2021年8月25日水曜日

初期ヤマト王権はどこから来たのか?(第六弾) 〜とりあえずこのシリーズ完結編。で、謎は解明されたのか?〜

 

竜王山から展望する
初期ヤマト王権の地
左から大和三山、箸墓古墳、纒向遺跡、行灯山古墳、渋谷向谷古墳、背景は葛城山、金剛山、二上山



甘樫丘から見る三輪山

黒塚古墳頭頂部より箸墓古墳を展望

纒向居館跡発掘現場
背後には三輪山が


大和路散策もままならぬこの夏、夏休みの宿題じゃないけれど、「巣篭もり」中は充実の自宅学習で過ごす。NHK 文化センター講座の「日本古代史」をオンライン受講している。国際日本文化研究センター倉本一宏教授の明快な講義が腑に落ちる。もともと倉本先生の「戦争の日本古代史」「内戦の日本古代史」(いずれも講談社現代新書)、そして「大学の古代史」(山川出版)を読んで、我が日本古代史、特に3世紀倭国事情に関する疑問に見事に応えてくれる解説に感動していたこともあり受講することにした。論点はすでに理解しているつもりでいるので、6回シリーズの講義でこれまでの理解の整理を図り、あとはQ&Aによる論点解明が目的だ。講義は明快で論理的である。文献史学に考古学的研究成果も取り入れて、変なバイアスや「トンデモ異説」を廃した歴史観の提示であり、「素人歴史探偵」が喜んで飛びつくようなロマンチックで興奮するような物語ではない。歴史学に客観的という言葉が適切かどうかは別にして、通史として俯瞰的に眺めるアプローチと言ったら良いだろうか。すなわち邪馬台国近畿説、北部九州説云々という、少々地元が熱くなりがちな位置論争に巻き込まれることなく、3世紀当時の日本列島の姿を、そしてその国の有様を俯瞰する。邪馬台国や卑弥呼(3世紀の中国の史書三国志魏書にしかでてこない)は筑紫の地域連合とその首長の話であり、近畿大和の初期ヤマト王権とは別のものであるということ。当時の日本列島にはまだ統一的な王権など存在していなかったということ。これを明快に解説している。なぜ邪馬台国「近畿説」論者(依然として多数説とされるが)は無理に邪馬台国を奈良盆地の大和地区(あるいは纏向地区)に持ってきて、ヤマト王権、ひいては後世の大王家、天皇家につながるルーツだとしたがるのか?文献を読み返しても、考古学的な資料を見ても、なぜそのような結論になるのか?疑問を呈している。私も全てを先に決めている答えに無理やりこじつけているようで違和感を感じ続けていたので、先生の解説はいちいち納得であった。

倉本先生も指摘しているが、中国の三国志の魏書(いわゆる魏志倭人伝)にしか記述のない邪馬台国という北部九州の首長連合体の存在が、当時の列島全体の倭王権を代表していると考えること自体が、乏しい文献記述にこだわって惑わされている証拠である。まして三国志のなかでは魏書しか残っておらず、蜀書や呉書は失われていることから、魏と対峙して江南地方に勢力を有していた呉が倭国(近畿大和?)と交流していた可能性がないとは言いきれず、その記録が現存しないことも考慮しておくべきだとする。さらには、魏志倭人伝の記述を素直に解釈すれば「邪馬台国連合」が北部九州の範囲内であることは明確であるのだが、それを色々解釈を加えて(南を東と読み替えたり、距離を読み替えたり、地名を無理に当てはめたり)、どうしても近畿へ持っていこうとする。一方で、7世紀末から8世紀初頭に日本の天皇支配の起源と歴史と正当性を記述した日本書紀や古事記では「邪馬台国」「卑弥呼」に触れていないし、編者は魏志倭人伝を参照しているにもかかわらず、その記述をどのように位置づけるか述べていない。すなわち、記紀では邪馬台国や卑弥呼を天皇家のルーツとはみなしていない。3世紀半ばの列島は、いくつかの地域首長の国・クニや、その地域連合が各地に併存していた時期で、まだ統一的な王権など存在していない。のちに大和盆地に起こった初期ヤマト王権も、徐々に筑紫や、吉備、出雲などとの緩やかな首長連合を形成してゆく(古墳時代)が、統一的性格の「王権」「大王」が現れるのは5世紀の雄略大王の頃だし、血統による世襲、すなわち皇統(「万世一系」の)という概念が成立するのはさらに継体大王の時代6世紀以降の話だ。それでもなお大王が豪族・氏族を束ねる力は強いとは言えず、7世紀、8世紀初頭の古事記、日本書紀でようやく天皇を名乗り皇統の系譜が整理され、地域の豪族や氏族ごとの神々の体系化(皇祖神を中心とした同族化)が記録されるようになった。こうした史実にもかかわらず、近畿説論者は、3世初頭にはすでに列島には統一王権が存在し、それが後の天皇家のルーツであると主張する。もっとも、そう言っている人も「なんかおかしいぞ」と感じながら「まあ細かいことはいいじゃないか!」と主張を曲げていない気がする。こうなると、何らかの政治的な意図の発露か、あるいは地元に観光資源を確保したい自治体の思惑か、ロマンチックなフィクションの創出か、いずれにせよ学問の話ではない。

