2019年8月15日木曜日

「征韓論」はなぜ起きたのか? 〜終戦の日に寄せて〜

 今日8月15日は終戦記念日である。令和になって初めての戦没者慰霊祭で新天皇皇后両陛下が哀悼の意を表された。日本人だけでも300万人以上の犠牲者を出した先の戦争、アジア太平洋地域諸国に甚大な被害を与えた先の戦争。不戦の誓いも新たに猛暑の一日を祈り過ごす。

 この日はお隣、韓国では日本からの独立を果たした記念日「光復節」である。最近のギクシャクする日韓関係。戦後最悪の事態になっている。韓国大統領文在寅の日本に向けての姿勢、発言に対する日本政府(安倍政権)の反応を見ていると、明治3年(1870年)に明治新政府が直面した朝鮮の開国と条約締結に向けての議論を思い出す。すなわち日本の条約締結打診に対し朝鮮側はこれに激しく反発し、鎖国攘夷の堅持、日本排撃の姿勢を鮮明にした。これに明治政府が、朝鮮は近代化に背を向け、国際的なルールを受け入れず、無礼な「人治主義」国家だとの認識を抱いた瞬間だった。それが今の日本政府の、韓国はいつまでも「反日」国是で未来志向でないし、過去に約束したことを守らない、国際法を守らない(「法治主義」国家でない)国だ、という反応につながっているように感じる。これまでの数々の無礼にはもはや忍耐や寛容さは通じない、何らかの制裁を課すべきだ(アレは制裁ではないと言っているが)というわけだ。歴史は繰り返す。まさに明治の征韓論と同じ反応だ。韓国の「反日」史観、日本の「嫌韓」史観。これはどういう背景から生まれたのだろう。このセンシティブな問題。少し頭を冷やして歴史を振り返ってみたい。

 征韓論はなぜ起きたのか?

 日本が開国し、西欧流近代化を受容し、推し進めていた時、朝鮮はまだ鎖国していた。朝鮮王朝(李氏朝鮮)は清国に朝貢し冊封を受けるいわば清国の属国であった。古代そのままの東アジア的秩序に身を委ね、通交していたのは宗主国の清国とまだ鎖国していた日本だけであった。そこへ鎖国政策を捨てて開国し西欧流の「近代化」に突き進む日本から、朝鮮も開国して日本と条約を結ばないか、と提案して来た。これに対し朝鮮王高宗の父で実質的権限を振るっていた大院君は、鎖国攘夷を堅持すると回答。「日本の無礼な申し出である条約は断固拒否する」と回答。日本人を見つければ処刑するとさえ宣言した。これが時の明治政府(岩倉使節団が欧米外遊中の留守政府)の怒りを買い、「無礼はどちらか!」朝鮮を武力で征伐すべし、となったわけである。

 この背景には、朝鮮王国はあくまでも清国の朝貢冊封体制にある国(すなわち古代から中華世界の一員である)で、西欧諸国およびこれらに追従する国と通交を結ぶつもりはない。そもそも中華世界(東アジア世界)において皇帝は清国皇帝一人なのに、日本の王が皇帝(天皇)を名乗って朝鮮に通交を求めてくる、これはとりもなおさず朝鮮王が日本の天皇よりも下であることを主張しているに他ならない。「無礼」であろう、という反応である。この話、この時を遡ること1400年ほど前、聖徳太子が遣隋使小野妹子に持たせた隋の皇帝煬帝に当てた上表文「日の出るところの天子、日の没するところの天子に云々」を見て煬帝が「なんと無礼な野蛮人だ」と激怒したエピソードを思い出させる。「世界に天子は俺一人だ。何勝手に倭人が天子を名乗っているんだ」と言うわけだ。この、なんと2000年続く華夷思想的世界秩序観を朝鮮側が持ち出すと言う、極めて時代錯誤な反応であることは言を俟たない。しかし、つい20年ほど前までの徳川幕府の鎖国政策も、そして維新の志士たちの「尊王攘夷」も、同じような西欧列強に対する排外的世界観であったことを考えると全く理解できないでもない。しかし、時代はそんな中華秩序、旧体制のレガシー(朝貢/冊封、鎖国攘夷)を守っていける時代でなくなっていることは火を見るよりも明らかであった。まして、王族や両班以外、ほとんどの人民は封建時代さながらの農奴のような生活に甘んじている朝鮮王国にとって、当時の日本以上に国の開国近代化による経済/政治体制の構造改革は必須であったはずだが、それだけに朝鮮の支配階級には恐怖にも似た恐れと戸惑いがあった。

