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2020年5月26日火曜日

初期ヤマト王権はどこから来たのか?(第四弾) 〜日本書紀は何を語っているのか?〜


河内と大和の間にそびえる生駒山
カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)は生駒山麓の河内の草香江から大和に攻め入ろうとしたが、ニギハヤヒ(饒速日)の支配下にあった土豪ナガスネヒコ(長髄彦)の抵抗を受け敗退する。
ちなみに現在の東大阪のあたり(画面左)は当時は「河内湾」ないしは「河内湖」という汽水湖であった。
(伊丹空港への着陸ルート直下に見える)

金の鵄に導かれてナガスネヒコを破り、カムヤマトイワレヒコは大和に入った




古事記と日本書紀の違いは?

日本に残る最古の文字で表された歴史資料と言われる古事記と日本書紀は、両方ともほぼ同時期、8世紀初期に成立した。古事記、日本書紀ともに681年に天武天皇の命により編纂開始。古事記は途中の中断を経て711年元明天皇に献上された。日本書記は720年に元正天皇に献上された。両方を合わせて記紀と呼ばれることが多いが、その成立の経緯、編纂の意図、また内容には違いがある。また、日本書紀は平安時代以降も朝廷で基礎的な教科書として定期的に読み習わされ、天皇始め宮廷官人の基礎的な素養として身につけておくべき必須科目となった。紫式部の「源氏物語」に関する一条天皇の「作者は日本書紀の知識がある」とのコメントにその一端が垣間見え、紫式部は「日本紀の女御」と呼称された。一方の古事記は、その後あまり日の目を見ることは少なく、ようやく江戸時代になって本居宣長が「古事記伝」で紹介してから急速に注目を浴びることになる。以降。古事記は国学の基礎史料で、儒教や仏教などの外来宗教や思想を排した日本古来の「やまとごころ」の定本あるいは神道の聖典とみなされ、やがては幕末維新の「尊皇攘夷思想」「王政復古」「皇国史観」へとつながっていった。この記紀の日本史における扱いの違いの背景、理由ははっきりしていないが、日本書紀(日本紀)は藤原不比等が編纂の中心にいたとされ(中臣鎌足の功績など藤原氏の朝廷における事績が述べられている)、長らく藤原氏中心の摂関政治における「定本」の位置にあった。それに対し古事記はいわば日本書紀の副読本のような扱いで、やがて忘れられてしまったのかもしれない。このように古事記は江戸時代の国学思想勃興期に宣長によって再発見され、やがて神道、皇国史観のバイブルのような役割を持たされることになった。そうした成立経緯と、その後の位置付け、そうした時代背景を考慮しながら読んでゆく必要がある。

古事記

(目的)
国内向けに天皇支配の正当性を主として氏族、豪族向けに述べた天皇の私史。
(使用言語)
漢字を用いた和語で書かれた。
(内容)
神話部分が大きなウェートを占める。天皇祭祀の由来の解説と氏族の系譜との関わりが詳細に語られている。特に出雲神話に多くの紙幅を費やしている。
中国を意識しない(朝鮮半島は天皇の支配下にあるという認識のみ)内容。
(構成)
天地開闢〜33代推古天皇まで全3巻
(編者)
稗田阿礼の誦習、太安万侶の筆記、

日本書紀:
(目的)
中国王朝を強く意識した対外向けの「日本」の正史。いわば公式文書。
(使用言語)
漢文で書かれた。編年体で記述され中国の歴史書の形を踏襲している。
(内容)
祭祀の起源を語る神話部分は少なく、神代紀においては高天原の世界が語られず、また出雲神話の言及もないなど古事記とは大きく異なる。神武天皇の東征伝承から人代紀が始まる点は古事記と同じ。また「一書に曰く」として別伝承を補足的に紹介している構成がユニークで中国の史書にもその例がない。なぜこのような補足記事を入れたのかわかっていないが、中国、朝鮮の史料を参照し引用したり、氏族、豪族の伝承に配意した可能性がある。
(構成)
天地開闢〜41代持統天皇まで全30巻系図一巻。
(編者)
川島皇子ほか六人の皇親、中臣連ら六人の官人が命ぜられて編纂開始、天武天皇の皇子、舎人親王に引き継がれて完成。しかし、書紀には序文がないため正確には記述に携わった人物や編者が誰なのかはっきりしていない。また巻によって漢文の表記が統一されていないなど、複数の書き手で分担して執筆した可能性が高い。最近の研究では和風漢文(倭人が書いた)で記述された部分(神代など)があり、正しい漢文(漢人などが書いた)で記述されているところ(歴代天皇の事績)とその差異が明確に読み取れることから、主に渡来人が執筆に関わり、その後に倭人が神代部分を中心に加筆、修正したと考えられている。
日本書紀編纂には藤原不比等(大宝律令制定に関わった)の関与が大きいと考えられている。したがって、有力氏族や廷臣に関する記述の中でも中臣鎌足の功績を大きく描いて見せたと考えられている。


「神武東征」をどう描いてるか?

関心事の「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」に関わるエピソードとしての「神武東征」伝承は日本書紀ではどのように記述されているのか。筑紫の日向の高千穂に降臨したニニギの子孫、カムヤマトイワレヒコ(神武)が筑紫を発って大和に入り、橿原宮で初代天皇(神武天皇)に即位したとする点は古事記と共通する。また大和に入る時のナガスネヒコ(長髄彦)、ニギハヤヒ(饒速日)との戦いの伝承についてもほぼ同様である。カムヤマトイワレヒコが大和に入ろうとした時に、すでに大和には、もう一人の天孫族、ニギハヤヒ:饒速日(物部氏の祖神)が、地元の土豪ナガスネヒコ(登美の長髄彦)の妹を娶り一族を従えて支配していたという。カムヤマトイワレヒコは最初、登美の草香江(現在の東大阪の生駒山麓草香江)からの大和入りを試みたが、これに抵抗するナガスネヒコ(長髄彦)との戦いに苦戦。ついにカムヤマトイワレヒコは草香江の戦いに負け、兄の五瀬命を失う。太陽に向かって東に攻めたのが良くなかったとして、迂回して熊野に周り、苦心しながらそこから吉野、宇陀を経由して地元の勢力(土蜘やヱウカシ、オトウカシ)を退治し、国栖や八咫の烏や金鵄の助けで、ついにはナガスネヒコを破り大和入りしたという話だ。

ただ古事記と少し内容が異なっている。古事記では、ニニギの筑紫の日向への降臨を知ったニギハヤヒはそれを追って地上に降臨してきたと説明している。ただし筑紫ではなく河内に天磐舟(あめのいわふね)に乗り十種の神器を携えて降臨し、カムヤマトイワレヒコより先に大和入りして待っていたとする。そして進軍してきたカムヤマトイワレヒコ(神武)を出迎え、彼を正当な天神の子孫として崇めて服属したとする。いわば従属関係にあることを語っている。一方、日本書紀ではニギハヤヒはニニギの降臨とは全く無関係に河内に降臨したとする。ニニギを追って来たのではなく、河内、大和に先住している天神の子であるとしている。ナガスネヒコがカムヤマトイワレヒコに「自分が仕えている天神の子ニギハヤヒの他に天神の子がいるのか?」と問い、カムヤマトイワレヒコは「天神の子は多くいる」と答えている。すなわち天孫降臨はニニギだけではない、有力な豪族の祖神も天から降臨した神の子孫であるという認識が述べられている。ただそのなかで最も正当な天神の子がカムヤマトイワレヒコであり、それをニギハヤヒも認め服属した。いわば先住者であるが並存関係にあったものが服属したとする。また、日本書紀ではカムヤマトイワレヒコに抵抗したナガスネヒコは、その支配者であるはずの天神の子ニギハヤヒによって殺されたとされている。こうして服属の証としたのだろう。

