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2020年4月27日月曜日

初期ヤマト王権はどこから来たのか?(第二弾) 〜邪馬台国はどこへ行ったのか?〜


魏志倭人伝の記述に加えてに記紀の記述から想定して描いた3世紀の「倭国地図」と朝鮮半島



プロローグ

日本の古代史を探訪するにあたって大きなハードルとなるのは、その文献資料の少なさである。もともと文字を持たない3世紀倭国の時代を探ろうというのだから自ずと限られているわけだ。手掛かりになるのは当時の倭国の模様を記述した中国の史料である。あるいは、考古学的に発掘、発見される石碑や金属製の剣などの威信材や祭祀に用いられる鏡などに刻まれた文字(金石文と言われる)である。一方で8世紀初頭に我が国で編纂された「歴史書」、古事記や日本書紀(記紀と総称されている)は、その成立の経緯から、必ずしも史実を客観的に記述した史書というより、古来から語り継がれた伝承や、口承による神話や物語を、当時の政治的な意思表示(天皇支配の正統性の宣言)の観点から採録、編集、あるは創作し、編纂した文書である。我が国に残る最古の第一級文献資料であり貴重であることは間違いないが、歴史研究の観点からこれをどう取り扱うかは、それ自体が研究対象になりそうなテーマである。したがって記紀資料から当時の歴史的な出来事を追いかけるのではなく、中国の史書や金石文、などの編年体(暦年がわかる)で記録された資料に記述されている出来事を時系列に追いかけてゆき、記録が飛んでいる部分、ミッシングリンクは想像力を駆使して全体を(通史として)俯瞰した上で、記紀の記述に立ち返ってゆく。その中から史実として掬い上げれそうなエピソードを読み取り、照合し検証してゆくという手法をとることにした。したがってこれから先の考察は、証拠に基づく「立証」ではない。証拠となるであろう考古学的資料や文献資料が登場するまでの「推理」である。確かに無謀な試みで、研究者は決して取らないアプローチであろう。怖いもの知らずは素人の特権だ。

なお、以下の考察は、邪馬台国はヤマト王権、大和朝廷のルーツではない。邪馬台国は近畿ヤマト王権とは系譜的なつながりのない、北部九州の(チクシの)王権であるという仮説を前提とする。逆にこの考察を進めていくに従って、この前提が正しいものであることを確信させる結果となるであろうと期待している。

初期ヤマト王権はいかにして成立したのか、彼らはどこからきたのか。一朝一夕には答えの見つからない問いだ。その問いにいきなり食らいつく前に、初期ヤマト王権はいかに三輪山の麓で倭王権として成長し、大王(おおきみ)となり、やがて天皇(すめらみこと)になっていったのか。そして、ヤマト王権とは王統のつながりが無いと考えられる女王卑弥呼、壹与。その邪馬台国(チクシ王権)はその後どうなったのか。ヤマト王権と天皇にとってどのような関わりを持っていたのか。あるいは持っていなかったのか。3世紀から7世紀までの邪馬台国(チクシ王権)とヤマト王権の変遷を年表(タイムライン)を追いながらに整理し、その成立過程を俯瞰してみたい。


3世紀の倭国

概観
北部九州の邪馬台国(仮に「チクシ王権」と呼ぼう)の時代。祭祀の主催者である卑弥呼が女王として倭国30か国を統治。中国魏王朝への朝貢/冊封による倭国統治権威の保持。しかし列島全域をまとめる勢力は未だなく一種の群雄割拠時代。邪馬台国も倭国を代表する勢力ではなかった。列島内には各地に有力な地域勢力(上記の図のように出雲や吉備など)が成立し始め、それぞれが分立、割拠していた。そのなかで奈良盆地にも新たな勢力、すなわち初期ヤマト王権が誕生。

チクシ倭国の出来事(魏志倭人伝の記述による)
227年:邪馬台国女王卑弥呼、魏王朝へ朝貢/冊封、「親魏倭王」の印綬
247年:邪馬台国、狗奴国との戦闘、 魏の告諭
248年:卑弥呼の死
250年:邪馬台国女王壹与、魏王朝へ朝貢/冊封
266年:邪馬台国女王壹与、晋王朝へ遣使(邪馬台国ではないとの説もあり)

ヤマト倭国の出来事(日本書紀、古事記の記述と考古学成果から推定)
3世紀中:纒向遺跡、箸墓古墳(大和古墳群)(初期ヤマト王権の出現)
記紀にある第十代崇神天皇(みまきいりひこいにえ)即位(「三輪王朝」)
三輪山にて大物主祭祀を開始
四道将軍(王族将軍)による、丹波、北陸道(古志)、東海道(尾張)、西海道(吉備)の平定、服属。
外交の記述なし。大陸との通交はあったか?(纒向遺跡の「桃の種」出土:道教の祭祀の痕跡?)魏に対して、呉との通交はあったか?


