2010年9月27日月曜日

元興寺とならまち 日本最古の仏教寺院は今...

 飛鳥から藤原京、さらに平城京、と遷都するたびに実は、首都にあった建物の大規模な移転が行われていた。宮殿や官庁の建物は柱や瓦までが大々的に新京へ運ばれている。その他にも重要な官寺である大官大寺や薬師寺の移転は大事業であった。藤原京に建立された薬師寺が、平城遷都とともに現在の奈良西ノ京に建物をそっくり移転されたことは以前に述べた通りだ。

 現在の奈良市のならまち。その古い町並みと落ち着いたたたずまいが魅力的で観光名所になりつつある地域に元興寺という寺がある。大寺院の多い奈良にあってこじんまりした境内で、今では秋の萩と桔梗で有名な寺となっているが、この元興寺こそ、時をさかのぼること588年に飛鳥の地に蘇我馬子によって建立された法興寺(飛鳥寺)がその前身である。

 仏教が中国、朝鮮半島を経て倭国に伝来したのが欽明大王の538年(552年とも言われている)。崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏が争い、蘇我馬子と厩戸皇子が、排仏派の物部守屋を討ち果たして、我が国に仏教が受け入れられるようになった、と歴史で教わった。そうして蘇我氏によって我が国初の正式な仏教寺院が飛鳥の地に建立された。これが法興寺(飛鳥寺、後の元興寺)である。その歴史的な寺院が平城京遷都にあわせて奈良へ移転したのである。

 しかし、法興寺は天皇家発願の官寺ではなく、蘇我氏の寺,すなわち氏寺である。しかも蘇我入鹿は乙巳の変で中大兄皇子に誅殺された、いわば朝敵である。その寺がどのような理由、経緯で新京へ移転出来たのか興味あるが、詳しいことは分かっていない。

 現在の元興寺は往時の規模を遥かに下回る規模でしか残っていない(左下の平城京へ移転時の元興寺境内図参照。青色の→部分が極楽堂、禅室に改造されて現存)。しかし、飛鳥の地から移転された当時を偲ぶものとしては、ならまちの中に残る大塔の跡、西小塔院跡、現在の元興寺境内の極楽堂、禅室などしかない。このうち極楽堂と禅室の屋根瓦の一部数千枚が,飛鳥の法興寺移転に伴い運ばれた日本最初の瓦であり、丸瓦の「行基葺き」と言われる古来の葺き方を今に残している。

ちなみに、今のならまち全体が,ほぼ当時の元興寺境内であった訳で、平城京における元興寺の勢力を示している(左の図参照。赤い部分が現在はならまちのなかに史跡として点在している)。しかし後の時代に寺が衰退するとともに,寺域に民家が建ち並び始め、今のならまちが形成されたと言われている。

 奈良時代には元興寺は南都七大寺の一つに数えられ、墾田による格付けとしては東大寺に継ぐ地位を誇っていたという。いずれにせよ何時の頃からか元興寺も官寺としてのステータスを保証されるようになっていたものと考えられる。我が国初の仏教寺院という歴史を背負っているが、朝敵蘇我氏の氏寺でもあった法興寺(元興寺)が大きな発言力と影響力を持つに至る歴史の謎はやがて解明されるだろう。

 都が平安京に移った平安時代前半までは元興寺も仏教界に指導的な役割を果たしていたようだが,平安後期から天台宗、真言宗の台頭、朝廷ではなく貴族との特別な関係を持つ寺院などが勢力を有することとなり、次第に他の官寺同様、衰退が始まる。その後は中世の智光曼荼羅を祀る浄土信仰や聖徳太子信仰などの庶民の信仰の力によって命脈を保ち現在に至っている。1998年には「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産に指定されている。

 当時の寺は宗教施設ではあるものの、外国の最新の思想、文化、技術、芸術を学ぶ,総合大学のようなものでもあった。官寺はいまでいう国立大学、氏寺は私立大学のようなものといえよう。

 外来の宗教である仏教が、鎮護国家の中心となる宗教と位置づけられるのは天皇親政を確立した天武天皇の時代だ。この頃に薬師寺や大官大寺が官寺として建立され、やがて平城京に移って聖武天皇によって東大寺が建立され、筑紫の観世音寺、下野の薬師寺が東大寺とともに、授戒をする3戒壇が設けられ、全国に国分寺、国分尼寺が建立される。こうして中国や朝鮮半島に負けない文化国家としてのいわば国立大学のネットワークが全国に広まっていった。

 一方、蘇我氏建立の法興寺や、聖徳太子建立の法隆寺、四天王寺、さらには唐の高僧、鑑真和上建立の唐招提寺、藤原氏建立の興福寺などは氏寺、私寺でいわば私立大学である。

 しかし、何時の時代もそうであるが、常に「官立」が中心という訳ではない。やがては時の権力者として権勢を振るう藤原氏のように、「官」すなわち朝廷に対抗する一大勢力をなす。興福寺は藤原氏の氏寺として平城京の東に外郭を張り出して建立されている。

 またその一方で、時の権力者の氏寺ばかりが勢力を維持し続けるのではなく、庶民の信仰や帰依により発展し、現在まで存続している法隆寺や四天王寺のような寺もある。興福寺が明治期の廃仏毀釈の嵐の中で破却され、消滅に近い状況になったのに対し、これらの寺は庶民の信仰に支えられて今も法灯を絶やしていない。

 元興寺の今の姿は、飛鳥時代の権力者蘇我氏の氏寺という性格や、南都七大寺としての官寺のステータスを誇っていた時代の姿ではない。中世に至り智光曼荼羅を本尊とする南都浄土信仰を中心とした、庶民に支えられた信仰の場とし栄え現在に至っている。時代とともに権力者は栄枯盛衰うつろい行くが、庶民の力は永遠に不滅だ。


 

(平城京における寺院配置。東郭に興福寺と並んで広大な寺域を有していた元興寺。このようないびつな形をした都の造営には藤原氏の影響力が強いと言われている。平城宮の東への張り出し部分は藤原系の皇族の居住地域。平城京の東への張り出し部分は藤原氏の興福寺の所領というわけだ。
(奈良文化財研究所資料から)