 一方でなぜ明治政府は朝鮮に開国、通交を求めなければならなかったのか。朝鮮問題がなぜ政権を揺るがすほどの重大問題だったのか。自国が開国したからといって隣国の開国、近代化という他国の在りように口を出すのは「大きなお世話」であったのだろうか。実は新生日本にとって事態は緊迫していた。まず(1)宗主国である清国が欧米列強の植民地化で、弱体化し、国内外の統治能力を失っていたこと。すなわち清国の朝鮮統治の不安定化に大きな危惧を抱かざるを得ないこと。(2)その清国の弱体化というパワーバランスの間隙をついてロシアが朝鮮半島への進出を露骨に進めていたこと。この二つである。欧米諸国に不平等条約を結ばされ、開国したばかりでまだ国力も弱小な日本にとって、自国の富国強兵、殖産興業も緒についたばかりで、その独立維持に大きな不安が払拭できない時期であった。そこへ朝鮮が清国からロシアの支配下に入り独立が脅かされるということは、対馬海峡を隔てた日本の国防ラインが一気に欧米列強国の脅威にさらされることを意味する。これは看過できない問題であった。幕末、維新の騒乱の中であれほど恐れた欧米列強諸国による植民地化の危機は取り除かれていなかった。東アジア地域安全保障の上からもいち早く朝鮮の独立の確保、日本との和親条約の締結、そして近代化が求められたのだ。単に「無礼」だから云々の問題ではなかったのだ。一方で清国の弱体化に伴う満州(中国東北部)へのロシアの進出も大きな懸念材料であった。こうした事態に朝鮮王朝内部には、宗主国である清国にべったり依存していこうという守旧派と、これに対抗する親露派が台頭し始めており争いが生じていた。さらにはこれを危惧する近代化推進派(いわば親日派)が現れ、三つ巴の争いで収拾がつかなくなっていった。こうした内紛に外国勢力を引き込むのは朝鮮半島の歴史的な宿痾と言って良い。古代朝鮮三国(高句麗、百済、新羅)の抗争以来繰り返されてきた伝統的な外交・安全保障戦略だ。こうした隣国の事態に、維新を進めた西郷隆盛や江藤新平、板垣退助らは、朝鮮も(日本のように)西欧流の近代的な法治国家に脱皮して、儒教的な中華世界観とは決別しなければならない。欧米列強に対抗するには、もはや時代を逆戻りできないところへ踏み出してしまったことを朝鮮にも理解させるべきである。と主張したわけである。しかし、朝鮮王高宗の父、大院君は頑強に鎖国(中華体制にとどまる)と攘夷(日本人を含む外国人排撃)を主張した。しかも大日本帝国「天皇」を「無礼者」呼ばわりしたのだから明治留守政府が感情論になるのも仕方がない。しかし、この問題はそうした感情論では済まされない事態であった。朝鮮の開国、清国/ロシアからの独立の確保、そして近代化という隣国の在り方が「大きなお世話だ」と言えない事情が、日本側にもあったことは先述の通りである。朝鮮半島問題は、7世紀の唐新羅との白村江の敗戦以来の日本に染み付いた伝統的な国防意識の記憶の延長であった。

