2012年8月27日月曜日

邪馬台国と奴国 ーチクシ連合国家はヤマト連合国家に変遷したのか?ー

 
奴国板付遺跡




先週は福岡平野の春日市奴国の丘歴史資料館に奴国王墓を訪ねた。今週は大阪に戻り、早速、疑問に思っていた、1世紀の奴国を中心とするチクシ連合国家と、3世紀の邪馬台国を中心とするヤマト連合国家へ変遷があったのか、あるいは両者には断絶があるのかを明らかにすべく、以前にも訪れたことのある奈良県の橿原考古学研究所付属博物館を訪問した。

 奴国の丘歴史資料館では,弥生の奴国が当時の倭国世界において、いかに先進的な国であったかを知った。さて、その奴国は、魏史倭人伝の世界(3世紀半ば)になると、邪馬台国卑弥呼の代官が治める王のいないクニに成り下がってしまった。何時頃、邪馬台国なるクニ、卑弥呼なる女王が北部九州を治めるまでに力を蓄えたのか? それを知る手がかりとして、水田農耕文化は、倭国内をどのように北部九州から近畿へ伝搬していったのか? 弥生の時代、北部九州と近畿の文化的、経済的な格差はあったのか? 何時頃近畿地方は,その格差を埋めて、は北部九州を支配するような先進地域となったのか? あるいは、早くから大陸との交渉があった北部九州を上回る先進文化圏が、すでに近畿地方に存在していたのか? ヤマトの弥生集落、唐古鍵遺跡は邪馬台国だったのか? 纏向遺跡は邪馬台国なのか?

 福岡平野に散在した弥生集落が集合、発展して奴国を形成して行った。そしてその奴国が、水田農耕文化、それに伴う灌漑、治水、土木、生産管理等の技術、気象観測や祭祀ノウハウ、そして、農機具や祭祀に必要な器具の生産技術,とりわけ金属製品の製造、大量生産技術の中心地になって行ったこと。そうした経済力、政治的権力確立の背景には、1世紀中盤に後漢の光武帝に遣使して金印を得て、柵封体制に組み込まれる事により倭国の支配権を確立したという史実があった訳だ。そうした後漢書東夷伝に記された時代(1世紀中葉)の倭国世界。当時の一大先進国であった奴国の時代、倭国内では東の中国地方や近畿地方への水田農耕文化の伝播、弥生農耕集落の分布状況はどうなっていたのだろう。とりわけ大陸文化からはなれていた近畿地方はどんな状況だったのだろう。

 橿原考古学研究所付属博物館では、奈良県を中心に、多くの発掘調査の成果を展示しているが、とりわけ関心を持って見学したのは、奈良県を代表する弥生時代のの環濠集落跡である唐古鍵遺跡と、3世紀の纒向遺跡についての展示であった。説明員の方が、丁寧に私の疑問に答えて下さり非常に勉強になった。

ポイント:

1)田原本町の北で見つかった唐古鍵遺跡は、筑紫の吉野ケ里遺跡などと同じ時代(紀元前2〜3世紀)の、3重環濠に囲まれた広大な弥生農耕集落跡であるが、それが邪馬台国の集落であったり、のちに三輪山の麓の纏向へ移ったりした(あるいはつながりがある)ような証拠は見つかっていない。むしろ中世頃まで純粋に農耕集落として継続していた形跡がある(後記:環濠集落は古墳時代には消滅し、跡に古墳が築造されたり、中世には村落が形成されたりしたようだ)。

2)ヤマト地方の弥生農耕遺跡からは、木製農機具や狩猟のための鏃などは大量に出土しているが、金属器具は少なく、石器や樫のような木製品である。大陸からの技術導入が直接的であった北部九州に比べ、遅れた農耕文化?と言い得るかもしれない。むしろ縄文的な採集生活と断絶が無い。一方、祭祀に用いたらしい銅鐸は大量に出土しており、北部九州の銅鉾とは異なる文化圏である事を示唆している。