上図は魏志倭人伝の記述と、記紀による記述とを組み合わせて3世紀当時の倭国(列島)の有様を推定復元してみたものである。3世紀の列島内には国、ないしは小国の地域連合が各地にあった(のちの律令制下でこれらが国や郡になる)。そのうちの有力な国/連合は稲作農耕に適した平野や水利に恵まれ、海や大河のような水運の利便性を享受できるところに成立していた。とりわけ日本海に面した筑紫(邪馬台国連合30か国)や出雲、丹波、高志(越)は直接大陸との通交ができる有利な地域に位置していた。日本海は中華文明の恩恵に浴することができる「文明の海」であった。朝鮮半島南部加耶(狗邪韓国)の鉄資源へのアクセスに有利な地域である。列島内でも、これらの地域は相互に日本海沿岸航海によって鉄や玉、碧玉、稲もみを交易材として交易していたことが考古学的にもわかっている。中でも朝鮮半島に近い北部九州、筑紫は紀元前、弥生時代の初めから大陸文化の玄関口として、あるいは中華文明のフロンティアといて繁栄してきた。ここに後漢に朝貢した奴国や伊都国、そして魏に朝貢した邪馬台国があったことは不思議ではない。3世紀の日本列島は日本海に面した地域が先進的な文化圏であったという地政学的な事実をまず確認しておこう。

ところがそうした時代の地政学的な「常識」の中で、なぜ(海に面していない)山に囲まれた奈良盆地に「大和国」が生まれたのか?そしてなぜこの大和国が倭王権(ヤマト王権)の揺籃の地となったのか。ここには自然発生的に生まれた稲作農耕集落が、やがて村になり、国になっていったという弥生的稲作農耕集落の発展系といった成り立ちとは異なる物語があったように感じる。奈良盆地にも弥生の農耕環濠集落遺跡である「唐古・鍵遺跡」がみつかっているが、これがヤマト王権の中心地であったり、のちに纏向遺跡に移行した形跡はない。奈良盆地の纒向遺跡の方位を意識した計画都市の姿は、全く新しい人工的な「王都」の姿であり、北部九州の吉野ヶ里遺跡に代表されるような環濠集落の姿とは全く趣を異にする。また列島各地から人や物が集まってきた痕跡が検出されている(各地の特色を持った土器が多数見つかっている)。一方で、3世紀以前の地層からは北部九州で見られるような「王権」の存在を窺わせるような遺物(剣、銅鏡、玉のような威信材)は見つかっていない。どうやら3世紀に新たに出現した「王都」らしい。

発掘された纏向居館の主は、おそらく崇神大王(みまきいりひこいにえ)であろう。記紀では第十代天皇とされているが、実在の天皇(大王)の初代は崇神大王であるというのが学界の定説になりつつある。神武以降、事績の記述のない、いわゆる「欠史八代」の天皇は実在しない架空の天皇とされている。崇神は三輪山山麓に拠点を置いた最初のヤマト王権の王であっただろう。記紀でも初代天皇とされる神武天皇と同様に「ハツクニシラススメラミコト」(最初に国を開いた天皇)との和風諡号を持っている。そこで「三輪王朝」の始祖と呼ばれることもある崇神大王だが、彼はどこからきたのだろう。ルーツはどこにあるのか。先述のように、ここに自生した集団、一族というよりは、いわば「無主の地」に移動してきて、ここを拠点に定めた可能性があると考える。記紀にある、出雲大国主命の「国譲り神話」や、筑紫の日向の高千穂の「天孫降臨神話」、「神武東征譚」に何がしか出自のヒントが潜んでいるのだろうか。しかし、これらの神話、伝承は7世紀から8世紀初頭に採録されたものである。400年以上も前の(文字のない時代の)「歴史の記憶」が正確に伝承されていたのだろうか。口承神話、伝承は必ずしも史実に基づくものばかりではないし、記紀の編纂者が、古い伝承や逸話をオリジナルのまま採録しているとも思えない。そこには意図した潤色や編集があるだろう。あるは全く新しく創作したものもあるかもしれない。そこから史実を汲み取るのは極めて難しそうだ。とりわけ神代(神話)の部分はそうであるし、歴代天皇の事績の記述についても、実在が疑わしい天皇が多く含まれていることなどから、編纂時に新たに創出されたストーリーが数多く採録されていることは明らかであろう。したがって初期ヤマト王権のルーツ探しはしばらく保留しておきたい。


