新益京といってもピントこないが、藤原京と言えば教科書で習っただろう。しかし日本書紀には「藤原京」という名前は出てこない。飛鳥浄御原宮から遷都した新たな都は「新益京」(あらましのみやこ)と記されている。藤原の名はその宮殿をさすとされる。女帝持統天皇は日本で初めての本格的な都城、藤原京(新益京)を造営、694年に遷都した。
持統天皇の夫であった天武天皇は、壬申の乱の後、天皇親政を敷き、皇祖神天照大神を伊勢神宮に祭り、「公地公民制」を定め、割拠する豪族の上に立ち、King of Kings, Lord of lordsとして天皇を中心とした国家体制を構築。遣唐使を中止し、仏法と律令制に基づく「近代的な」大国「日本」を築くことに力を注いだ。「倭」から「日本」への大きな転換である。
この時代は、その1200年後の日本の歴史のもう一つの転換点、明治維新の時代に似ている。国際情勢の緊迫、大国や列強の外圧への恐怖。内乱。天皇中心とした統一国家体制への変換。新たな国家を律する法体系の整備、首都移転。「富国強兵」「殖産興業」という「近代化」を計った点でも共通する。いや、明治維新時の尊王攘夷思想は、この時代の宮廷「革命」に範を求めたものかもしれない。事実その後の歴史の中で天皇は政治権力の表舞台から徐々にフェードアウトしてゆき、再びその表舞台に踊り出すこととなったのは明治維新の時である。それ故の「王政復古」であった。
話は戻り、持統天皇はその夫の意思を継ぎ、新生日本を象徴する首都の造営に力を注いだ。それまでは狭い飛鳥の地であらたな天皇が即位するたびに点々と宮殿を移していたのを、いわばpermanent residentを設け、宮殿を中心に唐に習った壮大な都を形成することとした。これより平城京へ遷都する710年まで文武天皇、元明天皇の三代に渡り都を営む。ここに外国風の飛鳥文化とは異なり、日本としてのアイデンティティーを主張する白鳳文化が花開いたわけだ。後に菅原道真が説いた「和魂漢才」の原点がここにある。
藤原京は、畝傍、耳成。香具山の大和三山を包摂する東西南北条坊制に則った広大な都城であった。大極殿、朝堂院などの宮殿は平城京とは異なり、都城の中央に配置されている。都には薬師寺(平城京に移転する前の)、大官大寺が建立された。都城を囲む城壁や堀はなかったようだが、南には朱雀門趾が発掘されている。
諸外国からの使節はこの都の壮麗さに目を見張ったことであろう。しかし、先に述べたように、都はわずか16年で、奈良盆地の北、平城山の平城京へと再び遷都される。その理由は謎に包まれた部分が多いが、一説にはその地形の水はけの悪さがあげられている。宮殿の位置する地点は盆地の中央で、南西に比較的小高い山を抱える地形から、宮殿地域は常に水が流れ込む場所に位置する。当然汚水の滞留が起こり、疫病発生の原因となっていたと言われる。
そんなお粗末な... ということは、そもそも都市計画が初手からずさんだった,という事なんだろうか。大国としての体裁を整えることを急ぎすぎたのか?ともあれ現在、大極殿あとの基壇が残されており、そこに立ち周囲をぐるりと見渡すと、ここは奈良盆地の中央。北に耳成山、東に香具山、西に畝傍山が展望出来る。大和国中ど真ん中で、都のロケーションとしては理想的なのだが、いかんせん水はけまでは考えなかったのか。
今は、国指定の史跡となっており、発掘が続いている。広大な原っぱになっており、野球少年達が真っ黒になって元気にグラウンドよろしく走り回っている。その空き地の一部に地元の人々が、蓮田を設けて、いつも夏のこの季節は珍しい蓮の花の競演を楽しむことが出来る。また、黄色コスモスの群生もあり、古代を忍びつつ花々を楽しむ絶好の場所となっている。
