2019年8月2日金曜日

太宰府ヒーロー物語(その2)吉備真備の巻 〜おっと誰か忘れちゃいませんか?〜


吉備真備像
倉敷市真備町HPより



 6月のブログで「太宰府ヒーロー物語」と称して菅原道真と大伴旅人を取り上げた(2019年6月23日「大伴旅人と菅原道真 〜二人の太宰府ヒーロー物語〜)が、大事なヒーローをもう一人忘れていた!そう、吉備真備である。大宰大弐として10年も太宰府に赴任していたのだ。だが吉備真備⇄太宰府という線があまりピンとこない感じがする。こんな古代史上の重要人物が太宰府と深い関わりがあるなどとあまり考えなかったのは何故なのだろう。地元でも吉備真備を太宰府ゆかりの人物だと認識されていないように思う。大宰府にとって菅原道真は言わずもがなの別格としても、大伴旅人は大宰府官人としてというよりも万葉歌人として記憶され、あるいは最近では新元号「令和」ゆかりの人物としてクローズアップされているが、さて吉備真備と言われて、ああそれは、と言い出す地元の人はいるのだろうか。単に私の不勉強のせいなのか。岡山県倉敷市真備町(昨年の集中豪雨で甚大な被害を被ったことで人々に記憶されることになった)では疑いもなく地元のヒーローであるが、太宰府でもヒーローであることを証明できないものか。改めて吉備真備を加えた「大宰府ヒーロー物語」を書き直してみた。

 大伴旅人と菅原道真の二人が都の毛並みのいい有力氏族の出身で、中央官僚であったのに対し、吉備真備は吉備国の出身(現在の岡山県倉敷市真備町出身の偉人だ)で、地方豪族である下道(しもつみち)氏の末裔である。姓は下道朝臣、のちに吉備朝臣。地方官僚から都に出て位人臣を極めて右大臣にまで上り詰めた立志伝中の人だ。しかし、その人生は波乱万丈。歩んだ出世街道は険しい坂道、そびえる高山、嵐の大海の連続であった。律令官僚として中央(平城京)と海外(唐)と地方(筑紫)勤務を繰り返しながら、先進国唐で学んだ先進知識と経験を生かし、都の政変もあって中央官僚として破格の出世を果たす。今のサラリーマン出世物語を彷彿とさせるその人生。何か親近感すら覚える。彼はその出自が高位の家系の出ではないが、洋行帰り(いや遣唐使)、海外留学帰りのインテリ。先進国で最新の行政、軍事、政治思想を学び、しかも、机上の学問、本の上の知識だけではなく、実際に唐で官僚として実務を経験した。阿倍仲麻呂同様、玄宗皇帝にその才能を認められ、なかなか帰国の許しが出なかったという秀才、能吏であった。「吉備大臣入唐絵巻」には真備の唐における超人としてのエピソードが描かれている。

