2018年5月3日木曜日

武蔵寺の謎(その2) 〜天神縁起絵巻「天拝山の段」〜



天拝山山頂からの展望
左が水城をへて福岡/博多方面、正面やや右が大野城、太宰府、筑紫野
手前の緑の中に武蔵寺がある


 天拝山は太宰府都城の南に位置し武蔵寺の背後に聳える山である。もともとは「天判山」と呼んでいたが、あの菅原道真公が登って天に無実を訴えた故事から「天拝山」と呼ばれるようになった。標高は258メートルとそれほど高さはない丘陵性の山であるがが、低山にしては多様な樹相の中の森林浴が楽しめるのと、頂上からの福岡市内、太宰府、筑紫野の眺望がなんといっても素晴らしい。福岡近郊の週末登山ルートとしては人気がある。登山ルートは3本ある。天拝公園から整備された歩きやすいルートもあって、中高年、家族連れ、地元の高校生や小学生がハイキング気分で頂上まで登って行く。もう一本、武蔵寺/御自作天満宮脇から登るルートがある。「天神様の径」と呼ばれていて、道真公が登った路だと言われている。こちらは険しい山道で、歌碑をかねた合目の道標はあるが、基本的には踏み分け路である。道真公の心情を共有し神霊を感じながら登るには良いルートだ。今回はこちらを辿った。8合目あたりからは急斜面になり頂上目前に難儀するがこれを越えて頂上に達した時の爽快感は何にも代え難い。

 関西にいた時は、河内/大和の国境の二上山や生駒山、奈良若草山、山辺の道の竜王山、高取城の高取山などに登り、大和国中、奈良盆地、河内平野を一望して気分爽快であったことを思い出す。もちろん飛鳥の甘樫丘も大好きな「山」?だ。二上山には2回ほど登ったが、一度は新緑の美しい季節であった。目に鮮やかな青葉と、雄岳山頂から眺めるその溢れる緑の大海にたゆたう当麻寺の姿が心に残っている。歴史の舞台をこうして見渡せる山に登るのは楽しい。今回の天拝山も爽やかな新緑の山歩きであった。筑紫太宰府の周囲にも、天拝山の他にも大野山、基山、宝満山などリフレッシュできる山々がある。太宰府に住んでいた時には毎日こうした山に囲まれた「国のまほろば」を体感したものであった。東京にいると、都会のジャングルを徘徊してばかりでこうした歴史の山歩きができないのがフラストレーションである。


 先述のように天拝山は菅原道真公が太宰府配流中に登り天を遥拝した山として人々の語り継がれてきた。道真公は、901年に藤原時平の讒言により太宰府に左遷され、903年には太宰府でこの世を去っている。そのわずかな期間に武蔵寺に参詣し、100余回、境内の紫藤の滝で禊をし、天拝山に登って天を仰ぎ冤罪が晴れることを祈念し続けた。やがてその願いが通じ、天神から「天満大自在天」の尊号が与えられた。道真公は武蔵寺で自らの姿を刻んだ像を作ったと言われている。道真公の死後、武蔵寺境内に社が建てられこの像を安置した。御自作天満宮である。こうした道真公ゆかりの武蔵寺、天拝山である。

 これらの伝承は「北野天神縁起絵巻」に描かれている。縁起絵巻は神社仏閣の創建の由来を記したもので、数多くの寺社それぞれに縁起絵巻が存在している。特に南北朝時代後期の公家文化が武家文化に入れ替わる時期以降に描かれたものが多いという。すなわち神社、仏閣を庇護する朝廷や公家の力が低下し、寺社が経営に行き詰まりつつあった時期である。こうした古刹、古社がいかに由緒正しきもの、霊験あらたかのものかを絵解きでわかりやすく世間に知らしめ、参詣者や檀家を増やすことが目的であったといわれている。したがってできるだけ話を「盛って」そのご利益(ごりやく)と御神威をアピールしようとしたであろう。後世の創作や粉飾も多かったことだろう。北野天神縁起絵巻は国宝を含め、多くの資料が残っている。やはり南北朝時代に書かれたと言われていて菅原道真公の生涯を知る上では貴重な文献資料である。特に巻の2が、藤原時平の讒言から太宰府への配流、太宰府での謹慎の日々、天拝山での無実の祈り、そして非業の死が描かれている。道真公の死後、みやこでは疫病や落雷による火災などが多発し、道真公の怨霊がなせる技と噂された。やがて、怨念封じを行い、天神、雷神となった道真公を祀る社として北野天満宮が設けられた。