しかし、このクソ暑い猛暑のただ中、日差しを遮る場所もない野っパラで蓮にカメラ向けてる酔狂なヤツは我一人。車でやって来て「ここやここや」といって降りて、「あっついなあ」と汗ふきながらそそくさと蓮見てまた車に戻る人以外、訪れる人もない。蓮もコスモスも盛大に私一人の為に咲き誇ってくれている。「夏草や強者どもが夢のあと」だ。おおっと、カメラが熱くなってる。
2010年7月31日土曜日
2010年7月24日土曜日
トラトラトラ 信貴山朝護孫子寺
暑い、暑い、連日の猛暑。35℃越えも珍しくない毎日。
信貴山朝護孫子寺は国宝の信貴山縁起絵巻図で有名だ。
近鉄上本町からは大阪線河内山本まで準急で。そこからは信貴山線にのりかえ、二駅目の(終点の)信貴山口まで。ここの線は電車が二両編成で20分ごとのピストン輸送してる。信貴山口からは今度は西信貴山ケーブルで高安山へ。そこからさらにバスで15分程。ちなみにこのバスは40分毎に出発。別にケーブルカーにも連絡していない。
関西の人たちには人気のご利益満載の寺にしてはなんと行きにくいこと。
もっとも、クルマで行けば早いとか。たしかに立派な有料道路と広々した駐車場が整備されている。従って私のとったルートで行く人は少ないのか、ケーブル+バスの乗客は私含めて4名。どんなに寺は空いてるかと思いきや、結構な人出。やっぱりクルマかあ。
私のように基本が徒歩の旅人にはこのゆるゆるした時間効率の悪いプロセスも楽しみの対象だ。そもそも旅はそのプロセスも重要な要素だから。
朝護孫子寺はトラが守護神。今年は寅年で私は年男。やっとお参りに来ることが出来た。入り口におなじみのシンボル「世界一の大福寅」が参詣の人々を迎えてくれる。しかしこの寅、よく見ると新しいものだ。大阪で商売やってる人の奉納だ。大阪やなあ。
縁起を見ると聖徳太子ゆかりの古刹だが、山上の寺域には様々な現世利益の仏様や神様が所狭しと並んでいて多くの参詣客で賑わっている。ここだけは明治期の神仏分離の影響を受けなかったのか、寺の入口に大きな鳥居が立ち、灯明燈籠がずらりとな並ぶ。大きな栢ノ木がご神体の栢ノ木稲荷など古代精霊信仰の名残だろう。
関西ってなかなかに日常の生活の中に社寺詣でが重要な行事として入り込んでいて面白い。大阪や京都の街中にもあちこちにお地蔵様が祀られているのを見ることが出来るくらいだ。多くの善男善女はそれぞれに家内安全、商売繁盛、不老長寿、健康増進、恋愛成就、安産etc.をお願いする為にやってくる。ここはなにからなにまでone stop shoppingで祈願出来る場所として賑わっている。それが行楽と兼ねている所にお寺参り、神社参りの原型を見るような気分がする。
本堂の舞台からは奈良盆地が見渡せる。気持ちいい。新たな人生の発進と行くか。トラトラトラ。
2010年7月20日火曜日
大阪・上町筋 昔の町家景観の痕跡を探る
江戸時代、元禄年間の古地図により大坂の街をマクロ的に俯瞰すると、上町台地の北に位置する大坂城、これを中心とする武家屋敷が立ち並ぶ城下町部分と、その西に広がる、土佐堀川、東西横堀川、長堀川に囲まれた大商業地である船場、その南の島之内。さらに商業地が拡張した西の西船場、北の堂島、天満という商業都市部分がある。さらには天満や平野町、四天王寺辺りの寺社町が大坂城のの南北を守るように形成されている。