このように古事記では物部氏の祖神であるニギハヤヒは、神武天皇の祖神であるニニギを追って(あたかも随伴するように)河内に降臨し、大和に先回りしてカムヤマトイワレヒコ(神武)を迎えたかのような筋立てになっているが、日本書紀では降臨の後先を語っていない。その理由は先述のような各有力豪族の、自らも天孫族の子孫であるという伝承、多神教的神話(八百万の神々)の存在を認める立場をとったからだろう。しかしそれにしても、古事記では出雲のオオクニヌシ(大国主)の「国譲り」で「芦原中つ国」はアマテラス(天照)の「天津国」の支配するところとなり、筑紫にニニギが降臨して、その子孫カムヤマトイワレヒコ(神武)が東征して大和に入り日本を治めたとされ(日本書紀にはこの「出雲神話」のストーリーが出てこない)、その際有力豪族の祖神(大伴氏など)はニニギに随伴して高天原から筑紫に降臨してきたとされているのに、物部氏の祖神、ニギハヤヒだけはニニギとは別に河内に降臨したとされている。しかもカムヤマトイワレヒコ(神武天皇)に先立って大和を支配していたとされている。なぜそういったエピソードが必要であったのか。おそらく地元(河内、大和)にニギハヤヒ降臨神話が根強く残って語りつがれていたため無視できなかったのだろう。すなわち物部氏の河内、大和における先住豪族としての存在を否定するにはあまりにも誰にとっても既知の伝承でありすぎた。したがって後から入ってきたカムヤマトイワレヒコが「正当な地上支配者」であることをニギハヤヒが認め(服属し)、先住の物部氏(ニギハヤヒの子孫)を王権(天皇家)を支える有力豪族として記紀に記述することにした。これこそ「ニギハヤヒ(物部氏)による「国譲り」であったのかもしれない。古事記においても日本書紀においても、天皇の祖神(皇祖神)アマテラスを頂点とした各地の豪族、氏族の祖神の序列化とその記述には並々ならぬ苦労があったであろう様子がよくわかる一文である。


ヤマト王権成立の何を語っているのか?

これらの記紀双方の記述(神武天皇の大和入り)の背景にある事情を整理すると、なんらかの史実が浮き出てこないか、そこには初期ヤマト王権成立時の、大和盆地を巡る地域情勢が透けて見えるのではないだろうか。ニニギが「良き地」として降臨してきた筑紫をなぜその子孫は捨てなければならなかったのか。そして大陸の文明から遠く離れ、山に囲まれた「辺境の地」大和盆地をなぜ王権の地「美しき地」としたのか。この間の事情は古事記にも日本書紀にも語られておらず、東征、大和入りが安定した国を治めるための予定の行動であったかのようなストーリーになっている。おそらく記紀の編者としては中国王朝の朝貢/冊封体制に入っていた筑紫倭国(邪馬台国や、奴国、伊都国のような)とは異なる大和倭国、「天皇が支配する日本」への移行を演出して見せたのではないか。あるいは実際に筑紫の一勢力が「倭国大乱」の後に、筑紫倭国連合(邪馬台国連合)を抜けて東へ移っていった出来事の投影であったのかもしれない。しかし、大和入りの模様は比較的詳細に描かれている。大和には(出雲や吉備のようなまとまった有力勢力/国はないにしても)いくつかの先住の土着勢力がいた。その多くは土蜘(つちぐも)と呼ばれる山の民や土豪や、ヱウカシ、オトウカシなどという首領で、外来勢力から自分たちのテリトリーを守ろうと抵抗した。また、地元の神が熊に化身して「皇軍」を眠らせたりというエピソードに投影されるような数々の抵抗勢力の存在があった。その一方で「八咫の烏」や、吉野の国栖部族や、「金鵄」が「皇軍」の進軍を助けたりという、在地の同調勢力の存在を伺わせるエピソードも盛り込まれている。中でも最も強力な抵抗勢力は、先述のトミノナガスネヒコ(登美の長髄彦)である。しかも、彼は単なる土豪ではなく初期ヤマト王権成立以前に河内から大和へ移動してきた天孫族ニギハヤヒ(饒速日)と姻戚関係を結んで、その支配下にいるという。その子孫が物部氏であるとすることから、彼らがすでにある程度大和を実効支配していたのであろう。そこへ筑紫から入ってきた勢力が支配権を争った。このように大和がいまだ支配勢力が固まらない「無主の地」であったとはいえ、王権確立までには多くの地元抵抗勢力との戦いや服属、同盟の物語があったことを窺わせる。こうして大和、河内の地域勢力を固めた後、初期ヤマト王権はここを中心として「四道将軍」や「ヤマトタケル」などの「征討」伝承に象徴される全国統一事業へと進めていくこととなる。日本書紀にはそのような建国・国土統一ストーリーが描かれている。

これらのエピソードは太古の昔(西暦換算で紀元前660年頃)の伝説の天皇神武、すなわちカムヤマトイワレヒコの英雄伝として記述されているが、実際には3世紀後半の「初期ヤマト王権」成立の過程を描いたものであったと考えられる。すなわち初期ヤマト王権(三輪王朝)を開いたミマキイリヒコイニエ(崇神天皇)の物語であり、彼こそ歴史上の初代天皇(初期ヤマト王権の大王)である。彼は筑紫から大和に入り、三輪纏向の地に宮を開くまでの苦難の王権成立過程を経験した。これを後世(記紀編纂時に)、先述のような王権の東征物語として潤色し、王権(のちに天皇)の権威を神格化するために、ミマキイリヒコイニエ(崇神)の10代前の神話の世界につながる伝説の(架空の)天皇、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)を創造し、その「神武東征伝承」に投影させた。そして先住勢力のニギハヤヒの服属をその「神武東征伝承」に盛り込み、その末裔である物部氏をヤマト王権を支える有力豪族として正史に記録した。ミマキイリヒコイニエ(崇神天皇)のヤマト王権とと物部氏の間に同盟関係が成立したのであろう。またその一方で、記紀編纂の直前に起きた、記憶に新しい大海人皇子(天武天皇)の王権奪取闘争「壬申の乱」(674年)における大和入りのストーリーを重ね合わせることで、「伝説の神武東征」物語の「リアリティー」演出にも大きく貢献したことだろう。すなわち、神武天皇と崇神天皇と天武天皇の姿を重ね合わせた。日本書紀はこうした皇統の悠久の歴史と天神につながる神聖性を外に向かって語るために、「歴史上の初代天皇」崇神のはるか前に「伝統上の初代天皇」神武を置いた。

ちなみに神武以降、崇神までのいわゆる「欠史八代」の天皇は実在しないとされ、日本書紀においても事績が記録されていない。皇統の神秘性と悠久の歴史を誇り「万世一系」の天皇を伝説化するために神武から崇神までを埋めるために創作されたと考えられている。しかし、これらの八代の天皇は大和盆地西側の葛城あたりに存在の形跡があるとする研究者もある。ミマキイリヒコイニエ(崇神)の「三輪王朝」創設の前に「葛城王朝」があったとする説だ。古事記には武内宿禰の子孫、葛城襲津彦がこの辺りの有力豪族で、4〜5世紀初頭に「河内王朝」の歴代天皇の后を出して姻戚関係を持っていたとある。日本書紀にも記述があり、また雄略天皇が葛城の一言主神にひれ伏したとする伝承が記載されている。この葛城氏の祖先が「葛城王朝」の主で「欠史八代」の天皇だとする。しかし、この説は少数説で、その存在は証明されていない。この一帯に「欠史八代」の天皇の宮跡の比定地の石碑や「陵墓」とされる古墳がある。もちろんこれらは後世(江戸時代、明治以降)に山陵/陵墓比定などの事業に合わせて建てられたり治定されたものである。ただ物部氏が河内から大和に進出する時、さらにミマキイリヒコイニエ(崇神)が大和盆地に入り三輪山山麓に王権を開く時にも、大和盆地の西の葛城山麓に勢力を張っていた土豪、豪族がいて、王権の成立になんらかの関係があった可能性があるのかもしれない。今後の私の研究課題である。


日本書紀は歴史書か?

