2012年8月29日水曜日

今年も元薬師寺のホテイアオイが咲いた





残暑厳しいこの季節、大和路花散策の楽しみは元薬師寺のホテイアオイ。毎年この時期に地元の小学生が休耕田にホテイアオイを植える。ホテイアオイは日本の原生種ではないが、この飛鳥時代の大寺、薬師寺の廃墟跡を埋め尽くす様は、不思議に藤原京の栄華を彷彿とさせる光景となっている。

今は、金堂の大きな礎石が民家の庭先に並び、左右に西塔,東塔の土段と芯礎が残るのみの、寂寞感漂う元薬師寺跡であるが、その廃墟感と、それを埋め尽くす薄紫の涼やかな花の色、さらに、それを取り囲む一面の稲田の緑、青い夏空を背景にした大和三山の広がりという舞台設定。やはり「大和は国のまほろば」だ。

この薬師寺は、天武/持統天皇が,藤原京(新益京:あらましのみやこ)造営に伴い創建したもの。やがて、694年の遷都からわずか16年ほどで新都は廃され、平城京へとさらに遷都される。これに合わせて薬師寺も、平城京西ノ京の現在の位置へと移転する。しかし、平城京への移転後も平安時代頃まで、本薬師寺としてこの地に存続したようだ。

乙巳の変(645年)、白村江での敗戦(663年)、壬申の乱(674年)、と日本の歴史を変える動乱を経て、ようやく新しい国家体制が確立しつつあった時代。倭国の飛鳥から日本国の新益京へと脱皮した時代だ。日本の新たな転換点に創建された元薬師寺の跡を今はホテイアオイが埋め尽くす。


(元薬師寺金堂跡からホテイアオイの群生を楽しむことが出来る)




(元薬師寺の伽藍配置。金堂跡、東塔跡、西塔跡が現存している)






(藤原京配置図。天香具山、耳成山、畝傍山の大和三山に囲まれている。薬師寺の位置も確認出来る)
































2012年8月27日月曜日

邪馬台国と奴国 ーチクシ連合国家はヤマト連合国家に変遷したのか?ー

 
奴国板付遺跡




先週は福岡平野の春日市奴国の丘歴史資料館に奴国王墓を訪ねた。今週は大阪に戻り、早速、疑問に思っていた、1世紀の奴国を中心とするチクシ連合国家と、3世紀の邪馬台国を中心とするヤマト連合国家へ変遷があったのか、あるいは両者には断絶があるのかを明らかにすべく、以前にも訪れたことのある奈良県の橿原考古学研究所付属博物館を訪問した。

 奴国の丘歴史資料館では,弥生の奴国が当時の倭国世界において、いかに先進的な国であったかを知った。さて、その奴国は、魏史倭人伝の世界(3世紀半ば)になると、邪馬台国卑弥呼の代官が治める王のいないクニに成り下がってしまった。何時頃、邪馬台国なるクニ、卑弥呼なる女王が北部九州を治めるまでに力を蓄えたのか? それを知る手がかりとして、水田農耕文化は、倭国内をどのように北部九州から近畿へ伝搬していったのか? 弥生の時代、北部九州と近畿の文化的、経済的な格差はあったのか? 何時頃近畿地方は,その格差を埋めて、は北部九州を支配するような先進地域となったのか? あるいは、早くから大陸との交渉があった北部九州を上回る先進文化圏が、すでに近畿地方に存在していたのか? ヤマトの弥生集落、唐古鍵遺跡は邪馬台国だったのか? 纏向遺跡は邪馬台国なのか?

 福岡平野に散在した弥生集落が集合、発展して奴国を形成して行った。そしてその奴国が、水田農耕文化、それに伴う灌漑、治水、土木、生産管理等の技術、気象観測や祭祀ノウハウ、そして、農機具や祭祀に必要な器具の生産技術,とりわけ金属製品の製造、大量生産技術の中心地になって行ったこと。そうした経済力、政治的権力確立の背景には、1世紀中盤に後漢の光武帝に遣使して金印を得て、柵封体制に組み込まれる事により倭国の支配権を確立したという史実があった訳だ。そうした後漢書東夷伝に記された時代(1世紀中葉)の倭国世界。当時の一大先進国であった奴国の時代、倭国内では東の中国地方や近畿地方への水田農耕文化の伝播、弥生農耕集落の分布状況はどうなっていたのだろう。とりわけ大陸文化からはなれていた近畿地方はどんな状況だったのだろう。