上町筋(うえまちすじ)は今も昔も上町台地を南北に走る幹線路で、ちょうど東側城下町部分の武家屋敷地区と、西側商業地区部分、本町の町家地区とを隔てる道路になっている。さらにこの道を南に下ると西側には谷町筋周辺の寺町地区、南の四天王寺終点に至る。
この上町筋は私の通勤経路でもある。バスに乗って町並みを眺めていると、ビルやマンションの合間に点々と古い切妻の町家が生き残っているのに気付く。特に道の西側に顕著であるのは、先程述べた江戸期の街割りの残映であろうか。あるものは見るも無惨に改造され、あるものは取り壊されてその残影のみを残し、あるものは見事に補修復元され。しかし都市近代化の波にのまれ、数の上からも間もなく全てが消えてなくなるであろうことを予見させる状況だ。風前の灯という奴だ。
都市の景観は、近代化だけでなく、戦争や災害、バブル期の地上げに伴い大きく変貌して来た。江戸/明治期の町並みがドンドンなくなってゆく。東京日本橋や銀座辺りはもはやその痕跡すら見つけるのは困難になっている。間口の狭いペンシルビルが乱立している姿に往時の町割りの面影を求めるのみである。しかし、ここ大阪上町筋は、よく見るとこうしたビルの谷間に取り残されたように町家が存在し、やがてこれらもマンションに建替え間近であっても、まだ今は残っているではないか。そしてこの点と点を繋いでゆくと、線となり、繁栄の大坂、上町筋の町並み景観が蘇ってくるではないか。
こうした時空を超えた空想は楽しい。感動だ。まるでCG再現のような江戸期から昭和初期の天下の台所、大坂の上町筋の景観が蘇って来る。大阪は時代の痕跡を今にとどめながら生きている街だ。京都のようにそれを売り物にしていない分だけ、妙にリアリティーと想像とが時空を超えて交錯している街だ。
(町家は間口が狭く奥行きの深い、いわゆる「うなぎの寝床」だ。いかにも町家壊して建てましたという風情の、薄っぺらマンションビルの奥行きを見るとよくわかる。現存する町家は切妻造りでどこも平入(軒下に玄関を設けている)となっている。ビルの谷間に点々と残された町家を追っていくと町並みの線が脳内で視覚的つながり、昔の上町筋の町並みを想像することが出来る。)
(無惨にも切り取られた町家。その跡は現在駐車場に。しかし、切り取られた部分の後ろをご覧あれ。昔の町家の奥がどのような構造であったのか、その屋根のラインがシルエットで教えてくれる。まさにA瀬川G平先生のトマソン芸術だ。)
(このように美しく修復されて使われている町家もある。しかもちゃんと両側に立派なウダツが上がっている。クーラー室外機が惜しいが。この建物の所有者と住人の方々の文化センスをうらやましく思う。建築や町並みへの愛着と景観保存への深い理解を感じる。同時にこの建物をこのように維持するご苦労を思う。)
(古い外観を残した町家と改造された建物と。時代に応じて幾度かの外観変更があったのだろう。外装の看板建築を取り除けば往年の町家外観がまだ残っているのではないかと思う。しかし今後、この連続した家並が復活することはないのだろう。残念だが... 子供の頃読んだ「小さな家」という童話を思い出す。アメリカの童話作家が書いたニューヨークの街の発展の中に取り残された小さな一軒家の話だった。)
上町筋(うえまちすじ)は今も昔も上町台地を南北に走る幹線路で、ちょうど東側城下町部分の武家屋敷地区と、西側商業地区部分、本町の町家地区とを隔てる道路になっている。さらにこの道を南に下ると西側には谷町筋周辺の寺町地区、南の四天王寺終点に至る。
