武蔵寺「長者の藤」 |
武蔵寺(ぶぞうじ)は筑紫野市二日市温泉の近くにある寺で、飛鳥時代創建と言われる古刹である。現在では行政区域としては筑紫野市に立地し、太宰府市ではないが、もともとは太宰府政庁から朱雀大路を真南に下がった条坊制都城の西郭外に位置する。背後には、かの有名な菅原道眞慟哭の天拝山を控える。
また武蔵寺は、「長者の藤」と呼ばれる樹齢1300年の藤が有名で、地元の人々に親しまれている。毎年4月下旬から5月初めにかけて1メートルにもなる藤の房が無数に垂れ下がり見事である。ツツジやシャクナゲの名所でもあり太宰府に住んでいた時には良く遊びに行った。毎年4月29日に筑紫野市「藤まつり」が開かれるのだが、今年は29日を待たず、大方花が終わってしまった。今年は桜も藤も全てが足早に見頃を過ぎてしまった。
由緒によれば武蔵寺は、7世紀頃(伝645年?)藤原虎麻呂(とらまろ)という人物により創建されたという。この年代が本当ならば、じつに「乙巳の変」があった時代の創建ということになる。また中国から帰国した天台宗の開祖最澄の開基ともいわれている。また鎌倉時代になると武蔵国池上の日蓮宗の僧侶がここを訪ね、「武蔵寺」と名付けたという。現在の寺号は椿花山(ちんかざん)武蔵寺。天台宗の寺院である。何故「武蔵(むさし)寺」としたのか。ちなみにこの辺りの地名も「武蔵(むさし)」と呼ばれる。何かこの地に「むさし」由来の伝承があったのだろう。
藤原虎麻呂とは何者であろうか?彼にまつわる虎麻呂長者伝説が地元では語り継がれている。この虎麻呂が山中で怪火を射落としたところ、矢が大きな椿の樹に突き刺さっていた。これは薬師如来の宿る霊木で、お告げによりこれを切り出して薬師十二神将像を彫って安置した。これが寺の建立の由緒、また寺号椿花山の由来であるという。また虎麻呂は子に恵まれず薬師三尊に祈り続けたところ娘を授かったという。また疫病が流行り、多くの民が苦しみ、虎麻呂の娘も病気になった時、夢枕に立った僧侶のお告げにより、近くの葦原の中に湧き出でる温泉を見つけ、それに浸かったところ快癒したという。これが次田の湯、武蔵の湯、すなわち二日市温泉の由来であるという。地元では虎麻呂は大事な長者様で武蔵寺近くの天拝公園には銅像が建っている。
このような伝承は、室町時代後期から江戸時代初期の「武蔵寺縁起絵巻」のほか、江戸時代の黒田藩の貝原益軒が編纂した「筑前国続風土記」に記されている。また「今昔物語」「梁塵秘抄」にもその名が登場する筑紫の古刹であるが、創建の歴史を語る文献資料は少なく謎が多い。そもそもこの藤原虎麻呂とは一体いかなる人物であったのか。藤原鎌足の孫だとか、壬申の乱で活躍し天武天皇から筑紫の国主を賜ったとか伝わっているが、そうした記録は残っていないし、創建の年代とも合わない。一方で平安時代の人物らしい描写があったりする。実在の人物であったのだろうか。なぜそのような人物が飛鳥古京から筑紫太宰府に来たのか。少なくとも藤原氏一族の中に虎麻呂の記録は見つからない。
一方で、蘇我馬子の孫、蘇我日向(ひむか)臣無邪士(むさし)という人物が初代の筑紫太宰帥として赴任してきた。孝徳帝の時代で、孝徳天皇の病気平癒を祈願し太宰府に般若寺を建立(654年)したとある。のちに廃寺となり現在は鎌倉時代の石造の七重の塔が残るのみである。実はこの蘇我日向臣無邪士(むさし)が武蔵寺の創建者ではないかとも言われている。すなわち、伝説の長者、藤原虎麻呂とは蘇我日向のことだというのである。
この蘇我日向は実在の人物で、よく知られた中央政界における政変ののちに、筑紫に赴任してきた。日本書紀の記述にある中大兄皇子。中臣鎌足等による645年の「乙巳の変」である。これにより馬子の子、蝦夷、その孫、入鹿が死に蘇我宗家は滅亡したが、蝦夷の兄弟、蘇我倉麻呂の子である蘇我日向と蘇我倉山田石川麻呂は中大兄皇子と中臣鎌足についてクーデタに加担した。石川麻呂は新政権(孝徳帝)で右大臣にまで昇進するが、日向はこの異母兄弟、石川麻呂を「謀反の疑いあり」として討つという行動に出た。のちにこれは無実であることが判明する(と書紀に記述されている)。これは、新政権後も大きな勢力を保有していた蘇我氏への中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であったと言われている。蘇我日向は利用されたようだ。この結果、中大兄皇子により蘇我日向は筑紫太宰帥として筑紫に赴任させられる。これが記録にある最初の太宰帥である。