 しかし、岩倉、大久保、木戸などの欧米視察団が戻ると、今は征韓論に関わって海外出兵している場合ではない。国内の富国強兵、殖産興業、そして不平等条約改正に注力すべき時期だと反対した。結局天皇の聖断を得ることはできず、西郷の朝鮮派遣は棚上げされてしまった。そして西郷、江藤、板垣らは下野して(明治6年の政変)、佐賀の乱、西南戦争へと展開していくことは既知の通りだ。結局は明治8年(1875年)の「江華島事件」による軍艦砲撃で、朝鮮王朝側はたちまち日朝修好条約締結へと舵を切ることとなる。かつてやられた米ペリー艦隊による砲艦外交を、日本も朝鮮に対して行ったわけだ。しかし、この「朝鮮問題」への取り組みはこの後の日本の外交政策、安全保障政策の根幹となる。まさに日清戦争も日露戦争も朝鮮をめぐる戦争であった。欧米列強の介入の排除、弱体した清国支配の不安定化の除去。ロシアの南進野望の排除が日本の地域安全保障、すなわち「朝鮮半島問題」の核心的課題であった。さらに日露戦争の結果として満州への進出、満州事変。辛亥革命後の混乱の中国への介入、日中戦争。そして資源確保の観点から東南アジア、太平洋地域への戦線の拡大、そしてアメリカとの軍事衝突(太平洋戦争)へと突き進んでいった訳だが、この歴史を振り返ると、スタートは「朝鮮半島問題」であったことに気づく。日清戦争の勝利による清国の朝鮮半島への影響力の排除。日露戦争勝利によるロシアの朝鮮半島、満州への進出排除を経て、1910年には、いわゆる「朝鮮(韓国)併合」へと向かい、明治政府の長年の懸案がひとまず区切りを迎えることになった。当初は植民地支配を狙った「併合」を目的としたものではなく、地域安全保障を狙った朝鮮(この時点では大韓帝国)の独立、その過程としての保護国化、「合邦」(大日本帝国と大韓帝国の連合。大英帝国的な連合王国?)であったと言われている。大英帝国やアメリカもこの日本の朝鮮半島政策を支持していた。政界の元老、伊藤博文も「併合」には反対し「合邦」論者であった。しかし、皮肉にも彼が安重根に殺されたことで「併合」論が一気に進んだと言われる。しかし結果的には大韓帝国は消滅し大日本帝国に取り込まれ、韓国民の皇民化を進めたことは間違いない。そしてこれが戦後の日韓関係、日朝関係に大きな影を落としたことも否定できない。

 これまでの両国の歴史背景を振り返ると?

 両国の長い歴史を振り返ると、古代以来、朝鮮半島諸国は海の向こうの日本(倭国)に様々な利害関係と大いなる関心を持ってきた。半島国家としての地政学的な宿命とも言えるが、一方に中華王朝が支配する強大な帝国があり、漢帝国時代には植民地(楽浪郡、帯方郡)であり、独立したのちも時には保護を受けたり、時には侵略されたり。基本的には長く「朝貢冊封体制」に組み入れられてきた。また9世紀頃まで半島内では常に高句麗、新羅、百済の三國が争っていた。そうした中で、三國は中華王朝の栄枯盛衰、興亡を睨みつつ、ある時は倭国(日本)を味方に引き入れ、ある時は敵に回しつつしたたかな外交で生き残りを図ってきた。こうした半島内三国の抗争の中で、自国の安全保障のために倭国をどのように自らの側に引き入れるかは重要な外交戦略の一つであった。そのためには、文化レベルの劣る「未開」の倭国を「近代化」し、強力な同盟国に仕立てることが重要であった。とりわけ百済は、倭国(ヤマト倭国)に大陸の進んだ政治制度や軍事技術、建築技術、仏教などの思想を積極的に注入した。一方の新羅も対百済戦略の一環として、積極的に倭国(チクシ倭国)との交易や軍事的紐帯の確保に努めた(筑紫君磐井の戦争の背景は、百済対新羅の争いであった)。かたや倭国も朝鮮半島にただならぬ関心を持ってきた。中華文明のフロンティア、大陸先進文化の供給コリドーというだけでなく、資源の供給、安全保障上の重要地域としても認識していた。もともと弥生時代、稲作農耕が大陸から列島に入ってきた時から、倭人たちは鉄資源を朝鮮半島(南部の伽耶地域)に求めてきた。このころは今のような国民国家概念も国境概念もないのだから、海峡を隔てて半島住民も、列島住民も自由に通交していただろう。帰化人とか渡来人という概念もなかった。さらに先述の三國間の抗争に巻き込まれていった。こうした時代背景から、朝鮮半島側からの対日史観は、文明の先進国朝鮮(兄)が後進国倭国/日本(弟)を教化してきた歴史と捉えてきた。しかし、これは19〜20世紀の大日本帝国の対朝鮮半島史観と同根であると言える。なぜなら、あくまで自国の安全保障のための「近代化」であり「教化」であるからだ。攻守所を変えて歴史は繰り返すのである。

