河内と大和の間にそびえる生駒山 カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)は生駒山麓の河内の草香江から大和に攻め入ろうとしたが、ニギハヤヒ(饒速日)の支配下にあった土豪ナガスネヒコ(長髄彦)の抵抗を受け敗退する。 ちなみに現在の東大阪のあたり(画面左)は当時は「河内湾」ないしは「河内湖」という汽水湖であった。 (伊丹空港への着陸ルート直下に見える) |
金の鵄に導かれてナガスネヒコを破り、カムヤマトイワレヒコは大和に入った |
古事記と日本書紀の違いは?
日本に残る最古の文字で表された歴史資料と言われる古事記と日本書紀は、両方ともほぼ同時期、8世紀初期に成立した。古事記、日本書紀ともに681年に天武天皇の命により編纂開始。古事記は途中の中断を経て711年元明天皇に献上された。日本書記は720年に元正天皇に献上された。両方を合わせて記紀と呼ばれることが多いが、その成立の経緯、編纂の意図、また内容には違いがある。また、日本書紀は平安時代以降も朝廷で基礎的な教科書として定期的に読み習わされ、天皇始め宮廷官人の基礎的な素養として身につけておくべき必須科目となった。紫式部の「源氏物語」に関する一条天皇の「作者は日本書紀の知識がある」とのコメントにその一端が垣間見え、紫式部は「日本紀の女御」と呼称された。一方の古事記は、その後あまり日の目を見ることは少なく、ようやく江戸時代になって本居宣長が「古事記伝」で紹介してから急速に注目を浴びることになる。以降。古事記は国学の基礎史料で、儒教や仏教などの外来宗教や思想を排した日本古来の「やまとごころ」の定本あるいは神道の聖典とみなされ、やがては幕末維新の「尊皇攘夷思想」「王政復古」「皇国史観」へとつながっていった。この記紀の日本史における扱いの違いの背景、理由ははっきりしていないが、日本書紀(日本紀)は藤原不比等が編纂の中心にいたとされ(中臣鎌足の功績など藤原氏の朝廷における事績が述べられている)、長らく藤原氏中心の摂関政治における「定本」の位置にあった。それに対し古事記はいわば日本書紀の副読本のような扱いで、やがて忘れられてしまったのかもしれない。このように古事記は江戸時代の国学思想勃興期に宣長によって再発見され、やがて神道、皇国史観のバイブルのような役割を持たされることになった。そうした成立経緯と、その後の位置付け、そうした時代背景を考慮しながら読んでゆく必要がある。
古事記
(目的)
国内向けに天皇支配の正当性を主として氏族、豪族向けに述べた天皇の私史。
(使用言語)
漢字を用いた和語で書かれた。
(内容)
神話部分が大きなウェートを占める。天皇祭祀の由来の解説と氏族の系譜との関わりが詳細に語られている。特に出雲神話に多くの紙幅を費やしている。
中国を意識しない(朝鮮半島は天皇の支配下にあるという認識のみ)内容。
(構成)
天地開闢〜33代推古天皇まで全3巻
(編者)
稗田阿礼の誦習、太安万侶の筆記、
日本書紀:
(目的)
中国王朝を強く意識した対外向けの「日本」の正史。いわば公式文書。
(使用言語)
漢文で書かれた。編年体で記述され中国の歴史書の形を踏襲している。
(内容)
祭祀の起源を語る神話部分は少なく、神代紀においては高天原の世界が語られず、また出雲神話の言及もないなど古事記とは大きく異なる。神武天皇の東征伝承から人代紀が始まる点は古事記と同じ。また「一書に曰く」として別伝承を補足的に紹介している構成がユニークで中国の史書にもその例がない。なぜこのような補足記事を入れたのかわかっていないが、中国、朝鮮の史料を参照し引用したり、氏族、豪族の伝承に配意した可能性がある。
(構成)
天地開闢〜41代持統天皇まで全30巻系図一巻。
(編者)
川島皇子ほか六人の皇親、中臣連ら六人の官人が命ぜられて編纂開始、天武天皇の皇子、舎人親王に引き継がれて完成。しかし、書紀には序文がないため正確には記述に携わった人物や編者が誰なのかはっきりしていない。また巻によって漢文の表記が統一されていないなど、複数の書き手で分担して執筆した可能性が高い。最近の研究では和風漢文(倭人が書いた)で記述された部分(神代など)があり、正しい漢文(漢人などが書いた)で記述されているところ(歴代天皇の事績)とその差異が明確に読み取れることから、主に渡来人が執筆に関わり、その後に倭人が神代部分を中心に加筆、修正したと考えられている。
日本書紀編纂には藤原不比等(大宝律令制定に関わった)の関与が大きいと考えられている。したがって、有力氏族や廷臣に関する記述の中でも中臣鎌足の功績を大きく描いて見せたと考えられている。
「神武東征」をどう描いてるか?
