2019年4月10日水曜日

飛鳥山の旧「渋沢栄一邸」訪問 〜新一万円札の顔に!〜



青淵文庫
渋沢栄一の揮毫による扁額

閲覧室

晩香廬


 びっくりした! 先週の5日(金)に、桜満開の飛鳥山の渋沢栄一の旧邸跡「渋沢庭園」を訪問したばかりであった。そしてその4日後の9日(火)に、2024年から発行される新一万円札の肖像に渋沢栄一が登場することが発表された。なんらかの予知能力が働いたのだろうか。飛鳥山に呼び寄せられたような気がする。もちろん知っていたから行ったわけでもない、単なる偶然だが嬉しい気持ちになった。ちなみに5000円札は津田梅子、1000円札は北里柴三郎。20年ぶりのデザイン刷新だという。新元号、令和の時代に新たに発行される新紙幣である。また一つの時代が終わり新しい時代へ変わってゆく。渋沢栄一は「近代日本経済の父」、「日本の資本主義の父」とも言われる。明治初期から昭和初期にかけて、第一国立銀行(のちのみずほ銀行)や東京証券取引所など金融、製造、物流等、500社の創業に関わった。そのほかにも社会事業や、教育にも力を入れ幾多の学校の創立にも取り組んだ。これだけ起業、創業を手掛けておきながら、渋沢が他の実業家と異なる点は、決して「渋沢財閥」を作らなかったことだ。これは後述する彼の「道徳経済合一論」の理念に基づくものであったのだろう。これまでも何度か紙幣の表を飾る肖像の候補に挙がったが、今回ついにデビューとなった。


Wikipediaから
お札の写真よりもこちらの方がいいと思うが...


 渋沢の実業家としての理念、哲学を表す著作がある。1916年(大正4年)に「論語と算盤」を表した。そこで「道徳経済合一説」を唱えている。曰く、

 「富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。」
 「事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。」
 
 すなわち西欧流の、人間の欲望の赴くままに動けば「神の見えざる手」が経済を回してくれる(レッセフェール)、あえて言えば私利私欲が基盤となっている「資本主義」観念とは異なる、明治日本的な仁義道徳的「資本主義」を唱えた。私企業における事業活動の持つ公益性、事業家に求められる道理・道徳。資本主義に内在する矛盾を乗り越える理念と知恵を訴え実践した。この中華文明のレガシーである論語の観念と、西欧文明のレガシーである資本主義の観念を合一したところに、日本の歴史の底流に流れる「外来文明の受容と変容」の一種の典型を見ることができる。さらには経済や経営の「理論」を「道」に仕立ててゆく典型がここにも表れているように思う。この頃の日本人の教養や知性の背景には論語があり、仁義道徳をわきまえた教養人でなければ偉大な政治家にも実業家にも官僚にも軍人にもなれない。そうした実践は容易なことではないが、そんな基礎的な素養が当然のように求められて時代であった。折しも同じ日に保釈中の我が身についてビデオを通じて自己主張をした元経営者がいる。現代においては自己主張は否定されるべきものではないが、そこには仁義道徳に裏打ちされた主張がなければならない。洋の東西を問わず、会社の金を私物化して、「道理にかなわぬ」ことを「自己のために」やっておきながら、「陰謀だ」と喚いているようにしか見えないのでは人々を納得させることはできない。渋沢の「道徳経済合一説」をこの自動車会社中興の祖といわれた元トップに聞かせたいものだ。どこかで「道」を間違えてしまったのだろう。こうした精神的なバックボーンが失われた時代にこそ、渋沢の経営哲学と実践を改めて学ぶべきであろう。

 渋沢はまさにそうした明治の教養人であり知識人であった。そういう素養を持った実業家であった。そしてそれを実業の中で実践した。彼は論語を読み、漢詩を詠み、書籍を丹念に収集しそれをのちに青淵文庫に収めんとした。残念ながら建物はできたが、収蔵すべき論語集は関東大震災で焼失してしまった。彼の考え方、合理性、精神性の基礎にあった論語の体系が消失してしまったこと、そして文庫という建物だけが残ったこと。これらが戦後のポスト渋沢時代を暗示する出来事のように見えるのは考えすぎだろうか。


