書紀編纂期に創出された天皇であろうとされている。崇神天皇の四道将軍伝承や景行天皇の皇子、日本武尊が東征、西征して倭国を平定した事など、史実であったかどうか確認できない点もあるが、どうやら崇神天皇が実在の大王であった事は学会の定説になっているようだ。また崇神、垂仁、景行と続く3代の大王全て実在したかどうかは議論があるが、初期ヤマト王権あるいは第一次ヤマト王権(三輪王権)がこの地に打ち立てられたのはこの頃だとされている。。

そうだとすると3世紀半に現れたという崇神天皇は、魏志倭人伝に記述がある3世紀初頭に亡くなった邪馬台国の女王、卑弥呼、その跡を継いだとされる女王、薹与(トヨ)とどのような関係なのか興味深い。魏志倭人伝以降、薹与が遣使したという記述の後、中国の史書に倭国の名が現れるのは5世紀に入ってからで、倭王武が時の南朝に上奏し、安東将軍の称号を得たという記述まで「倭国情報」は途絶えている。いわゆる空白の4世紀である。この間の倭国の政権交代の状況が分からない。ちなみに崇神天皇が実在の人物だとしても、その事と行燈山古墳が崇神天皇の墓である、という証明とは別の事である。

大和古墳群のなかでも、ここ柳本古墳群は大型古墳とそれを取り巻く数々の古墳に彩られたいわば「王家の谷」ならぬ「王家の丘」とも言うべき景観を作り出している。ただ問題は、これだけの墓がありながら、後の時代に破壊されたり、宮内庁管理で出入りを禁じられたりで、充分な考古学的調査が出来ておらず、正確な被葬者を特定出来ないのがもどかしい。ヤマトの歴史、古代の日本の歴史の解明にはまだまだ時間が必要なのか。

帰りは、渋谷向山古墳から田んぼの中のだらだら坂を真っ直ぐ西へ向かい、「上つ道」で左折して古い町並みを見ながら桜井線巻向駅から帰途についた。暑い一日だった。