 橿原考古学研究所付属博物館では、奈良県を中心に、多くの発掘調査の成果を展示しているが、とりわけ関心を持って見学したのは、奈良県を代表する弥生時代のの環濠集落跡である唐古鍵遺跡と、3世紀の纒向遺跡についての展示であった。説明員の方が、丁寧に私の疑問に答えて下さり非常に勉強になった。

ポイント:

1)田原本町の北で見つかった唐古鍵遺跡は、筑紫の吉野ケ里遺跡などと同じ時代(紀元前2〜3世紀)の、3重環濠に囲まれた広大な弥生農耕集落跡であるが、それが邪馬台国の集落であったり、のちに三輪山の麓の纏向へ移ったりした(あるいはつながりがある)ような証拠は見つかっていない。むしろ中世頃まで純粋に農耕集落として継続していた形跡がある(後記:環濠集落は古墳時代には消滅し、跡に古墳が築造されたり、中世には村落が形成されたりしたようだ)。

2)ヤマト地方の弥生農耕遺跡からは、木製農機具や狩猟のための鏃などは大量に出土しているが、金属器具は少なく、石器や樫のような木製品である。大陸からの技術導入が直接的であった北部九州に比べ、遅れた農耕文化?と言い得るかもしれない。むしろ縄文的な採集生活と断絶が無い。一方、祭祀に用いたらしい銅鐸は大量に出土しており、北部九州の銅鉾とは異なる文化圏である事を示唆している。

3)水田稲作農耕が北部九州から伝搬した時期は比較的早かったようで、北部九州と近畿ではあまり時間的な格差は無いようだ。大阪府の池上曽根遺跡もその頃の大規模な弥生農耕集落跡である。

4)弥生の稲作農耕集落は北部九州から近畿地方に至るまで、出雲、吉備を含め、比較的広範囲に分布している。しかし、魏志倭人伝に出てくる國に比定されてもおかしくないような大規模な集落跡は、やはり北部九州と近畿地方に。

5)一方、3世紀の古墳時代初期の纒向遺跡からは農耕集落跡は見つかっていない。人工的に造成された水路や、建物、土木工具類が見つかっているが、工事現場や飯場的な様相である。3世紀と思われる箸墓古墳のような初期大型前方後円墳が周囲にあり(大倭古墳群)、これらの工事のために人が集められた可能性も。さらに尾張や吉備等から持ち込まれたと思われる土器が出土していて、各地から人が集まった(集められた)形跡がある。あきらかに弥生農耕集落とは異なる成り立ちだ。

6)一昨年発掘された纏向の「神殿跡」らしき建物も、意外に柱が細く(弥生時代の唐古鍵遺跡の建物よりも貧弱)、「こりゃムラの集会所じゃあ?』と本音を言っている人もいるとか。もっとも、東側のJR桜井線、さらに東の住宅地の発掘が進めば,さらに大型の居館跡が見つかり、新たな発見があるかも?

7)纒向遺跡を「邪馬台国」と呼ぶかどうかは別にして、どうやら倭国のあちこちから人が集まった、いわば新たに建設された「新首都」のような佇まいだと感じる。倭国が「卑弥呼を共立し」まとまったという記述に符合するのか? いずれにせよ,弥生の稲作農耕集落の発展形ではなさそうだ。

8)弥生時代の奴国の先進農業地域、先進工業地域といった性格と比較すると、弥生の近畿は後進地域であり、この時代から200年ほどの時間経過の間に、急速にキャッチアップして、大陸の直接の影響下にあった先進文化地域北部九州を追い抜いて、支配下に治めるほどの力がヤマトに備わったのかどうか? 古墳時代以前のそうした,急速な「弥生イノベーション」の痕跡は必ずしも見つかっていない。特に、大陸からの人の移動や,それに伴う技術、文化の近畿への直接移入(北部九州、瀬戸内海経由ではなく、例えば若狭湾、琵琶湖経由?)があったのかどうか不明。

