2023年8月23日水曜日

「どうする家康」駿府外交編 〜「鎖国は祖法」?そんなこと決めた覚えは無いゾ!の巻〜

 

徳川家康


今年のNHK大河ドラマ「どうする家康」は、日本史で習った家康の意外な側面を描いていると話題になっているようだ。あまりにも優柔不断で強いリーダーのイメージがない家康と、それを取り巻く三河武士達の朴訥だが健気な忠義の姿(のちの徳川四天王)、裏切ったり戻ってきたりする家臣も。こうした人物描写を観ているのは確かに面白い。それにしても信長、秀吉、光秀の描き方ががあまりにも酷いのはいかがなものか。どれもイケすかない奴に描かれている。織田信雄はまるっきりバカ殿扱いされているし、どれも家康の引き立て役、ヒール扱いか?そもそも家康がなんとも「小者」に見えてしまうのもいただけない。秀吉の軍師、黒田官兵衛や、その息子長政など、秀吉、家康の家臣として活躍した重要人物も端折られている。前田利家、石田三成もだ。これから出るのかな?歴史ドラマには違いないが、それに仮託した娯楽劇画といったところか。どういう視聴者層を狙っているのだろう。

家康の意外な側面といえば、家康の晩年を、このドラマはどのように描くのか。後半を楽しみにしている。ともすれば家康といえば、信長、秀吉のもとで隠忍自重して我慢し、秀吉亡き後天下を取った「狸親父」というイメージがあって、しかも、江戸幕府を開くなりキリシタンを弾圧し、海外との通行を禁じる「鎖国」を始めた張本人という、外国嫌いで、マルドメのイメージがある。しかし、最近、ポルトガル、スペイン、イギリスやオランダの大航海時代の古書や史料を読み漁るうちに、そこでは日本では語られなかった、スペインやオランダ、イギリスと丁々発止やり合う「日本皇帝:Emperor of Japon」としての家康が描かれていることに驚かされる。特に、将軍職を秀忠に譲り、駿府で大御所となってからは、家康は「鎖国」どころか積極的に海外との交易を進めた日本の指導者として記録されている。家康の駿府政治/外交と言われるものである。このために駿府には多くの有能なスタッフ、顧問が家康の側近として侍っており、その中にはウィリアム・アダムスなどの外国人の顧問もいた。知られているように彼は三浦按針として旗本扱いで、領地、屋敷もあたえられ、家康の朱印状を持って海外との貿易にも従事していた。また、駿府には多くの外国からの使節が家康謁見に訪れている。今回はその外交政策について振り返ってみたい。


「鎖国は祖法」は誰が言い出したのか

そもそも「鎖国」は家康が始めたのか? 幕末、多くの外国船が日本近海に出没する時期に、幕府は「外国船打払令」を出して、イギリス船やロシア船を追い払った。またアメリカのペリー艦隊が江戸湾に出現して開国を求めた時も、幕府の役人は「そもそも我が国は「神君家康公以来、鎖国を祖法とする国である」と宣った。「祖法」とは家康が定めた家訓、いや国家方針で、幕府開闢以来、連綿と受け継がれてきた憲法のようなものだ、というわけだ。だから外国船は来てはならぬ!話し合いも交渉の余地もない。役人はこの「祖法」さえ唱えていれば何の外交判断も求められない、思考停止の免罪符となっていた。江戸時代も19世紀に入るとをそんなふうに利用されてきた。果たして家康はそんな「鎖国」という「祖法」を定めたのだろうか?そもそも「鎖国」という言葉を使い出したのは幕府ではなく、1690年に長崎に来たオランダ商館のケンペルが、幕府による統制管理貿易システムを形容したものだ。。それを蘭学者志筑忠雄が1801年になって「鎖国」と和訳したのが始まりだ。秀忠、家光が打ち出した禁教令、スペイン/ポルトガル船の来航禁止令、日本人の海外渡航。帰国禁止令、オランダの長崎出島幽閉などの、一連の政策を総称して「鎖国」と呼んだ。こうしているうちに世界の情勢は大きく変わり、19世紀幕末になって、日本近海が外国船でガヤガヤと喧しくなってくると、「鎖国」、「外国船打払令」、すなわち外国船の排除が、まるで伝統的な名誉ある孤立政策であり、「祖法」であるかの様に祭り上げられた。神君家康公はほんとにそんなこと決めたのか。大御所時代のいわゆる「駿府外交」を中心に振り返ってみよう。