また倉本先生は、考古学的な年代確認手法とそれに基づいた時代確定にも疑問を投げかけている。纏向遺跡や箸墓古墳の炭素年代測定法による、邪馬台国・卑弥呼と同時代の「3世紀中」推定だ。毎回測定するたびに時代が遡ることにも不思議さと違和感を感じるという。邪馬台国、卑弥呼が存在した時代に合わせるように遡らせる考古学者。マスコミ、地元自治体という構図なのか。倉本先生の「余談」によれば、纒向遺跡研究の第一人者である寺沢薫先生も、もはや地元とマスコミに押し切られて、自説を訂正できなくなっているという。どこまでホントなのか知らないが、言い出した以上引っ込みがつかない事は研究の世界でもあるかもしれない。きっと王の纒向居館遺構も盟主墳である箸墓古墳も、「環濠集落」形態の国/クニで特色づけられるチクシの邪馬台国よりは、もう少し新しい時代の遺跡ではないのか?という素朴な疑念である。炭素年代測定法という「科学的証明」の信頼度と、文献史学的な「整合性」との相剋だ。木を見て森を見ない断定は危険ですらある。そこに何らかの政治的、利害的な意味合いや意図を潜り込ませうる余地があるからだ。

いわゆる「邪馬台国論争」についてはこれまでのブログで私論を述べてきたし、倉本先生の論考で整理され私なりの結論は出たので、ここで改めて繰り返さない。そこで、やはり問題は「初期ヤマト王権(倉本先生は「倭王権」と呼んでいる)はどこから来たのか?」「彼らは何者なのか?」ということに行き着く。以前のブログでも考察してきたが、意外にこの「日本という国家の成立起源」がよくわからないことに気付かされる。今までは邪馬台国がそうだ、とあまり深く考えずに片付けていたのだが、そうでないとすれば、大和に発生したという日本のルーツは奈辺にあるのか。Q&Aセッションでは下記の質問に丁寧に解説を加えていただいたが、やはりスッキリと謎の解決には至らない。まだまだ未知の部分が多いと感じた。


1)そもそも初期ヤマト王権の勢力はどこから来たのか?大和盆地の土着勢力が発展したものか?外来勢力が「無主の地」に移住して成立したものなのか?

2)なぜ、奈良盆地が倭王権・倭国の中心になったのか?

3)チクシ王権が魏に朝貢し冊封を受けたのに対し、ヤマト王権が中国の呉王朝と通交があったとすれば、その証拠は出ているのか?

4)3世紀以降、奈良盆地になぜ古墳がこれほど大規模に築造されたのか?


