2022年11月30日水曜日

古書を巡る旅(27)Sir Josiah Child's "A New Discourse of Trade" 〜重商主義者のイギリス東インド会社総督は何を語る?〜

 

ジョシュア・チャイルドの著作とウォルター・ローリーの著作
17世紀イギリスを代表する海外事業家たち




表紙

序文で世界の市場を俯瞰し、その中に日本と中国の市場に関する分析と評価が記述されている



ジョサイア・チャイルドとは?

貴重な古書を見つけた。アダム・スミスが登場する100年ほど前に活躍したイギリスの重商主義者、ジョサイア・チャイルドの「A New Discourse of Trade: 新貿易論」1694年版だ。いつもお世話になっている北澤書店の古い在庫から「発掘」された書籍で、在庫案内によると昭和63年ごろの入荷であったようだ。ニューヨークのBrooklyn Mercantile Library(現ニューヨーク商工会議所)の1800年代の図書館印が見える。ここの放出図書であろう。このような稀覯書が東京の神田神保町で見つかることにも驚いた。

サー・ジョサイア・チャイルド:Sir Josiah Child (1630- 1699)は、17世紀後半にイギリスで活躍した貿易商、重商主義経済学者、トーリー党議員(最初はホイッグ党)である。またイギリス東インド会社(EIC)の最大株主であり、総督でもあった。この頃のイギリスは対外貿易を拡大して成功を収めており、特にインドの綿貿易で大きな利益をあげ、一種のバブル経済の時代であった。いわゆる「キャラコ」(カルカッタ産の綿)バブルに沸いていた時期である。イギリス東インド会社は東インド(東南アジア)における香辛料交易でオランダの後塵を拝し、1620年のアンボイナ事件以降、東インド貿易から撤退した(日本の平戸からも撤退した)。以降、勢力をインドに集中し、インドの綿を買い付けてこれをヨーロッパに売るという事業モデルで成功。これが18世紀の産業革命に伴う綿花輸入、イギリスで綿製品化して人口の多いインドに売るという「世界の工場」モデルを打ち立ててゆく端緒となった。また後年にはインドのアヘンを中国に売り捌いて中国の茶を手に入れヨーロッパで売るという悪名高い三角貿易でも成功してゆく。

チャイルドは1673年にはこの東インド会社の最大株主となり、1681~1687年には同社の総督となっている。いわば「キャラコ」バブル真っ盛りの時期に東インド会社を支配するポジションにいた。また彼の一族がインドにおける会社の重要拠点factory:商館で支配的なポジションを占めインド事業を一族で独占した。当時、東インド会社は投機マネーの対象となっており、彼はインサイダー取引で巨万の富を得たほか、絶対王権/宮廷と深く結びつき、チャールズ1世、チャールズ2世から貿易独占特許を得て事業を広げ、イギリスで一番の金持ちであると言われるまでになった。しかし「盛者必衰の理あり」。チャールズ2世のフランス亡命、オレンジ公ウィリアム3世の名誉革命(1688年)による王権交代、スチュアート朝終焉とともに第一線から姿を消していった。一方で彼は重商主義経済学者としてもその名を残している。絶対王政がとった重商主義経済政策を理論的に論考し、彼自身の商業的な成功経験をもとにその実証主義的なアプローチで、課題分析と解決策を提言する著作を多く残している。その主要著作の一つが、1694年に発表された「A New Discourse of Trade: 新貿易論」である。本書は小型の書籍であるが、表紙に記されたタイトルは以下の様な長大なものである。

A New Discourse of Trade, wherein is Recommended several weighty Points relating to Companies of Merchants. 

The Act of Navigation, Naturalization of Strangers And our Woollen Manufactures. The Ballance of Trade and Nature of Plantations, and their Consequences in Relation to the Kingdom, are seriously Discussed.

And some Proposals for erecting a Court of Merchants for determining Controversies, relating to Maritine Affairs, and for a Law for Transference of Bills of Debts, are humbly Offered.