この上町筋は私の通勤経路でもある。バスに乗って町並みを眺めていると、ビルやマンションの合間に点々と古い切妻の町家が生き残っているのに気付く。特に道の西側に顕著であるのは、先程述べた江戸期の街割りの残映であろうか。あるものは見るも無惨に改造され、あるものは取り壊されてその残影のみを残し、あるものは見事に補修復元され。しかし都市近代化の波にのまれ、数の上からも間もなく全てが消えてなくなるであろうことを予見させる状況だ。風前の灯という奴だ。
都市の景観は、近代化だけでなく、戦争や災害、バブル期の地上げに伴い大きく変貌して来た。江戸/明治期の町並みがドンドンなくなってゆく。東京日本橋や銀座辺りはもはやその痕跡すら見つけるのは困難になっている。間口の狭いペンシルビルが乱立している姿に往時の町割りの面影を求めるのみである。しかし、ここ大阪上町筋は、よく見るとこうしたビルの谷間に取り残されたように町家が存在し、やがてこれらもマンションに建替え間近であっても、まだ今は残っているではないか。そしてこの点と点を繋いでゆくと、線となり、繁栄の大坂、上町筋の町並み景観が蘇ってくるではないか。
こうした時空を超えた空想は楽しい。感動だ。まるでCG再現のような江戸期から昭和初期の天下の台所、大坂の上町筋の景観が蘇って来る。大阪は時代の痕跡を今にとどめながら生きている街だ。京都のようにそれを売り物にしていない分だけ、妙にリアリティーと想像とが時空を超えて交錯している街だ。
(町家は間口が狭く奥行きの深い、いわゆる「うなぎの寝床」だ。いかにも町家壊して建てましたという風情の、薄っぺらマンションビルの奥行きを見るとよくわかる。現存する町家は切妻造りでどこも平入(軒下に玄関を設けている)となっている。ビルの谷間に点々と残された町家を追っていくと町並みの線が脳内で視覚的つながり、昔の上町筋の町並みを想像することが出来る。)
(無惨にも切り取られた町家。その跡は現在駐車場に。しかし、切り取られた部分の後ろをご覧あれ。昔の町家の奥がどのような構造であったのか、その屋根のラインがシルエットで教えてくれる。まさにA瀬川G平先生のトマソン芸術だ。)
(このように美しく修復されて使われている町家もある。しかもちゃんと両側に立派なウダツが上がっている。クーラー室外機が惜しいが。この建物の所有者と住人の方々の文化センスをうらやましく思う。建築や町並みへの愛着と景観保存への深い理解を感じる。同時にこの建物をこのように維持するご苦労を思う。)
(古い外観を残した町家と改造された建物と。時代に応じて幾度かの外観変更があったのだろう。外装の看板建築を取り除けば往年の町家外観がまだ残っているのではないかと思う。しかし今後、この連続した家並が復活することはないのだろう。残念だが... 子供の頃読んだ「小さな家」という童話を思い出す。アメリカの童話作家が書いたニューヨークの街の発展の中に取り残された小さな一軒家の話だった。)
(こちらも立派なウダツを残す商家。軒下はシャッターに改装されているが、これからもご商売を続けていただきたいものだ。でないとここも両隣の様な建物に建て替えられてしまうことだろう。)
2010年7月19日月曜日
西ノ京 睡蓮を巡る 喜光寺、唐招提寺、そして薬師寺遠望
やっと梅雨が明けた。各地に集中豪雨と土砂崩れの災いをもたらした今年の梅雨。被害に遭われた方々にお見舞い申し上げます。
夏の花と言えば、ムクゲ、酔芙蓉、百日紅... 睡蓮も今の季節だ。
睡蓮は朝花が開いて、夕方には花を閉じてしまう。また花の命は2ー3日。はかない。
しかし、6月の下旬位から8月上旬位まで、次々と異なる種類の蓮が花をつけるので、割に長く楽しめる。
蓮の台に仏がおわす。まさに...