1)唐古・鍵遺跡に代表される奈良盆地の複数の弥生以来の農耕集落を起源とする土着勢力が糾合して成長し、初期ヤマト王権を形成し、三輪山の麓に纏向王都を形成したのであろうとする。これは以前のブログで紹介した、奈良文化財研究所の坂靖氏が「ヤマト王権の古代学」で結論とした「土着説」と相通じる見解である(初期ヤマト王権はどこから来たのか?第五弾https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/06/blog-post_30.html)。「神武東征」伝承などに引っ張られがちであるが、外からの勢力が「無主の地」奈良盆地に移住してきてできた王権ではないだろうとする。吉備や、出雲、筑紫からも人は集まってきただろうし、多くの影響(祭祀、葬祭儀礼、古墳などに)を受けているが、ここで首長となるような勢力にはならなかったとする。ただ、特定の勢力が王権を最初から独占したのではなく、初期には大和・河内あたりの地域勢力の首長間のいわば持ち回りのような形であったのではないかと推測している。その証拠が首長墳、盟主墳である古墳群が盆地のあちこちに点在していること。大和古墳群、柳本古墳群、佐紀古墳群、馬見古墳群、古市古墳群、百舌鳥古墳群などである。盟主墳が次々場所を変えて造営された背景はこれだという。これまでの、三輪王朝、葛城王朝、河内王朝などが盆地内、河内で王朝交代を繰り広げたという説を否定するものだ。いずれにせよこうした狭い盆地内での各集落同士の寄り合いや談合の中から王や、さらにその上に立つ大王が生まれてきたのだろうということだ。しかし、なぜそのような盆地内の在地勢力が、列島他地域に優越し、全体を統治する勢力に育っていったのか。依然としてまだモヤモヤが払拭できない。やはり「王権の成立」には「大陸との通交」という東アジア的な視点に基づく地政学的な研究を無視し得ないのではないだろうか。その視点で考えると大陸の影響を早くから受けてきた西日本の先進地域(筑紫、出雲、吉備などの)と無関係に、急に奈良盆地の大和が高度先進地域に発展したとは考えにくい気もする。奈良盆地に移住してきた勢力や外来勢力の存在が鍵になっていることを否定はできないのではないか。

2)次に、なぜ奈良盆地なのか?これは謎だという。王都は交通の便が良い大阪湾岸、河内でも良かったはずだと。筑紫、出雲、吉備などの西日本との緩やかな首長連合が成立したので、次は東の国や首長との連合を目指した初期ヤマト王権が、西の瀬戸内海と東の伊勢、尾張との交通の要衝であった三輪山麓に交易拠点を設けたのではないかという仮説を示している。纒向は瀬戸内海と、大和川水系を利用した水上交通を運河で結ぶ交易の結節点という遺跡である。全国からの土器が出土していることから、ここが開かれた初期の「都城」であったらしい。しかし100年でその姿を消している。かといって盆地の外へ「都城」が移転したのではなく、盆地内で拠点が移動している(奈良盆地を出て北の山城国に移転するのは794年のこと)。なぜ、そんな箱庭のような狭い盆地の中で主導権争いに終止していたのであろうか。それが日本列島全体に大きな影響を与え得た理由は何なのか。1〜3世紀のチクシ王権(奴国、伊都国、邪馬台国)の有り様を見ていると、大陸の強い影響下にあり、王の統治権威や権力基盤、鉄資源を主とする経済的な優位性も、中華王朝の朝貢冊封体制下(東アジア世界的な秩序)にあったことを考えると、外界から適度に隔絶された奈良盆地に成立したヤマト王権の統治権威、権力、経済基盤がこうした東アジア世界的秩序と無縁で、大陸の影響なしに確立できたとは考えにくいのではないか。それともチクシ王権とは異なる求心力があったのだろうか。

3)そういう視点からも、3世紀に江南の呉との通交があったのではと推測するのであるが、呉との通交の証拠で確実なものはまだ見つかっていない。中国側の文献史料(三国志呉書のような)が逸失している以上、何らかの物証が日本側で発見されることが期待される。特に大陸との朝貢冊封関係や通交を示唆するような印綬や「威信財」が盟主墳墓から出てこれば有力な証拠となる。しかし、多くの盟主墓と考えられる前方後円墳が陵墓指定されているため発掘調査ができないから調査しようがないという。またそれ以外の古墳(実は未指定の大王墓があると考えられている)の多くが盗掘されており副葬品の出土が少ないという。他の墳墓でいくつかの呉鏡が見つかっているし、呉の工人が存在していたらしい痕跡(仿製鏡の工房など)もある。しかし、そもそも奈良盆地の3世紀以前の遺跡から王権の存在や大陸との通交を推測させるような遺物・威信材は見受かっていない(前述の坂靖氏の「ヤマト王権の古代学」)。初期ヤマト王権と呉王朝との通交(朝貢冊封関係)はまだ推測の域を出ないのだはないかと感じる。やはりここでもチクシ王権(奴国/伊都国/邪馬台国)がその統治権威を中国王朝との朝貢冊封関係によって得ていたこと、その証拠としての金印や、王墓から大陸由来の鏡、剣、玉などの威信財が大量に出土していることを鑑みると、今後の考古学的発見に期待するものの、初期ヤマト王権と中国王朝との通交の痕跡が乏しい感は否めない。そうなると、再び3世紀の初期ヤマト王権の統治権威の基盤はなんだったのだろうという疑問が湧いてくる。

