2011年5月17日火曜日

春日大社と興福寺 藤原氏という系譜

 奈良の春日大社と興福寺は考えてみると不思議な取り合わせだ。いわば同じ敷地に併存しているShinto ShrineとBuddism Temple。どちらも藤原氏の創建になる神社と仏教寺院である。少し過去の歴史を振り返ってみよう。後の時代の神仏混合の考えによる神宮寺や寺の守護をする鳥居のような併存とは違って、新興の外来思想、宗教である仏教が我が国に伝来してわずかに150年程の時代に新興国日本の新都平城京に、私人として創建したものだ。この頃の仏教は平安時代以降のそれと違って、庶民の苦悩を救ったり,現世利益を唱えたりする考えではなく、天皇中心政治の基本にある、いわば鎮護国家の考え基づいた国家統治の為の思想、知識の体系であった。そしてその中心は東大寺という官寺である。

 藤原氏は知られている通り、いわゆる「大化の改新」で中大兄皇子を助けた中臣鎌足の子孫であり、摂関家としてその後の歴史の中で血統を絶やすことなく、現代の世まで続いている。もともと中臣氏はその名の通り、大臣でも大連でもなく、飛鳥ではそれほどの権勢を得た一族ではなかった。乙巳(いっし)の変(「大化の改新」は史学的には最近ではこう呼ばれている)での勲功が認められ、天智天皇から藤原姓を賜って以降、平城京、平安京の両時代に権勢並びなき程の栄華を極めることになる。

 この中臣鎌足の出自は諸説あるようだが、河内の枚岡辺りの地方豪族で、後に飛鳥に出てきて中央政界にデビューすることとなる。明日香の小原の里に藤原神社がひっそりと建つが、この辺りを拠点に大王家に徐々に近づき、大化の改新(乙巳の変)で頭角を現したようだ。中大兄皇子との出会いでも、皇子が蹴鞠で脱げた履物を,鎌足が拾って,恭しくさし出した時に初めて「そはたれか?」と聞かれているくらいだから、位の高い人物とはいえない。

 そもそも、乙巳の変は、グローバル派で、外来の宗教である仏教を積極的に倭国に導入しようとしていた蘇我氏と、古来の神を崇拝すべきだとする、物部氏の対立に遠因がある。廃仏派の物部氏を蘇我氏が滅ぼし、飛鳥に倭国初の仏教寺院(飛鳥寺)を建立。その後に大王家でも推古大王、厩戸皇子(聖徳太子)による仏教中心の国家造りを進めるなど,いわばグローバル派が政権の中枢を握ることとなる。

 しかし、飛鳥政界はこの蘇我氏の外交政策を支持する勢力ばかりではなく、むしろ敵も多かったことだろう。革新派と守旧派の争いは時代を超えた歴史の理である。蘇我氏は宮廷クーデターで、中大兄皇子、中臣鎌足、倉山田石川麻呂らによって誅殺されることになる。これは見方によればグローバル派の一掃であり、守旧派の復権でもある。中臣氏は、物部氏や大伴氏に近いとされ、廃仏派に属すると見られている。

 この後、斉明天皇、中大兄皇子は、東アジア情勢というグローバルな認識の誤りから朝鮮半島政策に失敗。白村江で唐/新羅の連合軍に歴史的大敗を期し、朝鮮半島における権益を失う。斉明天皇がこの戦争の前線基地の筑紫の朝倉の宮で崩御し、その後を継ぎ即位して天智天皇となった宮廷クーデターの立役者中大兄皇子は、唐/新羅の侵攻をおそれ、太宰府に大野城と基城、水城を築き、飛鳥に通じる要衝に地にも砦を築かせているが、結局は大陸からの侵攻はなく、むしろ軍事的な備えよりも,中華帝国に負けない国家としての体制の整備を急ぐ必要性を痛感している。この意味に置いては蘇我氏は早くから東アジア的視点から倭国経営を展望していた開明派であった。むしろそういったグローバルな視点を嫌う守旧派がクーデターで一度は国家の舵取りを取り戻したが、結局は失敗に帰したともいえる。