「文選」の難問を出されると、空を飛んで講習所へ行き、全て暗記して戻ってきて中国官人を驚嘆させた

中国の官人相手に初めてやる碁の勝負に勝った


 吉備真備の略歴

716年、阿倍仲麻呂、玄昉などともに21歳の時に遣唐留学生となり717年渡唐。
唐に滞在すること18年。多くの典籍や文物、そして知識を携えて735年種子島に漂着。帰国を果たす。
735年、帰国後は聖武天皇、光明皇后に寵愛される。
738年、藤原北家四兄弟の相次ぐ天然痘による死亡で、橘諸兄が右大臣として権力を握ると、一緒に帰国した玄昉とともに重用される。
740年、こうした異例の出世を疎ましく思う藤原一族の、真備と玄昉の排除を目指した藤原広嗣の乱(太宰府で挙兵)が起きるが平定される。
741年、阿倍内親王(のちの孝謙天皇、称徳天皇)の家庭教師(東宮学士)として漢籍を講義。
743年、孝謙天皇即位。このころ藤原仲麻呂が重用されて橘諸兄、真備、玄坊と対立。諸兄の失脚。
750年、筑前守、翌年肥前守へ左遷。玄坊は745年筑紫観世音寺別当に左遷。そこで殺害される。
751年、遣唐副使に。752年再び唐へ。阿倍仲麻呂と再会。帰国に際して幾多の遭難の末、鑑真を日本へ連れ帰ることに成功。しかし、中央政界では活躍の場を与えられず筑紫太宰府に留め置かれる。
754年、大宰少弐、さらに同年大弐へ昇進。
764年、造東大寺司に任じられて70歳で帰京。同年に発生した藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)を中衛大将として鎮圧。
766年、中納言、続いて大納言に昇進。さらには従二位/右大臣にまで昇進した。称徳天皇と道鏡の治世下であった。地方豪族出身としては破格の出世。学者からの大臣にまで昇進したのは真備と菅原道真のみである。
光仁天皇即位後、老齢を理由に辞職を願い出たが、天皇は中衛大将に辞任は許したが、右大臣は慰留した。
771年、官界を引退。
775年、薨去。享年80歳(当時としては長寿)。



 以下に、改めてこの三人のヒーローを、大伴旅人、吉備真備、菅原道真と時代順に、それぞれの太宰府をめぐる人生と任地との繋がりを再整理してみたい。


 大伴旅人 (665年〜731年)

1)大宰府での地位:
大宰帥(最高位の長官)
このころの大宰帥は実際に大宰府へ赴任する地方長官であった。大宝律令が完成し律令制が確立した時期で、地方最大にして西海道と対外関係を一手に管轄する大宰府は律令官制の中でも重要なポジションであった。次官は権帥(ごんのそち)ないしは大弐(だいに)で、旅人の時の次官は太宰大弐紀男人である。ちなみに山上憶良は筑前国守であった。息子の家持はのちに767年に太宰少弐に任官した。
2)中央政権での地位:
720年征隼人持節大将軍として九州へ下向。724年正三位中納言。729年の「長屋王の変」で高位高官が次々に滅したため、大納言に昇進し730年中央へ帰任。
3)出自:
大伴氏は飛鳥を拠点とする軍事豪族の系譜。神話の世界の時代にまで遡る名門氏族である。
4)太宰府への赴任時期:
728年、60歳の時に太宰府赴任。730年までの二年間。
5)太宰府での居住地:
政庁付近の帥居館(現坂本八幡宮、ないしは月山官衙跡と伝承されている)
6)太宰府での事績:
万葉歌人として多くの和歌を詠んだ。山上憶良、沙弥満誓等の筑紫万葉歌壇の中心。太宰府赴任には妻を伴ったが在任中にこれを亡くし、悲しむ歌を多く残している。大伴家持の父である。家持も太宰府へ同行し、少年期を過ごしたという説もある。だとすると万葉集巻の五の「梅花の宴」に幼き家持も同席していた可能性がある。のちの万葉集後期の編纂に関わった大伴家持の歌心に太宰府での生活はどのような影響を与えたのだろう。先述のように家持自身ものちの767年に大宰少弐としてかつての父の任地へ赴任している。家持の越中国守時代の万葉集撰録にあたっての事績が多く語られているが、その根底にあったのは多感な少年時代の太宰府での経験であったのだろうか。こうした研究もまた興味深い。

 吉備真備(695年持統天皇〜775年光仁天皇)