4)そこで古墳の持つ意味合いが重要になってくる。大和盆地に発生した我が国に特有の前方後円墳は、ヤマト王権を特色づける重要な考古学資料であるが、単なる首長の墳墓(盟主墳)ではなく、葬送儀礼や前方部は祭祀や即位儀礼の場であり、しかも葺石で覆われた建造物自体が権威/権力を表象する巨大なモニュメントとしての意味合いがある。これが国内に置ける政治的な同盟、同祖同族関係の証しとして全国に広がっていった。すなわちヤマト王権から統治権威を地方に与える意味を持っていたと考えられている。しかし、箸墓古墳や渋谷向山古墳、行燈山古墳、メスリ山古墳などの初期の大型前方後円墳の築造が、本当に3世紀初頭〜中期(魏書に言う邪馬台国/卑弥呼の時代)なのか?前述のように多くの考古学者は炭素年代測定法という「科学的計測」によっているので、間違いないと信じているようだが、サンプリングによる計測精度に誤差は全くないのか?また、その時代の列島内の先進地域であったチクシ倭国の農耕環濠集落(戦闘/防御を意識した集落)形態の国の姿(吉野ヶ里の姿に象徴される)と、ヤマト倭国の都市(防御施設がなく運河、河川で外部と繋がっている)形態を有する国の姿(纒向に象徴される)とが、全く同時代とはどうも考えにくい。前方後円墳のような巨大な構造物も弥生の香りを残す環濠集落(例えば唐子・鍵遺跡のような)と同時代的に併存するものではないのではないか。これらの大型前方後円墳は早くとも3世紀末期のものではないかと推測する。4世紀に入ると中国は魏や呉の末裔である晋が滅び、五胡十六国の混乱の時代に移ってゆくことから、周辺国(いわゆる蛮夷の国々)は中国王朝との朝貢冊封関係が揺らぐ事態となる。そうしたなかで倭国では新しい統治権威の確立、新秩序の模索がはじまっていたとも考えられる(魏王朝と晋王朝という統治権威の後ろ盾を失ったチクシ倭国の邪馬台国は衰退していったのだろう)。大和の古墳はその象徴的な遺跡であろう。そういう意味では古墳は4世紀以降に普及していったモニュメントであると考えるのが妥当ではないのか。なお古墳は大陸からの影響は考えにくい倭国独特の施設だ。吉備の特殊基台、出雲の四隅突出型古墳。筑紫の威信財副葬形式などが集合してできたと考えられる。なぜこのような墳墓形態が生まれたのか。どうしてこれが奈良盆地発の統治権威や同祖/同族のシンボルとして列島統合に用いられたのか。じつはあまり分かっていないことの方が多い。最近、韓国で前方後円墳が見つかったと話題になっており、韓国の考古学会では、やはり前方後円墳は半島由来ではないか、と発掘調査を進めた。しかし、結局は6世紀以降の築造であり、むしろ倭人の半島進出に伴う倭系有力者の墳墓であることがわかってきている。だが、このような巨大な施設や土木工事技術が、列島内で、さらにいえば奈良盆地や河内で独自に発展したものなのか明らかではない。何らかの渡来系の集団の技術ノウハウが伝わっているのではないだろうかとも考える。ちなみにチクシ王権の地、北部九州には、3世紀時点では大和で見られるような大型前方後円墳は見られず、大陸由来と思われる墳丘墓が中心である。このように大規模古墳がヤマト王権を特色づける統治権威のモニュメントであることは疑いないが、その全容はまだまだ解明されていないと感じる。