すなわち、「新貿易論 商人の会社に関する重要な提言」、「航海条例、異民族同化条例、毛織物産業条例に関して」、「貿易収支とプランテーションのバランス、その本国への影響について」「海事事件、負債法に関する紛争解決のための商業裁判所設立に関する提案」と、複数のテーマに関する論考集となっている。以前紹介したウォルター・ローリー卿のエッセイ集と同様、折々に書かれた短い論文を合冊したものだ。のちのアダム・スミスやデビッド・リカードのような経済学の古典として現代まで読み継がれる著作ではないが、17世紀においては経済書としては最もポピュラーで読まれた書であったという。

長文の序文で、世界各地との貿易から期待できる収益率に関する考察を展開している。アジアに関しては、インドからの高い収益率に期待を寄せる一方、日本と中国は、今は儲からないが将来を見据えておくべきだとしている。彼は国別の貿易収支を問題にするのではなく、会社全体の収支を重視した。またオランダをはじめとする競争相手の国々の評価分析(competitive analysis)は、当時のいわば海外貿易市場における勢力図、そして国際情勢がわかり面白い。特にオランダの競争力を評価している。この様に世界の市場を俯瞰した上で各論に入ってゆく。チャイルドは資金調達を容易にするための低金利を法的に担保すべしと主張している。これは当時最大の競争相手であったオランダが低金利で自国事業者(オランダ連合東インド会社:V&C)を優遇したのに対抗する必要を訴えかけたものである。また、イギリスが取った保護主義的な法律/条例、特に航海条例の効果を国富蓄積の増大という観点から評価している。この論争に関する一問一答で彼の意見を展開している。また植民地の拡大を推し進めるべきで、移民の奨励、異民族の同化や貧困層の子弟の雇用促進も勧めている。植民地とプランテーションの評価に関する論稿も興味深い。植民地が本国に悪影響(人口減少や富の流出)を招くことはない。むしろその逆で本国の富を増大させるものであるとしている。この時期はまだインドの植民地化は進められておらず、またのちのアメリカの独立は想定していなかったものの、植民地帝国、大英帝国の理論的な基礎ともいうべき植民地論を展開している。当時はまだ植民地経営に関する意見が分かれていたことを示唆する論稿だ。

本書は第二版となっているが、出版年次は初版と同じ1694年である。改訂があったのか、内容がどのように違うのかは確認できていない。ネットでサーチすると、出版年代が異なるいくつかの版があるようだ(例えば米国コロンビア大学図書館のデジタルアーカイブには1698年版が掲載されている)。書籍としては、今から300年以上も前の古書で、ウォルター・ローリー卿のエッセイ集の約50年後の出版である。紙質は簾の目紙で、活字体も「s」が「f」と表記されるいかにも17世紀の古色蒼然とした風合いである。挿画などはない。革の背表紙は後世のものであろう。ところでチャイルド卿の著作の日本語訳本は見かけない。彼に関する日本語の評伝も見当たらない。英語での論文や評伝は、英米の大学の図書館や研究論文集に多数掲載されており、ネットで検索、参照することができる。本書も、先述のように米国コロンビア大学図書館のデジタルアーカイブで公開されている。アダム・スミスの「国富論」「道徳感情論」などは日本でも人気で訳本が出ているが、重商主義は人気が無いのであろうか。


Sir Josiah Child  (1630-1699)



重商主義:mercantilism:マーカンテリズムとは?

経済思想史の教科書を復習してみると、意外に重商主義を正確に定義することは難しいことが分かる。また誰を重商主義者と呼ぶかも諸説ある。学生時代にあまり重商主義について関心を持って勉強した記憶もないので改めて研究する必要を感じる次第である。とりあえず通説的な解説に従って簡単に振り返っておきたい。

16世紀後半〜18世紀、絶対王政と結びついた経済政策。一般的には、特権的な商人による独占的な商業活動を保護し、対外貿易を重視して、国家として輸出を最大化し、輸入を最小化するという保護主義的、管理貿易体制をとる経済政策である。歴史の発展段階としての、封建主義社会(封建領主による土地、荘園経営を主体とする)から、商品経済の伸長に伴う商業重視の資本主義社会への移行過程で生まれてきた。また絶対王政にとって不可欠な官僚制と、常備軍を維持、増強する必要から国富の極大化は必須であった。したがって絶対君主制と重商主義は表裏一体となって機能した。いわゆる「大航海時代」の海外進出の波に乗って、東インド会社のような王権により独占的な特許を与えられた株式会社が海外から金銀や貨幣を稼ぎまくるというものだ。重商主義と言ってもその形態は大きく二つに分けられると言われている。