 と、ここでいつもの「時空トラベラー」の文献資料の批判的解読という癖が出てくる。道真公に関しては「北野天神縁起絵巻」だけでなく、全国に数え切れないほどの伝承や文書がある。天神様が腰掛けた石だとか、足跡だとか、配流の旅にまつわる「名所」「旧跡」は全国いたるところにある。太宰府天満宮は、道真公の御遺骸を運んでいた牛車の牛が動かなくなってしまったので、そこを墓所とし、その上に安楽寺を創建し、さらに安楽寺天満宮を建てたのが起源と伝わる。それほど人気の天神様なのだし、その御遺徳のなせるわざなのだが、様々な伝承や縁起を突き合わせてみると不可解な面も感じる。例えば、なぜ天皇の忠臣であった菅原道真公が、天智天皇勅願寺である官寺観世音寺ではなく、地元の豪族虎麻呂長者が創建したと伝わる武蔵寺に詣でたのか。そしてそこで禊をして天拝山に登ったと伝わるのはなぜなのか。この場面が「北野天神縁起絵巻」のいわばハイライトシーンになっているわけだ。一方でその観世音寺に関わる道真公の事績は、道真公が自ら詠んだ漢詩「不出門」にある都府樓纔看瓦色(都府楼はわずかに瓦色をみる)観音寺只聴鐘聲(観世音寺はただ鐘声をきく)」のみである。すなわち配所である南の居館(榎社)で蟄居謹慎していて参詣したという記述がない。配所でかの有名な「観世音寺の鐘の音」を聞くのみであったと。ちなみに太宰府政庁へも出仕しなかったと言われている。なのに「北野天神縁起絵巻」では武蔵寺へは頻繁に参詣し天拝山には100回以上も登ったことになっている。太宰府政庁/観世音寺の北の背後にそびえる大野山(大野城のちに四王寺山)は太宰府の守りを固めるため天智天皇により築かれた古代山城である。こちらの方が標高410メートルとより高く天に近いのだが。観世音寺に参詣して大野山に登り天に祈る、というストーリーが生み出されなかったのは何故なのだろう。禊をする「滝」は確かにない。武蔵寺のご本尊は薬師如来で、観世音寺は観音菩薩の寺であることは関係あるのだろうか? いや殷賑な「遠の朝廷(とうのみかど)」太宰府の喧騒を離れた南の鄙の武蔵寺と天拝山。霊力を感じる場所はこちらの方かもしれない。むしろ現世の権威/権力の象徴であり太宰府の重要施設である観世音寺や大野城といった場所では天神様の御神威を描けなかったのかもしれない。


「北野天神縁起絵巻「天拝山の巻」
九州国立博物館蔵

道真公が禊をしたと伝わる「紫藤の滝」
武蔵寺境内にある

御自作天満宮
道真公手彫りの尊像が安置されているという
武蔵寺境内にある

御自作天満宮参道脇に天拝山登山口が

天拝山の登山路
「天神様の路」ルート

低山の割には深山幽谷の趣き

ようやく九合目
左が山頂、右は基山への縦走路

天拝山頂上

北方向、「水城史跡」が見渡せる


宝満山
山岳信仰の霊山
麓の青屋根は九州国立博物館
手前は筑紫野市街

正面やや左奥が太宰府天満宮

道真公はこういう光景を眼下に、天を仰いで無実を訴えたのであろう

大野山(大野城)全景
太宰府都城をほぼ南から北に展望する


大野山(城)山麓の太宰府政庁跡
一丁ことある時には背後の大野城に立て籠もる手はずになっていた

天拝山頂上の「天拝山社」





天拝山中腹にある「荒穂神社」

「シャクナゲ谷」


二日市温泉街にそそり立つ天拝山神社大鳥居
遠くに見えるのが天拝山(御神体山)

二日市温泉「博多の湯」

二日市温泉「御前の湯」
筑紫野市観光案内図から




アクセス:JR二日市駅から二日市温泉街を抜け徒歩10分で武蔵寺、天拝公園。西鉄二日市駅からはバスで二日市温泉10分、あるいは徒歩20分。