9)「倭国大乱」の後の3世紀も、邪馬台国が経済力や武力で倭国を統一した訳ではなく、「鬼道」の巫女である卑弥呼を各国が「共立」して和平協定を結んだわけで、邪馬台国女王卑弥呼は「倭国統合の象徴」にすぎなかったはずだ。だからこそ,その権威を認めさせる(倭国連合の構成メンバー国に)ために、魏王朝(楽浪郡帯方郡の公孫氏を通じて)に使者を送って柵封を受けたのだろう。邪馬台国がその後のヤマト王権に繋がって行ったのかどうかは不明,と言わざるをえないだろう。


10)弥生時代後期の北部九州に多く見られる甕棺墓は、奈良盆地ではほとんど見つかってない。古墳時代以前は方形集合墓が中心でで、木棺が多い。古墳以前の王墓(須玖/岡本遺跡の奴国王墓や平原遺跡の伊都国王墓のような)も判然としない。墓制から見る王制の性格もかなり異なるようだ(あるいは、奈良盆地には他と隔絶した「王」はいなかったのか?それほどのクニはまだなかったのか?)。

 お約束の「邪馬台国はどこにあったのか?」という問いは別にして、1世紀中盤の奴国全盛時代と、倭国大乱を経て、3世紀中盤の邪馬台国が倭国を支配した時代へと、200年弱の間に、倭国の中心が北部九州から近畿に移ったのだとすると、その動機、過程は依然として謎に包まれている。稲作農耕文化の東遷は明らかだが、それに伴う金属機器(鉄製農機具)製造技術の伝播はどうであったのだろう。稲作伝播と同様に急速に東へ伝わったのか? 大陸では漢王朝が滅亡し、柵封諸国が混乱のなか(多分これが「倭国大乱」の原因だろう)、魏呉蜀の三国時代を迎えた中国。その混乱の後に新しい倭国を統合するクニ、邪馬台国があらわれ、その女王卑弥呼が「親魏倭王」として魏に柵封された。そしてそのクニは,北部九州ではなくて近畿地方の大和盆地にあったとすると...  突然に近畿が倭国の中心になるということになる。そこには歴史に大きな時間的、地理的ギャップがあるように思う。「鉄」をめぐる支配権争いがチクシとヤマトであったとする説もある。

 一方、邪馬台国九州説に立っても,邪馬台国に相当するような大きなクニの痕跡は今のところ九州では見つかっていない。話題の佐賀県三養基郡の吉野ケ里遺跡は、弥生時代後期の大規模な環濠集落であり、何らかのクニの中心であったのであろうが、位置が異なるし、卑弥呼の王宮らしき遺構も、大掛かりな古墳(「おおいに塚をつくる」)も見つかっていない。墓制は北部九州に特徴的な甕棺墓、集合墓である。まして「親魏倭王」の金印も,封泥も見つかっていない。福岡県山門郡あたりから何か見つかれば、また九州説が再燃するのだろうが、その場合は,何時,何故,邪馬台国が九州から近畿地方へ遷移したのか、どのようにチクシ連合国家がヤマト連合国家に変遷したのか、はたして日本書紀にいう「神武天皇の東征」伝説は、その変遷の記憶を後世に創作したものなのだろうか、等等が次の疑問としてわき起こってくるであろう。

 位置論争は、昨今の考古学的な発掘や年代測定成果からは、邪馬台国近畿説に少し分があるような気がする。わたし自身は福岡の出身で,子供のころは、特段の根拠も無く邪馬台国は九州にあった(あって欲しい)と思っていたが。しかし、日本の成り立ちを追い求める過程で、問題をあまり「邪馬台国はどこにあったのか?」という形にしてしまうと、取りこぼされてしまう課題がいっぱい出てくるような気がする。「邪馬台国」は魏志倭人伝に記述があるだけで,しかもその位置に関する記述は,魏の使者が直接足を踏み入れた、見たわけではなく、伊都国の役人からの聞き書きらしい。倭人は女王の居る場所を意図的に遠隔地設定した可能性もあり、正確ではない。しかもそれを検証出来る文献史料は無い。したがって、その解明は客観的な考古学データによるべきところを、主観的な希望や期待感も入り交じった「推理」となる。推理小説のように面白く、夢としては膨らんでも,結局はそれぞれの比定候補地による「邪馬台国誘致合戦」になってしまう。世に邪馬台国論争の本はゴマンと出ているが、どの説にも決定的な根拠、証拠は無いから、奇想天外なストーリでも売れる(その方が売れる)。