このように日本書紀は、古事記のような天皇支配/祭祀の神格化/優位性を、諸豪族に対して語る神話部分の記述に注力するよりは、対外的、特に当時の超大国中国の唐王朝を激しく意識した新生「日本」成立経緯と、天皇制(もう一つの皇帝)の神話に遡る悠久の歴史を宣言したものである。したがって歴史書としての形式は中国の史書の様式をよく学び、踏襲して「近代国家」として恥ずかしくないように漢文で(今で言えば国際公用語英語で)記述された格式高い「正史」である。しかし、歴史を研究し、学ぶものとしては、やはり徹底的な文献批判は不可欠で、間違っても記述されていることが全て史実であるように読むことはできない。古事記が国内向けの(豪族に対する)天皇の政治的宣言文書であり歴史書としての性格に疑義があるとされるが、その一方で日本書紀は国の正史であり、史実を記述した歴史書であると単純に見做すこともできない。やはり当時の東アジア情勢を反映した対外的な政治宣言の文書、国家アイデンティティーの表明の文書であるという理解で読み解いてゆくべきであろう。そういう視点から「初期ヤマト王権」はどこから来たのか?という問いに関していうと、古事記とは異なる日本書紀ならではの独自の歴史観が語られているかと言えば、必ずしもそうではない。むしろ神代紀における高天原神話や出雲神話に言及していないなど、初期ヤマト王権と国内の豪族との確執や祭祀に序列化などの国内事情は簡略化されている。一方で人代紀で蘇我宗家の滅亡、藤原鎌足の王権への貢献が喧伝されているなど、編纂に深く関わったとされる藤原不比等のいわば「藤原史観」が表明されている。天皇の起源(ヤマト王権の起源)についてより掘り下げて述べるべきは古事記の方であるので、それを補う記述を日本書紀に求めるのは少々無理かもしれない。一方で、日本書紀は古事記と同様、中国の歴代史書に記述されているような、中国王朝に朝貢し、冊封を受けてきた、かつての筑紫の奴国、伊都国、邪馬台国のような倭国、あるいは大和の「倭の五王」の時代の倭国のような国の姿を記述していない。ここでも太陽神の子孫である「天皇」が太古の昔に建国(中華世界とは全く独自に)した「日本」、そういういわば「小中華世界」観を描き出している。そして新国家「日本」は中国の朝貢冊封国家「倭」ではない、というメッセージが強く主張されている。そういう意味では日本書紀は歴史書ではあるが、「天皇」の「日本」の「紀」として編纂された対外的な政治的宣言書としての性格がより色濃く現れていると言える。しかも、その編纂の中心にいたのは藤原不比等であり、その父である鎌足の事績を強調するなど、政権内部における藤原氏の意思表明も多分に強調されている。


エピローグ

これまで、中国の史書の解読、考古学的研究成果、古事記、日本書紀の文献批判により「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」「どのように成立したのか?」を「妄想」してみたが、やはり未だ明快な答えは見つからない。限られた文献資料と「点」としての考古学的成果だけではカバーできない広大な歴史的空白をどのように埋めるか。さらに、なぜ大和の地が王権の地として選ばれたのか。カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)は、あるいはミマキイリヒコイニエ(崇神天皇)はなぜ筑紫を出て大和に都したのか。我々は後世の歴史を知っているから大和が王権の地であることを所与のものとしてその理由を問わないが、考えてみると不思議だ。記紀においても、東に素晴らしいところがあるから「来るべくして来た」と言わんばかりの記述しかしていない。その文脈の中からこうした「遷移」背景(国際情勢、国内騒乱、気候変動、資源、農業生産活動、物流など)を読み解くことは難しい。古事記も日本書紀も国家成立と天皇制の起源語っているのだが、それを人間の理性の及ばない神話に求めている点で、歴史書として評価することはできない。別のソースを当たることでよりより「客観的」「俯瞰的」な目線で考察する必要があるだろう。こうしてヤマト王権の姿はいまだ、時空の遥か彼方に霞んだままである。限られた「証拠」だけでは科学的な合理性を持って答えを見つけ出せない以上、妄想力を駆使してその姿を追うしか無いだろう。新型コロナウィルス感染防止対策に伴う外出自粛「すごもり」を奇貨とした妄想旅は、緊急事態宣言解除を機に一応区切りとする。これからさらに新しい妄想旅、いや時空旅に繰り出していきたいと考えるところである。


寛文9年版
日本書紀




2020年5月16日土曜日

東京における「社会的距離:Social Distance」 はどのくらいなのか?


品川駅の平日
(去年の6月)


新型コロナウィルス感染の緊急事態宣言が、東京/首都圏の神奈川/千葉/埼玉三県、大阪府/京都府/兵庫県、北海道の8都道府県を除いて解除された。しかしこれからまたいつ2次感染爆発が起き、緊急事態宣言、外出自粛要請、休業要請があってもおかしくないだろう。日本は「都市封鎖:Lockdown」ではなく、「自粛」「要請」で乗り切ろうとしているが、この手法が成功するか否か、国民も世界も注目している。しかし、東京の過密状況を毎日肌身で体感していると、東京の感染者数、死者数が全国でもダントツである事は不思議ではない気がする。このままの過密状態で、人との「社会的距離:Social Distanceを取る」、「三密(密閉、密集、密接)を避ける」とか、そうした行動変容による「新らしい日常生活:New Normal」に移行といっても、本当に可能なのかと思ってしまう。少なくも欧米スタンダード(グローバルスタンダード?)の社会的距離:Social Distanceとはだいぶ違う尺度を適用しないと実際にはやっていけないような気がする。

1964年の東京オリンピックの前だったと思う、私の小学校の頃、よく地理の授業で世界の「人口密度」というのを習った。一平方キロ当たり、人口が何人か、というやつだ。当時は「道路の舗装率」の世界比較というのもあった記憶がある。どちらもなにか国の豊かさ、貧しさを比較する指標のように見えて仕方なかったことを覚えている。人口密度では東京はいつも世界ランキングの上位を占めていた。大体中国やインドなどアジアの国々の人口密度が高く、欧米の国々のそれが低い、と対比的に記憶していた。そこにすし詰めの満員電車と狭い部屋に大家族、というイメージが重なり、日本の貧しさはなかなか解消しないとの印象を植え付けられたものだ。「道路の舗装率」の方は、オリンピックが終わりその後の高度経済成長の中で、たちまち100%になり、そんな統計数値があったことさえ忘れてしまったが、人口密度の方は、むしろ高度経済成長に伴う人口の都市集中、なかんずく東京一極集中でますます公害問題や、交通渋滞や、住宅不足が問題となったのは記憶に新しい。そしてバブル崩壊、低成長時代を迎えたこの30年で何か変わったのだろうか?

現在はどうなのか?
まず日本国内のランキングで見ると(2010年人口統計)
第一位)東京都 6,015人
第二位)大阪府 4,669人
第三位)神奈川県 3,745人
以下、埼玉県、愛知県、千葉県、福岡県、兵庫県と続く
最下位」北海道 70人

まあ予想の範囲内だ。人口の都市集中、ことに東京一極集中は今も基本的には変わっていない。

ランキングではないが世界の人口密度比較を見てみると(都市圏別2010年)
東京/横浜は4,700人
大阪/神戸/京都が5,700人
ニューヨークは1,700人
ロンドンは5,600人
北京は4,700人
上海は5,500人

人口密度が高いのは
バングラデシュのダッカが41,000人でトップ
インドのムンバイが26,900人、デリーが12,600人
インドネシアのジャカルタが10,200人
フィリピンのマニラが13,800人
メキシコのメキシコシティーが8,600人
ブラジルのサンパウロが6,900 人
などとなっている。

東京は世界の主要大都市並みということになる。ニューヨークが意外に低いことに驚く。おそらくロングアイランドの広大は地域が入っているからだろう。アジアの人口爆発による都市の過密化に拍車がかかっている様子がわかるが、基本的なデモグラフィーはあまり変わっていない印象だ。