関心事の「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」に関わるエピソードとしての「神武東征」伝承は日本書紀ではどのように記述されているのか。筑紫の日向の高千穂に降臨したニニギの子孫、カムヤマトイワレヒコ(神武)が筑紫を発って大和に入り、橿原宮で初代天皇(神武天皇)に即位したとする点は古事記と共通する。また大和に入る時のナガスネヒコ(長髄彦)、ニギハヤヒ(饒速日)との戦いの伝承についてもほぼ同様である。カムヤマトイワレヒコが大和に入ろうとした時に、すでに大和には、もう一人の天孫族、ニギハヤヒ:饒速日(物部氏の祖神)が、地元の土豪ナガスネヒコ(登美の長髄彦)の妹を娶り一族を従えて支配していたという。カムヤマトイワレヒコは最初、登美の草香江(現在の東大阪の生駒山麓草香江)からの大和入りを試みたが、これに抵抗するナガスネヒコ(長髄彦)との戦いに苦戦。ついにカムヤマトイワレヒコは草香江の戦いに負け、兄の五瀬命を失う。太陽に向かって東に攻めたのが良くなかったとして、迂回して熊野に周り、苦心しながらそこから吉野、宇陀を経由して地元の勢力(土蜘やヱウカシ、オトウカシ)を退治し、国栖や八咫の烏や金鵄の助けで、ついにはナガスネヒコを破り大和入りしたという話だ。
ただ古事記と少し内容が異なっている。古事記では、ニニギの筑紫の日向への降臨を知ったニギハヤヒはそれを追って地上に降臨してきたと説明している。ただし筑紫ではなく河内に天磐舟(あめのいわふね)に乗り十種の神器を携えて降臨し、カムヤマトイワレヒコより先に大和入りして待っていたとする。そして進軍してきたカムヤマトイワレヒコ(神武)を出迎え、彼を正当な天神の子孫として崇めて服属したとする。いわば従属関係にあることを語っている。一方、日本書紀ではニギハヤヒはニニギの降臨とは全く無関係に河内に降臨したとする。ニニギを追って来たのではなく、河内、大和に先住している天神の子であるとしている。ナガスネヒコがカムヤマトイワレヒコに「自分が仕えている天神の子ニギハヤヒの他に天神の子がいるのか?」と問い、カムヤマトイワレヒコは「天神の子は多くいる」と答えている。すなわち天孫降臨はニニギだけではない、有力な豪族の祖神も天から降臨した神の子孫であるという認識が述べられている。ただそのなかで最も正当な天神の子がカムヤマトイワレヒコであり、それをニギハヤヒも認め服属した。いわば先住者であるが並存関係にあったものが服属したとする。また、日本書紀ではカムヤマトイワレヒコに抵抗したナガスネヒコは、その支配者であるはずの天神の子ニギハヤヒによって殺されたとされている。こうして服属の証としたのだろう。
このように古事記では物部氏の祖神であるニギハヤヒは、神武天皇の祖神であるニニギを追って(あたかも随伴するように)河内に降臨し、大和に先回りしてカムヤマトイワレヒコ(神武)を迎えたかのような筋立てになっているが、日本書紀では降臨の後先を語っていない。その理由は先述のような各有力豪族の、自らも天孫族の子孫であるという伝承、多神教的神話(八百万の神々)の存在を認める立場をとったからだろう。しかしそれにしても、古事記では出雲のオオクニヌシ(大国主)の「国譲り」で「芦原中つ国」はアマテラス(天照)の「天津国」の支配するところとなり、筑紫にニニギが降臨して、その子孫カムヤマトイワレヒコ(神武)が東征して大和に入り日本を治めたとされ(日本書紀にはこの「出雲神話」のストーリーが出てこない)、その際有力豪族の祖神(大伴氏など)はニニギに随伴して高天原から筑紫に降臨してきたとされているのに、物部氏の祖神、ニギハヤヒだけはニニギとは別に河内に降臨したとされている。