4世紀の倭国

概観
倭国に関する文献史料が途絶える、いわゆる「空白の4世紀」。中国は「五胡十六国」の王朝分断時代に入り、朝貢/冊封体制が崩壊。東アジア秩序に大きな激震が走った時代であった。中国に代わって朝鮮半島諸国が倭国の戦略パートナーとなった時代。世紀後半の倭国の姿は朝鮮半島へ出兵する武断国家に。邪馬台国(チクシ王権)にかわりヤマト王権がその中心であった?

朝鮮三国の成立と抗争
313年;高句麗が楽浪郡、帯方郡を滅ぼす
346年:百済が馬韓統一
356年:新羅が辰韓統一、高句麗に従属

朝鮮半島諸国と倭国の結びつき
369年:百済王から倭王へ「七支刀」送る。倭国に軍事援助を求めるためのしるし。
391年:倭国、「渡海」し高句麗に朝貢していた百済、新羅を「臣民」とした。
392〜404年:高句麗との戦いで倭国は大敗を期した(高句麗 好太王碑文)
百済、新羅、伽耶諸国を巡る争い(三国史記)


4世紀前半は、倭国に関する記述が中国の史料から消える空白の時代である。すなわち266年の邪馬台国女王壹与による晋への遣使以降、中国の文献資料に倭国に関する記録が見当たらない。これは、倭国が混乱して朝貢して来なかったからなのか、それとも、そもそも中国王朝自体が分裂混乱の時代を迎え、朝貢/冊封体制が崩壊していたせいなのか。おそらくその両方であろう。次のパラグラフで触れる。ところが、4世紀後半になると倭国は突如、朝鮮半島にその姿を表す。その倭国は100年ほど前とは全く異なる姿に「変身」していた。すなわち中華王朝へ朝貢し冊封を受け、東夷の外藩として「ひれ伏して」いた列島国家。女王の呪術による祭祀により統合されていた未開の匂いのする邪馬台国連合から、武力を蓄え朝鮮半島に出兵する猛々しい男王の倭国に変身していた。まるで全く「別の国」であるかのようなプローフィールの国になっている。何が起こったのか?

4世紀初頭、中国では漢王朝の末裔を自認する魏王朝、晋王朝が倒れ、統一王朝を欠く「五胡十六国」の混乱の時代となった。これは朝貢/冊封による中華世界の秩序が壊れ、周辺の諸国の統治権威が揺るぎ、政治的に不安定な状態が起きたことをも意味する。また諸国の王権の象徴である中華先進文化、統治権威が入らなくなっていったことをも意味する。この影響は東アジア全体に及んだ。その混乱の中、朝鮮半島では中華王朝の植民地であった楽浪郡、帯方郡がツングース系の高句麗によって滅ぼされ、半島南部では百済が部族国家馬韓を統合して、また新羅が辰韓を統合して新国家を樹立した。そしてこの朝鮮三国が互いに争う事態が出現した。この東アジア激震の波は海を隔てた倭国にも及ぶ。中華王朝の朝貢/冊封体制下にあった邪馬台国(チクシ王権)にとって、この混乱と政治的不安定化は致命的であっただろう。たちまち倭国における統治権威の失墜、政治的影響力を弱める結果となったに違いない。その倭国にとって中華王朝に代わって大陸文化の源泉となったのは先ほどの朝鮮半島諸国であった。半島三国の抗争を背景に、百済は倭国に接近し、同盟を結び、新羅は高句麗に降って、これに対抗しようとしていた。百済は後進国であった倭国に、中華王朝に代わって大陸の先進技術や統治制度、文化を伝え、同盟国の強化(教化)を進めた。この時の倭国の相手は(古来より中国の漢、魏、晋王朝に朝貢していた)北部九州の邪馬台国(チクシ王権)ではなく、奈良盆地に起こった大和(初期ヤマト王権)であった。これがチクシ王権の衰退、ヤマト王権の興隆を招いた象徴的な出来事であった可能性が高い。こうして軍事的にも「近代化」された倭国(ヤマト王権)は、百済の誘いに応じて半島の抗争に引きずり込まれてゆく。古来より倭国は鉄資源を加耶/任那地域に依存しており、倭人コミュニティーもあったと言われている。こうした「鉄資源権益」を守る必要もあり、これ以降朝鮮半島への進出、軍事的な関与を深めてゆくことになる。この倭国の朝鮮半島戦略は260年後の百済の滅亡、663年の白村江の大敗戦まで続くことになる。