それにしても東京が日本における一極集中、超過密都市である事はこうした人口密度の数字を見るまでもなく、ここに暮らすものとしては日々実感できる。日本全体が少子高齢化による人口減少期で、低成長時代に入って久しいとはいえ東京の朝夕の通勤ラッシュは相変わらずだし、渋谷、新宿、銀座などの繁華街に限らず、最寄りのターミナル駅周辺や地元の商店街に行っても、常に人で混雑している。また深夜まで繁華街は人で溢れており「眠らない街」である。すなわち場所、時間を問わず人が溢れている都市である。住宅環境も、高度経済成長期の郊外への広がりが収束し、郊外の大団地が高齢化、空家化し、あの憧れの私鉄沿線の戸建住宅街も高齢化、無人化に伴って、都心回帰ともいえる高層マンションの林立が顕著である。その一方で低層狭小戸建住宅がぎっしり密集しているところもある。私のかつての転勤経験に照らしても、東京は圧倒的にニューヨークやロンドンに比べ「人が多い感」は高い。ニューヨークもロンドンも場所によっては閑散としているところがあるし、街中でも時間によっては人気(ひとけ)がなくなる。いろんな場面で人と人の距離感を保てるし、またそうすることがマナーにもなっている。マンハッタンのミッドタウンで通りを歩いていて人とぶつかることも少ないし、東京のようにぶつかっても「すみません」とも言わない無礼者はいない。大阪だって、かつては繁栄の「大大阪」を謳歌して東京を凌ぐ人口過密であった時代があり、そのせいか今でも混雑したゴチャゴチャした街、という印象があるが、意外にも環状線に乗っても、私鉄に乗っても明らかに東京よりは空いている。梅田(混んでいるというよりは動線が混乱している)を除くと、ミナミも賑やかだが街中にも余裕がある。確かに人と人との距離は近い感じがするが、それは東京と違って知らない者同士のコミュニケーションが成り立っていることを意味しており、それが大阪の魅力にさえなっている。

こうした東京(首都圏)で、3.11の時は電車が止まり「帰宅難民」が路上にあふれた事は記憶に新しい。この私も帰宅を諦め会議室で一晩過ごした。分刻み秒刻みで動いている東京の交通システムは、ちょっとしたことでたちまち機能不全に陥る。すると駅から人が溢れ出す。動いてないと死んでしまう回遊マグロのようなものだ。このトラウマのせいか、今回のコロナ騒ぎで「外出自粛」と言っても、渋谷、新宿、銀座が100%無人になる事はなく、パリのシャンゼリゼやニューヨークのタイムススクエアーのようにホームレスを含めて「人っ子ひとりいない」ことにはならない。減少率が60%とか70%とか言って、それで町は「人っ子ひとりいない!」かのような報道がされる状況であり、私的には結構人が出てるじゃないか!と感じてしまう。そもそも外出自粛と言いながら交通機関はほぼ定時運行(世界に冠たる時間に正確な頻発サービス)。ガラ空きでも走らせているのだから乗る人は乗る。どだい出るなと言っても無理で、堰を閉めてもどうしても溢れ出るものは溢れ出る。動いていないと死んでしまう街なのだ。都市封鎖:Lockdownと自粛要請の違いだけではない。そもそも人が多いのである。

「家に居ろ(Stay Home!)」といっても、狭い3DKの集合住宅や庭もない狭小戸建てプレハブ住宅などの「ウサギ小屋」に何ヶ月もじっとしてられない。学校も閉鎖されていて子供たちも所在なげにぶらぶらしている。ニューヨークの学校のようなオンライン授業が毎日あって自宅にいても勉強で忙しいわけでもない。そもそも「元気な子供達」が部屋でじっとしてるわけもない。通りや街角公園でたむろし騒ぎ回っている。面倒みる親もたまらない。この東京の住宅事情をみれば、「社会的距離:Social Dstance」をとれ、「三密を避ける」など無理であることがわかる。隣の家との隙間もない密集住宅街で、社会的距離:Social Distanceなどという欧米的な尺度は当てはまらないことはすぐわかる。だからなのかオンラインで自宅で仕事するテレワーク:Teleworkも、以前から語られていた割には気がつくと全然定着していない。狭い家にいるよりも混んだ電車に乗ってでも会社へ行くことが息抜きになっているからだ。飲食店だってそうだ。そもそも狭い店内で、テーブル数を減らさなけりゃ(収益を減らすことを意味する)テーブル間の距離を開けるなんて無理だ。まして「袖触れ合うも多生の縁」の居酒屋やラーメン屋では、親密さが売り物というその業態そのものが否定されることになる。

それでも日本の感染率が低く、死亡率が極めて低いのはどうしてなのか?感染者数が少ないのはPCR検査数が他国に比べて圧倒的に少ないからで、実数はもっと多いだろうが、死者数が少ないのは何故なのか。ある人は「日本人の清潔好きのなせる技」と言い、また「自粛要請を守る民度の高さ」と言い、「高度な医療体制のなせる技」と言う。しかし世界のメディアはこの「日本の奇跡」は本当なのか? 懐疑的に断ずる論調もない代わりに、称賛する論調もない。日本で起こっていることをどう評価すれば良いのか考えあぐねているように見える。少なくとも台湾やドイツ、ニュージーランドのような成功例として取り上げるには躊躇があるようだ。政治リーダーの市民の評価についても、クオモニューヨーク州知事や蔡英文台湾総統、メルケルドイツ首相(台湾を除けば多くの感染者を出し、死者を出しているにも関わらず)は高い評価を得ている。一方、日本(感染者数、死者数共に低いにもかかわらず)は、吉村大阪府知事と小池東京都知事の評価が高いものの、安倍さんの評価はいまいちだ。日頃の言動から来る信頼感が祟っているのだろう。国民はよく見ている。もっともアメリカのように非常時にヒーローを求めたがる国民性による評価もあるのだろうが。

東京に住んでる住民の立場から言わせてもらうと、「三密を避けろ」はかなり非現実的な要請だ。なぜなら常に「三密」の中で暮らしているからだ。社会的距離を取れ:Social Distancingも有名無実。列を作って2mも間を空けているとすぐに割り込まれる(というか並んでいると認識されない)。広大なお屋敷に住んでいるわけでもないので密閉空間は避けられない。ラーメン屋に行って個室があるか確認するわけにも行くまい。仕事をしている以上公共輸送機関で通勤せざるを得ない。医療も平時には機能しているが非常時にはほんの少数の重篤患者発生で崩壊しそうになる。もともと狭くて小さな病院内での院内感染が多発する。自主休業要請を守らないパチンコ屋は朝からギャンブル依存症の症状緩和の場になっている。メディアが取り上げる渋谷、新宿、銀座は人出が減ったが、戸越銀座商店街や近所のスーパーは子連れ家族でごった返している。メディアが取り上げない世界では全く異なる光景が現出しているのだ。「民度」という尺度は絶対的なものではない。さらに常々問題となっている官僚の縦割り行政と事なかれ主義の仕事ぶりはこうした非常時には機能しないばかりか、意思決定の遅延、行動の遅延を引き起こしている。中央政府トップと自治体、そして医療や検査の現場の意識のズレも甚だしい。ここはもっと「三密」でやってほしいところだが。国民の自粛に期待するだけではなくこここそ政治のリーダーシップが求められるところだ。

コロナ以後の「新しい平常状態:New Normal」が唱えられ始めている。ワクチンや治療薬が開発されてもコロナが完全に消滅する事はない可能性があるし、近い将来に新たな感染症がまたぞろ猛威を振るう可能性も高い。そういう「感染症ウィルス」と共生する社会の到来に向けて、東京は何よりも一極集中を見直すのが先決だ。社会的距離:Social Distanceを確保し、「三密」を避けるためには、論理的には限られたスペースから一定の人口を減らして密度を減少させるしかないだろう。繁華街や満員電車だけでなく、首都東京の住宅街を歩いてみたらわかる。こんな密集、密着している密閉空間をどうにかしなくてはと考えるはずだ。地震や火事など大規模災害時には消防車も救急車も入れない狭くて曲がりくねった道。東京都が緊急時には「人命に危険が及ぶ可能性の高い地域」と指定している地域でも、それでもなお一軒の住宅跡地にさらに4〜5軒の狭小住宅を密集して建てるということが繰り返されている。これでも人と人との感染が爆発しないのはコミュニティーや隣人同士の行き来がなくて「隣は何をする人ぞ」状態という冷たい人間関係のせいかと皮肉を言いたくなる。スペースを開けるということは関東大震災の時も、3.11の時にも言われた。すべて「喉元過ぎれば熱さ忘れる」。そうやってなんとなく「持続可能な社会」を形成してきたのが島国日本なのだろう。何かあるたびに議論された首都機能移転も、本社機能移転、大学移転も進まない。ネットショッピングは始まっているが、オンラインによるテレワークも進まない。遠隔医療も常に「実証実験中」だし、ディスタンスラーニングも進まない。別に「パソコンが家庭に普及していないから」でも「インターネット環境がない」からでもない。そんな言い訳は世界に誇るICT大国には通用しないのではないのか。やはり「何か」にこだわる価値観。それに基づく仕事スタイル、学習スタイル、生活スタイルが、これらを阻んでいるのだろう。その「何か」の象徴が「東京」なのかもしれない。それを考え、行動を起こす時期が来た。と今はパニックの真っ只中だからそう言っているが、やっぱりやがて忘れるのだ。



