品川区立大森貝塚遺跡庭園のモース博士像 |
「アッ、見つけた!」 |
桜の季節 |
貝層の出現状況が保存展示されている |
JR線の大森駅と大井町駅間の切り通しの小高い台地上に「大森貝塚遺跡庭園」がある。ここは明治にモース博士が大森貝塚を発見した場所で、その跡が今は区民憩いの公園になっている。春は桜が美しく、電車が見える公園として子供達にも人気である。大森貝塚は小学校の教科書にも登場し日本人なら誰でも知っている遺跡で、品川区の名所旧跡の一つである。日本の考古学発祥の地と言われる。しかしそのモース博士とはどのような人物なのか。意外に知ってるようで知らないことも多い。
1)エドワード・シルベスタ・モース:Edward Sylvester Morse(1838年〜1925年)の略歴
1838年 アメリカのメイン州ポートランド生まれ。
日本の生物学、博物学、考古学の父と言われる。もとは動物学者、腕足類(二枚貝の一種)の研究者。しかし、若いときはろくに学校も行かず退学になったり、仕事も転々としていた風来坊。ただ貝類の採集、標本には情熱を持っていて、新種の発見や希少種の収集の世界では有名であったようで、大学の研究者も標本の見学に来るほどであったという。このように大学出ではなく素人の研究者から出発。やがてハーバード大学アガシー教授の学生助手になり本格的な研究生活を始める。さらに学位がないにも関わらずボーディン大学の生物学教授やハーバード大学の非常勤講師をつとめるまでになる。日本の植物学の父と言われた牧野富太郎博士(1862〜1957年)を彷彿とさせる。
日本滞在期間は通算3年ほど。東大教授在任は2年ほどと短いが、後世に多くの功績を残した。もちろん大森貝塚の発見と発掘調査が彼を有名にしているが、実は。この頃西欧社会に大旋風を巻き起こしたダーウィンの「種の起源」(1859年)「進化論」を初めて日本にもたらした功績が大きい。また、大学の教員の質向上(専門的な御雇外国人の雇用、推薦)、研究者の育成、大学の研究レベルを上げるために、論文を海外雑誌(Nature等)に投稿し、学会、海外研究機関、研究者との研究交流を進めることの重要性を説き、自ら実践した。そして日本文化にインスパイアされて民具、陶器などのコレクターとなる。
1877年(明治10年)腕足類研究、新種の貝類採集のために来日する。特段、日本に興味があったわけではなく、多様な腕足類の存在に興味があったための来日であった。しかし.....
来日早々、横浜から新橋に向かう汽車のなかから大森貝塚発見。
乞われて東京帝国大学教授(生物学)に(2年契約)この間江ノ島に臨海観測施設を開設する。
同年11月米国における講演などの仕事のため一時帰国
1878年(明治11年)家族とともに再来日
1879年(明治12年)東大満期退職。帰国
1880年セーラムのピーボディ科学アカデミー館長に
1882年(明治15年)再再来日 今度は生物学者、考古学者としてではなく、日本の文化に強烈なインパクトを受けたコレクターとして、民具、陶器など美術/工芸品の収集のためにやってきた。
1883年(明治16年)離日
1914年ボストン博物学会会長
1915年ピーボディ博物館名誉館長
1917年セーラムで「日本その日その日」:Japan Day by Day執筆、刊行
1925年セーラムで没す
2)ダーウィンの「進化論」とモース
1859年に発表されたチャールズ・ダーウィンの「種の起源」は衝撃的であった。生物は、その種が枝分かれして変異し、自然淘汰や適者生存で進化していったものだとする。この頃の「常識」、すなわちキリスト教的な理解では、種は神がそれぞれに創造した不変のものである。人間は神が初めから神に似せて創造したものであり、いわば猿が進化したものであるはずがない。これはキリスト教会の聖職者のみならず、一般の人にも信じられていた。さらに驚くのは19世紀、科学的合理性勃興の時代にあって生物学者にも、それを否定する、あるいは疑念を抱く学者がいたことだ。モースの恩師ハーバード大学のアガシー教授もその一人であった。モースはアガシー教授の反進化論を最初は支持。しかし、腕足類研究を通じて、どうしても「進化論」支持せざるを得ない事実を確認するに至り、モースは「進化論」者へと変わっていった。そして腕足類の種類が奇跡的に豊富な日本での採集と標本のために来日した。
こうして日本に初めて最新の「進化論」を持ち込んだのが他ならぬモースであった。彼は大森貝塚発見で有名だが、生物学者としては「進化論」をもたらした功績が大であるといわれている。モース以前にもドイツから来た外国人教授が進化論を説いたとか諸説あるようだが、彼の大学での講義と一般向けの講演が印象的で、当時の日本に大きな影響を与えたことは間違いない。マスコミにも大きく取り上げられている。ちなみに元々モースはアメリカでも多くの講演会を持っており、講演で稼げるほどの講演上手で人気があったようだ。ダーウィンの「進化論」発表から17年が経っていたが、まだまだ欧米のキリスト世界では完全に定着していたとは言えない中、彼はその最新の理論を説き、東大での講義には500人の受講者が集まったという。キリスト教の教義を第一義に自然界の成り立ちも理解してきた西欧諸国の衝撃と異なり、日本で進化論はどう受け入れられたのか? ハーバート・スペンサーの「社会進化論」を生み出した生物進化の理論は、日本では急速に進んだ明治維新後の社会の変容にも適用されると考えられた。とくに自然淘汰や適者生存の考えが受け入れられて、ハーバート・スペンサーが福沢諭吉、西周など明六社メンバーでもてはやされた。また政治思想家であり、のちの東京帝大総長となる加藤弘之などがモースの説くダーウィンの生物進化論講義を熱心に聞き、影響を受けたと言われている。それはスペンサーの社会進化論の源流としてであった。
3)大森貝塚の発見は何をもたらしたのか?