こうした倭国の姿は、百済王から倭国王(ヤマト王権)に贈られた「七支刀」(物部氏の石上神社所蔵)に刻まれた銘文(369年)や、戦前、鴨緑江近くで発見された高句麗好太王碑文(391年)によりうかがい知れる。いわく「倭国は百済に加勢して高句麗を攻め大敗した」。高句麗の大王、広開土王(好太王)の事績を華々しく語る碑文の記述である。このころ倭国が朝鮮半島で新羅や百済と朝貢関係(実際には「贈答」による外交関係という意味だろう)を結び存在感を増していった様子が語られている。この碑文のほか、後世12世期の朝鮮側の史書「三国史記」にもこれを示す記述がある。その史料の史実としての正確さには疑問なしとはしないが、いずれにせよ倭国が朝鮮半島情勢に深く関与していったことは間違い無いだろう。邪馬台国壹与の晋への遣使から100年の空白期間を経て、暦年が確認できる資料(金石文)の登場である。ただ4世紀でも前半の期間の記録がなく、いぜん「空白」でこの間の列島情勢が見えない。すなわちチクシの邪馬台国(3世紀末の女王壱与の晋王朝への朝貢の記録を最後に姿を消す)はどうなっていたのか?近畿のヤマト王権はどのように勢力を伸ばしたのか?その実態を窺い知ることが困難である。8世紀初頭に日本側で編纂された日本書記、古事記、さらには12世紀になって編纂された朝鮮王朝の「三国史記」の記事を読み解くしかない。

この4世紀後半の倭国の朝鮮半島への進出は、記紀にはどのように記述されているのか。どの天皇の事績なのか特定が困難である。神功皇后による「三韓征伐」のエピソードがある。しかし神功皇后の実在性には疑問があるし時代の特定もできない。こうした記述は、4世紀後半の半島出兵や、後述する5世紀の「倭の五王」の朝鮮の軍事支配権の要求、伽耶/任那をめぐる百済、新羅との外交関係、そして663年の「白村江の敗戦」までの約300年の長きにわたる時間に起きた出来事を、8世紀初頭の記紀編纂時点で倭国(日本)独自の朝鮮史観(朝鮮半島は列島だけでなく天皇の支配する「小中華帝国」の外藩である)に基づき「神功皇后の英雄譚」として取りまとめて創出したものだろう。時代考証を経て記述された歴史というよりは天皇が支配する「小中華帝国」の正統性を描き出すためのエピソードとして編集、脚色された政治的な主張である。

では朝鮮半島へ渡海したのはチクシ勢力か?ヤマト勢力か?この頃はチクシ勢力(邪馬台国勢力)は中華王朝の朝貢/冊封体制の崩壊で力を失い、かわってヤマト勢力が百済との連携で勢力を伸ばしてきた時期である。したがって渡海を主導したのはヤマト王権であろう。だとしても、実際に兵を徴発し出兵したのは大陸に近い北部九州のチクシ勢力であった可能性が高い。のちの「倭の五王」の二人目の珍が438年に「倭隋等十三人」(倭王に繋がる有力者)に将軍号を要求し認められているが、その一人の西征将軍はチクシ王ではないかと考察する研究者もいる。この頃のチクシ勢力(旧邪馬台国)は、列島内で勢力を拡張してきたヤマト王権と同盟関係に入り、その連なりのなかで地域の支配権を維持していた可能性がある。しかし、その首長(チクシ王)は大陸との歴史的、伝統的関係からヤマト王権内でも依然として優勢な地位を維持していただろう。外交戦略や半島への出兵はおもにチクシ勢力が担っていたと考えられる。


5世紀の倭国

概観
「倭の五王」の時代。中華王朝への朝貢(遣使)再開。朝鮮半島の軍事的支配権の主張が目的。ヤマト王権による列島内の統合が進む「大型古墳時代」に。やがて「治天下大王」を名乗り朝貢/冊封体制からの離脱へ。