1)重金主義:初期の重商主義。金銀の獲得と蓄積が国家としての重点事項となる。鉱山開発や海外での金銀の獲得(略奪)など、大航海時代初期のスペインやポルトガルの海外進出モデル、南米の「黄金郷」探検/奪取やポトシ鉱山開発、日本の石見銀山の銀の獲得による中国との三角貿易がその例。フランスのルイ14世時代のコルベールや、イギリスのトーマス・グレシャムも重金主義的重商主義者と見做されている。香辛料のような金銀に匹敵する価値を有する換金作物商品の獲得/蓄積もこれに相当するのだろう。

2)貿易差額主義:端的に言えば輸出を増やして、輸入を抑え貨幣収入を増大させる。そのために輸入関税を引き上げ、自国産業を保護(保護主義的貿易政策)して貿易収支による外貨準備高の増大を図るという国家による管理貿易である。産業革命以前のイギリスの東インド会社、トーマス・マン、オリバー・クロムウェルなどがその中心と見做されている。ジョサイア・チャイルドもその一人であるが、彼は初期の自由貿易論者(リベラルな重商主義者?)と位置付けられている。現代における自国優先の保護主義的な政策や非関税障壁なども重商主義的と見做されてる。かつての日本の「護送船団方式」の輸出ラッシュが貿易差額主義的重商主義であると批判されたことがある。

金と貨幣の違いはあれ、この二つに共通して言えることは「富とは金銀/貨幣であり、国力の増大とはそれらの蓄積の増大化である」という認識が底流にあるということ。しかも国家/王権主導の独占的な管理貿易による国富の極大化という特色がある。

3)対抗概念としての自由主義:やがて植民地の搾取や、保護主義的管理貿易、特権商人の王権との癒着などから生じる問題が顕在化して、自由主義的な貿易が待望されることとなる。また「富の拡大/蓄積」という観点からも重商主義政策の限界が指摘されてゆく。もっとものちの自由主義貿易政策は、独占に代わる自由競争が生産性の向上と富の拡大に寄与したが、搾取や富の偏在や権力との癒着の問題を解決したかどうか疑わしい。「自由貿易体制拡大」の名の下に帝国主義的な植民地化はますます加速化され(自由貿易帝国主義)、植民地における搾取は止まるところを知らず、また本国でも「持てるもの」と「持たざる者」の格差は広がる一方であった。また重商主義者の代表格と目されるジョサイア・チャイルドも特権的地位を利用して巨万の富を得ていながら自由主義的な貿易を主張していて、初期における「レッセフェール」の提唱者であるとも評されている。なぜこのような評価がなされるのか不可思議であるが、「重商主義貿易政策」と初期の「自由主義貿易政策」はそもそも絶対的な二項対立概念ではなく、フェーズ転換を伴わない相対的な概念であるような気がしてならない。

ちなみに、日本で重商主義的な経済政策が姿を現したとされるのは、江戸時代18世紀後半の田沼意次時代だと言われている。とはいえ江戸時代の日本にヨーロッパの重商主義的経済思想が伝わっていた形跡は無い。まして長崎のオランダ商館経由でジョサイア・チャイルドの「新貿易論」が田沼意次の手元に渡ったという話も聞かない。封建社会のシステムが行き詰まると、洋の東西を問わず人が考え出す知恵は同じだということなのか。しかし、田沼流重商主義経済政策はあまり芳しい政策としては記憶されていない。幕府財政の逼迫を受けて「質素倹約」「緊縮財政」「商業活動抑制」を旨とする、八代将軍吉宗の「享保の改革」と松平定信の「寛政の改革」という「清く正しい」御正道の間に挟まれた一時期の変則的仇花としての評価しかないようである。あるいは清廉潔白であるべき武家政権にあるまじき負の歴史「賄賂横行の政治」として扱われている。しかし、田沼意次の政策は、封建制社会の米中心、土地中心の経済から、商業活動による富の増加と蓄積を旨とする商品経済への転換を図ろうとしたものであった。質素倹約だけの縮小均衡型の経済政策ではなく、活発に商業活動をおこし、幕府の管理による海外貿易を拡大し、貨幣統一を図る拡大再生産型の「重商主義的」経済政策であった。しかし、幕藩体制という政治システムと、それを支える武士階級と農民という社会システム、封建制「農本主義」経済エコシステムを打ち破るインパクトはなかった。この革命は明治維新を待たねばならなかった。そういう意味において日本における重商主義経済政策はイギリスに遅れること150年、ジョサイア・チャイルドの著作から100年後に日本にも現れたが、田沼の失脚で見事に粉砕されてしまった。そしてその重商主義の次の自由貿易主義がアメリカやイギリスによって日本にもたらされ、開国と共に幕府による管理統制貿易体制である「鎖国」、さらには幕藩体制、農本主義を核とする封建制システムは崩壊することとなったわけである。