しかもカムヤマトイワレヒコ(神武天皇)に先立って大和を支配していたとされている。なぜそういったエピソードが必要であったのか。おそらく地元(河内、大和)にニギハヤヒ降臨神話が根強く残って語りつがれていたため無視できなかったのだろう。すなわち物部氏の河内、大和における先住豪族としての存在を否定するにはあまりにも誰にとっても既知の伝承でありすぎた。したがって後から入ってきたカムヤマトイワレヒコが「正当な地上支配者」であることをニギハヤヒが認め(服属し)、先住の物部氏(ニギハヤヒの子孫)を王権(天皇家)を支える有力豪族として記紀に記述することにした。これこそ「ニギハヤヒ(物部氏)による「国譲り」であったのかもしれない。古事記においても日本書紀においても、天皇の祖神(皇祖神)アマテラスを頂点とした各地の豪族、氏族の祖神の序列化とその記述には並々ならぬ苦労があったであろう様子がよくわかる一文である。
ヤマト王権成立の何を語っているのか?
これらの記紀双方の記述(神武天皇の大和入り)の背景にある事情を整理すると、なんらかの史実が浮き出てこないか、そこには初期ヤマト王権成立時の、大和盆地を巡る地域情勢が透けて見えるのではないだろうか。ニニギが「良き地」として降臨してきた筑紫をなぜその子孫は捨てなければならなかったのか。そして大陸の文明から遠く離れ、山に囲まれた「辺境の地」大和盆地をなぜ王権の地「美しき地」としたのか。この間の事情は古事記にも日本書紀にも語られておらず、東征、大和入りが安定した国を治めるための予定の行動であったかのようなストーリーになっている。おそらく記紀の編者としては中国王朝の朝貢/冊封体制に入っていた筑紫倭国(邪馬台国や、奴国、伊都国のような)とは異なる大和倭国、「天皇が支配する日本」への移行を演出して見せたのではないか。あるいは実際に筑紫の一勢力が「倭国大乱」の後に、筑紫倭国連合(邪馬台国連合)を抜けて東へ移っていった出来事の投影であったのかもしれない。しかし、大和入りの模様は比較的詳細に描かれている。大和には(出雲や吉備のようなまとまった有力勢力/国はないにしても)いくつかの先住の土着勢力がいた。その多くは土蜘(つちぐも)と呼ばれる山の民や土豪や、ヱウカシ、オトウカシなどという首領で、外来勢力から自分たちのテリトリーを守ろうと抵抗した。また、地元の神が熊に化身して「皇軍」を眠らせたりというエピソードに投影されるような数々の抵抗勢力の存在があった。その一方で「八咫の烏」や、吉野の国栖部族や、「金鵄」が「皇軍」の進軍を助けたりという、在地の同調勢力の存在を伺わせるエピソードも盛り込まれている。中でも最も強力な抵抗勢力は、先述のトミノナガスネヒコ(登美の長髄彦)である。しかも、彼は単なる土豪ではなく初期ヤマト王権成立以前に河内から大和へ移動してきた天孫族ニギハヤヒ(饒速日)と姻戚関係を結んで、その支配下にいるという。その子孫が物部氏であるとすることから、彼らがすでにある程度大和を実効支配していたのであろう。そこへ筑紫から入ってきた勢力が支配権を争った。このように大和がいまだ支配勢力が固まらない「無主の地」であったとはいえ、王権確立までには多くの地元抵抗勢力との戦いや服属、同盟の物語があったことを窺わせる。こうして大和、河内の地域勢力を固めた後、初期ヤマト王権はここを中心として「四道将軍」や「ヤマトタケル」などの「征討」伝承に象徴される全国統一事業へと進めていくこととなる。日本書紀にはそのような建国・国土統一ストーリーが描かれている。