主な出来事
413〜502年:「倭の五王」(讃、珍、済、興、武)による中華王朝(宋、斉、梁、陳)への遣使。「安東将軍」や「征東大将軍」などに叙任される。
応神天皇陵、仁徳天皇陵など河内の大型前方後円墳(「河内王朝」)
稲荷山古墳、熊本江田船山古墳の鉄剣。


5世紀に入ると、中国の王朝の混乱もようやく収拾に向かい南北朝時代に入る。倭国の王たちは懸案の朝鮮半島の軍事的支配権を認めさせる目的で、中華王朝へ遣使する。実に邪馬台国女王壹与以来150年ぶりの朝貢(遣使)である。

478年の倭王武(雄略天皇)の宋の皇帝への上表文によれば「ソデイ甲冑を貫き、山川を跋渉し、寧所にいとまあらず云々」として倭国内を東から西まで平らげ、さらには海北を渡り朝鮮半島までその支配圏を広げ「もって皇帝の東夷の藩塀として帝国の繁栄と安寧をお守りする所存です」という趣旨のことを上表している。国内の平定はともかく、朝鮮半島における軍事的な支配権の承認(「安東将軍」などの軍郡号)を求めている。これは朝鮮半島における権益(伽耶地方の鉄資源を巡る権益)を巡っての百済、新羅、高句麗などとの支配権争いを中華皇帝の権威で決着をつけようというものである。この倭国内平定を経て、海北を平らげ、朝鮮半島を「ヤマト王権の天下」に併合、という「小中華思想」の始まりと考えられる。以降、「朝鮮は倭国/日本の朝貢国である」という、一方的な認識、「朝鮮史観」が記紀においても表現されるようになる(先述の神功皇后の「三韓征伐」譚など)。

しかし、一方で、中華王朝に朝貢し冊封を受けるという統治権威の承認のプロセスは、力を持ち始めたと自認するヤマト王権にとっては見直しの時期に来ていた。朝鮮半島における軍事支配権の承認は別にしても、倭国内の統治権を中国皇帝に承認してもらう必要はないとして、自ら「治天下大王」すなわち「小中華の皇帝」を名乗り始める。478年の武(雄略)の入貢を最後に、以降1世紀にわたって(遣隋使まで)遣使を行うことはなかった。遣隋使や遣唐使は冊封を求めていないので、倭国(日本)は朝貢/冊封体制からこの時に離脱してと言って良いだろう。

またこの頃さかんに、列島内では(応神天皇陵)や大仙古墳(仁徳天皇陵)などの巨大な大王墳墓が造営される。こうした前方後円墳(河内の古市古墳群、和泉の百舌鳥古墳群)は、難波津から河内や飛鳥の都に向かう外国使節の目を意識した巨大な構造物で、倭国の権勢を誇示する目的があったと考えられる。ヤマト王権が、諸国(朝鮮を含む)の「王」の「王」(King of Kings)、すなわち「大王(おおきみ)」であることを国内外に知らしめるモニュメントであった。一方、この頃の地方の有力者古墳築造に、大和の大王墳と同様の形式(前方後円墳)をコピーすることを認め、ヤマト王権が地方豪族に「統治権威」を与えるシステムができていた。さらに、そうした地方の古墳からは雄略大王の統治の様子を窺わせるものが出てきた。埼玉稲荷山古墳、熊本江田船山古墳から出土した鉄剣銘(ワカタケル大王、「典曹人」や「杖刀人」などの官職名、「治天下大王」の文字)から、雄略大王(ワカタケル、倭王武)が官位官職制度により地方豪族に官職を与えた様子が窺える。これはのちの姓(かばね)制度の先駆けとなるものである。また「治天下大王」を名乗り始めた様子がうかがえる。ヤマト王権が中華皇帝の統治手法を取り入れていったのであろう。