家康の「駿府外交」とは 外交課題とグローバル戦略構想

家康は、駿府以前から外交の重要性には注目し、秀吉政権の五大老時代から、大国スペインとの関係について色々と策を持っていたようだ。家康が天下を取ると、秀吉の武力を背景にした、強硬な外交政策に対して、家康は、諸外国との融和的な外交、交易政策を取っていった。特に、秀吉晩年の文禄・慶長の役という、明国、朝鮮との関係に大きなダメージを与えた負の遺産の清算に取り組み、早くから関係回復を急ぐ必要があると考えていた。関ヶ原の戦い、大坂の陣、征夷大将軍就任、江戸幕府樹立、幕藩体制の整備と、戦いと内政に忙しかった家康は、一応の区切りをつけると早々と、将軍の座を息子の秀忠に譲り、徳川家による将軍職世襲の先例化に先鞭をつけてから、駿府に移り、大御所として内政、外交の諸課題に取り組んだ。特に外交面では以下の課題に取り組んだ。「駿府外交」という言われるものである。

1)明国との国交回復、講和 秀吉時代の負の遺産の清算

2)朝鮮との国交回復

3)琉球との関係再整理 薩摩藩による統治

4)東南アジア諸国との交易促進のために、朱印船貿易を開始

5)スペインとの貿易 メキシコとルソン、マカオの交易ルートに参入を企図 ヨーロッパへの道 スペイン国王フェリペ三世と国書交換

6)オランダとの貿易 平戸にオランダ商館開設 オランダ総督オラニエ公と国書交換

7)イギリスとの貿易 平戸にイギリス商館開設 イングランド国ジェームス一世と国書交換

8)ポルトガルとは従来通り長崎にて貿易

このように、対中国/朝鮮/琉球との関係修復と交易再開。アジアに進出してきたヨーロッパ諸国との積極外交/交易。日本商船の積極的海外進出。これが家康の駿府外交政策の核心である。これは後世の、いわゆる「自由貿易」を目指したものではなく、幕府の統制管理下における積極貿易策、国富の増大である。当時のイギリスやフランスの絶対王権の下で行われた重商主義的政策と同じである。家康の重商主義的外交政策と言っても良いだろう。その骨子は、中国、東南アジアとメキシコ・スペイン、そしてヨーロッパとの東西貿易体制を確立することである。そのために平戸(オランダ、イギリス)、長崎(ポルトガル)のほかに、新たに浦賀(スペイン、中国)を開港し、三港体制でグローバル中継貿易のハブ機能を果たす。さらにはイギリスと北西航路(北極海経由)を開拓し、浦賀にイギリス商館を置くというものであった。こ家康の戦略は特定の国を排除するのではなく、多国間貿易体制を構築することであった。ただ、この三港分散体制の背景にはスペイン、ポルトガルとオランダ、イギリスとの対立による紛争に巻き込まれることへの警戒もあったとも考えられる。中でも、新たに浦賀を、スペイン、中国との中継貿易の拠点港にすることが目玉であった。一方で、家康はキリスト教布教は許さず、「布教/交易分離」「交易重視」が外交政策の基本であった。こうした多国間貿易構想の背景には、これまでの東アジアにおける中国王朝中心の貿易体制、いわば華夷思想に基づく朝貢貿易システムを打ち破り、新たに、日本をハブとした開かれた東西交易システムを打ち立てようとしたことがあると考えられている。換言すれば、明国との国交回復は目指すものの、室町幕府時代の中国王朝との朝貢貿易である「勘合貿易」から脱して、日本をアジアとヨーロッパを見据えた新たな海洋国家に成長させようとした。

このグローバル戦略構想実現のためには、まず最初に、秀吉時代の文禄・慶長の役で関係が断絶した明国、朝鮮との講和と国交回復(貿易の再開)に取り組まねばならなかった。まず朝鮮との国交回復に取り掛かった。また明国に朝貢していた琉球王国との関係再構築に取り組む。また、アンナン、シャムなど東南アジア諸国から日本との交易の期待が高まり、日本の商船が東南アジア諸国に進出することを奨励し、幕府の公認貿易許可書である朱印状を発行した(朱印船貿易の開始)。これは、相手国に幕府の朱印状を持っている商船、商人とだけ貿易をするように求めるもので、幕府の管理貿易であるともに、かつて近隣諸国に恐れられた倭寇対策でもあった。これには大坂や堺、博多、長崎の豪商も参入し、また諸藩も商人の海外進出を支援して朱印船貿易に参入した。朱印状は日本人だけでなく、長崎のポルトガル人宣教師、ジョアン・ロドリゲス(30年以上長崎に滞在し「日本教会史」などの著作がある)もイエズス会財政立て直しのために、朱印状を得て貿易に乗り出した他、ウィリアム・アダムスやヤン・ヨーステン、クァッケルナック/サントフォールトなど、オランダ船リーフデ号の元乗組員で、その後日本に定住した人物も、家康の朱印状を得て、東南アジア各国との交易に出かけている。