喜光寺は唐招提寺の北、西大寺の南の両寺の中間くらいに位置している。この辺りは奈良市菅原町。古くは菅原一族の発祥の地で菅原道真公の生誕の地でもある。この寺も創建時は菅原寺と呼ばれていた。有名な大寺に隠れて普段訪れる人も多くはないが、寺の縁起によれば721年行基菩薩により創建された。748年に聖武天皇が参詣された際にご本尊より不思議な光が放たれた、それを喜ばれた天皇が喜光寺を改名された、と。
ご本尊は平安時代の阿弥陀如来であるが、創建当時のご本尊が何であったかはわかっていない。
行基はその後東大寺造営を指揮しているが、この喜光寺の本堂を見ると、どこかで見たことのある建物だということに気付く。そう、東大寺大仏殿の縮小版だ。行基はこの本堂を参考として大仏殿を建てたとされる。
喜光寺はこの季節、様々な種類の睡蓮で華やぐ。鉢植えの睡蓮が境内に並び、大仏殿の「試みの堂」を背景にこの世の極楽浄土を出現させたような美しさだ。この日は残念ながら、出足が遅くなってしまい、到着したのが正午。閉じてしまった花も多かったが、それでも白やピンクの花々が咲き誇っていた。この花の白、ピンク、葉の緑、そして花心の黄が絶妙のバランスだ。またまだつぼみのほんのりとしたピンクも美しい。
唐招提寺の睡蓮は、その本坊庭園の大賀博士の古代蓮が有名だが、こちらは当日は公開されておらず残念。これを期待して来たと思われる観光客も門を閉じた本坊庭園の中を覗き込んで「今日はあかんなあ。ホンマやったら奇麗で」と語り合っている。寺のサービスであろうか、本坊玄関周りに数鉢が並べられて観光客の目を楽しませてくれていた。しかし、誠に鑑真和上の志の高さと慈悲の心に、静に咲き誇る睡蓮は文字通り花を添える。
この日は、花の写真撮影の常として重い望遠ズームレンズを担いで行ったので、ここまで来たら以前行った大池越えの薬師寺を景観を撮りに行こうと考えた。
ここは薬師寺の東塔、西塔、金堂全てを池越えに望むことが出来、しかも背景に若草山と春日奥山を展望出来る絶景ポイントだ。入江泰吉はじめ著名な写真家のショットにもここからのものがある。
梅雨明けの暑い夏の日差しをもろに浴びながら、近鉄の線路を渡り田んぼと住宅街の中をてくてく歩く。暑い! 汗が吹き出る。出がけの女房の「帽子かぶって行きなさいよ」という、母親の子供に対する注意じみた言葉がしみじみ思い出された。
ようやく大池にたどり着いた。誰もいない。我ながら酔狂な...と、思わず笑ってしまった。
以前来た時には、あまり天気がよくなくて薬師寺も背景の若草山も霞んでいた。しかも手持ちのカメラは古いライカM4に50ミリズミクロンのみ。ちょっと引きが足りなくて悔しい思いをした。
今日は太陽もちょうど西から射している。再建された西塔の朱と金色の水煙が美しく光る。しかも東塔はこれから解体修理で十年程お目にかかれないそうだ。遠くの山肌のグラデュエーションもいい。今回は、ニコンの70ー400ミリ望遠ズームでじっくり撮ることが出来た。こういう風景写真はやはりニコンD3sの存在感が光る。重い機材を担いで来た甲斐があった。
写真撮り終えると、それを待っていたかのように一人の若者が近づいて来た。差し出された名刺を見ると読売新聞の奈良支局の記者でSさんという。私が一生懸命写真撮ってるんで、ちょっと話を聞かせて欲しいということで。奈良の風景の特集記事を連載しているとのこと。こんな私に奈良の風景、歴史やウンチクなどしゃべらせると終わらないことを、この若い記者はすぐに悟ることとなった。
たいがいしゃべりたいことしゃべって、お蔭さまで私としては楽しいひと時を過ごすことが出来た。心理学で言うカタルシス状態。彼は貴重な時間を素人のオヤジカメラマンに費やされて大いに迷惑だっただろう。この場を借りてお詫びいたします。あの時はスンマセンでした。良い記事書いて下さい。
夏の花と言えば、ムクゲ、酔芙蓉、百日紅... 睡蓮も今の季節だ。
睡蓮は朝花が開いて、夕方には花を閉じてしまう。また花の命は2ー3日。はかない。
しかし、6月の下旬位から8月上旬位まで、次々と異なる種類の蓮が花をつけるので、割に長く楽しめる。
蓮の台に仏がおわす。まさに...