 4世紀後半になると倭国は半島の戦乱に大きく関わるようになる。倭王権(といってもまだ列島内に統一王権があったわけではなくどの地域の倭人勢力なのかは不明だが)が百済の要請で朝鮮半島に出兵し高句麗との戦いに参加していったこと。5世紀には列島内を武力で統合しつつあった倭の五王(ヤマト王権であろう)が、朝鮮半島諸国への影響力強化を狙って中華皇帝にし朝鮮支配権(軍号)を求めたこと(晋書、宋史)。朝鮮の正史「三国史記」や好太王碑文に、倭国は高句麗と戦い敗退したが、百済、新羅を朝貢国にしたこと(実際には朝貢冊封関係ではなく相互の贈答による外交関係であったろう)。7世紀には新羅に滅ぼされた百済の救済、復興のために唐・新羅連合軍との戦いで白村江に出兵し大敗したこと。中国、朝鮮半島での混乱のたびに大量の難民を受け入れたこと(これがのちに渡来人、あるいは帰化人と呼ばれた)。さらには8世紀に編纂された日本側の正史「日本書紀」には神功皇后の三韓征伐のエピソード(史実であるかは疑問だが)が記述されていること。白村江の敗戦、半島からの撤退以降、16世紀の豊臣秀吉の朝鮮出兵まで、日本は朝鮮半島での戦争や、支配権に関わっていない。江戸時代になると徳川幕府の「朝鮮通信使」交流が始まるが、この通信使の位置付けを双方に都合の良い解釈で、上下関係をあまり深く追求せず続けてきた(対馬藩の雨森芳洲の記録)。しかし、先述の古代史に現れる倭国(日本)の朝鮮半島への介入という歴史上の記憶、「日本書紀」に記された「神功皇后の三韓征伐」と言う説話を元に、日本の対朝鮮観は、文化的には尊敬を示しつつも、どこか「朝鮮は日本の朝貢国」「日本小中華帝国の臣下」という意識が引き継がれてきたようだ。先述の朝鮮半島側の対日史観とは真逆の歴史観である。明治以降の東アジアの情勢は、もはや朝貢/冊封などという古代東アジア的な秩序の記憶で解釈できるような事態ではないし、それを打ち破るべきとの認識から朝鮮に開国を求めたのだが、明治新政府の反応の深層にこうした「歴史認識」があったことも否めないだろう。

 東アジアの火薬庫。半島国家の宿命?