3)水田稲作農耕が北部九州から伝搬した時期は比較的早かったようで、北部九州と近畿ではあまり時間的な格差は無いようだ。大阪府の池上曽根遺跡もその頃の大規模な弥生農耕集落跡である。

4)弥生の稲作農耕集落は北部九州から近畿地方に至るまで、出雲、吉備を含め、比較的広範囲に分布している。しかし、魏志倭人伝に出てくる國に比定されてもおかしくないような大規模な集落跡は、やはり北部九州と近畿地方に。

5)一方、3世紀の古墳時代初期の纒向遺跡からは農耕集落跡は見つかっていない。人工的に造成された水路や、建物、土木工具類が見つかっているが、工事現場や飯場的な様相である。3世紀と思われる箸墓古墳のような初期大型前方後円墳が周囲にあり(大倭古墳群)、これらの工事のために人が集められた可能性も。さらに尾張や吉備等から持ち込まれたと思われる土器が出土していて、各地から人が集まった(集められた)形跡がある。あきらかに弥生農耕集落とは異なる成り立ちだ。

6)一昨年発掘された纏向の「神殿跡」らしき建物も、意外に柱が細く(弥生時代の唐古鍵遺跡の建物よりも貧弱)、「こりゃムラの集会所じゃあ?』と本音を言っている人もいるとか。もっとも、東側のJR桜井線、さらに東の住宅地の発掘が進めば,さらに大型の居館跡が見つかり、新たな発見があるかも?

7)纒向遺跡を「邪馬台国」と呼ぶかどうかは別にして、どうやら倭国のあちこちから人が集まった、いわば新たに建設された「新首都」のような佇まいだと感じる。倭国が「卑弥呼を共立し」まとまったという記述に符合するのか? いずれにせよ,弥生の稲作農耕集落の発展形ではなさそうだ。

8)弥生時代の奴国の先進農業地域、先進工業地域といった性格と比較すると、弥生の近畿は後進地域であり、この時代から200年ほどの時間経過の間に、急速にキャッチアップして、大陸の直接の影響下にあった先進文化地域北部九州を追い抜いて、支配下に治めるほどの力がヤマトに備わったのかどうか? 古墳時代以前のそうした,急速な「弥生イノベーション」の痕跡は必ずしも見つかっていない。特に、大陸からの人の移動や,それに伴う技術、文化の近畿への直接移入(北部九州、瀬戸内海経由ではなく、例えば若狭湾、琵琶湖経由?)があったのかどうか不明。

9)「倭国大乱」の後の3世紀も、邪馬台国が経済力や武力で倭国を統一した訳ではなく、「鬼道」の巫女である卑弥呼を各国が「共立」して和平協定を結んだわけで、邪馬台国女王卑弥呼は「倭国統合の象徴」にすぎなかったはずだ。だからこそ,その権威を認めさせる(倭国連合の構成メンバー国に)ために、魏王朝(楽浪郡帯方郡の公孫氏を通じて)に使者を送って柵封を受けたのだろう。邪馬台国がその後のヤマト王権に繋がって行ったのかどうかは不明,と言わざるをえないだろう。


10)弥生時代後期の北部九州に多く見られる甕棺墓は、奈良盆地ではほとんど見つかってない。古墳時代以前は方形集合墓が中心でで、木棺が多い。古墳以前の王墓(須玖/岡本遺跡の奴国王墓や平原遺跡の伊都国王墓のような)も判然としない。墓制から見る王制の性格もかなり異なるようだ(あるいは、奈良盆地には他と隔絶した「王」はいなかったのか?それほどのクニはまだなかったのか?)。