 「邪馬台国はどこにあったのか?」 まあ、しばらくはその問いは封印してみた方がいいような気がする。結果はあとからついてくるような気がする。

(弥生時代の環濠集落、奈良盆地の中にある田原本の唐古鍵遺跡の復元楼閣。纒向遺跡や大倭古墳群のある山裾(山処:やまと)ではなく,平地にある)



三輪山を観ながら走るJR桜井線(万葉まほろば線)纒向遺跡も箸墓古墳もこの沿線だ。



(卑弥呼の墓ではないかと言われる箸墓古墳。年代測定法により3世紀半ばの古墳とされており、ちょうど卑弥呼の時代に近い。やまとととひももそひめのみことの墓として宮内庁が管理する陵墓であるので内部への立ち入り調査は許されていない)





(奈良県立橿原考古学研究所付属博物館。近鉄畝傍御陵前駅から歩いて5分だ)



(2010年の纒向遺跡の神殿跡発掘現場。JR巻向駅の線路脇で発掘調査が進んでいる。後ろに見える山が三輪山。西には二上山を望む。纏向の神殿跡はちょうど三輪山を東に、二上山を西に、という東西軸の配置となっている)



2012年8月20日月曜日

卑弥呼出現以前の漢委奴國王  ー弥生の大国奴国の大王はどこへ行ったのか?ー

 古代史の定番歴史書、3世紀の三国志の魏志倭人伝に出てくる奴国。現在の福岡平野にあった戸数2万余戸を数え、7万戸の邪馬台国を除くと倭国中最大の国である。現在でも「那の津」、「那珂川」等の地名にその名の痕跡を残す奴国である。しかし、倭人伝の記述によると、この当時、奴国には邪馬台国の女王,卑弥呼の代官である、兜馬こ(角篇に瓜)(ジマコ)、副官の卑奴母離(ヒナモリ)が配置されていたが、王の存在が記述されていない。隣の伊都国(福岡糸島半島あたり)は戸数1万余戸ほどだが、卑弥呼の時代になっても代々王がいて、一大率という強大な権限を与えられた卑弥呼の代官が駐在していたと言う。倭国大乱の後、倭国のクニグニは邪馬台国の女王卑弥呼を共立して、ようやく、いわば「連合王国倭」(The United Kingdom of Wa)の成立で戦乱が収まる。卑弥呼は西暦238年には魏に使者を送り「親魏倭王」に任じられている。だが、その「連合王国」を形成する国々のなかの最大の国である奴国の王はどこへ行ってしまったのだろう。

 卑弥呼の魏の柵封、「親魏倭王」の受任をさかのぼる180年ほど前の、西暦57年には、奴国王は後漢の光武帝に使者を送って,漢の柵封を受け、金印をもらっている。これは5世紀に編纂された歴史書,後漢書東夷伝に記されており、その記述を証明する現物の金印が博多湾に浮かぶ志賀島で発掘されている。おそらくこの時代には、奴国は後漢と交流する事の出来る力を持ち、後漢から倭国全体を統治する事を認められた、いわば倭の盟主のような存在であったのであろう。その権威を後漢の光武帝から認めてもらったのが、あの「漢委奴国王」の金印である。

 そのような権勢を誇った奴国王は、180年ほどの間に史料から消滅してしまった。どのような運命を辿ったというのだろう。奴国王が光武帝から金印を受けた丁度50年後には、倭面土国王帥升等がやはり後漢に使節を送っている。この「倭面土国王帥升等」がどこの王なのか、一人の王なのかは不明だが,おそらくはチクシの王(伊都国?奴国?)であったのだろう。しかし、400年続いた漢帝国が滅亡すると,東アジア秩序に大きな政治混乱が起こった。後漢の柵封体制に入っていた倭国の王達は権威を失い混乱した事であろう。「倭国大乱」は、こうした時勢を受けて起こった可能性がある。後漢のあとの三国分裂の時代、陳寿が記述した三国志魏志倭人伝には,先述のように奴国王は出て来ない。あの金印はその後行方をくらまし,時代を下ること1700年後の江戸時代、1784年に黒田家治世の筑前福岡藩、志賀島の石の下から、地元の百姓によって偶然にも発見される事になる。