 さて、そろそろ「旧渋沢庭園」散策に話を移そう。

 1879年、渋沢は飛鳥山の地に賓客接待用の別邸を構えた。敷地面積は28,000平米あり、庭園内を整備しここを「噯依村荘(あいいそんそう)」と命名した。庭園内に、日本館、西洋館、茶室、文庫などを建設した。渋沢は1901年からはここ飛鳥山の邸宅に移り住み、1931年91歳で亡くなるまで本邸として使用した。1945年4月の空襲により、建物の多くを焼失したが、青淵文庫、晩香廬などが残った。現在は、旧渋沢庭園に隣接する飛鳥山公園に渋沢史料館が開館され、彼の生い立ちや業績を偲ぶことができる。


渋沢史料館

 青淵文庫(せいえんぶんこ)(国指定重要文化財):

 1925年竣工。設計:中村/田辺建築事務所。施工:清水組

 渋沢の傘寿の祝いと子爵昇格の祝いに竜門社(現在の公益財団法人渋沢栄一記念財団)が贈呈した建物。ちなみに青淵(せいえん)は渋沢栄一の雅号。渋沢のコレクションである論語を中心とした漢籍を収める文庫として建設された。煉瓦構造、鉄筋コンクリート構造の二階建で、鋼鉄製の書架などを備える堅牢かつ荘厳な建築物となっている。外装や内装には渋沢家の家紋をモチーフにしたオリジナルタイルがふんだんに用いられている。窓にはガラスのパッチワークで「寿」「竜」「柏の葉」がデザインされた凝ったつくりになっている。閲覧室内部は、チーク材を床や壁面、ドアに用いた荘厳なしつらえである。1923年(大正12年)の関東大震災で建設中の建物も被災し、さらには保管先で論語やその他の漢籍が焼失してしまう。渋沢にとっては無念極まりない出来事であった。その後再建された文庫は、収められるべき書籍を失い、賓客の接遇用に使われた。一階の閲覧室は美しいステンドグラスの間で、図書閲覧室というよりは応接スペースというたたずまいである。二階の書庫は公開されていないが書架があるそうだ。二階へ上がる階段は螺旋階段となっており、失われたとはいえ渋沢の「和魂洋才」の基礎たるべき「和魂漢才」の殿堂へと誘うワクワクするような時空ゲートになっている。

旧渋沢庭園のアプローチ
正面ファサード

家紋をデザインしたタイルとステンドグラスの凝った造り

一階閲覧室エントランス
重厚なドアのリフレクションが美しい





「寿」「竜」「柏の葉」がデザインされている

閲覧室に装備されている電気ヒーター




一階閲覧室全景

二階の書庫へ通じる螺旋階段

折からの桜が満開

旧庭園の遺構



晩香廬(ばんこうろ)(国指定重要文化財):

 1917年竣工。設計:田辺淳吉。施工:清水組

 1917年、渋沢の喜寿の祝いに清水組(現在の清水建設)が贈呈した洋風茶室。清水組が経営顧問としての渋沢の貢献に感謝しての寄贈であった。名前の由来ははっきりしないが、渋沢の漢詩の一節から採ったとも。また「バンガロー」の当て字だとも。主に賓客をもてなすために利用された。庭園内には和風茶室「無心庵」があったが戦災で失われた。こちらは裏千家流の茶室で益田鈍翁の弟で茶人の益田克徳の作であるといわれる。その待合い「邀月台(ようげつだい)」(焼失)からは、渋沢が創立した王子製紙の工場が展望できたという。それにしても洋風茶室とは珍しい。とは言っても茶室が中にしつらえられているわけではなく、暖炉のある談話室である。木造平屋建てのこじんまりした建物であるが、細部はとても凝った意匠が施されている。内部は栗の木とレンガ風タイルを用いたインテリアで、照明器具や火鉢にいたるまで遊び心に溢れた小物で満たされている。残念ながら内部は撮影禁止のためここでは紹介できない。


晩香廬




桜花舞い散る

庭園の桜の樹
向こうには茶室「無心庵」、「邀月台」などがあった