2016年5月7日土曜日

新緑の北鎌倉を歩く

 新緑の季節、「そうだ鎌倉 行こう」。しかし連休中の鎌倉なんて一番人出でごった返すので、できれば避けたいところだ。いつも「鎌倉イコール混雑」という先入観が頭をよぎる。しかし、奈良や京都へ出かけるならともかく、首都圏でやはりこの季節、新緑の美しさと歴史の風情を味わおうとするとここしかない。何しろ一時間ほどの満員電車を我慢すれば到着するのだから。今回は北鎌倉の円覚寺、東慶寺、浄智寺、明月院を巡り圧倒的な新緑の海にどっぷり浸ってきた。

 鎌倉は「古都」であると言われるが果たしてそうなのか?確かに歴史の香りを纏った町である。ベッドタウン化して街の様相も首都圏郊外の典型的なそれになってはいるが、やはり山々の谷あいに佇む古刹は美しい。だがまさか鎌倉を「神奈川の小京都」なあんて呼ぶ人はいないだろうが、でも皆なんとなく「古都」だと思っている。鎌倉が日本の「みやこ」であった事はない。何がこの狭隘な山と谷に囲まれた相模湾に面した土地を、日本の歴史の一時期、表舞台に引っ張り出したのか?

 鎌倉が輝いた時代は意外に短い。400年続いた平安時代の藤原氏一族を中心とした貴族による摂関政治から武家政治へ、と大きな時代のパラダイムシフトがあった。もともと朝廷や貴族の藩屏(警護団)であった武士が政権を乗っ取ることになる。武家の棟梁、平清盛が初めて、京の都で武家政権(いわば軍事政権)を始め、その平氏を滅ぼしたもう一方の武家の棟梁、源頼朝が1192年に、都から遠く離れた東国、鎌倉に幕府を開いた。1333年の新田義貞の鎌倉攻めで幕府が滅びるまでの140年ほどの歴史である。源頼朝直系の将軍位の歴史はもっと短い。1192年に朝廷から征夷大将軍に任じられた頼朝から数えて、その子頼家が二代。三代が実朝。頼家は修禅寺に幽閉ののち殺され、実朝は暗殺され(あの鶴岡八幡宮の階段のところで)、源氏直系の征夷大将軍の血統はたった3代、27年で途絶える。その後のここ鎌倉における武家政権の歴史のほとんどは地元の武士団、頼朝の妻、北条政子の実家、北条氏得宗家の歴史だ。

 北条氏の素性はよくわかっていない。桓武平氏の直系だと自称していたが、もとは伊豆田方郡あたりの小豪族であったようだ。考えてみると頼朝は平治の乱で敗れた源義朝の嫡男。ミヤコから血筋の良い源氏の御曹司が流刑者として伊豆にやってきた。それを預かったのは平氏の血統を謳う北条氏。なんの因果か男女の仲。北条時政の娘政子が頼朝と結婚して、坂東武者一家の運命が変わった。事態は反転し、朝廷の平家討伐の院宣で挙兵した頼朝は平家を滅亡させ、流刑者は征夷大将軍に。北条時政は想定外の出来事に戸惑ったことだろう。しかし時政は、こうなったら実権を我が手に、との野望を抱き始め、源氏嫡流将軍を3代で葬り去る。そして北条政子が尼将軍として幕府の実権を振るうことになる。その後は北条氏が鎌倉幕府の執権、得宗家として鎌倉時代の主役となるというわけだ。天さかる鄙の坂東武者にとっては千載一遇の好機、というか、降りかかった災難というか、天下に押し出され権力闘争の渦に巻き込まれてゆく。そして最後は北条氏滅亡となる。なんというドラマチックな一族だ。

 頼朝は鎌倉の地に幕府を開いたが、ここはそもそも源氏ゆかりの地ではない。いわば女房の実家ゆかりの地に幕府を開いたみたいなものだ。例えて言うと、本社から左遷され、そこで出会って結婚した嫁の故郷で、実家の義父の力を借りて起業し、元の会社をmanagement buy-outしたようなものだ。その本人があっけなく世を去り、二代目、三代目が凡庸であったため、嫁の実家の番頭が社長代理をズット勤めた、と。