この人事、蘇我日向は筑紫に左遷されてきたのか、栄転してきたのか説が分かれる。太宰府というと左遷のイメージが強いが、必ずしもそうとは言えない。特にこの時期は大陸情勢が緊迫し、筑紫の外交防衛面での重要性が高まっていた時期である。中大兄皇子、のちの天智天皇は筑紫経営を重視していた。太宰府のトップ「帥(そち)」はかなり位の高いポジションで、のちの平安時代には皇族のみが付くことができ、現地に赴任しないよう任官であった。実際には「権帥(ごんのそち)」すなわち次官が現地に赴任した。有名な菅原道眞は太宰権帥であった。道眞の左遷で、すっかり太宰府は左遷の地として有名になってしまったが。ちなみに平清盛は太宰大弐(権の帥に代わる次官)を朝廷に要求し、以降代々平家一門が太宰大弐として筑紫太宰府に赴任し、博多津における貿易利権を独占した。
しかし、この時の蘇我日向は栄転という形をとった左遷の可能性もある。中大兄皇子と中臣鎌足による、乙巳の変の功労者、石川麻呂謀殺の陰謀を封印するための人事というわけだ。赴任後の日向が太宰府でどのような権勢を振るい、生活をしたか記録は残っていない。結構優雅な生活を送っていたのではないかと思う。孝徳帝や天智帝の意を受けて西国経営に手腕を発揮し、般若寺や武蔵寺などの寺院を建立し、後の「遠の朝廷」の基礎を作ったのかもしれない。日向はその後どのような人生を送ったのか。これも記録がなく謎が多い。一説に中央へ戻されたが、壬申の乱では近江朝についたため、天武天皇の時代にまで生き延びたものの、落魄の人生を送ったとか(物部日向と同一視する説)。ともあれここ筑紫太宰府では、日向の事跡が伝説化され、藤原氏由来の「虎麻呂長者」として語り継がれたのかもしれない。正史に時々登場するが歴史の主役ではなく脇役として名を残す謎の人物の一人だ。
武蔵寺は筑紫最古の古刹であると言われている。ということは天智天皇が母の斉明天皇の追善のため発願し創建した観世音寺よりも古いということになる。観世音寺は斉明天皇崩御の661年に着工したが、完成は746年だと言われている。そもそも太宰府はいつ頃成立したのか(いつ頃消滅したのか)、はっきりした記録がない。日本書紀によれば斉明天皇が百済救援のために軍を率い筑紫に進駐した時には、朝倉橘広庭宮(今の朝倉市)が行在所になり、そこで崩御した。中大兄皇子は現在の福岡市の高宮に前線司令官として駐在したようだ。このころにはまだ太宰府は設けられていなかったのであろうか。百済救済のために出兵した「白村江の戦い」に敗れ撤退ののち、唐/新羅連合軍の列島侵攻を警戒し、博多湾岸にあったと思われる屯倉(ヤマト王権出先拠点。福岡市三宅地区あたりか)を、内陸の現在の太宰府の位置まで後退させ、大野城、基肄城、水城を築いたのが663年。これが太宰府の始まりとも考えられる。しかし、蘇我日向の筑紫赴任は645年の乙巳の変、649年の石川麻呂讒言の後、654年頃ではなかったか。そうだとすると筑紫太宰の成立はもっと早く、武蔵寺もその頃には現在の地に創建され薬師如来を祀っていたのであろう。
この蘇我日向臣無邪士(むさし)が藤原虎麿のモデルであり、地元では武蔵(むさし)の「虎麻呂長者」に仕立て上げられて行ったのだとすれば、武蔵寺はヤマト中央政界の激変、白村江敗戦後の混乱、草創期の筑紫太宰府を見てきた歴史的な古刹ということになる。面白い。だが、蘇我日向、藤原虎麻呂という謎の多い人物の創建によると言われるだけあって、武蔵寺もいまだ謎多き寺だと言えよう。
武蔵寺山門 (筑紫野市HPより) |
武蔵寺本堂と藤 |
参道 緑濃い境内だ |
紫藤の滝 菅原道眞がここで禊をして天拝山に登ったと伝わる |
御自作天満宮 新緑が美しい |
石楠花谷 |
しいの花 |
天拝公園の藤原虎麻呂の像 なぜか平安時代の装束だ |
武蔵寺縁起 |