2012年4月3日火曜日

河内飛鳥 王陵の谷 ー もう一つの飛鳥 ー




日本の古代史には、不明な点が多く、様々な論争がある。何も邪馬台国論争ばかりではない。4世紀に現れたという、河内政権(王朝)の存在もその一つだ。崇神天皇に始まる初期ヤマト王権(三輪政権/王権)と、4世紀の応神天皇・仁徳天皇に始まる河内政権/王権とは連続しているのか?あるいは断絶があったのか?というものだ。

中国南朝の宋の史書(488年)に記されている倭の五王の時代が河内政権/王権の時代なのだろうか。五王の一人、倭王「武」は雄略天皇ではないかと言われているが、4世紀は中国の史書にも倭人の記録が無い空白の時代と言われている。しかし、「空白の時代」は必ずしも倭国の停滞の時代を意味するものではなく、むしろこの時代は三輪山の麓に佇む初期ヤマト政権の時代から、ヤマトの国家の統一と発展に向けた画期的な時代であったのでは、とされている。そこには王朝の連続があったのか、あるいは新たな王朝が起こり、既存勢力が打倒されたのかが論争となっている。

記紀にあるヤマトタケルによる東国、熊襲征討伝説や、前述の倭王武の「ソデイ(変換不能)甲冑を貫き山河を跋渉し寧所にいとまあらず」、埼玉や熊本の古墳で見つかった鉄剣の「ワカタケルの金石文字」等、ヤマトが次第に国家として日本全体に広がっていった事を示す状況証拠が見つかっている。しかし,いかんせんそれを証明する文献や資料が整ってない,謎の時代でもある。

それだけ日本の古代史解明には、文献史学的には困難がつきまとう。推古天皇が編纂させたという天皇記/国記は、巳支の変の蘇我宗家滅亡時に失われたとされ、8世紀の天皇制確立期に、その正統性を内外に誇示する目的で編纂された日本書紀と古事記が、ほぼ唯一無二の日本側での文献である。戦前には記紀の記述が日本の古代史の全てである,とされ、神話の世界から天照大神一族の子孫である神武天皇に始まる万世一系の天皇制が史実であると理解されていた(あるいは理解させられていた)。

戦後は、日本古代史をより自由かつ客観的に研究できる環境が出来た。しかし、依然として、その記紀の記述を検証するための主な文献としては中国の史記、朝鮮半島の史記しか無い。この辺が文献史学の困難さを示している。一方、考古学的な物証で補強するにも限りがある。特に宮内庁が管轄する天皇陵墓はいまだに,考古学的な調査が許されず、幾多の古代史論争に考古学的な側面から解明のメスを入れる事も出来ていない。

話がドンドンそれて行く。河内政権/王権の話に入り込むとそれだけで別に稿を起こさなくてはならなくなるのでこのヘンにしたい。今日の話は、聖徳太子の時代、7世紀初頭、河内にもう一つの飛鳥があった,河内が日本古代史の謎を解くための重要地域であった,という事に留める。

現在の大阪府南河内郡太子町、羽曳野市辺りは「近つ飛鳥」と呼ばれている。竹内峠、長尾峠を越えた向こう側の(大和の)飛鳥は「遠つ飛鳥」と呼ばれている。日本古代史においては、三輪、飛鳥、藤原京、平城京と、奈良盆地の中でヤマト王権が遷都、発展して行ったかのごとく錯覚しがちだが、上述のように、4世紀5世紀まで時代を遡れば、河内が大和に匹敵する古代史の重要地域である事は百舌鳥古墳群の巨大古墳の出現を見ても明らかだろう。

大阪阿倍野橋から近鉄南大阪線の電車に乗り、上ノ太子駅下車。ここをスタートに太子町を散策した。駅周辺は大阪の通勤圏内という事で、奈良盆地以上に開発が進み、第2阪奈道路の高架橋や新興住宅が建ち並び,もはや時空トラベラーとして古代の面影を探すのも容易ではない。しかし、いつもは大阪のオフィスの窓から遠望する二上山、葛城山が、今日は眼前にそびえる。歩を進めて行くうちに景観が徐々に変わって行き、タイムスリップしてゆくことが出来る。推古天皇の時代に建設されたという、飛鳥宮から難波宮に至る古代の大道、すなわち横大路、二上山の脇を抜ける竹内街道、堺から真っ直ぐに北へ伸びる難波大道。その途中の山の鞍部を越えた河内側の一帯が、「河内飛鳥」、「近つ飛鳥」と呼ばれるエリアである。

この古代官道、竹内街道散策については,別に書く予定だ。今の太子町一帯は古代から「磯長(しなが)の里」あるいは「磯長谷」と呼ばれており、ここには、聖徳太子御廟/叡福寺、敏達天皇陵、用明天皇陵、推古天皇陵、孝徳天皇陵がある。五枚の花弁に例えて「梅鉢御陵」と呼ばれている。この他にも、聖徳太子が派遣した遣隋使、小野妹子、乙巳の変の立役者の一人、倉山田石川麻呂(蘇我氏の傍流家)など、王家ゆかりの人々の墓もあり、「王陵の谷」とも呼ばれている。