喜光寺は唐招提寺の北、西大寺の南の両寺の中間くらいに位置している。この辺りは奈良市菅原町。古くは菅原一族の発祥の地で菅原道真公の生誕の地でもある。この寺も創建時は菅原寺と呼ばれていた。有名な大寺に隠れて普段訪れる人も多くはないが、寺の縁起によれば721年行基菩薩により創建された。748年に聖武天皇が参詣された際にご本尊より不思議な光が放たれた、それを喜ばれた天皇が喜光寺を改名された、と。
ご本尊は平安時代の阿弥陀如来であるが、創建当時のご本尊が何であったかはわかっていない。
行基はその後東大寺造営を指揮しているが、この喜光寺の本堂を見ると、どこかで見たことのある建物だということに気付く。そう、東大寺大仏殿の縮小版だ。行基はこの本堂を参考として大仏殿を建てたとされる。
喜光寺はこの季節、様々な種類の睡蓮で華やぐ。鉢植えの睡蓮が境内に並び、大仏殿の「試みの堂」を背景にこの世の極楽浄土を出現させたような美しさだ。この日は残念ながら、出足が遅くなってしまい、到着したのが正午。閉じてしまった花も多かったが、それでも白やピンクの花々が咲き誇っていた。この花の白、ピンク、葉の緑、そして花心の黄が絶妙のバランスだ。またまだつぼみのほんのりとしたピンクも美しい。
唐招提寺の睡蓮は、その本坊庭園の大賀博士の古代蓮が有名だが、こちらは当日は公開されておらず残念。これを期待して来たと思われる観光客も門を閉じた本坊庭園の中を覗き込んで「今日はあかんなあ。ホンマやったら奇麗で」と語り合っている。寺のサービスであろうか、本坊玄関周りに数鉢が並べられて観光客の目を楽しませてくれていた。しかし、誠に鑑真和上の志の高さと慈悲の心に、静に咲き誇る睡蓮は文字通り花を添える。
この日は、花の写真撮影の常として重い望遠ズームレンズを担いで行ったので、ここまで来たら以前行った大池越えの薬師寺を景観を撮りに行こうと考えた。
ここは薬師寺の東塔、西塔、金堂全てを池越えに望むことが出来、しかも背景に若草山と春日奥山を展望出来る絶景ポイントだ。入江泰吉はじめ著名な写真家のショットにもここからのものがある。
梅雨明けの暑い夏の日差しをもろに浴びながら、近鉄の線路を渡り田んぼと住宅街の中をてくてく歩く。暑い! 汗が吹き出る。出がけの女房の「帽子かぶって行きなさいよ」という、母親の子供に対する注意じみた言葉がしみじみ思い出された。
ようやく大池にたどり着いた。誰もいない。我ながら酔狂な...と、思わず笑ってしまった。
以前来た時には、あまり天気がよくなくて薬師寺も背景の若草山も霞んでいた。しかも手持ちのカメラは古いライカM4に50ミリズミクロンのみ。ちょっと引きが足りなくて悔しい思いをした。
今日は太陽もちょうど西から射している。再建された西塔の朱と金色の水煙が美しく光る。しかも東塔はこれから解体修理で十年程お目にかかれないそうだ。遠くの山肌のグラデュエーションもいい。今回は、ニコンの70ー400ミリ望遠ズームでじっくり撮ることが出来た。こういう風景写真はやはりニコンD3sの存在感が光る。重い機材を担いで来た甲斐があった。
写真撮り終えると、それを待っていたかのように一人の若者が近づいて来た。差し出された名刺を見ると読売新聞の奈良支局の記者でSさんという。私が一生懸命写真撮ってるんで、ちょっと話を聞かせて欲しいということで。奈良の風景の特集記事を連載しているとのこと。こんな私に奈良の風景、歴史やウンチクなどしゃべらせると終わらないことを、この若い記者はすぐに悟ることとなった。
たいがいしゃべりたいことしゃべって、お蔭さまで私としては楽しいひと時を過ごすことが出来た。心理学で言うカタルシス状態。彼は貴重な時間を素人のオヤジカメラマンに費やされて大いに迷惑だっただろう。この場を借りてお詫びいたします。あの時はスンマセンでした。良い記事書いて下さい。