 ところで,奴国とはどのような国(クニ)であったのか? 記録に現れる奴国は1世紀から3世紀半ばに存在していたと見られるが、弥生中期から徐々にクニを形成して行ったのではないだろうか。春日市北部の弥生時代中期の遺跡,須玖岡本遺跡は弥生の大国、奴国の王都跡ではないかと言われている。紀元前一世紀頃の遺跡だとされている。明治32年、家屋の建築工事中に奴国王墓が発見された。大きな石蓋の下に甕棺を納めたた墳丘墓であった。中からは前漢鏡3枚や青銅器、ガラス璧等の多くの副葬品が出土していること、周辺には墓が無く単独の墳丘墓である事等から、被葬者は奴国王であろうとされている。あの後漢から金印を受けた奴国王の数代前の王であるといわれている。さらに、ここから3キロほど北へ行った比恵遺跡、那珂遺跡からも大規模な集落跡が見つかっており,ここが王都であったと言う説も唱えられている

 奴国は,現在の福岡市西部の西新遺跡あたりまで広がっていたと見られ、いくつかの衛星集落を包含する大きなクニであったようだ。特に須玖/岡本遺跡では、青銅器やガラス器の工房が集中して発掘されている。弥生の農耕遺跡だけではなく、こうした大規模な先進生産遺跡が集積されている状態は全国でも抜きん出ている。特に須玖遺跡からはこれらの鋳型の出土数が突出しており、さらに須玖坂本地区からは3000㎡にも及ぶ青銅器工房群が見つかっており、奴国の王都はいわば当時のハイテク産業の一大コンビナートの様相を呈していた。

 弥生前期(最近では縄文後期ではないかといわれている)の福岡平野には、日本でも最初期の水田稲作農耕跡である板付遺跡を始めとして、比恵遺跡、那珂遺跡などの環濠を巡らした集落や、磨製石剣、石鏃を副葬した墳墓が広範囲に見られる。おそらく、この時代はまだ各集落間の格差はそれほど大きくなくて、川の流域の低湿地に水田を創り、丘陵地や微高地に集落を形成していた。そのうち,30ほどのムラが出来、中期頃にはムラの間に格差が出始め、中期後半には須玖/岡本遺跡から王墓が出現する。このようにこれらのムラが一人の権力者(首長)のもとに集合しクニを形成し、やがては国(王)となる。それが奴国であろう。このころの国(クニ)の大きさは、後律令時代の「県」(アガタ)とほぼ同じだと言われている。律令時代の県(アガタ)はそのまま現在に至るまで郡(コウリ→グン)に引き継がれているから、当時の国を実感するには現在の郡の範囲を知れば良いことになる。すなわち、奴国は筑紫郡(那珂郡,蓆田郡が統合して出来た)の範囲ということになる。伊都国は糸島郡、早良国は早良郡というように。


奴国の権力機構は、農業生産の管理、収穫物の集積保管、流通を司り、農耕に必要な土地の開拓と水の管理、微高地を削っての定住地の造成、さらには農機具や祭祀に必要な器具,すなわち石器や青銅器さらには鉄器の生産を行う力を持っていた。農耕生産開始初期には伊都国の今山の玄武岩鉱脈が石器の一大生産地として存在し、広く九州から中国地方に至る遺跡から今山産石器が出土している。しかし、さらに生産性を向上させる新技術,すなわち金属農具が導入される。こうした器具の製造技術は人とともに朝鮮半島からやって来たのだろう。特に銅やすず、鉄の原材料を安定的に供給を受けるには朝鮮半島や中国大陸の資源が必要であったのだろう。奴国王が強大な権力を持っていたのも,こうした技術や資源を後漢帝国に保証されていたためではないか。

 しかし、奴国王が金印を授かって180年ほどの間に、倭国に大乱があり、奴国王は邪馬台国や近隣国に覇権を奪われ、殺されたのか,逃走したのか。ともかく新生連合王国倭の世界から奴国王は姿をくらましてしまう。前述のように奴国は邪馬台国卑弥呼の代官が治めるようになった。奴国王の権威の象徴たる金印は、おそらく、王が逃亡途中に志賀島の石の下に隠し、来るべき再起の時に備えたのかもしれない。そしてやがては、弥生のハイテク産業コンビナートとしての機能も停止して行く。