残念ながら、今回はこれら全ての謎の解明には至らなかった。やはり「初期ヤマト王権」のプロファイリングには未知なる部分があまりにも多い。明治維新後の「天皇制」や「国体」につながるルーツの歴史であり、戦後は皇国史観が廃されたとはいえ、日本の起源に関する歴史であるが故に、さまざまな憶測や思惑も絡む。そして、まだまだ限られた文献史料、考古学的資料に依拠する議論であることが謎の解明に立ちはだかっている。新しい発見とこれからの更なる研究成果と斬新な仮説が待たれる。まあわかってしまうとこれ以上探求する興味も失せてしまって、やることがなくなるのでいけない。幸いなことに、これからも「時空トラベル」は終わることはなさそうだ。


三輪山山麓に広がる初期ヤマト王権の所在地、纒向遺跡
箸墓、他の前方後円墳群
(桜井市纒向学習センターHPより)


(掲載した写真は、2012年三輪山、箸墓古墳、纒向遺跡発掘現場、龍王山を訪ねた時のもの。撮影機材:Nikon D800E + Nikkor 24-70, 70-200)




「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」シリーズ、過去のブログ

2020年4月15日:第一弾 https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/04/blog-post_15.html

2020年4月27日:第二弾 https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/04/blog-post_27.html

2020年5月8日:第三弾 https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/05/blog-post.html

2020年5月26日:第四弾 https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/05/blog-post_26.html

2020年7月1日:第五弾 https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/06/blog-post_30.html

2020年12月26日:プレゼンテーション資料 
                                                                                                                                                                                https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/12/blog-post_26.html










2021年8月8日日曜日

パラドックスの夏が終わった 〜「これにて一件落着」なのか?〜

 

お台場に設置された聖火台

閉会式


緊急事態宣言下で外出自粛を求められるなか、64年の東京大会を観た「昭和老人」にとってオリンピックのテレビ観戦は、退屈で鬱々とした巣篭もり中のまたとない時間潰し、いや楽しみとなった。あんなに「こんな時にオリンピックやるなんておかしいじゃないか!」と息巻いていたのに、アスリートの活躍に歓喜し、興奮し、涙し、そして金メダルの数をカウントして朝から晩までテレビに齧り付いている自分を見て、まさに奴らの「術中にはまった」と苦笑いする日々であった。あのSNS上を席巻した怒りのコメントはなんだったのか?上から目線のボヤキ漫才?いや老人性パラノイア、はたまた老人性不定愁訴だったのか? 無観客試合という異例の開催が、自宅でのテレビとネットにかじりつかせることになったことも皮肉だ。頑張ってチケットを手に入れた人には残念だろうが、我々のように一枚もチケットをゲットできなかった「ドンくさい」人間には、小さな声で「ザマアミロ」と快哉を叫び、下劣な溜飲を下げるTV観戦だ。もっとも開会式と閉会式のチケットに大枚叩いた人たちの間では、このTVを観て「これにこんな大金払わされるなら払い戻してもらう方がよかった」との声も...まさかの「金返せ、金返せ」コールというわけだ。

事前の人選トラブルが相次いだ因縁の開会式と閉会式の出来栄えについては敢えてここではコメントしないが、しかし観客席に人影もなく歓声なく、静寂の中でただただアスリートが真剣勝負で競い合う姿が新鮮であった。がらんとした競技場にアスリートの掛け声や息遣いが遮るものもなく響き渡るオリンピックはそうないだろう。また世界が注目するイベントに海外から人々が集まり交流する祭りを求めることも不自然ではないが、こういう時期だからそういう祝祭の色合いは取り除かれても仕方ない。天皇陛下も開会宣言で「祝う」というお言葉を使われず「記念する」と述べられた。アスリートは、こういう困難な時期に開催されたことに感謝し、「ありがとう東京」の言葉を異口同音に語る。そして、だからこそこれまで磨いてきた技と力を、こうして与えられた舞台で出し切るべく競技に専念する。ある意味でのスポーツの原点を見た感じがする。もちろん海外からの観客はなく、選手団/関係者/マスメディアなどの多くの海外からの訪問客との交流はシャッタアウトされ、街に親善友好、祝祭のムードはない。期待する経済効果もなかった。本来ならこれだけでも開催する意義は半減しただろうが、そこはそれ「アスリートファースト」のIOCだ。競技さえできれば他のことは良い。どうせ放映権料を取っているのでTVで観れば良いのだし、開催さえしてくれればよいのだ。まして開催国の国民にパンデミックの厄災が及ぶかどうかIOCの問題ではない、それは開催国の責任だろう...と。