記紀には雄略大王の国内平定物語(倭王武:獲加多支鹵の宋への上表文に記述されるような)が、ヤマトタケル(景行天皇の皇子)の物語として記述されている。ここでは熊襲平定(狗奴国の末裔)、出雲平定、東夷(東海道、東山道)平定、蝦夷平定が取り上げられており、先の崇神大王の王族将軍「四道将軍」の平定譚とあわせ、ほぼ倭国の全体をヤマト王権が支配統合したことになる。しかしそのなかに筑紫(旧邪馬台国)平定の話は出てこない。なぜなのか?先述のように4世紀の朝鮮半島出兵で筑紫がヤマト王権の兵站を担っていたらしいことでチクシ勢力(邪馬台国残存勢力)はヤマト王権に服属(同盟)したかに見える。しかし先述のように王権内で隠然たる勢力を温存していて最終決着はつかなかった可能性がある。雄略の国内平定物語も、その内実は必ずしも武力による完全制圧ではなく、地域豪族や畿内豪族との交渉や懐柔、調略による同盟関係(アライアンス)であった。上述のように、その同盟の証として剣や玉などの威信材を「下賜」する、大和型前方後円墳による埋葬儀礼を承認する、王権の官職をあたえる、などの「小中華皇帝」然とした統治形態を取った。したがって筑紫のような有力地域の豪族(王)は、服属を誓い同盟関係に入ったとはいえ、王権内に抱える隠然たる勢力であっただろう。この最終決着は次の世紀に持ち越される。



6世紀の倭国

概観
継体/欽明朝へ。王統の断絶から血統による「世襲王族制」の誕生。筑紫磐井との戦いで筑紫(旧邪馬台国連合)の完全統合。しかし朝鮮半島政策の挫折。

主な出来事
507年:高志国のヲヲド王の即位「継体大王」楠葉宮にて
512年:百済に加耶四県を渡す
526年:大和入り(即位から20年後)
527〜529年:筑紫の磐井(邪馬台国の政治的末裔)との戦い。
532年:加耶金官国が新羅に奪われる
538年(あるいは552年):欽明大王の時、百済聖明王より仏教伝来。百済との結びつきが倭国の海外戦略の基本となる。
554年:百済王、新羅に殺される。百済救援のため出兵
562年:加耶、新羅に滅ぼされる
593年:聖徳太子摂政に

ヤマト王権は、これまで血縁による王統の世襲などという王位継承システムは確立しておらず、崇神大王の「三輪王朝」から応神/仁徳大王の「河内王朝」への交代、その「河内王朝」も武烈で途絶え「継体王朝」へと、王統の断絶、交代があったと考えられている。継体大王は、応神大王から数えて十一代目、雄略大王から五代目とされるが、応神から130年ほど、雄略から50年弱しか経過しておらず、そもそもこの間の天皇が全てが実在のものか疑わしい(平均するとおのおの10年足らずの在位期間しかない)。ここでヲヲド王(継体大王)を担ぎ出し「王統の継続」を演出するにはそれなりの理由があったのだろう。王権に連なる大伴金村や、物部麁鹿火などの畿内氏族の役割が大きいが、この時代から王統を「持続可能な」安定的なものにしようという政権周辺の思惑があったのではないかと考える。ヲヲド王は近江、越前を基盤とし、尾張つながりの地方豪族である。応神天皇五世の子孫という傍系で、武烈の姉である手白香皇女との婚姻を通じて本流の血統を継承したとしているのである。

ヲヲド王/継体は高志(越)の首長であった時代から独自の朝鮮半島との交渉ルートを持つ人物で、日本海、琵琶湖、淀川水系、伊勢湾の水運を掌握していたとみられる。これがヤマト王権の盟主になった。しかし、これは北部九州を基盤とし、伝統的に大陸との通交に大きな実績と影響力とを持っていたチクシ勢力(旧邪馬台国の末裔)にとっては由々しき事態である。その首長である筑紫磐井は現在の福岡県八女地方(邪馬台国に比定地にもなっている)に本拠を置き、九州の北半分、筑紫、肥、豊の三カ国を支配下に置く大豪族(チクシ王)である。さらに配下の海人族である安曇族や胸形族を通じて大陸、朝鮮半島との通交を支配していた。300年前の「邪馬台国の政治的末裔」と言って良い。対半島政策/外交路線で混迷していたヤマト王権内において、この筑紫磐井と大王についた高志出身のヲヲド王/継体との対立が鮮明になっていった。すなわち継体の百済との同盟に基づく朝鮮半島への出兵に際し、磐井が新羅と手を結んで対抗した。このように「筑紫磐井の乱」は、継体/百済 vs  磐井/新羅の戦いである。そもそも先述のように朝鮮半島への出兵にあたって兵士の徴発や、武器や物資調達、輸送などの兵站はほぼ全て筑紫にゆだねられていたから、磐井にとっては自分の外交ルート、同盟関係と合わない継体や物部の指示には従うわけにはいかなかった。