 時代は弥生時代から、3世紀の古墳時代へと移り、倭国の中心も北部九州から近畿地方へと移って行った。卑弥呼の邪馬台国が近畿地方にあったとすると、この百数十年の間に倭国の中心がいかにして「チクシ」から「ヤマト」に移って行ったのか、その変遷の過程はいまだに古代日本史の謎であるが、王墓の形態変遷を見ると考古学的には明らかに、北部九州と近畿では形態が異なったように思える。先程述べたように、奴国王の墓は、古墳ではなく甕棺墓であった。方形の墳丘の中心に甕棺に入れて埋葬し、その上に上石を置く形だ。甕棺墓は土壙墓、木棺墓とともに北部九州には広く発掘されている。吉野ケ里遺跡からも多くの甕棺墓が見つかっている。

 一方、奈良盆地や河内平野に展開する王墓は3世紀半の築造と言われる箸墓古墳を始めとして、以降、大型化する前方後円墳が特色である。いわゆる古墳時代の幕開けである。九州に見られる古墳は、多分に大陸の影響を受けているものの、明らかに九州がヤマト王権の権威に従い始めて以降のものである。

 こうして時空を追って行くと、「倭国大乱」、奴国の消滅は、倭国の中心が北部九州から近畿へ変遷して行く(チクシ時代からヤマト時代へ移り行く)過程に何か大きなヒントを残しているのかもしれない。ちなみに同時代の出雲の遺跡からは戦乱によると思われる傷ついた人骨が大量に発掘されているのに、ここ奴国の遺跡からは、いまのところそのような血なまぐさい痕跡は多くは確認されていない。倭国大乱のなかでの奴国滅亡、というシナリオにもまだ謎が残る。歴史の空白のなかに奴国王は姿をくらませてしまったようだ。「漢委奴国王」の金印を残したまま...





(甕棺を中央に埋葬し上石でフタをした奴国王の墳丘墓の構造。明治34年に家屋の建設中に偶然に見つかった。)















(奴国の丘歴史資料館における奴国王埋葬状況の展示。前漢鏡等の副葬品も展示されている。)



(発見された上石は奴国の丘歴史資料館の庭に保存展示されている。このエリアには甕棺や住居跡の発掘状況が保存展示されている。)


(撮影機材:Nikon D800E, AF Nikkor 24-120mm)

2012年8月14日火曜日

伊万里秘窯の里 大川内山を巡る ー「違いの分かるオトコ」の窯元散策ー








「伊万里焼」と「鍋島」と「古伊万里」と「有田焼」の違いをご存知ですか?私は今回の旅でようやく分かってきたような...気がします。まずは大川内山のご案内を。

1675年から廃藩置県の1871年まで、大川内山は肥前佐賀鍋島藩の御用窯がおかれていた。ここでは独特の磁器製造技術を藩外にに流出させないように,この三方を奇峰に囲まれた谷あいに陶工達を移り住まわせ,関所を設けて人の出入りを監視したと言う。秘窯と言われる所以である。その窯からはカネに糸目を付けない最高品位の焼き物「鍋島」が生み出され、朝廷や将軍家、諸大名などへの献上品、贈答品として鍋島藩の権威をいやが上にも高める役割を果たした。伊万里焼は、Imariブランドとして海外,特に欧州の王侯貴族の人気を博し、入手を競う垂涎の品となっていった。伊万里港から各地に積み出される伊万里焼、鍋島は、長崎のオランダ東インド会社の主力輸出商品をなり、後にドイツのマイセンに影響を与えたことはつとに有名だ。

さて,そのような御用窯も明治の廃藩置県に伴い廃止されたが、その歴史は現在に至るまで継承され、現在は30数軒の窯元が、隠れ里のような谷あいの集落でその伝統の技法を受け継いでいる。

大川内山は伊万里市からさらに車で15〜20分ほどの山中にある。伊万里までは、福岡天神バスセンターから直行バスで1時間30分。頻発しているのでここまでは便利だが、伊万里駅前から出るはずの大川内山行きバスは、一日に5本程度。この日は天神からのバスが5分ほど到着遅れで,出発したあとだった(乗客もほとんどいないのに5分くらい待ってるってことはしないようだ)。つぎは2時間後。よってタクシーしか選択肢は無い。

