摂津の国平野は平安時代初期には坂上田村麻呂の子の広野麻呂が朝廷からその武勲をたたえられて下された荘園、杭全荘、のちに広野荘がその起源とされている。平野(ひらの)の地名はこの広野(ひろの)から転じたものだとか。ちなみに町の北側には杭全神社が鎮座増しましている。杭全と書いて「くまた」と読むのだそうだ。我が家の近くを走る市営バスの行き先が「杭全」と表示されているが、これをどう読むのかずーっと分からなかった。調べようともしてなかったという方が正しいが。「くいぜん」?「くいまた」?などと... これが読めるようになったのはつい最近のこと。ということは私もかなり大阪人になって来たぞ。
織田信長に抵抗して形成された自治都市、環濠集落、平野郷が最も栄えたのは戦国の世がようやく収まりつつあった豊臣時代、さらには徳川時代初期。いくつかの街道が交差する交通の要衝で,町には13の木戸があったという。南蛮貿易では堺と並び、末次氏などの豪商を輩出。木綿の生産などで豊かな富の集積地となった。秀吉が大坂の町を建設する時に、大坂城と四天王寺の間の上町台地上に平野郷からその一部が移住して平野町を形成したと言われている。いまは寺町となっている上町筋と 谷町筋の間が平野町だったらしい。
平野の環濠の北西に大念仏寺という寺がある。融通念仏宗総本山で、今年が開宗900年になるという古刹だ。ここは年一度5月1〜5日に行われる、「万部おねり」で有名な寺だ。そのハイライトは、阿弥陀如来の下でこの世で苦しむ衆生を救うとされる25の菩薩が阿弥陀如来のおわします本堂へ集合する「おねり」。25の菩薩は専門の僧侶がそれぞれの菩薩役となるなかなか豪華なおねりだ。
稚児行列から献花献茶、踊り、講、僧侶、総代の行列が二十五菩薩のおねりに先立ち、2時間を超えるパレードだ。近郷近在から集まった善男善女がその「おねり」を取り囲み、あたりは南無阿弥陀仏の念仏に包まれる。観光イベントとしてはあまり知られていない分だけ、まさに日々の生活に寄り添った宗教行事の雰囲気が漂っている。
大阪のような大都会の片隅に、このような祈りの生活が息づいていることに時空を超えた関西という地域の奥深さを感じる。そして二十五菩薩の神々しい黄金のマスクが阿弥陀仏の功徳をもたらしてくれるようである。