2013年7月13日土曜日

天子南面す 〜遷都の思想〜

 伊丹から羽田に飛ぶとき、大阪市の上空を過ぎて河内平野、生駒山を越えると、やがて奈良盆地(大和盆地)上空にさしかかる。右方向南には飛鳥、吉野、紀伊山系を望み、右手後方に矢田丘陵。生駒山を、そして右前方に三輪山、龍王山、春日山など大和青垣山系,さらには遠く伊勢路を望む。左手には北摂から京都が見える。いつもここを飛ぶたびに思う事だが、ヤマト王権の変遷はこの範囲内での出来事だったのだと。もちろん、中国、朝鮮半島や、筑紫や出雲という、この世界から見ると遥か遠くの国との交流もあったが、3世紀三輪山の麓に生まれた三輪王朝、5世紀葛城山の西からやって来たといわれる河内王朝はこの大和盆地に京(みやこ)を築き、そして飛鳥古京、藤原京、平城京もこの視界の範囲内だ。

本格的な宮都建設、そして遷都は南の飛鳥古京から始まり、南北軸上を北上し、この視界の左手北にある平安京も、平城京の北、山城国に造営された。この間、天智天皇の大津京、聖武天皇の紫香楽京、桓武天皇の長岡京の例もあるが、大掛かりに造営された京はこの南北軸上に並んでいる。そこにはどのような思想、ロジックが存在していたのだろうか?

663年の朝鮮半島白村江の戦に敗北した天智天皇は、都を飛鳥から近江の大津京に遷すが、672年の壬申の乱に勝利した天武天皇は、再び南の飛鳥に戻す。その後は、中華帝国、唐の律令制や皇帝制に習い、長安の首都計画を参考に、694年に藤原京(持統天皇)、710年に平城京(元明天皇)、784年に長岡京(桓武天皇)、794年に平安京(桓武天皇)がそれぞれ造営されるが、遷都の方位は子午軸上の北方を選び、方位の四神(玄武、青龍、朱雀、白虎)相応の護る良地へとしている。

これは天皇を北極星にならい、自らの皇位を不動悠久の北辰、天皇大帝の神格と位置づけたものである。そして北位南面こそ皇帝たるもののポジションを示すものである、とした中華帝国の思想をヤマト王権の確立時期に導入したものにちがいない。まさに「天子南面す」である。

607年、聖徳太子が随の皇帝煬帝に使者を送った時に、その上奏文に記されていた「日出ずる国の天子、日没する国の天子に云々」という文言に煬帝が無礼な蛮夷のヤツ,と怒ったとされているが、この「怒り」は巷間伝えられるように「日出ずる国」「日没する国」に向けられたのではなく、「天子」という言葉にあったものである。即ち,この天下、宇宙に、自分以外にもう一人天子が居る,と宣言しているわけだから怒った。中華蛮夷思想の最たるものだが、それを知ってか、知らずしてか「天子」を名乗った倭国人もたいした度胸だ。日本は何時頃から中華帝国への柵封を求める朝貢国家を止めたのか、という疑問も出てくるがそれはまた,別の機会に解き明かしてみたい。

このエピソードが伝えるように、既に7世紀初頭には倭国に中国風の天帝思想、「天子南面す」という考え方が入り込んでいた。さらには中国風の都城造営の設計思想は、大規模な藤原京や平城京を待たずに、飛鳥の宮殿でも取り入れられ,小規模ながら大王(天皇)の執務、政務を執り行う館は南北軸上にあり。南面して玉座に座っていた。

以来、時代を下り明治元年(1868年)、日本の都は、初めて畿内を離れて東国、江戸に遷った。東の京(みやこ)すなわち東京と改称する。もっとも、これは天皇の東国への行幸であって、あくまでも御所は京都だという建前に基づくもの。正式には遷都の詔はないので、遷都ではないのだろうが。いずれにせよ初めて,南北軸を離れ、都が東に遷った。

明治新政府の考え方はもちろん欧米列強に負けない近代国家建設であるが、その基本的な権力基盤は天皇という権威に依存したものである。古代の天皇親政の復活、1867年(慶応3年)の「王政復古」である。11世紀初頭以来の長い長い武家政権の時代を一足飛びにさかのぼり、日本書紀がにわかに国史として表舞台に飛び出し、律令制時代の官制名称が復活し、天皇中心の国家観、皇国史観が復活した。長い間、文化芸能や有職故実をたしなむ京都のお公家さんが、政治の舞台に担ぎ出された訳だ。しかし、古代の遷都のロジック、「北位南面」の思想は引き継がれなかったようだ。新都東京の皇居は武家である徳川家代々の江戸城であり、大極殿も朝集殿も無い。

いまや、東京は1時間ほどで飛んで行ける近さだが、当時の東国は大和からは遥か遠い辺境の地であった。まして、今でも飛行時間13時間を要するアメリカやヨーロッパの国々は、唐天竺よりも遠い地の果て。その存在すら定かに認識し得ない魑魅魍魎の世界であったことだろう。こうして歴史を振り返ると、倭人、のちの日本人はこの狭い大和盆地を抜け出して東遷し、さらに日本列島を抜け出し、広い世界を知り、そこへと歩を進めて来た。しかし,やはりその原点はこの盆地にある。そんな日本人の箱庭的なDNAはなかなか変遷しないのだろう。なにしろ「豊葦原瑞穂の国」「うまし國ぞ秋津島大和の國は」であるのだから。

そんな事を考えているうちに、まもなく羽田に着陸となった。何ともあっけない
現代の旅..





(引用出典=『都城の生態』(岸俊男編「日本の古代」9、中央公論社、1987)
藤原京と平城京は南北の上ツ道、中ツ道、下ツ道の3本の大道で、難波宮は東西の横大路で結ばれていた。












(奈良盆地の全景。北から南方向を望む。手前に見える長方形の敷地は平城宮跡。遥かに南に大和三山を望む。ここには藤原京が、そのさらに南には飛鳥古京があった。まさに平城宮は北位南面のロケーションだ。)