大川内山入口の伝統産業館前でタクシーを降りる。いきなり伊万里焼で出来た橋がお出迎え。豪華で見事な物だ。しかし,辺りを見回すと、切り立った大屏風奇岩に囲まれた、とにかく秘境感漂う隠れ里だ。鍋島藩は明代の景徳鎮の官窯を模してこの地に御用窯を造ったそうだ。カンカン照りの夏の朝。観光客も人っ子一人いない。伊万里焼の風鈴が人気の無い静かな里涼やかに響き渡っていた。30数軒あるという窯元ひしめく鍋島藩窯坂を歩く。なかなか趣のある町並み。しかし、これを一軒一軒全部見て回るのは至難の業だ。登窯、藩窯公園、藩役屋敷跡、清正公堂、関所跡等を見て回り、入口の伝統産業会館と伊万里鍋島焼会館へ戻り、なかで涼みながらワンストップで鍋島、古伊万里、そして現在の伊万里焼コレクションを見て回った。もっともこれじゃあ、ここまで来る意味ないのだが。会館の係の人に「窯元全部は廻れませんねえ」とぼやいたら、「初めての方はここを観てから、気に入った窯元へ行くというのがいいんじゃないですか」と。なるほど。アドバイス通り、その後、御庭焼窯、泰仙窯、青山窯、魯山窯等を見て回った。

日本の陶磁器生産の歴史は,朝鮮の役(文禄、慶長の役)に始まる。この時に朝鮮から連れて来られた陶工達が技術を伝えた。、なかんずく李参平は唐津や有田で窯を開き、日本での陶磁器生産の元祖となった。最初は唐津辺りで陶器を手がけたようだが、後に有田で磁器に適した陶石の鉱脈を発見し、本格的に磁器の生産を始めた。有田には李参平の墓や、彼を陶祖として祀る陶山神社がある。

こうして有田で磁器の生産が盛んになり,多くの陶工が育って行った。酒井田柿右衛門などの現代にまで続く名工が生まれたのも有田だ。有田で生産され、それを外港である伊万里から出荷したので、「伊万里焼」と呼ばれていた。その後、塩田、波佐見、三川内等での生産も盛んになり、「伊万里焼」は商品として民間の窯で大量に造られるようになり、全国に出荷されていった。ちなみに,唐津焼は磁器(石もの)ではなく、陶器(土もの)である。筑前の小石原焼,高取焼も陶器だ。

しかし、鍋島藩は,先述のようにその高度で洗練された技術を門外不出のものとし、藩専用の特注品を造るために、藩窯を伊万里の郊外の大川内山に設けた。陶工達は関所や役人に守られ(監視され)、分業体制で最高のものを造った。陶工達は武士同様に藩から禄を受け,名字も許されたそうだ。そこで生産されたものが「鍋島」(色鍋島、鍋島染付、鍋島青磁)と呼ばれた。しかし、生産量は年間5000個と決められていた。一方、民窯で生産されるものは年間10万個だったと言うから、いかに「限定生産」であったかが分かる。

藩窯廃止後、その伝統を受け継いだのが現在の「伊万里焼」である。江戸期から明治初期に伊万里から出荷された有田製造の磁器を,これと区別する意味で「古伊万里」と呼んでいる。

一方、現在,有田で造られている磁器を「有田焼」と呼んでいる。どうも「伊万里焼」「鍋島」「古伊万里」「有田焼」の関係と区別がはっきり理解出来なかった。「有田焼」は、現在でも柿右衛門など、伝統の技法と名品を継承しているが、香蘭社や深川製磁のように、明治期の日本の花形輸出品を製造する会社組織も店を構えている。これらも海外に名の知れた有田ブランドである。

さて、おさらいです...

伊万里焼:
江戸期に伊万里港から出荷された有田、塩田、波佐見、三川内などで焼かれた磁器一般の名称。すなわち、産地の名称ではなく、出荷された港の名称を冠したものである。しかし、現在の「伊万里焼」は鍋島の伝統を受け継ぎ、大川内山で焼かれている物をいう。

鍋島:
江戸期に鍋島藩の御用窯(大川内山)で焼かれた、いわば特注品をいう。色鍋島、鍋島染付、鍋島青磁のジャンルがある。

古伊万里:
現在の伊万里焼と区別するために、江戸期から明治初期にかけて焼かれた伊万里焼をいう。

有田焼:
一般に有田で焼かれる現在のものをいう。すなわち地名由来の名称(波佐見焼、三川内焼も同様)である。

以上、参考になりましたでしょうか?

(大川内山産業振興会HPより)
















































(撮影機材:Nikon D800E, AF Nikkor 24-120mm F.4)