一方で、スペインがマカオ、フィリピン・ルソンとメキシコ・アカプルコの間に航路を開設したことを見て、家康はその航路の中間にある日本の浦賀を中国との貿易の中継地にする提案を、フィリピン・ルソン経由でスペインに打診する。この三国間貿易のビジネスモデルは、スペインは自国の金銀を流出させることなく、日本の銀で決済することで中国から産物を買い付け、其の売却で大きな利益を得ることができる。日本はその中継による利鞘を稼ぎ、為替利益が得られる、という「三方良し」モデルである。以前、ポルトガルが長崎を拠点にこの三角貿易モデルで大きな利益を得ている。また、石見銀山の開発に必要な鉱山技術、精錬技術をスペイン(ポトシ銀山で実績のある)から導入することも重要な国家戦略であった。これは家康が秀吉政権の時代からスぺインに打診していたと言われている。こうして、家康は、石見銀を決済通貨とし、中国の絹を主力交易品とした、中国、東南アジアとメキシコ、スペイン、ヨーロッパを結ぶ東西交易圏を設け、その中継貿易のハブとして日本を位置付けた。家康は具体的に、ウィリアム・アダムス(三浦按針)に命じて、伊東で初の洋式外洋帆船を建造させた。またアダムスをアドバイザーに浦賀湊を国際的な貿易港として整備させたと言われている。日本に漂着したスペインのフィリピン総督ドン・ロドリゴに、家康のスペイン国王宛の親書を持たせて、浦賀港からこの船でメキシコに送り出している。太平洋を横断した初めての日本船となる。家康はこのようなグローバル・ジャパン構想を持っていたわけで、駿府にはヨーロッパ各国、琉球、朝鮮、東南アジア各国から大御所への謁見を求める使節が訪れる様になっていった。


駿府外交の変容と家康の死

しかし、家康の構想は、次第に修正を迫られる事態となってゆく。まず、朝鮮との国交回復には成功し、対馬の宗氏の仲介で朝鮮通信使交流が始まった。また、琉球の薩摩勢力への組み入れにも成功する。しかし、この朝鮮、琉球を介した明国との国交回復、貿易復活は、明国側の頑強な拒絶(いわゆる「海禁政策」)により挫折する。その後、国と国との勘合貿易ではない、私貿易の唐船は寄港する様になるが、ポルトガルが中国と日本とヨーロッパの三角貿易で大儲けした様な高収益構造にはならなかった。中国が本格的な貿易相手になるには、1644年の明朝の滅亡、清朝の成立を待たねばならなかった。

もう一つの柱であるスペインは、もともと日本との交易にはそれほどの興味を抱いていなかったが、中国との中継貿易と、銀山開発いう日本側の提案には興味を示した。ただ、すでにポルトガル領マカオにその拠点を有していた(この時期ポルトガルとスペインはスペイン王がポルトガル王を兼任し合邦している)こと。また彼らの植民地である南米(現在のボリビア)ポトシ銀山からは良質で豊富な銀が採れたこと。そして、フィリピンとメキシコの航路(彼らにとっては自植民地間ルート)を独占していた彼らにとって、日本の中継はそれほど魅力的ではなかった。銀山開発は取れ高の半分をスペインに上納するならOKという法外なもので家康は乗らなかった。したがって、スぺインにとってより重要なことは、日本でのキリスト教の布教であった。布教させるなら交易しても良い。そしてプロテスタント勢力であり、私掠船(海賊行為)による被害で敵対するオランダ、イギリスの日本での活動は絶対に受け入れられなかった。こうして、1611年にスペイン王フェリペ三世の親書を持って駿府の家康に謁見したセバスチャン・ビスカイノとの交渉は、「交易と布教の両立」、「オランダ/イギリスの排除」この2点をスペインは頑強に主張して譲らず、「キリスト教布教禁止」と「オランダ/イギリス排除は絶対受け入れない」とする日本とは平行線で、結局交渉は決裂した。ビスカイノは失意のうちに日本から立ち去る。仙台藩からメキシコ/スペインへ使節として派遣された支倉常長もスペイン王に会うことすらできず帰国する。この交渉決裂の直後、1612年に家康は「寛永の異教令」、すなわち禁教令を出してキリスト教を禁じた。これは、スペイン側のあくまでも日本での布教にこだわる意図に対して手を打ったもので、交易も禁ずるのちの「鎖国」政策の一環としての禁教令とは異なるものであった。

