2010年8月21日土曜日

伊豆 奈良本の庄







夏休みはいつもの隠れ家、伊豆奈良本へ。といっても、大阪へ転勤となってからはなかなか行きにくくて、ほぼ2年ぶりの伊豆行きとなった。

 伊豆は近畿からはいまでも遠い。まして奈良や京都に都があった時代にはとても簡単に行ける所ではなかった。伊豆国は奈良時代には駿河国から別れて一国となった。国分寺は三島、国府も三島におかれたと言われるが、その遺構は発掘されてない。いずれにせよ都から見れば、伊豆は文字通り遥か東国、天さかる鄙である。今でも新幹線で新大阪から東京へ向う途中、三島の手前の右側の車窓から海中に牙牙たる山並みが続いているのが見える。これが伊豆半島だ。伊豆半島は海に大きくせり出した山なのだ。

 奈良本は伊豆半島東海岸、相模湾沿いの賀茂郡の里である。
ここに永年のなじみとなっている作右衛門宿、山桃茶屋がある。今では伊豆急行線の熱川駅から車で急な山道を上れば20分程で到着する。海辺の温泉街からは遥かにはずれていて山に囲まれた狭い里の静かな集落の中にある。もともとこの地の庄屋の屋敷であったそうで、立派な古民家とナマコ塀の蔵が美しく手入れされた庭とともに、ここがこの地域の有力者の屋敷であったことを彷彿とさせてくれる。一日に2組しか泊まれない露天風呂の宿と、しし鍋、へらへら餅などのひなびた郷土料理を食べさせてくれる大きな古民家の座敷料亭と...あまり人に教えたくない隠れ処という風情である。

 地元の人々は、奈良本はその昔、奈良時代に政変や権力闘争を逃れて移り住んだ都人の隠れ里であったと言う。確かに日本の秘境地域に点在する平家の落人部落を感じさせるたたずまいに似ている。都からの距離感、しかしどこか雅な空気感がここにも漂っている。奈良本は山里であるが,同時にのどかな海の見える里である。その点で九州の椎葉村のような山々で隔絶された環境でいかにも秘境という雰囲気はない。いや海と山に隔絶されてはいるが、かえってそれが明るいリゾートの雰囲気を醸し出している。

 今でこそ国道135号線や伊豆急行線で伊東から先へも行きやすくなったものの、その昔は伊豆の峻険な山々を越え、海岸の断崖絶壁に身の危険をさらしながら来なくてはならない秘境であった。
 川端康成の「伊豆の踊り子」でも、旅芸人の一行と山道を歩き、天城トンネルを抜けて下田へ向う道中の様子が描かれている。東京へはもっぱら下田から船、というのは踊り子の最後のシーンを思い起こせば理解出来る。

 奈良時代以降,伊豆は権力闘争に敗れた人々の流刑地でもあった。源頼朝が伊豆に流された話は有名だが、それ以外にも歴史上多くの悲劇がこの伊豆の地に伝わっている。特に都から遠く離れた東海岸の賀茂郡と伊豆七島は「遠流」すなわちもっとも重い流刑の場所であった。左遷と言うとよく引き合いに出される九州の太宰府だが、都の最も位の高い人々の赴任地であって、中央政界からは都落ちだが、立派な官職を得ることの出来る土地だったので比べるべくもない。

 奈良本もひょっとすると,落人の隠れ里というよりも、こうした都での政治闘争に敗れ、送られて来た人々の末裔が住み着いた場所だったのかもしれない。闘争に敗れた我が身をはかなみ、世間に恨みを抱き送られた流刑地。赦免の日も来ぬまま彼の地に留まり、しかしこの地に最後は安らぎを見出したのかもしれない。

 穏やかで暖かい人々。緑濃く、ひんやりとした空気、河鹿が鳴き、21才の老猫が迎えてくれる、変わらぬ里の静けさに心癒されて過ごす。今は都会での心身の疲れを癒すリゾート隠れ里だ。ひょっとするとここは「愛の流刑地」なんだ。いや、そういう意味ではなく...






(夏の夜の海を彩る花火。伊豆今井浜は今、若者や家族連れで賑わい、海辺の一夜のイベントで盛り上がる)




(蓮の花が伊豆の地に散った都人とその末裔の想いを乗せて咲き誇る。人気のアトリウムに咲く蓮が今は人々を癒してくれる)