こうして強行されたオリンピックは、始まってみると多くの国民がテレビ、ネットで観戦し、コロナコロナで鬱々とした日常に束の間の非日常的なわくわく体験を思い起こさせてくれた。アスリートの活躍に元気をもらい、そしてアスリート同士の敵味方を超えたフェアプレーとレスペクトに感動をもらった。日本は史上最多のメダルを獲得し高揚感に包まれた。結局はメダルの数が大会が成功か否かを評価するのだと人は言う。だとすればこの東京大会は日本にとって大成功であったことになる。政府、大会関係者は胸を撫で下ろしているのだろう。そして、やはりこのTokyo 2020に「感動」した我々は、まんまと為政者の「策略」にはまってしまったのか? いやそうではあるまい。オリンピック開催さえすれば、なんだかんだ言ってもコロナの鬱憤を晴らし、日本選手の活躍でメダルラッシュとなれば、コロナ対策でミソつけた政権に対する国民の不満も和らぐに違いない(選挙で勝てる!)。そういう読み/期待は、開催期間中に起きた異次元の感染爆発(ついに全国で史上最多の1日の感染者15000人超)と、現場の医療崩壊危機。それに対する相変わらずの政治の迷走、思考停止に儚く潰え去った。オリンピック開会式セレモニーというスイッチが入って、一瞬、パンデミックからオリンピックへとモードが切り替わったかに見えたが、夢の饗宴に酔いしれた17日間は、閉会式と聖火の消灯とともに消え去った。たちまち酷暑の夏と、まだそこにいるパンデミックという悪夢のような現実に引き戻された。政府はコロナの感染爆発とオリンピック開催は関連性がない、と述べているが、オリンピック関係者の感染は450人を超えた。組織委員のバブル方式は機能したのか。その検証はなされていない。海外からの持ち込みだけでなく、日本からの持ち出しはこれからだろう。これからどういった影響が出るのか経過観察が必要だろう。また世論調査では60%がオリンピック開催で、緊急事態宣言と言われても開放感と気の緩みが出た、と答えている。「緊急事態宣言」と「オリンピック開催」というパラドックス。「真夏の夜の夢」の後に残った未曾有の感染爆発と、一年の延期と無観客のオリンピックで残った膨大な赤字と借金、そして危機的な日本の政治と経済の劣化という置き土産を目の当たりにして、国民は現実の厳しさに気付かされる。すでに当初の予定を大幅に超えてしまった1兆6千万円大会経費の回収は無理だ。誰がそのコストを負担するのか?そして商業主義主導で金にまみれ、政治をも動かすオリンピック興行主というIOCの正体も見てしまった。なぜこんな酷暑の夏に競技を集中させるのか。開催国だけでなく世界中がパンデミックで苦しんでいるのになぜ開催を強行するのか。素朴な疑問が湧いてきて、そうだったのか!と現実を知る。そもそもオリンピックって何?誰のためにやるのか?という根源的な問いにもぶち当たったこの夏である。

