2018年1月17日水曜日

纏向遺跡の居館はなぜ東西軸なのか?

 2009年11月に発表された纒向遺跡における居館跡発見は世間を沸かせた。ついに「卑弥呼の宮殿」発見か?と。しかし、卑弥呼がいたという証拠は見つかっておらず、邪馬台国近畿説の期待感先行の騒ぎようであった。私はそれよりも3世紀の初期ヤマト王権の遺構であろうと考えるし、むしろ驚いたのは纏向遺跡の4棟の建物が、全て東西軸上に配置されていることであった。これまでの弥生倭国の遺構で、このような「方位」を明確に意識した建物配置は見つかっていなかったからだ。もしかすると、「初期ヤマト王権を打ち立てたのは誰なのか」という疑問を解くカギがここにあるかもしれないと感じ始めた。このころ既に北部九州の国々では朝鮮半島や中国との通交が活発に行われ、歴代の中華王朝への朝貢/冊封関係を通じて先進的な思想や文物、技術がチクシ倭国にはもたらされていた。早くから後漢や魏に使いを出していた奴国、伊都国、邪馬台国は中国の皇帝(天帝)が「方位」を重視して壮麗な都城を南北軸で造営していることを知っていたはずだ。しかしチクシ倭国の王たちはこの中華帝国の「方位」思想を取り入れた都城作りはしなかったようで、相変わらず弥生農耕集落伝統の深い堀を巡らした円形の環濠集落(吉野ヶ里遺跡にみられるような)に暮らしていた。ところが3世紀になると近畿ヤマト倭国には、「方位」を意識した居館、神殿を奈良盆地三輪山山麓の纏向に営んだ王が出現した。南北軸ではなく東西軸ではあるが。

2009年11月の纒向遺跡現地説明会



遺跡の真西向き

纏向の居館遺跡から眺めると、11月の太陽は二上山のやや西南、
葛城山金剛山方面にに沈んでゆくように見える。


纏向宮殿/神殿発掘図
東西軸に対し5度ずれている。
桜井市HPより


纏向遺跡の俯瞰図
真東に山を背負い、右手に箸墓古墳、その背後に三輪山、左手の集落の中に纏向居館/神殿建物跡が
吉野ケ里遺跡のような環濠集落形態とは異なる「方位」を意識した都邑となっている。
桜井市HPより



 時代を下った6世紀以降の飛鳥の宮殿や都城は南北軸という「方位」に則った設計思想で造営されたことはよく知られている。この頃伝来した仏教の寺院(飛鳥寺、四天王寺など)建築も全て南北軸で設計されている。これは中国の北辰、すなわち北斗星を定点とする宇宙観に基づく都城設計の思想によるものである。すなわち「天子は南面し、臣は北面す」の考え方を取り入れた宮殿を中心とした都市設計である。8世紀の平城京や平安京がこの南北軸秩序に習って造営されていることは言うまでもないだろう。

 ではなぜ、3世紀の初期ヤマト王権の中心的な施設である纏向の居館は東西軸なのか?どのような宇宙観から設計されたのか? 先述のように、中国の都城の「方位」南北軸が不動の北極星を起点とした北辰思想に基づくものであるのに対し、東西軸は、農耕社会に見られる太陽信仰に基づくものと考えられる。纏向遺跡の宮殿/神殿は、三輪山を東に、二上山を西に、ちょうど日の出、日の入りという太陽の運行軸上に配置された設計となっているわけだ。しかも環濠集落ではなく、農耕の痕跡も生活臭もない、人工的な、いわば「都市」建造物として設けられた。同じ自然崇拝、太陽信仰に基づくこれまでの弥生的な農耕集落、邑、国とは一線を画するイデオロギーを感じさせる。いわば「方位」概念を強く意識した「王都」然としている。

 弥生農耕集落である環濠集落形式をその特色とした国(九州の吉野ヶ里を想像してみてほしい)にも「方位感」はあったに違いない。吉野ヶ里遺跡を見ると、北に死者を埋葬する墳墓群が検出されている。一方で伊都国王墓平原遺跡は高祖山を東に見る東西軸で営まれ、被葬者(女性であるようだ)は西に頭を向けて埋葬さている。紀元前の早良国王墓遺跡も神奈備型の飯盛山を西に背負う東西軸に「甕棺ロード」が形成されている。東西という「方位感」は稲作農耕社会の弥生の人々の自然観、宇宙観として受け入れられやすい。太陽神信仰が世界でも共通の初源的な自然崇拝、信仰形態であることも東西軸重視の考え方が特異なものではないことを説明しやすいだろう。しかし、このころのチクシには王の居館や神殿を東西軸上に配置するという構造は想定されていなかったようだ。