(...とここまで書いて、徳川家康のことをふと思った。田沼意次を遡ること150年前の初代将軍徳川家康。田沼にとっては神である「東照大権現」「神君家康公」である。家康こそ、佐渡や石見や伊豆の金銀開発を進め、海外との貿易に力を入れ、国富の増大化を試みた絶対君主であり、彼こそ日本初の重商主義者であったのではないか、と、まさにユーラシア大陸の向こう側ではエリザベス1世が絶対君主として重商主義的な経済政策を始めた時期である。そしてあのウィリアム・アダムス(三浦按針)という大航海時代のアイコン、重商主義貿易政策の落とし子が、エリザベスのイギリスから、徳川家康のもとにやってきた。これは単なる偶然なのであろうか?これはまた別途稿をを改めて論じなければなるまい。)


イギリス東インド会社とは?

民間の資金(資本)を集めた合本会社で、王室からの交易独占権を認めたられた特許会社。国営、国有会社ではない。海外への進出にあたって出資を募り安定的な事業継続を目指して1600年にエリザベス1世の勅許で設立された。「東インド」とは当時の概念ではインド、東南アジア、中国、日本を含む地域を指し、要するに「アジア」であった。ちなみに一方の概念である「西インド」は大西洋を隔てた南北アメリカを指していたが、これはコロンブスによるインド到達、アジア到達という歴史的誤解に基づく地域概念で、その後使われなくなった。しかし、その名残は今でもカリブ海諸国を西インド諸島、West Indiesなどと呼ぶことに見てとれる。このほかにも「南海会社」や「ハドソン会社」などの海外事業会社も設立されていった。

初期には航海ごとに出資を募り、航海が終わると配当金を分け、初期資本金を出資者に返還するという形式であった。しかし、オランダが、当初は各商業都市ごとに艦隊を形成し、それぞれに出資する方式(日本にやってきたウィリアム・アダムスが所属したマフー艦隊のように)であったが、投資効率が悪く、航海によって当たり外れがあり、安定的な配当リターンも期待出来なかったことから、全国的なオランダ連合東インド会社に統合して出資を募り事業を成功させた。このオランダモデルをもとにイギリスでも連合東インド会社を設立した。この特許会社に独占的な貿易権を認めるというやり方をとった。これは議会派が政治を主導した名誉革命の時に一時独占権が剥奪されたものの、立憲君主制が確立したのちも、重商主義主義的な貿易政策が継続され、新たな東インド会社を設立して19世紀(1833年)の活動停止まで継続した。

当初は重商主義的な経済活動を担う商社組織であり、特にインドとの貿易に力を入れ、ベンガルのカルカッタ、南インドのマドラス、西インドのボンベイを拠点(factory:商館)とし、当時最高品質とされていたインド産綿布の取り扱いで先述のような成功を収めた。ジョサイア・チャイルドが総督として辣腕を振るった時期の東インド会社はこのような会社であった。しかし、18世紀後半になると、ムガール帝国の衰退、各地藩王国の抗争で、インドが群雄割拠状態の「戦国時代」になってゆき、イギリスの権益と複雑に絡み合うことになる。イギリスは最初はこうした戦乱に不介入の立場を取っていたが、徐々に藩王国からの支援要請や、見返りとしての地代徴収権の獲得などで、抗争に巻き込まれ、あるいは、積極介入してゆくことで、徐々にイギリス東インド会社の性格が変容してゆく。そしてやがてはインド植民地統治の代行会社として、国から行政、徴税や軍事を受託する会社に変質していった。一方で、産業革命の進展、アメリカを含む大西洋貿易の拡大、インドの植民地帝国統治という新たな課題が浮上し、こうした特許会社による植民地経営には限界が見えてきた。