住宅地密集化の実例

ここは都内某区の住宅街。江戸時代にはこのあたりは朱引外で、明治維新以降、戦前、戦後を通じて、高級住宅街とは言わないまでも、都心に勤める会社の幹部社員、高級官僚や軍人、大学教授や文人墨客のが好んで邸宅を構えた地区であった。現在も、広大な邸宅(大きな会社の所有になっているが)や、有名人の住処や官舎、社宅が残る閑静な住宅街である。しかし、最近、街の様相が大きく変わり始めている。こうした邸宅は主人を失うと、相続税対策なのであろう、売却されて、次々と瀟洒な住宅(純和風や擬洋風の古民家)が取り壊され、緑生茂る庭が破壊されてゆき、その跡地には複数の狭小プレハブ住宅が所狭しと建てられる。このパターンの「再開発」が急速に進んでいる。極端な場合、ある著名人の旧邸宅跡が10軒のプレハブ狭小住宅で隙間なく埋め尽くされてしまったところも出てきている。マンション化されるところもあるが、第一種低層住宅地域なので高層化できない。で不動産ディベロッパーとしては、土地を細かく分割して一戸あたり売却単価と利益率の高い「戸建」にして売り払う。こうすれば買い手から見ると土地全部は買えないものの、分割すれば土地購入単価が下がり購入しやすくなる。その上に「日本の建築技術の粋」である擬似三階建てプレハブ狭小住宅を建てれば立派なマイホームになる。こうして市場経済的合理性が働く売買が成立するというわけだ。もっともこうした個人の資産としての「不動産」価値が将来にわたって維持できるのかは疑問だ。少なくとも上物の償却期間は短く(不動産というより「耐久消費財」)何年か経つと資産価値はなくなるだろう。後は残された狭い土地だけだが、初期投資を回収できるだけの価格でこれからも売れる保証はない。地域住環境の悪化という悪循環が起きれば尚更だ。したがって中長期的に見ると資本主義的合理性(投資に対するリターンの最適化)が買主に働くかは疑問と言えよう。いずれにせよ昔ながらの(車の所有を想定していない時代の)狭い道路と、一定の広さの庭を有し、外塀に囲まれたセキュリティーのしっかりした邸宅が立ち並ぶ住宅街は、道は狭いままで塀もなく、庭もなく、隣地との境もほとんどない、例外なく一階が車庫スペースとなっているような擬似三階建狭小住宅で埋め尽くされる密集住宅地域に変貌を遂げる。必然的に人口密度は急速に上がっている。社会的距離:Social Distanceを取ることなんぞそもそも難しい街にどんどん変貌している。


かつて春になると白木蓮と桜が美しい庭があった

冬は雪景色...

しかし、空き家になって取り壊しが始まる。
桜も白木蓮の樹も切り倒されてしまった。
あっという間にすっかり更地になってしまった
不動産デベロッパーが土地分譲をはじめた
スペースがあるうちに奥の家も建て替え
一軒分の土地が四軒に分割されて分譲されることになった。
すぐに売れたと見えてたちまち建て始める

それぞれの敷地にそれぞれ違う業者が別々に施工。
こんな狭い土地に器用なものだ!

そして完成。
見事に一軒の邸宅跡に四軒の家が建った
これが東京の住宅街の社会的距離:Social Distance





2020年5月8日金曜日

初期ヤマト王権はどこから来たのか?(第三弾)〜古事記は歴史を語ってるのか?〜



ここは韓国(からくに)に向かい 笠沙の御前の真木通りて 朝日の直さす国 夕日の日照る国なり 

かれ 此地はいと吉き地」

神武天皇東征之図
八咫の烏に導かれて大和入り

稗田阿礼を祀る「賣太(めた)神社」
奈良盆地の稗田環濠集落の内側に鎮座している。




古事記は歴史書か?文学書か?

前回までは「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」を考察するにあたって、「邪馬台国とは?」、あるいは「ヤマト王権との関係は?」、その後の「王権」の形成と発展プロセスを、中国の史書や考古学的発見を基に考察してきた。しかし、いよいよその「ヤマト王権は何處より来たりし者ぞ?」に移ろう。すなわちそのルーツ探しを試みてみようというわけである。前回述べたように、文献資料としては、難題の古事記の解読に取り組まねばならない。既知のように古事記は日本書紀とともに、7世紀後期から8世紀初期の倭国の政治状況(一種の内憂外患という)を背景として天皇(大王)一族によって編纂されたた文書である。有力豪族に共立された「大王(おおきみ)」から天の神の子孫である「天皇(すめらみこと)」一族の支配の正統性を、その由緒から語った政治的な宣言の書である。その起源にまつわる神話、伝承と、叙事詩、叙情詩を含む物語により歴史を語った文書である。すなわち、古事記は神話集であり、文学書であり、かつ歴史書である。であるがゆえに、古事記はどこまで「史実」を語っているのか、あるいは「史実」の反映があるのかという問いがつきまとう。一方で、歴史は常に「勝者の歴史」であると言われる。後世に残された歴史書には敗者の側の「歴史」は含まれていない。古事記にも征服され服属した側の歴史は語られてはいない。皇位継承争いで敗れた側の言い分は書かれていない。天皇の成り立ちについての由来と「事績」について主に語られている他、天皇家につながる氏族、豪族の由来は数多く盛り込まれている。天皇の統治権威に連なる一族としてのレジティマシーの承認を求めるが如く、神代からのつながりを述べている。だとしても、その「勝者の歴史」を記述した書のなかに何がしかの史実が語られているのか。上巻の天皇の由緒を語る神話、そして中巻の天皇の事績を語る伝承、叙事詩的な英雄譚、下巻の天皇の叙情詩(和歌)、これらに仮託された歴史的な出来事の表明があるのであろうか。その中から初期ヤマト王権の出自に関する真実を発見することができるのであろうか。

もう一つ古事記に関しては、日本の歴史におけるその文書としての扱いに重要な指摘をしておかねばなるまい。それは日本書紀は平安時代以降も朝廷における基本的な歴史定本として読み継がれてきたのに対し、古事記はその後、表舞台で読まれる事が少なく、やがて忘れられた存在となる。再び日の目を見るのは江戸時代、国学勃興運動の中で本居宣長が「古事記伝」として取り上げてからのことである。これ以降、幕末の「尊皇攘夷運動」、維新の「王政復古」、さらには「万世一系の天皇」「皇国史観」の定本として、あるいは神道の聖典として古事記が脚光を浴びることになる。このことを知っておくべきであろう。

ところで古事記は、稗田阿礼に誦ませものを太安万侶が文字に書き起こしたと、その序文で説明している。それは日本書紀のような漢文体ではなく漢字を用いた和語での表記となっている。天武天皇の発案でその孫の元明天皇が編纂の勅命を太安万侶に下した。撰上にあたっては、これまでの帝紀(天皇の日継)、旧辞(本辞)(各豪族に伝わる神話、伝承)を集め、その「間違い」(天皇支配の正統性を語るにふさわしくない「間違い」)を正し、まとめたとしている。これは古事記以前に文字で記述された記録文書が存在していたことを示している。ただ、これらは現存しない。おそらく継体天皇時代(血統による皇統概念を生み出した最初の大王)以降にまとめられたものではないか。これらには何が記述されていたのであろうか。これらの記録にどのような天皇皇統にとって不都合な「間違い」」が記述されていたのか興味深い。その解明ができると新たな歴史が明らかになるのであろう。


本題「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」

ここで、最初の問い「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」に戻ろう。ここに撰録された神話、伝承、歌などに倭国(のちに日本)の起源、成り立ち、初期ヤマト王権の出自に関する「歴史的」事実を伺わせるものが潜んでいるのかを読み解いてみようという試みだ。以前のブログでもたびたび考察してきたように、「歴史書」としての古事記は、多くの神話と伝承、叙事詩的物語からなる「文学書」(フィクション)でもあるわけで、そこから史実(ノンフィクション)を炙り出すのはなかなか厄介である。

上巻の「神話」は史実を語っているか?