 朝鮮半島国家から見ると、周辺を大国に囲まれているという地政学的な条件のもとで、どのように周辺諸国と付き合い生き延びてゆくかは、古代より国の存亡に関わる重大な安全保障問題である。日本のように大陸から海をへだてている島国とは異なる点だ。逆に日本が海外への出兵をほとんど経験せず、対外戦争が下手で、外交にしたたかさが欠けた歴史を歩んできた理由の一つであるが、それはさておき、朝鮮半島は古代にあっては強大な中華帝国の周辺部(華夷思想でいう夷狄の地あるいは植民地)であり、一方でやがては東の海中に小中華帝国日本が勃興してくるとその狭間で呻吟する地域となっていった。近代においては朝鮮は中国、ロシア、日本、そしてアメリカに囲まれた半島国家である。バルカン半島がヨーロッパの火薬庫なら、朝鮮半島は東アジアの火薬庫といって良いだろう。先述のように日清戦争も、日露戦争も、さらには満州事変、日中戦争へと続く戦争への道の発火点は朝鮮半島であった。第二次世界大戦後の韓国と北朝鮮の分断もその象徴であるが、冷戦構造終結後もまだ分断国家として対立が継続している。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は共産主義国家というより世襲制王朝の「人治主義」独裁国家体制を一貫して維持している。韓国は、軍事独裁政権から民主化し、一部の財閥中心に経済発展したとはいえ、依然として儒教的な「人治主義」がその基底に横たわっている点では北朝鮮と同根である。「価値観を共有する」国際社会の一員として世界に貢献していくには色々な課題を抱えた国である。こうした朝鮮半島の抱える歴史的、地政学的課題と現状を、あのアメリカのトランプ何某はどれくらい理解した上で、北朝鮮の金正恩に好意を寄せているのかはなはだ心もとないが、現状はトランプ、プーチン、習近平、といった自国優先主義、強権的支配を志向する頭目がこの地域の覇権を争う構図になっている。北朝鮮の金正恩は核を弄びそんな周辺国の確執を巧みに利用してトランプを手玉に取っている。なかなかしたたかなリーダーだ。一方の韓国の文在寅は「反日」を振りかざして、それを統治権威の拠り所とし、北を世襲で支配する金王朝の代弁者のような振る舞いで、自由主義陣営のリーダーの一人としてのビジョンも自覚も持ち合わせていないようだ。日本は「拉致問題」以外は口を出せないとでも考えているのだろうか。やがて日本がお役に立つ時が来るだろう、と札束を用意して待っているに過ぎない。日本は旧宗主国として多くの利害関係者を抱える立場でもある。伝統的な外交課題であるはずの朝鮮半島の平和と安定に果たすべき役割はあるはずだ。しかし、イギリスやオランダのように「旧宗主国」と言って旧植民地から受け入れてもらえる国々と違って、「反日」が国是となっている国にはなかなかその貢献の受容は難しいだろう。欲しいのは色のついていない「金」だけだ。まさに日本の外交能力が試される。

 「反日」が国是の「人治国家」なのか?

 朝鮮統治時代の日本が朝鮮半島の開発、近代化を大きく進めたことは否定できないだろう。当時は国内の東北地方の開発に優先して、資源に乏しい朝鮮に巨大なインフラ投資や教育投資をしたと言われている。現在の韓国や台湾がアジアの経済成長リーダーになっているその基礎は日本統治時代にできたものである。さらには戦後賠償と様々な産業分野での技術支援、資本投下によるところが大きい。...というようなこと迂闊に言うと、少なくとも韓国では袋叩きにあう。知日派の韓国人や在日コリアンも韓国では排除されているのだから、まして日本人がそれを言うなよということだ。それを押しつけがましく言うつもりはない。これは古代において緊張関係にあった朝鮮半島で百済や新羅が、倭国を強力な同盟国にして自国の安全保障を図ろうと倭国に多大な投資をし、「文明国化」と「近代化」を手助けして半島の戦争に駆り出したのと根っこは同じである。どちらも「善意」による扶助ではない。朝鮮半島は台湾や満州と同様、日本にとっては戦争で獲得した重要な既得権益であり、大日本帝国発展のフロンティアであったことから、貧乏な国としてはかなり無理して大きな投資をしてきた。しかし、当初は美しい理想であった、アジアをアジア人の手で開放しようと言う「大アジア主義」も、アジアの団結と共存共栄をうたう「大東亜共栄圏」構想も、やがては大日本帝国の軍事的な拡張路線のプロパガンダに変質していった。したがってこうした投資も帝国主義的な権益保護と収奪のための投資であり、その地域の人々の発展のためにやったと強弁する事は出来ない結果となった。さらに日本がアメリカとの戦争に負けたことにより、そのような「美しい理想」は否定され、プラス評価側面は、歴史の闇に消え去り、「植民地支配」を受けた屈辱と被害の歴史だけが人々の記憶に刷り込まれる。「大東亜共栄圏」は今は看板が塗り替えられ、構想の主体が中国となり「一帯一路」と呼ばれている。歴史は常に勝者のものである。負ける戦争をした方が悪いのだ。