これらのエピソードは太古の昔(西暦換算で紀元前660年頃)の伝説の天皇神武、すなわちカムヤマトイワレヒコの英雄伝として記述されているが、実際には3世紀後半の「初期ヤマト王権」成立の過程を描いたものであったと考えられる。すなわち初期ヤマト王権(三輪王朝)を開いたミマキイリヒコイニエ(崇神天皇)の物語であり、彼こそ歴史上の初代天皇(初期ヤマト王権の大王)である。彼は筑紫から大和に入り、三輪纏向の地に宮を開くまでの苦難の王権成立過程を経験した。これを後世(記紀編纂時に)、先述のような王権の東征物語として潤色し、王権(のちに天皇)の権威を神格化するために、ミマキイリヒコイニエ(崇神)の10代前の神話の世界につながる伝説の(架空の)天皇、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)を創造し、その「神武東征伝承」に投影させた。そして先住勢力のニギハヤヒの服属をその「神武東征伝承」に盛り込み、その末裔である物部氏をヤマト王権を支える有力豪族として正史に記録した。ミマキイリヒコイニエ(崇神天皇)のヤマト王権とと物部氏の間に同盟関係が成立したのであろう。またその一方で、記紀編纂の直前に起きた、記憶に新しい大海人皇子(天武天皇)の王権奪取闘争「壬申の乱」(674年)における大和入りのストーリーを重ね合わせることで、「伝説の神武東征」物語の「リアリティー」演出にも大きく貢献したことだろう。すなわち、神武天皇と崇神天皇と天武天皇の姿を重ね合わせた。日本書紀はこうした皇統の悠久の歴史と天神につながる神聖性を外に向かって語るために、「歴史上の初代天皇」崇神のはるか前に「伝統上の初代天皇」神武を置いた。
ちなみに神武以降、崇神までのいわゆる「欠史八代」の天皇は実在しないとされ、日本書紀においても事績が記録されていない。皇統の神秘性と悠久の歴史を誇り「万世一系」の天皇を伝説化するために神武から崇神までを埋めるために創作されたと考えられている。しかし、これらの八代の天皇は大和盆地西側の葛城あたりに存在の形跡があるとする研究者もある。ミマキイリヒコイニエ(崇神)の「三輪王朝」創設の前に「葛城王朝」があったとする説だ。古事記には武内宿禰の子孫、葛城襲津彦がこの辺りの有力豪族で、4〜5世紀初頭に「河内王朝」の歴代天皇の后を出して姻戚関係を持っていたとある。日本書紀にも記述があり、また雄略天皇が葛城の一言主神にひれ伏したとする伝承が記載されている。この葛城氏の祖先が「葛城王朝」の主で「欠史八代」の天皇だとする。しかし、この説は少数説で、その存在は証明されていない。この一帯に「欠史八代」の天皇の宮跡の比定地の石碑や「陵墓」とされる古墳がある。もちろんこれらは後世(江戸時代、明治以降)に山陵/陵墓比定などの事業に合わせて建てられたり治定されたものである。ただ物部氏が河内から大和に進出する時、さらにミマキイリヒコイニエ(崇神)が大和盆地に入り三輪山山麓に王権を開く時にも、大和盆地の西の葛城山麓に勢力を張っていた土豪、豪族がいて、王権の成立になんらかの関係があった可能性があるのかもしれない。今後の私の研究課題である。
日本書紀は歴史書か?