また、産業革命と産業資本家の登場により、国内の労働者階級と有産階級の分化、所得格差、貧困問題や環境問題などの社会問題への対処が求められるようになる。さらには英仏の戦争、アメリカ独立戦争による戦費の増大と増税により、産業資本家からの不満が爆発。独占的、保護主義的な貿易体制ではなく、自由競争による貿易が求められるようになった。このような自由主義的な市場競争による生産性の向上、労働価値説による「富の源泉」の価値観の変化、「富の増大」から「富の分配」問題の解決が求められるようになって行く中、重商主義的な経済政策は見直しを迫られていった。19世紀半ばには、1600年に起源を発する東インド会社の機能停止される(1833年)。合わせて穀物法廃止(1846年)、航海条例廃止(1849年)が断行され、自由貿易主義政策へと大きく舵を切ることとなった。しかし、逆に言えば重商主義的な政策は19世紀中葉まで続いたとも言える。幕末に日本にやってきて開港、門戸開放を叫び、「鎖国」という究極の保護貿易体制/管理貿易体制から自由貿易体制への転換を迫った彼らも、ついこの間まで自国優先の重商主義的な保護貿易体制を崩してはいなかったのだ。

ちなみに、1856年のインド大反乱「セポイの乱」がイギリスによって制圧され、デリーにいた最後のムガール皇帝が国外に亡命。ムガール帝国は完全に滅亡した。代わって、イギリスのヴィクトリア女王が皇帝を兼ねるインド帝国が成立する。イギリス領インドである。


アダム・スミスの登場

17世紀後半のイギリスは、以前のブログで見てきたように、エリザベス1世の時代の海外進出、すなわちドレイクやホーキンス、ローリーなどの冒険的航海者、私掠船の時代、ギアナにおける金鉱探検、ヴァージニア植民地会社の時代から、スチュアート朝時代にはより組織だった交易活動へと成長していった。すなわち先述の東インド会社によるアジア貿易の拡大は、やがてはアジアやアフリカ植民地化を進める帝国主義的発展の序章である。政治的にはチャールズ1世が処刑され、クロムウェルによる共和制、さらにはチャールズ2世による王政復古、と王党派と議会派の激しい攻防が展開され、一方でローマカトリック勢力とのせめぎ合いの中で英国国教会が次第に主流となる、いわゆる「イギリス革命」の時代である。そしてその最終章、名誉革命によるウィリアム3世の治世となり、スチュアート朝が終焉を迎える。こうして18世紀を迎え、絶対君主制が崩れ、都市ブルジョアジー中心の議会派が政治の中枢を握った時代。すなわち立憲君主制が確立した時代となった。しかし対外交易は、依然として絶対王政時代の東インド会社に代表される独占的、重商主義的な政策が維持されていた。18世紀前半になると新たに出現した有産階級市民の間で徐々にこうした王権中心の独占的、重商主義的な経済体制への批判が強まってゆく。やがて18世紀後半に入ると産業革命による産業資本家の台頭により、自由主義的な経済政策と自由貿易体制の動きが加速される。これを唱導したのがアダム・スミスである。重商主義的な経済政策を批判し、「レッセフェール」「神の見えざる手」による自由主義的な競争市場経済を提起した「国富論」が発表されたのが1776年である。ジョサイア・チャイルドの重商主義的著作発表から82年後のことである。この前にはもう一つの名著「道徳感情論」が出されている。この80年余は政治、経済、産業のあらゆる面でのイギリス激動の時間であった。重商主義が絶対君主制と表裏一体であったように、自由主義市場経済は立憲君主制の深化と表裏一体で進んでいった。アダム・スミスやデビッド・リカードといった「古典経済学派」の時代へと転換していった。しかし、歴史的役割を終えて過去のものとなったはずの重商主義政策は現代にゾンビのように生きている。自国優先の強権的、権威主義的、保護主義的な動きは現代の自由主義経済、グローバル経済の中でも決して姿を消したわけではない。むしろじわじわと息を吹き返している様に見える。歴史は繰り返す。経済における重商主義と自由主義。もう一度その歴史的な意味を評価してみる必要がある。