しかし、何故に、大和飛鳥を宮都とし、歴史の表舞台で活躍した日本古代史のスター達の墓が、ここ山を隔てた河内の飛鳥にあるのか。もちろん聖徳太子伝説はいたるところにある。太子創建の難波の四天王寺、斑鳩の法隆寺はもとより、ここ河内飛鳥にも、叡福寺(上ノ太子)、野中寺(やちゅうじ)(中ノ太子)。大聖勝軍寺(下ノ太子)が太子信仰の場として今も参詣者を集めている。しかし、太子は生前、自分の墓所をここ河内の磯長の地と決め、陵墓建設を進めたという。その太子御廟を守る為に後の建立された寺が叡福寺だ。今見ると太子の墓は円墳であり、母である穴穂部間人皇后と、妃とともに埋葬されていると言う。

聖徳太子の父、用明天皇、その兄すなわち太子の叔父、敏達天皇もここに御陵がある。そして太子が摂政として輔佐した、叔母の推古天皇の陵墓もここだ。ともに巨大な方墳である。なぜ陵墓なのに前方後円墳や八角墳でないのか、という考古学的な研究テーマもある、また宮内庁管理の陵墓比定地が果たして本当に太子や推古天皇の陵墓であるのか、先述のように調査されていないために論争がある。現に推古天皇の本当の墓は、近くの二子塚古墳であるという地元の言い伝えがある。が、それはさて置いておいて、なぜこの一族は河内に安寧の場を求めたのか?

一説には、ここ河内の磯長は蘇我氏の発祥の地であるという。乙巳の変で蘇我宗家が滅ぼされるまで、天皇外戚として権勢を振るった蘇我一族はここから、山を越えて大和の飛鳥に進出したのだという。その蘇我氏ゆかりの故地、河内飛鳥の磯長が、蘇我一族の血筋を引く用明天皇、推古天皇、太子の心の故郷になったのだ、という説だ。ここには蘇我馬子創建と伝わる寺院跡もある。

蘇我氏の出自については、渡来人の末裔だとか、大和曾我辺りの豪族だ、とか、諸説あって定まらないが、いずれにせよこの河内磯長谷辺りも勢力範囲だったのだろう。この地は大和飛鳥と難波宮、さらには瀬戸内海を通じて、筑紫、朝鮮半島,中国、さらにはインド、ペルシャ、ローマ帝国へと通じる、いわば文明の回廊(シルクロード)の東端に位置する重要な場所であった。蘇我氏はこうした外来の文物、文化、技術をいち早く取り込む格好の位置を確保し、渡来人や帰化人をオーガナイズして、守旧派の抵抗勢力、大伴氏や物部氏を打倒して、飛鳥にイノベーションを起こしたグローバル派だった。その最たるものが仏教の導入であった事は改めて言うまでもないだろう。

冒頭に触れた、河内政権の始祖,すなわち応神天皇の御陵はここから近い古市古墳群の中のもっとも大きな前方後円墳である誉田山古墳が比定されている。仁徳天皇陵は竹内街道の終点で、かの有名な百舌鳥古墳群の大仙古墳が比定されている。両方とも群を抜く巨大古墳である。ちなみに人民から慕われたという仁徳天皇の宮は、難波の上町台地の高津宮とされている。

これら河内政権の応神天皇に始まる代々の天皇(正確にはまだ天皇制を確立しておらず,大王と呼ぶべきか)が活躍した時代は4世紀後半から5世紀であり、武烈天皇で一旦血統が途切れたらしく、越の国(現在の越前福井)から(応神天皇の血筋を引くと言われるが)継体天皇が大和に入っている。やがて継体王朝系譜の欽明天皇の血を引く敏達天皇、用明天皇、推古天皇、聖徳太子へと繋がってゆく。こうして「血統の断絶」を見ると、7世紀前半の人、聖徳太子は河内政権/王権の大王達と血統的な繋がりはないだろう。ただ、この地を支配した母方の蘇我氏との縁で河内と繋がっているのだろう。

この時期は大和飛鳥に統一王権が収斂されつつあった時期であって、4〜5世紀の河内政権/王朝の時代はすでに終わり、河内に独自の王朝や政権が存立していた訳ではない。やがて、大化の改新、壬申の乱をへて、都も奈良盆地内で、藤原京,平城京と遷都して行き、「ヤマト王権の倭国」が、「天皇中心の日本」に変わってゆく。河内は蘇我氏の故地、王陵の谷、太子信仰の地となった。もちろん、奈良盆地に都がある限り、百済人も、新羅人もここを通り、遣隋使も、その答礼使も、後の遣唐使も通った、大陸との交流の要衝としての意味が失われる事はなかった。









































(撮影機材:Fijifilm X-Pro 1,Fujinon 18,35,55mm)




(大阪府南河内郡太子町辺りの地図。敏達天皇陵は画面左に外れている)