 3世紀にヤマトに新たな宮都纏向を営んだ王は、円形の環濠集落(チクシの吉野ヶ里遺跡やヤマトの唐子鍵遺跡のような)ではなく、「方位」をより重視し、軸上配置による「秩序」を意識した宮殿/神殿を整えた。しかし中国、朝鮮半島の都城のような南北軸ではないが、軸上に宮殿や神殿を配する考え方には大陸の影響が感じられるが、その思想には太陽神信仰の意識が現れているところに纏向の特色がある。「天子南面す」という北辰思想に基づいた南北軸が倭国/日本の宮殿/都城造りに取り入れられるのはさらに300年以上後になる。弥生的農耕社会において、太陽信仰という自然崇拝による祭祀を行う神殿を中心とした集落形成から、より「方位」を意識した王都形成へ、さらに中国的な宇宙観、方位観を取り入れた王都形成へと移行してゆく過渡的な姿ということなのだろうか。アニミズム的な自然現象を崇める原始農耕社会にあって重視される太陽の出入り(東西軸)よりも、不動の北極星を定点とする宇宙の姿を重視する。それを天下支配の正統性のモデルとする華夷思想、天帝思想。南北軸という秩序観は天下の統治秩序、すなわち中華皇帝(天帝)の徳を慕う蛮夷の王による朝貢/冊封という東アジア的世界秩序に重きを置いた、より文明の発展段階の進んだ「方位感」であったのだろう。

 ちなみにこの頃(3世紀)纏向遺跡周辺に出現した箸墓古墳などの前方後円墳は、その向きがまちまちで、統一した「方位」の概念、法則なく造営されているように見える。また纏向遺跡全体の構造も、居館建物以外はあまり「方位」を考慮した町割りになっていないらしいのも不思議だ。まだ全体の2%程度しか発掘調査が進んでいないので今後の調査結果次第ではあるが、当時の支配層には、建物造りに既に「方位」に対する意識があったことが推測されるものの、なぜ町割りや墳墓は方位に無縁なのか謎である。太陽神の神殿のみ東西軸に配置したのだろうか。すなわち「聖なる権威」の象徴たる神殿/居館と世俗世界、死後の世界を分けたのだろうか。

 それにしてもヤマトの王とは何者?どこから来たりし者なのか? このような纏向の建物配置は、東西と南北の違いこそあれ、「方位」意識とそれによるあらたな国や王権の「秩序」の考え方を表しており、大陸伝来の都城設計の影響を感じる。また纏向の神殿と思しき建物跡からは大量の桃の種が出土している。これは「桃の霊力」を利用する祭祀形態という中国の神仙思想や道教的思想を想起させる。このあたりが「チクシ倭国」の「王都」遺跡とは異なる特色である。3世紀の初期ヤマト王権は中華王朝との通交はあったのだろうか。あったとすれば、それはどの王朝とであったのか。おそらく「チクシ倭国」が朝貢した漢王朝や、三国時代の北方王朝である魏ではなかった可能性がある。南の王朝、魏と敵対していた呉であろうか? さらには中国江南の越族やさらにはタイ、ベトナムの古代王朝との交流があったのだろうか。ちなみにこれらの地域の神殿は東西軸で配置されている。朝鮮半島経由とは別の黒潮ルート(琉球、タネ/ヤク、南九州、紀伊半島という)による大陸との通交があったのかもしれない。少なくとも魏志倭人伝に描かれた邪馬台国をはじめとする倭国の姿とは異なるもう一つの「倭国」が列島内にはあったらしいことを示唆するように思う。


三輪山と箸墓古墳



(参考)吉野ケ里遺跡

 弥生農耕集落の代表的な遺跡「吉野ケ里遺跡」を見て比較していただきたい。広大な環濠に囲まれた集落で、首長の居館エリア(南内郭)と神殿エリア(北内郭)が分かれている。環濠の外にも高床式倉庫や交易場、小集落が見られる。水田も環濠の外にある。居館/神殿建築は「方位」を意識した軸上配置にはなっていない。「纏向遺跡」とは全く異なる「都市設計」思想で営まれた「邑」「国」であることがわかるだろう。

環濠内はさらに南内郭(王の居住地域)と北内郭(神殿地域)とがわかれている。
人々の居住地域であるムラと北の埋葬地域を含む大掛かりな環濠集落となっている。
環濠の外には交易のための倉と市が設けられている。
水田は環濠の外に広がっている。
吉野ヶ里歴史公園HPより引用



広大な環濠集落
外にも倉庫や市、小集落がある

環濠内の南内郭は首長一家のの居住地域であるが、家屋は比較的簡素な横穴式住居

南内郭の物見台から北内郭の神殿が見える

北内郭は深い濠に囲まれ、高い柵に守られた神殿地域
巨大な神殿建物の隣には物見台が設けられている。