1)太宰府での地位:
大宰少弐から大宰大弐に昇進。このころの大宰帥(長官)は都にいて現地へ赴任しない遥任官。したがって大宰大弐は次官であるが実質的な現地トップであった。遣唐副使としての渡唐帰国後、直ちに太宰府に赴任。この時すでに齢60歳であった。以前に筑前守、肥前守として九州に赴任した経験を持つ。
2)中央政権での地位:
従二位/右大臣。学者(東宮学士)、軍事専門家(中衛大将)としても重用され、聖武天皇、孝謙天皇/称徳天皇重祚に取り立てられて地方豪族出身としては異例の大出世を遂げた。
3)出自:
地方豪族の系譜で吉備国下道氏の子孫。上級名門氏族出身ではないがのちに中央に出て下道朝臣、吉備朝臣へ。
4)太宰府への赴任期間:
唐からの帰国後の754年〜764年の10年間。60歳になっていた。旅人よりも道真よりもはるかに在任期間が長い!
5)太宰府での居住地:
不明である。伝承もない。
6)太宰府での事績:
続日本紀によれば、怡土城の築城と筑紫防衛網の整備を行った。先述の通り、遣唐副使として渡唐後、帰国したものの都には戻されず、太宰府に留め置かれる。754年に大宰大弐に任官。都で権勢を振るう藤原仲麻呂政権の左遷人事とも言われるが、当時の朝廷にとって最大の国防、外交問題であった、唐の「安禄山の乱」の情報収拾、有事対応、新羅対策のため海外事情と軍事戦略に秀でた真備に太宰府で国防最前線の指揮をとらせたと考えられる。今も糸島の高祖山に真備が築城した怡土城趾があり、その中国式築城技術による土塁、石垣の遺構が残っている。これ以外にも筑紫に多く残されているいわゆる「神籠石」は、こうした防衛上の山城の遺構ではないかと言われている。また大宰府の官人教育機関である「府の学校」「学校院」の整備を行ったのは真備であると伝えられている。筑紫に残る真備に関する遺構はこれくらいだ。真備は記録上は太宰府に10年在任していたことになるが、その割には旅人や道真に比べ彼にまつわる史蹟、伝承が少ない。どんな生活を送ったか、人々との交流はどうであったかというエピソードも伝わっていない。真備の唐における超人伝説や平城京での活躍ぶりが後世に伝わっているのに比べると大宰府時代の10年はまるで空白の時代に見える。不思議なことだ。日本古代史上の重要人物の一人である吉備真備と太宰府という繋がりが想起されにくいのはこのためだ。ちなみに真備とともに唐に留学し、745年に造観世音寺司として太宰府に左遷され、観世音寺落慶法要の時に殺害されたという玄昉の墓は太宰府観世音寺境内に残されている。そしてその彼の死にまつわる怪奇ホラーストーリが語り継がれている。


 菅原道真(845年〜903年)

1)太宰府での地位:
大宰権帥(次官)実際には「大宰員外帥」
このころの太宰帥(長官)は皇族の王が受任する地位であり、みやこにいて太宰府へ赴任しない遙任ポジションであった。道真は大宰員外帥、すなわち出仕もしない、部下もいない、報酬もない左遷ポジションとしての権官であった。居館は与えられたがみすぼらしい廃屋で哀れな日々を過ごしたと伝わる。この頃は律令制が徐々に形骸化しはじめ大宰府の律令制地方官衙としての権力(租庸調の徴税権、徴発権など)や中央集権的な権威も薄れ始めていた。また、いみじくも道真が提言した通り唐の衰退に伴い「遣唐使」は取りやめになった時期である。対外交易は「遣唐使」ではなく大宰府の外港としての那の津(博多)、筑紫館(鴻臚館)中心に、官制先取り貿易、さらには商人同士の私貿易に移りつつあった。中央の律令的権威よりも、海外交易利権が太宰府を富の源泉になっていく過渡期とも言える(のちの939〜941年の藤原純友の乱は大宰府の富を狙って襲撃してきた)。もちろん道真はそのような利権に関わることも関わる気もなく、ひたすらに自宅で謹慎し、自分の無実と天皇への忠誠を天拝山で訴え続けて一生を終えた。
2)中央政権での地位:
宇多天皇、醍醐天皇の寵臣にして従二位右大臣。亡くなってから贈正一位太政大臣。若い頃には讃岐国の国主への赴任も経験した。左大臣藤原時平の讒言により太宰府へ左遷。
3)出自:
奈良菅原の里を故郷とする学者家系 文章博士。母方は伴氏で大伴旅人や家持と血族関係にある。
4)太宰府への赴任時期:
901年太宰府へ。903年太宰府で逝去(享年59歳)
5)太宰府での居住地:
朱雀大路南の府の南館(現在の榎社)
6)太宰府での事績:
太宰府下向時に歌った「東風吹かば匂いおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」が有名。府庁へは出仕せず自宅に蟄居して「不出門」など漢詩を詠んだ。天拝山での無実の訴え登山が伝承されている。太宰府下向時に二人の幼い子供を伴った。隈麿と紅姫であるが、隈麿は翌年急逝。紅姫は道真公逝去ののち、道真公の長男を頼り土佐へ去ったとも、非業の死を遂げたとも伝わるが不明。榎社に紅姫供養塔がある。隈麿の墓と伝えられる石碑が榎社の南東の住宅街の中にある。菅原道真の遺骸を牛車で運ぶ途中、牛が立ち往生して動かなくなったところを埋葬地とし、そこが安楽寺となった。その後安楽寺天満宮が創建され、それが現在の太宰府天満宮となった。したがって天満宮本殿地下に道真公が今も埋葬されている。また現在の宮司西高辻家は道真公の末裔である。みやこに天変地異が起こり菅原道真の祟りであると恐れられて、北野天満宮が祟り封じに創建された。