このように継体と磐井の戦いは、「大和朝廷」支配下の一地方役人「国造」(そもそも国造は7世紀後半以降ん創設された地方官職である)の「反乱」などではなく、ヤマト王権内部の朝鮮半島問題をめぐる対立、ひいては長年、根っこで燻り続けるチクシ王権とヤマト王権の対立によるものであったと考えるべきだろう。筑紫磐井は3年にわたる戦いでついに征討将軍物部麁鹿火に敗れ、殺された(生き延びたという伝承が風土記に残っている!)。ヤマト王権がようやくチクシ勢力を服属させ、倭国統合を完成させた(王権の直轄地である「屯倉」を置く)。すなわち「邪馬台国の終焉」である。磐井の息子、葛子は「粕屋の屯倉」を王権に差し出して「反乱罪」の連座を逃れる。そしてそのまま筑紫の支配を任される。敵を殲滅するのでなく取り込んで既存勢力による現地支配を認めるという、地方の統合過程でよく用いられる手法がここでも使われた。しかしこうした歴史の記憶が、現在まで続く九州(筑紫)人の底流にある根強い反中央意識の根元となっている。「邪馬台国の亡霊」が今も生きている。

ちなみに、この時、弥生時代から大陸との通交に重要な役割を果たしてきた筑紫の海人族は明暗を分けることになる。筑紫磐井側についた海人族「安曇族」(志賀海神社)は、磐井の滅亡と共に、筑紫の地を去り流浪の民となる。一部は信州安曇野(穂高神社)に一族の拠点を移し、あるいは全国のアズミ/シカ由来の地名(熱海、渥美、滋賀など)が残る地域へ移動していった。のちにヤマト王権に参加した安曇比羅夫は白村江の戦いで戦死する。一方もう一つの海人族「胸形族」(宗像大社)は戦いの時にはヤマト王権側に加勢し、戦後は本領安堵され、支配地域は王権にとっても神聖な宗像神郡となる。倭王権内の重要な豪族宗像氏として天武天皇の妃を出す宗像徳善などの実力者を出す。奉祭する宗像三女神はアマテラスとスサノヲとの誓約(うけい)から生まれとされ、皇祖神アマテラスより「天皇を助けよ」との神勅を得て、海北道(すなわち大陸への通交)国家祭祀を受け持つ一族として日本書紀に記述されるまでになった(沖ノ島遺跡が世界遺産)。

こうして、邪馬台国の末裔は歴史の表舞台からは消え、ヤマト王権の統一事業の完成となった。中央集権的な王権の確立。血統による世襲制の「大王家」の創出という基礎がこの時できた。また継体大王は天照大神を大王家の祖神として祭祀を行なった最初の大王である。すなわち崇神大王(三輪王朝)の大物主(大国主の別神で国津神)祭祀に代わる天津神祭祀である。これが7世紀〜8世紀の「天皇制」「律令制国家」「皇祖神祭祀」「「日本」建国へとつながっていった。

しかし、一方で継体大王は「百済同盟」路線により任那三国を新羅に奪われ、朝鮮半島政策に失敗する。これが以降の朝鮮半島における倭国の利権喪失の第一歩となる。磐井は草葉の陰から「だから言っただろう!もう手遅れじゃ」と嘆いているかもしれない。まさに「歴史にタラレバは無い」であるが。



7世紀の倭国

概観
大帝国隋/唐の成立、遣隋使/遣唐使派遣、「白村江の戦い」で史上最大の敗戦、朝鮮からの撤退。国内体制の立て直し「近代化」。天皇制、律令制、倭国から「日本」建国の世紀へ

主な出来事
603、604年:冠位十二階、十七条憲法制定
607年:遣隋使派遣
639年:遣唐使派遣
645年:乙巳の変(蘇我宗家滅亡)
646年:改新の詔
662年:阿部比羅夫を百済救援のため派遣、しかし百済滅亡
663年:百済復興の白村江の戦いで、唐/新羅連合軍に大敗、朝鮮半島からの撤退。
664年:筑紫太宰府に水城、大野城、基城構築
672年:壬申の乱で天武天皇即位、天武/持統体制へ
689年:飛鳥浄御原令(700年の大宝律令へ)
694年:藤原京遷都
律令制、公地公民制、天皇制、藤原京、記紀編纂、国号を「日本」へ