結論を先に述べると、少なくとも上巻の「神話」の部分に「史実」を語るエピソードはないと考えられる。国生み神話、出雲神話、天孫降臨神話は史実の反映ではないし、何らかの出来事の記憶を神話に仮託したものでもないであろう。出雲神話が上巻の三分の一を占めるが、前回考察したように、出雲はヤマト王権の祭祀(神賀詞や神器/玉の提供)の重要な部分を担ってきた事はわかってきたが、「国譲り」が出雲が大和勢力に破れたとか、服属したとかいった歴史的な出来事を記述の中に確認する事はできない。この神話の主題は国津神(葦原中国)が天津神(高天原)の傘下に入ったという祭祀における由来を語ったストーリーである。一方の「国生み神話」や「天孫降臨神話」にも先史時代の建国にまつわる史実の要素は確認できない。出雲や筑紫の地名が出てくるが、そこになにかヤマト王権の成立に関わる事件があったわけでもなさそうだ。世界各地に共通に見られる国土創世神話や建国神話や、王の出自(王権神授説)を物語る神話と同類の「言い伝え」が起源だと考えられる。これらは大陸由来の北方系神話、海洋由来の南方系神話の系統が確認できる。これを8世紀初頭の倭国の政治事情(豪族支配から大王/天皇中心の中央集権的な支配体制へ)に基づいて、「ヤマト王権」すなわち「天皇支配の正統性」「皇統の持続性」を主張するにふさわしい神話(おそらくは各地に伝わる伝承をも取り込み)を選定し、これに潤色、編集、さらに創作を加えたものだと考えられる。すなわち「天皇」の神聖性の由緒を神話の形で説明したもので、これは歴史ではなくいわば政治的なメーッセージである。その手法として、ヤマト王権の中央集権化のプロセスの中で(大王/天皇の祖霊神との同祖化や外戚化、服属化すなわち「同祖/同盟関係」を築く中で)、地方の豪族や有力氏族の首長霊信仰や国魂信仰の由緒を伝えるそれぞれの伝承や神話を大王家/天皇家の由緒を語る神話に組み入れていった。換言すれば大王/天皇の統治権威の由緒を「神話的整合性」をもって物語るために、皇祖神アマテラスを中心とした同祖/同族化した氏族/豪族の神話の体系化、系統化を図ったものである。さらに言えば、対外的には、倭国、日本(ひのもと)は、中国の歴史書が描くような、歴代中国王朝に朝貢し冊封されることで統治権威を認証された「王」が支配する国ではなく、そもそも「天神」の直系子孫である「天皇」が太古(神話の時代に)に建国し、以来連綿と途切れることなく支配した国である、との認識表明である。これこそ天武天皇が狙った古事記編纂という一大国家事業の本質である。


神武天皇は実在の天皇なのか?

古事記の中に、「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」という問いに答えるヒントを与えててくれそうな伝承がある。「神武天皇東征」伝承である。
古事記の中巻、下巻は「神話」ではなく、初代神武天皇から各代の天皇の「事績」の記述になり、編年体ではないものの天皇の代ごとに整理された「歴史書」然とした体裁になっている。特に中巻は、神武天皇の「東征」、ヤマトタケルの国内平定の戦い、神功皇后の「三韓征伐」と、壮大で華々しい叙事詩的な英雄譚が記述されていて読み応えがある。しかし、これらのエピソードは「神話」とは区別されているものの、多くの創作と潤色が取り入れられていて、そのまま史実として読み進んでいくわけにはいかない。とりわけ初代天皇とされる神武天皇の物語は「史実」の反映とは考えにくい。これが史実であるとすれば、「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」は直ちに問題解決。これ以上書くことは何もないということになる。すなわち、初期ヤマト王権は九州の、筑紫の日向の高千穂に天から降臨した天孫族ニニギの子孫が東征して大和に開いた「王権」「国家」であると。実際、明治維新以降、戦前まではこれがまごうことなき史実であり、それを疑うなんぞもっての他であった。しかし、戦後になり、そうした神話を基にした「皇国史観」の桎梏から解放され、古事記の記述を政治思想の問題としてではなく、客観的な(科学的な)歴史の問題として批判的に読み解いていこうとするアプローチが主流となった。したがって「神武東征」とは何か?資料の批判的解読、考古学的な検証等により新たな「タブーなき」歴史解明の研究が始まった。

そもそも神武天皇は実在の天皇であったのか?古事記の説明によれば、神武天皇の大和橿原宮即位の年、すなわち皇紀元年は西暦の紀元前660年(西暦に復元推定したものであるが)で、いまから2680年前ということになる。この暦年が正しければ日本列島が新石器時代、縄文時代後期で大陸から北部九州に本格的な稲作農耕文化が伝来する(弥生時代)以前の出来事ということになる。稲作農耕文化の進展の結果生まれ、弥生文化の特色とされる国(ムラ、クニ)も王(首長)も存在していない時代、1万年続く平和で持続可能な狩猟、漁労、採集社会、すなわち縄文時代の真っ只中に、突如九州から武力侵攻してきて大和盆地で「天皇」に即位し「朝廷」を開いたという展開だ。ちなみに中国では周から春秋戦国時代(秦の始皇帝成立の400年以上前)、インドでは釈迦が生まれる前、オリエントではアッシリア王朝の時代、ヨーロッパではペルシャと戦争しているギリシア時代、ローマ共和制の始まり。もちろん大和盆地からそのような「朝廷」の存在を示す紀元前7世紀の考古学的な証拠は出ていない。神武天皇の実在性が疑われる所以である。


神武天皇は初代天皇なのか?

その一方、神武天皇の即位が紀元前660年(縄文時代)は有り得ないとしても、日本書紀では初代天皇「ハツクニシラススメラミコト」として登場するのであるから、もっと新しい時代かもしれないが神武は初めての(実在の)天皇であったのではないかと考えることも有り得よう。しかし、古事記は神武天皇の後代にあたる第十代崇神天皇を「ハツクニシラススメラミコト」(初代天皇)と記述している。なぜ日本書紀は初代天皇が二人いるように語っているのか。なぜ古事記は神武天皇について必ずしも初代天皇であるという認識を語っていないのか。それには次のようなストーリーが考えられる。神武天皇以降、崇神天皇(和風諡号:ミマキイリヒコイニエミコト)につながる八代の天皇はその事績の記述もなく、いわゆる「欠史八代」と言われる。すなわち実在しない天皇であると言われている。実際の初代天皇、崇神の前に、伝説の初代天皇神武を起き、それに続く八代の(架空の)天皇を置いた。こうして天皇の起源をはるか古の昔に遡らせる事で(中国王朝や朝鮮諸国王朝に負けない)「悠久の歴史を誇る皇統」を物語って見せた。しかも(中国王朝とは異なり)天神の子孫として代々同一血統による「万世一系の皇統」であると主張した。古事記は天津神(アマテラス)の子孫である神武天皇(和風諡号:カムヤマトイワレヒコミコト)を「神代」と「人代」の皇統をつなげる天皇として記述したが、さらに日本書紀はその神武天皇を「伝説上の」初代天皇(ハツクニシラススメラミコト)と位置付け、「歴史上の」初代天皇である崇神天皇と並立させた。したがって実際には崇神天皇(大王)が初期ヤマト王権を大和纏向に打ち立てた実在の「初代天皇」と考えられる。3世紀後期のことである。


「神武天皇東征」は史実か? ヤマト王権(天皇家)のルーツは九州なのか?