このように日本書紀は、古事記のような天皇支配/祭祀の神格化/優位性を、諸豪族に対して語る神話部分の記述に注力するよりは、対外的、特に当時の超大国中国の唐王朝を激しく意識した新生「日本」成立経緯と、天皇制(もう一つの皇帝)の神話に遡る悠久の歴史を宣言したものである。したがって歴史書としての形式は中国の史書の様式をよく学び、踏襲して「近代国家」として恥ずかしくないように漢文で(今で言えば国際公用語英語で)記述された格式高い「正史」である。しかし、歴史を研究し、学ぶものとしては、やはり徹底的な文献批判は不可欠で、間違っても記述されていることが全て史実であるように読むことはできない。古事記が国内向けの(豪族に対する)天皇の政治的宣言文書であり歴史書としての性格に疑義があるとされるが、その一方で日本書紀は国の正史であり、史実を記述した歴史書であると単純に見做すこともできない。やはり当時の東アジア情勢を反映した対外的な政治宣言の文書、国家アイデンティティーの表明の文書であるという理解で読み解いてゆくべきであろう。そういう視点から「初期ヤマト王権」はどこから来たのか?という問いに関していうと、古事記とは異なる日本書紀ならではの独自の歴史観が語られているかと言えば、必ずしもそうではない。むしろ神代紀における高天原神話や出雲神話に言及していないなど、初期ヤマト王権と国内の豪族との確執や祭祀に序列化などの国内事情は簡略化されている。一方で人代紀で蘇我宗家の滅亡、藤原鎌足の王権への貢献が喧伝されているなど、編纂に深く関わったとされる藤原不比等のいわば「藤原史観」が表明されている。天皇の起源(ヤマト王権の起源)についてより掘り下げて述べるべきは古事記の方であるので、それを補う記述を日本書紀に求めるのは少々無理かもしれない。一方で、日本書紀は古事記と同様、中国の歴代史書に記述されているような、中国王朝に朝貢し、冊封を受けてきた、かつての筑紫の奴国、伊都国、邪馬台国のような倭国、あるいは大和の「倭の五王」の時代の倭国のような国の姿を記述していない。ここでも太陽神の子孫である「天皇」が太古の昔に建国(中華世界とは全く独自に)した「日本」、そういういわば「小中華世界」観を描き出している。そして新国家「日本」は中国の朝貢冊封国家「倭」ではない、というメッセージが強く主張されている。そういう意味では日本書紀は歴史書ではあるが、「天皇」の「日本」の「紀」として編纂された対外的な政治的宣言書としての性格がより色濃く現れていると言える。しかも、その編纂の中心にいたのは藤原不比等であり、その父である鎌足の事績を強調するなど、政権内部における藤原氏の意思表明も多分に強調されている。
エピローグ
これまで、中国の史書の解読、考古学的研究成果、古事記、日本書紀の文献批判により「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」「どのように成立したのか?」を「妄想」してみたが、やはり未だ明快な答えは見つからない。限られた文献資料と「点」としての考古学的成果だけではカバーできない広大な歴史的空白をどのように埋めるか。さらに、なぜ大和の地が王権の地として選ばれたのか。カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)は、あるいはミマキイリヒコイニエ(崇神天皇)はなぜ筑紫を出て大和に都したのか。我々は後世の歴史を知っているから大和が王権の地であることを所与のものとしてその理由を問わないが、考えてみると不思議だ。記紀においても、東に素晴らしいところがあるから「来るべくして来た」と言わんばかりの記述しかしていない。その文脈の中からこうした「遷移」背景(国際情勢、国内騒乱、気候変動、資源、農業生産活動、物流など)を読み解くことは難しい。古事記も日本書紀も国家成立と天皇制の起源語っているのだが、それを人間の理性の及ばない神話に求めている点で、歴史書として評価することはできない。別のソースを当たることでよりより「客観的」「俯瞰的」な目線で考察する必要があるだろう。こうしてヤマト王権の姿はいまだ、時空の遥か彼方に霞んだままである。限られた「証拠」だけでは科学的な合理性を持って答えを見つけ出せない以上、妄想力を駆使してその姿を追うしか無いだろう。新型コロナウィルス感染防止対策に伴う外出自粛「すごもり」を奇貨とした妄想旅は、緊急事態宣言解除を機に一応区切りとする。これからさらに新しい妄想旅、いや時空旅に繰り出していきたいと考えるところである。
寛文9年版 日本書紀 |