 戦後は、韓国では「反日」が常に為政者の統治権威と統治権力の正当性の「錦の御旗」となり続けてきた。「反日」は有効に国民を団結させるスローガンに仕立てられてきた。したがってどんなに日本が謝罪し、賠償し、和解し、二国間条約を結んで未来志向の関係構築をうたっても、政権が代わるとすぐ反故になる。約束は守られない。怨みはいつまでも蒸し返される。日韓条約に基づき日本から支払われた国家賠償金は、被害を受けたとされる元徴用工や元慰安婦には渡らず、彼らは当然ながらまだ補償を受けていないと声を上げる。その補償金は韓国政府が受け取っていて(別のことに使ってしまって)支払われていないのだから。国際法上(日韓条約)、賠償請求権は国家間で決着しているので消滅しており、韓国政府に法的支払い義務が移っているにも拘らず、韓国の最高裁判所は日本の私企業への賠償請求を認めてしまう。法治国家の独立した司法としては信じられないような判断である。そして韓国政府(行政)は口をつぐんで何も対策を打たない。あろうことか「三権分立」や「市民感情」を持ち出し司法の判断を支持する。日本というスケープゴートは支配者にとって貴重であり、問題が解決して悪玉が消滅してはならないかのようにさえ見える。そして韓国大統領はなぜか退任後は例外なく悲劇的な末路を辿ることになる。外からは見えない闇のロジックがあるのだろうか。国家間で合意した約束事、条約など国際法/国際ルールを遵守し、政権が変わっても国家として一貫してそれを守り続ける。司法権が時の政権に忖度して国際法や憲法を無視したり判断を変えたりしない。国民が国際的なルールを遵守する民主的な政権を選択する。こうした近代国家としての「法治主義」「三権分立」「民主主義」の基本的価値観が、統治者によって、あるいはポピュリズムで都合よく変わるようなことが繰り返されるようでは国家として信用は得られないだろう。法治主義よりも人治主義、理性よりも感情、近代合理主義よりも儒教的価値観(賄賂や復讐などの負の側面において)、偏狭な愛国主義が払拭できないで人々のマインドと思考回路支配しているいるようなら、国際社会の一員として生きてゆく韓国の負の遺産となろう。

 日本も明治維新後に復活した皇国史観と、小中華帝国的な隣国への眼差しを批判的に総括し改める必要がある。「神功皇后の三韓征伐」などと言う史実として検証されていない「勇ましい」物語を、隣国蔑視の根拠としたり、まして現実の外交戦略を規定する深層意識に置いておくことなどできるのだろうか。両国ともに理性的で合理的な歴史認識と理解、感情論の排除が未来志向の両国関係の構築の基本となる。感情的で偏狭な愛国主義はどこの国の国民にとっても危険だ。国の為政者が自らの権力欲と権益のためにというロジックを隠し持ちながら争う時に、こうした「反日」「嫌韓」感情を煽って国民、市民を巻き込まないで欲しいものだ。またこうしたプロパガンダが、実は問題の本質を覆い隠すことに使われることは思い出す必要がある。先の大戦で多くの人々が「愛国心」の名の下に、「国策」の名の下に犠牲になったことは忘れたわけではあるまい。これは敗者となった日本が学んだ教訓であるだけではないはずだ。市民/国民は為政者のプロパガンダや扇動に惑わされてはならない。同時に権力者が言う「正しい歴史認識」などと言う言説に惑わされてはならない。歴史とは常に勝者のものである。敗者の歴史は残されない。歴史は都合の良いところだけが、権力者を正当化することに利用される恐れがあることを常に心に留めておくことだ。我々は賢くあらねばならない。このためには権力者を監視し批判を許す自由な言論が不可欠だ。言論人:ジャーナリストの矜持が今くらい求められる時もないだろう。雑多なネット情報も賢く取捨選択できる判断能力を養うことも大事だ。でないと為政者が引き起こす国同士のいさかいから、私人として一線を画して世の中を見ることは難しくなる。国同士が喧嘩しているからといって、私人同士が相手を誹謗中傷したり憎しみ合ったりする理由は全くない。不戦の誓いはそういった私人の目線に立ち返る事から始まる。


撮影機材:Leica M10-P + Smmilux-M 35mm f.1.4 ASPH
先の大戦で命を落とされた多くの方々への鎮魂の祈りを込めて