さて、その神武天皇が筑紫の日向を出て、東征し、大和で即位して朝廷を開いたという事績(伝承)は歴史上の事実なのか。さすがに「神武東征」自体をを史実であるとする研究結果は示されていない。しかしこの伝承の背景についてはまさに「諸説在り」である。整理してみよう。

1)「神武東征」自体は史実ではないが「神武東征」伝承を生み出した背景には、王権の起源、出自を九州筑紫だとする何らかの出来事があったとする説
① 隼人、さらに遡れば狗奴国の末裔が東に移動し、大和に入ったとする説。
② 邪馬台国が東遷した記憶をベースに創作したとする説。
③ 倭国大乱の時に邪馬台国連合に敗れた勢力が筑紫を出て近畿へ移ったとする説。
などがある。いずれもヤマト王権のルーツは九州筑紫にありとする。

2)「神武東征」伝承は史実ではないし九州出自説も否定する。ヤマト王権はもともと近畿大和にルーツを持つ(大和に発生した勢力)とする説。
天津神アマテラスを皇祖神とする天皇家は、その天孫族ニニギの降臨の地である筑紫日向高千穂を起源とする(神話の世界)と謳い、太陽に向かう日向の地から出発して東遷し、各地を服属させながら大和に王権(天皇家)を開いたという神秘的な建国物語を創作したものに過ぎない、とする。


私見を述べると、神武天皇自体は、先述のように崇神天皇に始まるのヤマト王権の正統性とその権威を脚色するために、後世(8世紀初頭)古事記や日本書紀を編纂する時に創作された天皇であろう。すなわち実在しない天皇だということになる。しかし、ヤマト王権(崇神大王に始まる)のルーツは九州であったのではないかと考える。すなわち魏志倭人伝に記録のある2世紀中期の北部九州の「倭国大乱」ののちに、卑弥呼をいただく邪馬台国連合に破れ、あるいはそこから離脱した勢力が、筑紫を去り東に移動し近畿大和に定住したのではないかと考える。例えば、1世紀中(57年)に後漢に朝貢した奴国王(「漢委奴国王」金印をもらった)は、3世紀の魏志倭人伝の記録からは消えている。200年ほど前には倭国を代表して後漢に遣使するだけの勢力を誇り、鉄/ガラス生産を始めとする先進技術を誇った奴国の王はどこへ行ってしまったのか。金印を志賀島に埋めて筑紫を去った可能性がある。その東遷の過程で出雲勢力などと合流し、大和に遷ったのではないか。これがヤマト王権による大物主(大国主の国津神)祭祀(三輪山祭祀、出雲祭祀)の起源となり、アマテラス(天津神)祭祀(後に「皇祖神」となる)の起源ではないだろうか。そうした筑紫勢力とその王の移動の記憶が、神武天皇という伝説の初代天皇の筑紫から大和への「東征」の物語に投影して記述されたと考える。また、その神武の大和入りのルートは、672年の「壬申の乱」で大海人皇子が東国から吉野の国栖勢力の助けを借りて大友皇子(近江朝)打倒に向けて進撃したルートと極似しているところから、この行程を神武東征の熊野から吉野、宇陀を抜けて大和に進撃した話に利用したのではないかという説を唱える研究者も多い。大海人皇子こそ、即位後、すぐに古事記の編纂を指示した天武天皇である。このように「神武東征」伝承は、ヤマト王権のルーツの筑紫出自を物語るエピソードであり、これを直近の天武自身の勝利への進軍と重ね合わせて創作した「建国物語」であると考える。そういう意味で神武天皇は天武天皇の姿をモデルにした伝説の初代天皇だったのかもしれない。


このような地域勢力の大規模な移動はありうるのか?

「邪馬台国の東遷」は、前回の考察で述べたとおりで、無かったと考える。がその周辺の有力な筑紫勢力の移動はありうる。そもそも北部九州筑紫は、紀元前から大陸から移動してきた人々の一種の移民コロニー(中華文明の列島内最前線/フロンティア)的な様相を呈していた時期がある。その朝鮮半島や中国大陸から、王朝交代や戦乱や社会的混乱など様々な事情に伴う倭国への人々の移動(難民、亡命、ボートピープル)が、稲作文化や鉄器などの大陸文化を列島にもたらした。同様に稲作文化を列島の東に伝え、「弥生時代」を形成していったのも人の移動によるものである。2世紀中期に起きた「倭国大乱」も、中国の後漢王朝の末期に起こった混乱(184年の「黄巾の乱」など)が、列島北部の倭国における勢力構造/政治構造に波及し起きた可能性がある。その後、卑弥呼を女王として「共立」して邪馬台国を中心にした30カ国ほどの倭国連合が成立するが、その混乱の中から抜け出して東へ移動していった勢力があった事は十分考えられる。こうした大きな歴史のうねりが人の群れを動かし、その人の移動がさらに歴史を動かした。もう一つの歴史的事例は、6世紀の「筑紫磐井の乱」後に、敗者である筑紫王磐井側(邪馬台国の政治的末裔)についた安曇族が筑紫を脱出して東へ移り、信濃や全国に離散していった事実がある。このように動乱や戦乱でまとまった勢力が一族で他地域へ移ることは珍しいことではない。むしろそういった動きが歴史を作っていった(ゲルマン民族の移動の例を待つまでもなく)。3世紀の日本列島は想像する以上に人の移動、交流が活発であったことは考古学的にも実証されている。また列島内の文明の伝搬が大陸に近い西から東へと進んでいった事実からも、出雲や吉備ような有力な地域の勢力外にあった東の「無主の地」近畿大和に何らかの勢力(政治勢力)が移り住み、ここを拠点に列島を統一していった、という歴史のシナリオが成立してもおかしくない。


考古学的な証拠は確認できるのか?

考古学的にも、いくつかの点で傍証がある。筑紫では3世紀以前の首長墓(王墓)から大量の前漢、後漢、魏の銅鏡、銅剣、玉などの「威信材」検出されている(主なものでも伊都国の平原遺跡、三雲・南小路遺跡、奴国のスク岡本遺跡など)。さらに古いものでは紀元前後の「早良遺跡」からは、最古の「三種の神器」が副葬されているのが発見されている。しかし、大和では3世紀以前のものは見つかっていない。大型古墳が出現し、「三種の神器」のような威信材を含む副葬品が多く出てくるのは4世紀以降である。また鉄器や大陸由来の鉄素材も3世紀以前は筑紫から多く出土している(奴国のスク・岡本遺跡や比惠遺跡など)が、大和からは出てこない。また出雲地域は明らかに銅矛文化の筑紫からの移入や銅鐸文化との融合(荒神谷遺跡)、鉄器や墳墓における副葬品に筑紫の影響(西谷方形墓)が色濃く見える。邪馬台国連合との交流もあった可能性があるがその他にも、邪馬台国連合離脱勢力のもたらしたものが大きいのではないか。これらが完全にヤマト王権のルーツは筑紫にあり、と証明するには至らないが、列島支配勢力が筑紫から出雲、大和に変遷して行ったことをなぞる状況証拠にはなるだろう。


筑紫日向高千穂とはどこか?

