2010年9月14日火曜日

飛天の眼 倭國ヤマト世界を見渡す

 大阪伊丹空港から東京羽田空港へ飛ぶ飛行機は、離陸するとすぐに、神戸上空で大きく左旋回しながら大阪市上空に達し、そのまま水平飛行で、左手に京都を見下ろしながら生駒山を越えて奈良盆地を横切り東山中の大和高原を飛び越えて、伊勢湾、三河湾へでる。

 古代大和の地は,西に生駒、金剛山地を隔てて河内、難波。東に東山中、伊勢。南に吉野山地、紀伊山地を隔てて熊野。北に山城,のちの京都といった国々、地域に囲まれた盆地である。
 すなわちこの飛行機から今見えている大和盆地(あるいは奈良盆地)が大和国中である。

 ここが古代大和、倭国、日本の創世の舞台となった。上空から見渡してみると海には難波の津を介して瀬戸内海へつながっているが、概して山に囲まれた内陸の狭い盆地、箱庭のようなクニである。
 外敵(大陸から,という意味)の侵入から容易に守られる平和な地域である。

 日本書紀に描かれた、神武天皇の東征に出てくる難敵ナガスネヒコの生駒山も、迂回した熊野、吉野の山中からヤタノカラスに導かれて進軍した大宇陀も見える。厩戸皇子の斑鳩の里も大化の改新の舞台飛鳥も、壬申の乱で大海人皇子が進軍した伊勢、吉野のルートも、そして藤原京、平城京も全てが一望に見渡せる。

 これが古代日本人の世界だったのだ。三輪山から日が昇り,二上山に日が沈む宇宙観も空から見るとこれくらいの範囲の話なのだ。たしかに南にそびえる熊野山系、吉野の山々の重畳を眺めるとこの方角が神々の聖域であると信じられて来たことが分かるような気がする。しかしこの山の向うに広がる太平洋のかなたには、という感覚は薄かったのだろう。

 伊勢は大和国中からは遠い。東山中の山々,大和高原を抜けてはるか東にある。何故ここに大和政権の中心である天皇家の皇祖神、天照大神が鎮座ましましたのか,空から見ると不思議な感じもするが、それでも紀伊半島という見渡せる範囲の世界の話だ。

 その箱庭的なスケール感に比べると,九州の筑紫や日向は大和からは遥かに遠い。まして朝鮮半島や,中国は気が遠くなるほど遠い世界の果てである。それでもこの狭い地域の中で,血なまぐさい権力闘争が起き、大王が替わるたびに都を点々と遷すことが繰り返されていた。この盆地を見下ろしていると人間の業を感じない訳に行かない。まして大和の地にいる倭人がはるばる外の世界に出てゆくことは,大きな冒険であったに違いない。いや逆に、遠い九州や大陸から、土着の勢力と対立したり融合したりしつつ、この大和の地に人々が何らかの理由で移り住み定住勢力となったのかもしれない。

 おそらく大陸に近い筑紫の倭人達は、大和の倭人達に比べれば遥かに朝鮮半島や中国と日常的に行き来していて、人種的にも混血が進んでいたことだろう。いや倭人とか渡来人とか言う概念は後世の歴史学者が名付けた分類であって、九州北縁に住まう人々、朝鮮半島南縁の人々には、そのあいだに大きな海峡こそあれ縦横無尽に行き来していたことだろう。晴れた日には壱岐対馬が展望出来、対馬からは朝鮮半島が望める地ならではである。

 それに比べると大和の地形は山々に囲まれ、農耕集落を営むのに適したのどかな地形だ。「大和は国のまほろば」であり、「うまし国ぞ大和の国は」なのだ。政権基盤はこのような経済基盤が確保出来る、安心安全なロケーションにこそ存在する必要があったのだろう。大陸に近い筑紫の地は、最先端の文明に接する先進地域ではあるが、同時に文明の衝突する不安定な地域でもある。後に倭国軍が白村江の戦いに唐/新羅連合軍に敗れて敗退し、その後天智天皇は大陸からの本土侵攻を恐れて九州から瀬戸内にかけて長大な防衛線を築いた。確かにこのような国際情勢の影響を直接受ける地域は落ち着かない。

 魏志倭人伝に記述のある倭人のクニが存在していた時代に、何らかの形で東へ優勢なクニ(それが邪馬台国なのかどうかは知らないが)が移ったのだろう。その東征過程で生まれた出来事を脚色して編集されたのが古事記の神武天皇東征神話であろう。

 いずれにせよ、この眼下に広がる小宇宙で育まれた世界観が日本人のDNAに深く刻み込まれていることは間違いない。グローバル化の影響を適当な距離を置いてマネージ出来る居心地の良いクニ造りを求めて... arms length philosophyだな。これからの時代、日本がそれでモツかどうかは疑問だが。

 そんなことを考えているうちに、機は遠州灘を過ぎ,やがて左手に富士山を見下ろしながら東京へ向った。