今回、オリンピック史上も前代未聞の大会となったことは間違いない。パンデミック下の一年延期、無観客、聖火リレー/交流行事中止など異例ずくめの開催。この東京大会は後世にどのように記憶されるのだろう。今回の緊急事態宣言とオリンピック開催という二律背反のパラドックスは、普段気づかない色々なことを気付かせてくれた。その一つが政治やこの国のリーダのあり方である。非常事態下におけるオリンピック開催強行は、為政者が目論んだような、国民の不満をそらして、政治への信頼回復(選挙で勝つ)や、国威発揚や、愛国心の醸成を生み出したわけではなく、むしろ皮肉にも為政者やリーダー、社会的エリートと言われる人々の、いざという時の混乱と迷走を露呈したように思う。オリンピックにしろパンデミックにしろ頑張って結果を出したのはアスリート、ボランティア、大会スタッフ、そして医師、看護師、保健師、警察官、自衛隊員、救急隊員、エッセンシャルワーカーなどの個々人であったということ。要するに現場で全ての仕事を額に汗し、手を汚し、足を動かして走り回って実行し、目的の遂行を支えた人々であったということ。彼らの努力と活躍がなければ、困難な環境下での大会運用もできなかったし、アスリート自身の努力がなければメダルラッシュもなかった。短時間での大量のワクチン接種も進まなかったし、通常医療を抱えながらの感染症対策医療現場での命の救済もできなかった。結果を出したのは彼らだ。海外のメディアから、困難な時期の開催に謝意が示され、SNS上に多くの賞賛のコメントが投稿されているのも、こうしたアスリートの活躍や現場を支えた人々へのそれだ。一方でこうした有事における事態把握、課題認識、方針/政策決定、具体的な対処責任を負う政治家、官僚、リーダーと言われる人たちは国民の負託に応える結果を出せていない。国民の不安と懸念を振り切ってオリンピックは強行して終わらせたが、パンデミックは終わってない。経済の回復もまだだ。事態を見据える視座、合理的な判断力に欠け、国民への共感力も、事態の推移の想像力も欠如し、迷走と妄言をかさねたあげく、矛盾した結論へと突き進んだということになってしまっている。「上は三流だが現場は一流だ」と揶揄される所以だ。あの戦争へと突き進んだ顛末を彷彿とさせる。そして完全な破滅に直面しているのに終戦の意思決定を躊躇していた事実(おりしも76年目の広島、長崎原爆忌である)。トップの意思決定に合理的な根拠がなく優柔不断であること。失敗を認めない、都合の悪いことはなかったことにする思考回路。「根拠のない楽観主義」と「無謬性」という虚構。責任の所在を曖昧にする組織風土。これまでの歴史にたびたび出現した問題解決に取り組む「組織風土」の宿痾がまた今回も再現された感がある。

最後に、最初にスルーした開会式、閉会式の出来栄えの話についてやはり一言付け加えたくなった。厳しい評価の根っこにあるのは、要するに何をメッセージとして世界に伝えたいのかがはっきりしない、ということに尽きる気がする。このコロナパンデミックに見舞われる世界で、今行われるオリンピックにことよせて何を伝えたいのか。「あなた」のメッセージが「我々」に伝わってこないのである。「復興五輪」なんて本当に考えていたのか?と言いたくなるほどぐだぐだになってしまった。一つ一つのパフォーマンスや演奏や寸劇、ダンスは一流のパフォーマーや演奏家、歌舞伎役者を動員しているのだが、パーツである「コント」が全体としてのモティーフ、ストーリーに繋がらない。盆踊り、東京音頭、歌舞伎、和太鼓はこのストーリー上になければ、唐突な昔ながらの日本文化紹介コーナーにしか見えなくなる。参加者であり主役のはずの各国選手は3つに分断されたエリアに閉じ込められて、イベントに参加することもなく、「ショーの傍観者」になることを強いられている。ストーリーライター、総合プロデューサーがいない。指揮者のいないオーケストラだ。政治、経済、企業にビジョナリーリーダーがいない、全体最適を図れるリーダーがいない状況と同じだ。人々を惹きつけ、共感を生み、想像力と期待を掻き立てるものが感じられない。閉会式で披露された次期開催都市パリのフランス国歌演奏に合わせたParis 2024のビデオメッセージは、大勢のパリ市民の参加を得て簡潔で明快なパリオリンピックへの期待感を沸き起こす表現とストーリーでまとまっていた。比べるわけではないが、日本の総合的なプロデュース力、オーケストレート力との違いを見せつけられることになった。いやそうは思いたくないが総合的な文化発信力の違いかもしれない。そもそも例の如く電通に丸投げして、お笑い芸人を総合プロデューサーに起用している段階で、もはや限界かな?と。そしてこの開会式、閉会式のメッセージ不達が今の日本が置かれている状況を象徴しているように感じた。例に挙げるまでもなく、言葉によるメッセージ力がキモであるはずの政治家の、演説/スピーチや国会答弁、プレスコンファレンスでの原稿ボー読みを見るとよくわかるであろう。少なくとも間違えないように読んで欲しいものだが、読んでる本人が書かれている中身のメッセージやビジョンを共有してないから、2ページも読み飛ばしても本人は文脈の不連続に違和感を感じないのだ。リーダーに求められる能力とは何か?日本に欠けているものは何か?大きな課題を突きつけられている。開会式、閉会式の空虚感は日本の抱える課題を象徴している。


Paris 2024
次期パリ大会開催に向けたポスターの一つ