 同じ武家政権でも西日本に広大な経済基盤を有し、海外との交易をも牛耳っていた平氏の世界観と比べ、あまりにもローカルな地元の武士団のロジックが横行しているように見える。日本の歴史の流れの中で、初めてミヤコから遠い辺境の地、坂東(関東)に時代のハイライトが当たった。極めて国内志向の強い政権闘争/統治理念で、清盛に代表される日本のグローバル戦略が大きく後退した時代だ。一例を挙げると、北条時宗の「元寇」への対応にしても、清盛がもし生きていたらフビライの使者を切り捨てたりはせず、高麗や元との交易を始めていたかもしれない。だとすると日本のその後の歴史は大きく変わっていただろう。鎌倉時代とは、支配層が貴族から武士に移っていった時代であるとともに、近畿のミヤコに対して関東がもう一つの中心となった(日本独特の二元統治体制)時代の始まりである。しかしその嚆矢となった画期的な「鎌倉幕府」という試みはあっけなく終わった。再び関東が脚光をあびるのは徳川家康が江戸に幕府を開く270年ほど後の事だ。

 海べりの狭い土地、三方を山に囲まれ、狭い切り通しを介して外界と繋がる土地。防衛を基本とし、国内の物流や情報流のハブにも、海外との通交拠点にもなれない鎌倉。ミヤコの源平藤橘のような血筋ではなく、坂東武者達のローカルなロジックで政治闘争が繰り広げられた時代であった。もとより日本のミヤコ(首都)にはなれなかった。そんな鎌倉も、武家文化の誕生・揺籃の地として臨済禅など鎌倉五山や日蓮宗のような新興仏教を生み出し、運慶・快慶などの仏師が全国で活躍する時代の画期をもたらした土地であった。武家文化が日本文化の底流をなす大きな流れとなるには、その後の歴史を待たねばならなかったが、1867年の徳川将軍の大政奉還・王政復古までのおよそ700年に渡る武家政権の最初の「ミヤコ」であった。

 今や鎌倉は、週末ごとに人がわんさと押しかける(安近短型)混雑観光地の代表格だ。3000万人という人口を抱える首都圏にあって、関西のように、古の文化の香りに飢えた人々を十分に収容するスペースもコンテンツも足りない。例えば江ノ電や横須賀線や道路を見るがいい。何時も人で溢れかえっている。もともと、先述のように、この街は大量のモノやヒトの流れを受け入れるようには作られていないのだから。鎌倉文化を代表する禅宗寺院も日蓮宗寺院も、京や奈良の大寺院に比べると、山と谷に囲まれた狭隘な土地というそれなりに制約されたスペースに展開せざるを得なかった(もっとも、鎌倉の外では、源平の戦乱で荒廃した南都東大寺を再建し、博多に我が国初の禅寺、聖福寺の創建を許可し、京都に臨済禅の建仁寺を創建した。)。鎌倉の街のランドマーク、鶴岡八幡宮。その海につながる参道が街のメインストリートという風情が鎌倉らしいが、これはミヤコの佇まいというよりは門前町のそれだ。やはりミヤコとして発展するだけのスペース用意されていなかった。現に江戸時代には、江戸から足を伸ばせる寺社仏閣巡りの遊興の地。明治以降は、帝都東京で活躍する政財界人、文人墨客の別荘地としてもてはやされた。現在の週末ごとに発生する混雑は、この首都圏という後背地を控える観光地、鎌倉の宿命なのだ。もともとは鎌倉という街はこじんまりした佇まいを密やかに楽しむ場所なのだが、皮肉にも明治以降、ミヤコが近畿から関東、東京に移り、日本の近代化、戦後の経済成長に伴う東京一極集中が起こった。そういう「東京」の発展が鎌倉の静寂を許さなかった。

 ただ今回は、連休中にもかかわらず、思ったより人出が少なくゆっくりと散策できた。これはラッキーとしか言いようがない。それにしても新緑の鎌倉は美しい。


明月院

円覚寺
山藤が美しい

沙羅双樹

円覚寺から東慶寺を望む


菖蒲はこれから











浄智寺










円覚寺庭園


浄智寺
鎌倉を上空から見る