 こうして振り返ってみると、太宰府という舞台で、旅人は万葉歌人として、道真は天皇への忠義に殉じた悲劇の主人公としてロマンの世界を生き後世に語られることになった。一方、真備はインテリ官僚として、東アジア戦略の最前線で対外戦略参謀として現実の実務の世界を生きた。この違いが真備の印象が庶民に縁遠いものになったのかもしれない。続日本紀のような中央の正史にはその名が記述されているが、旅人や道真のように太宰府滞在中の個人的な心情やエピソードは残されていない。また真備は道真と並ぶ大学者であったが、彼の和歌や漢詩があまり残っていないことも影響しているのかもしれない。同時期に渡唐した阿倍仲麻呂が多くの和歌、漢詩を残しているのに比べても不思議なほどである。ましてこのころの官人にとって詩歌は基礎的なコミュニケーション能力として必須であったことを考えると不可解である。出身地の真備町には漢詩の石碑があるそうだが、少なくとも太宰府には歌碑はない。ともあれ、この三人の太宰府ヒーローが太宰府にたどり着くまでの経歴と、その後の経歴、任地での事績を振り返ってみると、律令官僚の転勤人生と立身出世街道、その中での権力闘争とそれに伴う左遷人事、そこからの復活劇など、現在のサラリーマン(公務員であれ会社員であれ)の身に置き換えてみても他人事とは思えない。そこには「宮仕え」の栄光と挫折の物語が読み取れる。この三人はいずれもそれなりの高位高官を極め、歴史に名を残した人々であるが、その陰には歴史の表舞台に登場しない、下級官僚や防人のような無名の多くの転勤族「サラリーマン」や地方勤務「サラリーマン」諸氏がいて、それぞれの人生に喜怒哀楽の物語があったに違いない。この辺りは旅人の息子、家持が越中や筑紫などの地方勤務時代に撰録した万葉集の「詠み人知らず」「東歌」の和歌にその心情を垣間見ることができる。

「大宰府ヒーロー物語」はまさに今に通じるサラリーマンヒーロー物語である。「太宰府支社長OB会」レポートはまだまだ続く。



福岡糸島半島の背後にそびえる高祖山(たかすやま)
怡土城が築かれた

麓には高祖神社
この周辺に怡土城の土塁が残っている

怡土城の説明板


100年前に天智天皇の命により構築された大野城、基肄城などが朝鮮式であったのと異なり、真備の指揮のもとに中国式の築城方法で築かれた。

伊都国は、魏志倭人伝に記述のある邪馬台国女王卑弥呼の出先である「一大率」(のちの「大宰帥」の原型か?)が駐在した国である。このころから大陸との交流の窓口として重要な拠点であった。あれから500年後の大宰大弐真備の時代にもその地政学的、戦略的重要性は変わらなかった。

怡土城の土塁跡