古事記の上巻では、アマテラスの孫にあたる「ホノニニギ」(ニニギノミコト)は高天原から「筑紫の日向の高千穂のくじふるたけ」に天下ったとされている。神武天皇はこの高天原(天津国)から降臨してきた天孫族ニニギの子孫で(筑紫に生まれ育った)、ここから東の大和へ移って「朝廷」を開いたとなっている。したがって古事記の文脈から言えば「筑紫日向高千穂」こそ「ヤマト王権」の発祥の地であり、天皇家の故地であるということになる。ではそれはどこなのか? こうした天孫降臨神話に関しては中国東北部(旧満州)や朝鮮半島の新羅、伽耶王朝の由来を示す神話にも同じ話(穀霊神の降臨)がある。その起源はこれらの大陸由来の北方系神話にあると言ってよいだろう。「ホ(穂)ノニニギ」も稲作文明の象徴たる「穀霊神」である。天皇家が現在でも「大嘗祭」「新嘗祭」という稲作由来の祭祀を行っている由縁はここにある。一方で、男女神による国生み神話や、海彦山彦神話、天皇が神の子孫であるのになぜ寿命があるのかなどは、インドネシアや太平洋諸島由来の神話に同様のものが確認できるという。すなわちこれらは南方系神話が起源とされる。こうした北方、南方由来の神話の原型が両方取り入れられている点が古事記神話の特色である。そしてこうした外来の神話の舞台として筑紫=九州が想定されていることに注意すべきであろう。

こうして筑紫=九州が「倭国の文明の発祥の地」であるという認識、「ヤマト王権の発祥の地」であるという理解は8世紀当時のヤマト王権(天武、持統大王)にあっただろう。それは、天孫降臨も海彦山彦伝説も神武東征も筑紫=九州に起こったということを古事記も日本書紀も明確に記述していることから分かる。しかし、筑紫と言っても広うござんす。具体的にどこを指しているのか。筑紫は律令制以前には九州全体を指していた(筑紫島などの表現)が、しかし律令制による地方の国、郡制定以降は肥国、豊国などとともに北部九州を指すようになる。古事記の神話でいうニニギが降臨した「筑紫」はどこを指しているのか。大方の解釈は現在の宮崎県日向の高千穂峰であるとしている。しかし次のような記述からその位置が知れる。

古事記の記述によると、ホノニニギが「筑紫の日向の高千穂のくじふるたけ」に高天原から降臨してきた時、「ここは韓国(からくに)に向かい 笠沙の御前の真木通りて 朝日の直さす国 夕日の日照る国なり かれ 此地はいと吉き地」と言っている。これはニニギが「葦原中つ国」の光景を初めて見て述べた感想である。この形容から、南九州の日向国の高千穂峰であるとする解釈には疑問が投げかけられるであろう。ホノニニギの言葉は、海の向こうに韓国(からくに:空国)すなわち朝鮮半島が見える場所、太陽に向かった土地(日向(ひむか))を示している。南九州の宮崎県高千穂からは朝鮮半島も海も望めない。すなわち北部九州の筑紫の日向であることを示唆している。日向(ひむか、ひなた)と言う地名は、文字通り「日に向かう土地」という太陽信仰から発祥する地名である。かつての筑紫国、福岡県糸島市の伊都国から福岡市の早良国、奴国に向かう「日向峠(ひなたとうげ)」もその一つである。ここからは朝鮮半島も玄界灘も展望できる、しかも東には朝日がさし、西には夕日が美しいところである。まさに古事記に言うところの「天孫降臨の地」そのものの舞台設定である。「天孫降臨」伝承地は、こうしたことから全国各地の「日向」由来の地名のある場所にある。要するに日向国だけではない。しかも、古事記編纂の8世紀初頭には、律令制は未整備で、国としての「日向国」は成立していない。しかもここはヤマト王権に服属しない隼人の地であった。また高千穂という地名も「稲穂」に関わりのある地名で、すなわち新羅王朝の「穀霊神降臨」神話にもつながる「穂のニニギ」に因んで付けられた地名である。したがって(当時)稲作農耕に適さず、縄文的な生活文化が優勢であった隼人の地よりも、水稲稲作文化の先進地域であった北部九州の筑紫(奴国、伊都国や邪馬台国があった)がその地であると考える方が合理的であろう。


「神武東征」伝承の意味するところは?

こうして古事記の記述は、天孫降臨の地は、倭国文化の発祥の地である北部九州筑紫であることを示していると考える。初期ヤマト王権を打ち立てた(纏向の王、崇神大王)勢力は筑紫こそが自らの故地だと称え、古事記編纂時の天武/持統大王もそう認識していただろう。もっとも8世紀初頭の古事記編纂時には「倭国大乱」、邪馬台国卑弥呼の治世から500年以上経っているので、どれほどの記録と記憶が稗田阿礼や太安万侶の手元に残っていたのかは不明である。また崇神大王の時代に起こったと考えられる筑紫からの東遷の記憶が、のちの6世紀初頭の継体大王の時代以降に成立したであろう帝紀や旧辞に記述されていた可能性はあるが、これら資料は滅失し今となっては確かめる術もない。一方で記紀編纂当時、中国の史書、魏志倭人伝は既に成立していたから、そこにある「倭国大乱」の記述、その乱後の卑弥呼邪馬台国連合の成立、魏王朝への朝貢/冊封の記事は目にしていただろう。ヤマト王権の故地である筑紫における出来事の記憶を蘇らせることができたのであろうか。ただし、何度も述べてきたように古事記や日本書紀の成立の背景は、あくまでも「日本」は天神(高天原)の子孫「天皇」が建国した国(葦原中国)であって、けっして中国や朝鮮半島からの文明の移入に依って成立した国ではない。まして中華王朝の朝貢/冊封体制下にある東夷の国(筑紫の奴国、伊都国、邪馬台国のような)ではない。中国皇帝の支配する「中華世界」とは別に、独自に成立した天皇の「日本型中華世界」である。古事記も日本書紀もこうした国家の成立ちの主張と政治的意思表明の文書であるから、そのルーツが北部九州筑紫であることは認識しつつ、あえてその出自は(中華文化の影響の色濃い)北部九州ではなく、また袂を分かって出てきた邪馬台国連合でもなく、その北部九州と対立してきた隼人の地(かつての狗奴国)、未だまつろわぬ民の南九州の「どこか」ということにした。神話をより神秘的にする演出、それが日向高千穂であったのだろう。しかし出自の認識の根底には北部九州筑紫の故地があり、「韓国(からくに)に向かうところ」とニニギに言わせたところが「謎かけ」である。

ちなみに、古事記では朝鮮半島諸国(特に新羅、伽耶)についての言及はあるが中国王朝に関する言及はない。換言すれば中国王朝を意識していない。魏志倭人伝や後漢書東夷伝に関する言及も一切ない。この点が日本書紀との大きな相違点だ。天皇支配の範囲が列島と半島に及ぶという認識を示し、中国王朝との関係に「敢えて」触れないという姿勢に古事記の「世界観」「歴史観」が現れている。日本書紀は、それでは対中国王朝との関係で日本の存在感を示せないという政治的、外交的な意識が強く表明されていて、魏志倭人伝や後漢書東夷伝、晋書、宋書などの引用は(参照した形跡はあるが)避けられているものの、すなわちかつての倭王権の王たちの朝貢/冊封には触れないものの、中国王朝との交流(渡来人の活躍、遣隋使や遣唐使など)については詳細に記述している。古事記は漢字を用いた和語で国内豪族や朝鮮半島を意識して記述された「天皇の書」であるが、日本書紀は漢文で書かれた外交(対中国)を意識した国の「正史」である。記紀と一口に言うが、両書の歴史観、政治表明には大きな相違がある。


答えは出たのか?

さてここまで「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」という「謎解き」をやってみたが、お気づきの通りこれは歴史の解明とは言えない。推理小説の「オチ」に過ぎない。それは言い過ぎだとしてもあくまでも「仮説」の域を脱しない。神武天皇や神功皇后が実在でないことは歴史研究では定説となっているが、「神武東征」伝承に何がしかの歴史的な出来事が潜んでいるのか。あるいは口承で受け継がれる記憶に何らかの暗喩があるのか。まだまだか解明はできていない。まさに「諸説在り」なのだ。明確な証拠(新たな史料や考古学的発見など)が出てこない限り素人歴史探偵の推理に過ぎない。これを書くにあたって以前書いたブログを読み返してみたが、今回とほとんど同じ「推理」で、大きな進展が見られていないことに愕然とした。だがこれからは、さらにこの「仮説」の検証の旅を続けねばならない。やはり日暮れて道遠しだ。。


上巻)国生み神話、出雲神話、天孫降臨神話
 中巻)神武天皇の東征(東遷)〜応神天皇まで
下巻)仁徳天皇〜推古天皇まで