2010年7月15日木曜日
源氏物語宇治十帖とパンクロックの世界
平等院のある宇治川のほとりは、源氏物語宇治十帖の舞台となった美しい土地である。宇治橋を渡ると、豊かな水量を誇る宇治川がとうとうと流れ、緑濃いなだらかな山々に囲まれた文字通り山紫水明の地。平安の時代に藤原の道長が都を離れ別邸を築いた地である。
平等院は1052年に道長の別邸跡に、関白藤原頼通によって創建された。当時は多くの塔堂伽藍が立ち並ぶ壮観な地域であったが、今では現存するのはわずかに鳳凰堂のみとなってしまった。この世界遺産鳳凰堂は当時の浄土信仰ブームにのっとり阿弥陀仏を安置する阿弥陀堂として建立されたもの。言うまでもなく十円玉で有名。
飛鳥や奈良を散策して来た目から見ると、京都やここ宇治はその景観背景が大きく違っていることに気付く。
まず時代背景を比べてみると、
奈良時代が主として唐の文化を積極的に取り入れて国づくりに励んだの時代であったのに対し、唐からの文化を日本風に消化発展させた時代。いわば唐風文化に対する国風文化の時代に移り変わっている。菅原道真の進言により遣唐使が廃止されたことがきっかけとなり、これまでの唐の文化をコピーすることから脱却した時代である。
従って建造物も日本独特の寝殿造り。庭園も日本庭園の原型とも言える箱庭的な庭園が出現している。また、末法思想による浄土信仰が盛んになり、阿弥陀仏を安置する阿弥陀堂など貴族を中心に多くの私寺が建立された時代でもある。奈良の建造物が国の威信をかけた官寺、天皇発願の寺が中心であったのに比べるとその違いが面白い。
さらに、風水の考え方に影響を受けた都の設計、ロケーション設定でも平安京は、平城京と異なり、山と川の織りなす山紫水明の地が選ばれている。特に「水」が重要なエレメントになっている。ここ宇治もその宇治川と橋とたおやかな山々が景観の重要な要素となっている。奈良盆地に繰り広げられた都の景観には大きな川がない。藤原京はその水はけの悪さから廃都となってしまっている。平城京でも「橋」という構造物がその時代の権力や文化を象徴することはなかった。
一方、国風文化の時代に生まれたひらがなは中国から輸入された漢字の草書体を使った日本独特の文字で、特に宮廷の女性達によって用いられ新しい文学作品が生まれる。日本の小説を代表する最高傑作、源氏物語はその一つ。その最後の編、宇治十帖は光源氏の子孫の時代の物語。薫大将と匂宮という二人のプレーボーイが主人公として登場する。ここロマンチックな宇治の地を舞台とした「いい加減にしろ」と言いたくなるような「草食系男女」の恋物語だ。
「京都大作戦」と銘打ったロックコンサートはこの宇治市にある広大で緑豊かな山城運動公園で開かれた。メジャー、インディーズを含め50バンド程が結集。会場は平等院鳳凰堂の位置する宇治川のすぐ東の山の中。梅雨時期の貴重な晴れ間、しかも夕刻の屋外ライブもいいものだ。これくらい広くて山の中なら周りに迷惑もかからない。
我がスタンスパンクスの熱い爆音とメッセージに久しぶりに酔いしれる。洋風文化オリジンのパンクロックミュージックだが、スタパンの「日本語パンク」をここ宇治の地で楽しめるのも何かのエニシ。これぞ現代の国風文化。
それにしても雅な源氏物語宇治十帖の世界とパンクロック、そぐわない気がするが、どうしてどうして、会場には全国から大勢の汗臭い「薫大将」や「匂宮」が集まり、もののけ姫みたいに化けた橋姫の群れとで現代の王朝絵巻が繰り広げられている。阿弥陀如来もこの世に出現した西方極楽浄土を暖かく見守っている。52体の雲中供養菩薩もダイブ、モッシュこそしないが伸びやかに様々な楽器を奏で舞っている。