前述のように横浜から新橋へ向かう汽車が大森駅を出てすぐに、鉄道建設のために開削した切り通しの断面に白い貝殻の層を確認。これが古代人の生活の痕跡、いわばタイムカプセルとしての貝塚であることを発見した。東京帝国大学教授となっていたモースは早速発掘許可を得て調査した。その結果、この貝塚は3000〜3500年前の古代人の集落跡であり、人骨のほか、土器、石器、骨角器など261点が発掘された。考古学的な時代区分として新石器時代の遺跡であることを特定した。また縄目模様の土器が多数検出されたことから、のちに「縄文時代」と命名されることとなる。モースは、先述のように腕足類の貝の研究をしていたことから貝塚には強い興味を持っていたのだが、いざ掘ってみると貝殻の向こうに先史時代人の生活と文化を発見したというわけである。「日本の考古学発祥の地」の碑が大森駅にある。
彼は、この発見により腕足類貝の研究、進化論の研究から次のフェーズへ転換したと言っても良い。モースはこれまで考古学という概念、研究領域が明確に存在しなかった日本に考古学をもたらしただけではなく、世界に日本の「縄文文化」を知らしめることとなった。発見の功名争いもあった。ナウマンやシーボルト(あのシーボルトの孫で英国公使館書記官)と争い、彼が独占的に発掘権を得たと言われている。また発掘成果をまとめた研究論文を海外にいち早く発表するなど、国際的な研究交流を進めることの重要さを教えた。大森貝塚の出土品の一部は米国に送られた(現在ピーボディサセックス博物館に収蔵されている)が、代わりに米国から先史時代先住民の出土品などの多様な研究資料が東大に寄贈された(アメリカ先史時代先住民と東アジア先史時代人が同じルーツであるとの仮説を提唱している)。また多くの図書の贈与が日本側に行われ、現在の東京大学図書館の基礎となった。こうして大森貝塚の研究成果が、彼を通じて大学の国際的な研究交流、方法論の確立、人材育成につながっていったことは特筆すべきであろう。
4)なぜ大森貝塚碑は二つあるのか?
ところで、この大森貝塚遺跡の記念碑が二箇所あることをご存知だろうか。しかもたった300mしか離れていないところに2つ。ことの顛末はこうだ。
発掘から30年経過した昭和4年になって、モースの功績を顕彰する記念碑を建てようということになった、しかし、モースが発表した調査報告書に正確な発掘場所の記述がなかったこと、当時発掘に携わった人々の記憶が曖昧になっていたことから、発掘現場の位置の特定ができなかった。最終的に下記の二箇所が記念碑設置候補場所となった。結局、両方に記念碑が設置されることとなり、どちらがホンモノか長く論争となっていた。のちに当時の発掘届けの記録(東京市)が発見され、これにより、発掘現場は荏原郡大井村鹿島谷であることが判明した。すなわち現在の品川区大井6丁目の「大森貝塚碑」の位置である。現在はここに品川区立大森貝塚遺跡庭園が整備されている。もう一方は、大田区山王1丁目のNTTデータ大森山王ビル敷地内で、「大森貝墟」碑が立っている。大森は品川区ではなく大田区であるので、本来ならば「大森貝塚」ではなく「大井貝塚」と呼ばれてもおかしくないし、また近所の品川歴史資料館に発掘成果の一部の展示されている他、敷地内に大井鹿島谷遺跡(縄文集落跡)の一部が検出している。こちらも本来なら日本考古学発祥の地として「博物館」になっててもおかしくないのだがそうはならなかった。先述のようにモースの調査報告書に場所の正確な記述がなかったので、大森駅を出たあたりで発見した貝塚、ということから「大森貝塚」と認識されていたというわけだ。大森貝塚からの出土品は主に東京大学に保管されている。
第一現場)大森貝塚碑(昭和4年建立)品川区大井6丁目 大森貝塚遺跡庭園内
第二現場)大森貝墟碑(昭和5年建立)大田区山王1丁目 NTTデータ大森山王ビル敷地内
「日本電信電話公社」の文字が懐かしい |
碑文に名を記している理学博士佐々木忠次郎(モースの弟子で、発掘に携わった)は、 大井の第一現場の石碑にも名がある。どちらが正しいのか迷っていたのであろう。 |
5)モースの日本滞在記、Japan Day by Day:「日本その日その日」(石川欣一訳)