 お約束の「邪馬台国はどこにあったのか?」という問いは別にして、1世紀中盤の奴国全盛時代と、倭国大乱を経て、3世紀中盤の邪馬台国が倭国を支配した時代へと、200年弱の間に、倭国の中心が北部九州から近畿に移ったのだとすると、その動機、過程は依然として謎に包まれている。稲作農耕文化の東遷は明らかだが、それに伴う金属機器(鉄製農機具)製造技術の伝播はどうであったのだろう。稲作伝播と同様に急速に東へ伝わったのか? 大陸では漢王朝が滅亡し、柵封諸国が混乱のなか(多分これが「倭国大乱」の原因だろう)、魏呉蜀の三国時代を迎えた中国。その混乱の後に新しい倭国を統合するクニ、邪馬台国があらわれ、その女王卑弥呼が「親魏倭王」として魏に柵封された。そしてそのクニは,北部九州ではなくて近畿地方の大和盆地にあったとすると...  突然に近畿が倭国の中心になるということになる。そこには歴史に大きな時間的、地理的ギャップがあるように思う。「鉄」をめぐる支配権争いがチクシとヤマトであったとする説もある。

 一方、邪馬台国九州説に立っても,邪馬台国に相当するような大きなクニの痕跡は今のところ九州では見つかっていない。話題の佐賀県三養基郡の吉野ケ里遺跡は、弥生時代後期の大規模な環濠集落であり、何らかのクニの中心であったのであろうが、位置が異なるし、卑弥呼の王宮らしき遺構も、大掛かりな古墳(「おおいに塚をつくる」)も見つかっていない。墓制は北部九州に特徴的な甕棺墓、集合墓である。まして「親魏倭王」の金印も,封泥も見つかっていない。福岡県山門郡あたりから何か見つかれば、また九州説が再燃するのだろうが、その場合は,何時,何故,邪馬台国が九州から近畿地方へ遷移したのか、どのようにチクシ連合国家がヤマト連合国家に変遷したのか、はたして日本書紀にいう「神武天皇の東征」伝説は、その変遷の記憶を後世に創作したものなのだろうか、等等が次の疑問としてわき起こってくるであろう。

 位置論争は、昨今の考古学的な発掘や年代測定成果からは、邪馬台国近畿説に少し分があるような気がする。わたし自身は福岡の出身で,子供のころは、特段の根拠も無く邪馬台国は九州にあった(あって欲しい)と思っていたが。しかし、日本の成り立ちを追い求める過程で、問題をあまり「邪馬台国はどこにあったのか?」という形にしてしまうと、取りこぼされてしまう課題がいっぱい出てくるような気がする。「邪馬台国」は魏志倭人伝に記述があるだけで,しかもその位置に関する記述は,魏の使者が直接足を踏み入れた、見たわけではなく、伊都国の役人からの聞き書きらしい。倭人は女王の居る場所を意図的に遠隔地設定した可能性もあり、正確ではない。しかもそれを検証出来る文献史料は無い。したがって、その解明は客観的な考古学データによるべきところを、主観的な希望や期待感も入り交じった「推理」となる。推理小説のように面白く、夢としては膨らんでも,結局はそれぞれの比定候補地による「邪馬台国誘致合戦」になってしまう。世に邪馬台国論争の本はゴマンと出ているが、どの説にも決定的な根拠、証拠は無いから、奇想天外なストーリでも売れる(その方が売れる)。

 「邪馬台国はどこにあったのか?」 まあ、しばらくはその問いは封印してみた方がいいような気がする。結果はあとからついてくるような気がする。

(弥生時代の環濠集落、奈良盆地の中にある田原本の唐古鍵遺跡の復元楼閣。纒向遺跡や大倭古墳群のある山裾(山処:やまと)ではなく,平地にある)



三輪山を観ながら走るJR桜井線(万葉まほろば線)纒向遺跡も箸墓古墳もこの沿線だ。



(卑弥呼の墓ではないかと言われる箸墓古墳。年代測定法により3世紀半ばの古墳とされており、ちょうど卑弥呼の時代に近い。やまとととひももそひめのみことの墓として宮内庁が管理する陵墓であるので内部への立ち入り調査は許されていない)





(奈良県立橿原考古学研究所付属博物館。近鉄畝傍御陵前駅から歩いて5分だ)



(2010年の纒向遺跡の神殿跡発掘現場。JR巻向駅の線路脇で発掘調査が進んでいる。後ろに見える山が三輪山。西には二上山を望む。纏向の神殿跡はちょうど三輪山を東に、二上山を西に、という東西軸の配置となっている)