 この国家体制確立事業、すなわち大王を中心とした中央集権体制は天智天皇の時代には完成せず、むしろ壬申の乱の後に天智天皇の弟である天武天皇、その皇后で皇位を承継した持統天皇の時代になって律令制度の整備、公地公民の制、仏教による鎮護国家の思想、天照大神を皇祖神とする「天皇」制の確立が実現することとなる。ここではっきりと外来の仏教が国の理念を支える中心的な思想/宗教として位置づけられることになった。この時期、天武、持統両帝は天皇親政をとり、藤原氏などの主要豪族は政治の中枢からは排除されていた。また遣唐使がこの時期廃止され「日本風」の文化の醸成時期でもあった。

 しかしこうした流れの中で、藤原氏は徐々に勢力を蓄え、元明天皇の平城遷都、藤原不比等の時代には遂に聖武天皇の后に自分の娘の光明子(光明皇后)を入内させるまでにいたる。不比等は鎌足の次男である。長男は遣唐留学僧になるべく鎌足は出家させている。排仏派のはずの鎌足がである。日本書紀も古事記も不比等が編纂に携わった言われており、「大化の改新」における父、鎌足の活躍のエピソードも、この不比等が潤色して(あるいは創作して)入れさせた可能性もある。以降の藤原一門の朝廷における揺るぎなく連綿と続く地位も、実はこの不比等が始まりなのである。その権威の正当性を求めるためには鎌足の事績の創出が必要であった。

 この間、国家の中心的思想,宗教は仏教から神道へ、そして、再び仏教が復権、と言うように揺れ動いたが、先に述べたように、仏教を国家宗教とする鎮護国家方針、と天皇が八百万の神々のトップに立つ天照大神の子孫である、という皇祖神思想が並立して倭国の、そして国号を改めた「日本」の国家統治の基本理念となる。

 こうした天皇中心の国家形成の中核を支えたのが、かつての開明派蘇我氏を滅ぼした、守旧派であった藤原氏であった訳だ。その藤原氏は平城遷都後に、条坊制の京にわざわざはみ出した東郭を設け、そこに藤原一族の氏神である春日大社と、外来宗教である仏教寺院興福寺を創建する。

 春日大社は在地神のいた春日山をご神体とし、東国の鹿島神宮と香取神宮から、それぞれ神を招き、さらには一族のルーツの地、河内の枚岡神社よりもう一体の神を遷座させている。五月の春日大社はその美しい藤の花で彩られるが、藤は藤原氏の紋所であり、一族を象徴する花である。当時の天智天皇から「藤」の一字を姓に冠することを認められ、藤原と名乗った由緒正しき正統の証でもある。

 しかし、時代は変われど、日本という国は、常に外からの異文化の受容に関して国際派と国内派とが争う歴史のようだ。この二分法はこのころ出来たものなのか。そして、いつも国際派は滅ぼされ、冷や飯食わされて表舞台から姿を消させられるが、やがては、国際派が実現しようとした価値観が見直されて、日本の地に定着して行く。皮肉なことにその国際派がかざした理念の復活を担うのは,実は国内派の一族、末裔である。面白いものだ。文化の融合には時間が必要,と言ってしまえばそれまでだが。藤原氏の二つのシンボル、春日大社と興福寺が並んで立っているのを見てそう思う。



 (春日大社の砂ずりの藤。本来ならば2メートル程の長さで,地面の砂をするくらい長い,と言う意味で名付けられたものだが,今年は春先の寒さがたたり、長さが足らないのと,花が終わりに近づいているのとであまり名前のような勢いがなかった。)



 (燈籠の列は春日大社のシンボル。参道の石灯籠の列も趣があるが、本殿脇の回廊沿いの金色の燈籠は赤い柱と良いコントラストで美しい。)



 (珍しい八重の黒龍藤。春日大社付属の万葉植物園に咲く。本来遅咲きの藤の一種なので,今頃がちょうど見頃であった。それにしても八重の藤を初めてだ。)



 (同じく万葉植物園の白野田の藤。これも遅咲きの品種で、今が盛りであった。長い花が美しく園内のあちこちで咲き誇っていた。)




 (万葉植物園の池にかかる橋桁の藤。おそらく九尺藤だろう。丈が短いが池畔に咲く楚々とした風情も、これはこれで良い。)