進化論を日本にもたらし、衝撃を与えた生物学者。さらに大森貝塚を発見、発掘調査して縄文時代を日本と世界に知らしめた考古学者。それだけでも偉大な足跡を残したのだが、モースはそこにとどまることはなかった。彼の日本での研究活動、関心は第三のフェーズに転換してゆく。彼が招聘したフェノロサやビゲローなどと同様、日本の文化、生活様式に衝撃を受け、この西欧文化とは異なる「もう一つの世界」の新鮮さに目を開かされた。工芸品や、美術品のコレクションを極めた。能楽にも精通していた。フェノロサが廃仏毀釈の嵐の中で打ち捨てられてゆく仏像や仏教美術を惜しみ、岡倉天心と、破壊からの保護と救済に取り組み、日本美術の再評価の活動をしてきたことは知られている。しかし、一方、モースは庶民の生活の中で生まれてきた生活雑器などの民具、工芸に着目した。精力的に日本各地を旅行して、人々と交流し、好奇心旺盛に事物の観察を続け、民具や陶器の収集に努めた。これまで見てきたサトウやチェンバレン、フェノロサ、コンドルなどの明治期の来日外国人知識人に共通する「日本文明」の「発見」とそれへの憧憬と、それに触発された文化人としてのモースの姿があった。もともと生物学者としての観察力、収集癖(?)がむくむくと湧き起こり、彼の収集活動は膨大なコレクションを(モースコレクション)形成することになった。彼の日本滞在中の日記、旅行記がJapan Day by Day:「日本その日その日」である。滞在期間が短かった割には上下二巻からなる大部の書物で、その内容は生物学者、考古学者の域を超えている。
この”Japn Day by Day”は1917年セーラムにて執筆され出版された。彼が79歳の時である。掲載した写真はいつもの神田神保町の古書店「北沢書店」で見つけた初版本である。背表紙が少し傷んでいるものの装丁はしっかりしていて100年以上経過した古書としては良い状態だ。しかし、文化財級の古書を読み進めるにはやはり気を遣うので、リプリント版を入手してそちらを読んでいる。上下二巻からなる大部の著作で、1877年、1878〜79年、1882〜83年の3回の来日記録である。日本語版「日本その日その日」東洋文庫は米国でモースに学んだ弟子の石川欣一の翻訳による。
本書に収録されている彼自身のスケッチによる、当時の人々の日常生活、風景、文化、の紹介が興味深い。777点ものイラストが収録されている。彼は見たもの、気がついたものを子供のようにこまめにスケッチしたのであろう、さすが生物学研究者の観察眼と生き生きした描写力に驚嘆する。膨大なスケッチ、イラストをパラパラとめくって眺めるだけでも楽しい。またこの本に出てくる人々の姿は、西欧文明や科学技術文明に汚染される前の善良な日本人として描かれている。そのモース自身も古き良き時代の善良なアメリカ人であった。こういうものが消えてゆくことへの哀惜の念を示す書とも言える。この本はそういうことを感じさせる100年前の時代のタムカプセルである。
この時の日本滞在で、モースは膨大な古民具や陶器、書籍など美術/工芸品を収集した。その数は民具800点、陶器900点に及ぶと言われている。最近新たに当時の日本の古写真が発見され、モースコレクションの充実ぶりが再び脚光を浴びている(「百年前の日本 モースコレクション写真編」小学館)。おそらく多くが高価な美術品・工芸品ではないので、収蔵庫にまだ日の目を見ていないコレクションが眠っている可能性がある。民具は現在のセーラムのピーボディーエセックス博物館に、また陶器はボストン美術館に展示、保存されている。大森貝塚が3000年前の先史時代の生活の痕跡を止める遺跡だとすれば、モースコレクションは100年前の人々の生活の痕跡を今に残す文化財だ。どちらも「失われた日本」の再発見である。後者はたった100年前のことであるが。
まとめ
結局、生物学者モースは、腕足類という貝、ただそれだけを探しに日本へやって来た。そして3000年前の貝塚遺跡を発見した。しかし彼は、もっと多くのものを日本で発見した。明治日本という西欧文明に対する「もう一つの世界」を。やがて多くの文物を収集し持ち帰ることになった。そしてより多くのものを日本に残して帰った。とりあえず、私はモースを「研究界のわらしべ長者」と名付けておきたくなった。
Japan Day by Day in 1917 |
大森貝塚発掘の模様 |
Peabody Essex Museum (from the Boston Globe) |
(撮影機材:Leica Q2, Summilux 28/1.7)