この時代の天皇の事績、出来事を改めてここで再考察することが本稿の目的ではないのでこれ以上の探訪は止めるが、ようやく3世紀中葉の崇神大王以来、400年のヤマト王権の全国制覇の戦いは、「天皇制」の国家「日本(ひのもと)」の建国という形で実を結んだことは間違いない。この世紀にこの古代史の画期を大きく後押ししたのは「白村江の戦い」での大敗により朝鮮半島から撤退するという国家の危機であった。倭国は391年の半島への渡海以来、270年の長きにわたって同盟国であった百済を失い、倭国の安全保障と「核心的利害」の中心にあった朝鮮半島における権益と政治的立ち位置を放棄せざるを得なくなった。それどころか唐/新羅による列島侵攻の危機に直面する。しかし、この国難をきっかけに(あるいはこれを奇貨として)、豪族が力を有する(豪族に擁立された大王、私地私民制)政治体制から、天皇中心の中央集権的な国内統治体制の強化(天皇制、公地公民制、律令制、記紀編纂、皇祖神創出、仏教の鎮護国家思想化など)を押し進めた。「倭国」から「日本(ひのもと)」へ、「大王(おおきみ)」から「天皇(すめらみこと)」へ。後世の「明治維新」に準えて言うならば、いわば「大宝維新」である。これをリードし完成させたのが天武/持統天皇である。そしてこの天武天皇の命により編纂されたのが古事記であり日本書紀である。


エピローグ

これまで見てきたように倭国のあり方は、東アジア情勢と切っても切れない。列島内、まして近畿大和盆地での王権(のちの大和朝廷)の動きだけを見ていても全体像は掴めない。初期においてはその影響を直接的に受けたのは大陸と海峡を隔てた一衣帯水の北部九州のチクシ倭国、すなわち奴国、伊都国、邪馬台国のような国々であった。いや、むしろこれらの国々は中華文明の列島におけるフロンティアであった。大陸から多くの人々が、いろいろな事情で列島にたどり着き、稲作農耕を持ち込み、鉄器を持ち込み、気象や灌漑/土木の技術を持ち込み、思想や習俗を伝えた。そうした人々のコミュニティーが大きな力を有していた地域であっただろう。そうでないと文字も外交プロトコルも知らない「倭人」が中華王朝と通交することもできなかった。しかし、やがて時代を経るに従って(上に見てきたように)、倭国の中心は大陸に近いところから、東の列島中央部に移っていった。より列島全体を統治するに便利な場所、列島内の経済や流通の中心となる地域、あるはより大陸から一定の距離を置いた安全な地域へと移っていったのだろう。文明と富が東に遷移し列島各地に行き渡り始めたからでもあろう。そして倭国自体が成長するに従って、その統治権威や統治権力は、大陸(中華王朝の権威)とは距離を置きながら独自に発展し認知されていった。中華思想の日本版「小中華思想」である。それが日本の外交や対外戦略にいどのような影響を与えたのか。4世紀の朝鮮半島への出兵に始まり、7世紀の白村江の戦いでの大敗北と権益の喪失に終わる、外交下手、戦争下手の歴史はこの頃からの日本独特のものであろう。歴史は繰り返されるのである。歴代中華王朝や朝鮮半島諸国などと異なり、島国であったことから古来外敵が侵入することも少なく、王権が外国勢力に簒奪されたり、王族が殺されて王統が途絶えたりしたこともない。中華王朝のような「易姓革命」による王朝交代という政治思想は、天帝思想の導入にあたって日本では丁寧に取り除かれ、皇帝自身が天神の子孫であるから打倒されることはありえないとした。「万世一系」の皇統というフィクションを統治権威として持続可能な制度にしてゆくことが我が国の「国体」となった。7世紀末から8世紀初頭の「日本建国」「天皇制創設」時にあっては、「脱・朝貢/冊封国家 邪馬台国」はヤマト王権のスローガンだった。その決意と、それに基づく「天皇の物語」が古事記であり、「統治の正統性の政治的表明」が日本書紀である。



参考書籍:

「戦争の日本古代史」倉本一宏著 講談社現代新書
「内戦の日本古代史」倉本一宏著 講談社現代新書

どちらも戦争、内乱などから古代日本の形を描き出そうとする意欲的な書である。
また「大学の日本史 巻一(古代)」佐藤信編 山川出版の2章から6章までの筆者の記述が参考になる。いずれも私が今まで読んだ古代史に関する文献、書籍のなかでもっとも自分の分析と説に近く、意を強くさせてくれ、大きな影響を与えてくれたものとして紹介したい。