一方、キリスト教布教を前提としないプロテスタント国のオランダとの通商は、アダムスの仲介で成功した。この関係は幕末まで240年続く。イギリスとの関係も、やはりアダムスの尽力で交易が始まった。家康は、スペインの貿易相手としての魅力を評価していたが、一方で、(キリスト教布教の危険性とは別に)スペインに独占的に貿易をコントロールされることを避ける必要性も感じていた。そこで、スペインに敵対するオランダ、イギリスの存在意義を評価した。優れたバランス外交と言って良い。偶然とはいえ、アダムスの登場は家康にとって僥倖であったと言っても良いだろう。しかし、アダムスと家康が構想したイギリスとの北西航路開拓は、イギリス側からの探検、開拓も進まず、またイギリスはアンボイナ事件以降、オランダとの東インド市場で競争に敗れて、平戸の商館を閉鎖し、1623年には日本から撤退する。ウィリアム・アダムスという「歴史の奇跡」ともいうべき人物を得ながら、イギリスはこのチャンスを活かすことができなかった。この「平戸撤退」が後に、その50年後の1673年、イギリス船リターン号で、サイモン・デルポーが、国王チャールズ2世の親書を携えて、再び交易を求めて長崎に来航したときの幕府の対応に影響を与えた。オランダ商館の情報により、チャールズ二世の王妃が、カトリックのポルトガル王の王女である事が分かり、それを理由に交易を拒否したとされている(オランダにチクられた?)。しかし、イギリスは、家康の朱印状の有効性を主張したが、家康の許可を得て平戸に商館を開設したにもかかわらず、一方的に撤退した事を咎めた。対日本貿易を独占していたオランダの妨害工作と言って良いだろう。これによりイギリスとの交易再開は、幕末の1854年のエルギン卿使節による日英和親条約締結を待たねばならない。しかし、この時の長崎奉行の対応はイギリスに好意的なもので、イギリス船の入港を許し、家康の朱印状を持っていたので、幕府の許可はすぐに出るだろうと考えていたようだ。家康の朱印状から60年ほど経った、いわゆる「鎖国」時代であったが、この頃はまだ「祖法」を振りかざした「外国船打払令」のような、有無を言わせぬ排外政策は取られていなかった様子が見える。一方で、オランダとイギリスの対立により、徐々にオランダの世界市場における相対的位置が低下。イギリスがムガール帝国への進出、清国へのアプローチなど、のちの「大英帝国へのロードマップ」を描き、步を進めた始めた時期でもあった。オランダが日本の唯一の海外情報源であったことの意味を考えさせる出来事でもある。

こうして結局、家康の駿府外交政策の重要な柱であった、明国との講和とスペインとの交易、浦賀港ハブ化構想は実現しなかった。アダムスの仲介で実現したオランダ、イギリスとの通商関係樹立は実を結んだものの、1623年にはイギリスも撤退。何より1616年には、その家康が没し、駿府外交政策は大きな変容を余儀なくされた。


「鎖国」への道

二代将軍秀忠は家康の駿府外交政策を引き継がなかった。家康の死の直後、1616年8月に、「元和二年八月八日令」により、キリスト教禁教、バテレン追放令、外国船の寄港は平戸、長崎に限り、浦賀を閉港する。ただし中国船はこの限りにあらず。諸大名によるヨーロッパ諸国との直接貿易禁止、朱印船の渡航対地の制限など、大きく駿府外交政策の転換に舵を切る。いわゆる「鎖国」政策の始まりである。家康の外交顧問として重用されたウィリアム・アダムス(三浦按針)も、領地は安堵されたものの、秀忠からは遠ざけられ、平戸で1622年に没している。

また、次の三代将軍家光は、さらに「鎖国政策」を推し進め、1624年にはスペイン船の来航禁止。1633年、日本人の海外渡航禁止、帰国禁止、帰国すれば死罪。1635年中国船の来航は長崎に限定。1639年、ポルトガル船来航禁止。1641年、オランダ商館の平戸閉鎖、長崎出島への移転、と一連のいわゆる「鎖国政策」を完成させる。西国大名の台頭と、キリシタンの流入を恐れるあまり、海外に進出した日本人の冒険的商人たちや、航海者、戦国の日本を飛び出して海外に活路を開こうとした若者たちは、帰国の道を閉ざされ、帰国すれば死罪という過酷な仕打ちが待ち受けることとなった。やがて海外拠点に形成された日本人街も消滅してしまう。この間1637〜8年には「島原の乱」が勃発し、キリシタン弾圧と内政強化(幕藩体制の強化)を加速させ、ますます世界に向けて国を閉ざす。家康のグローバル戦略の成果は、長崎出島に押し込められたオランダとの通交だけになってしまい、幕府統制管理下に置かれた長崎出島が、幕末までの200年余り唯一の海外への窓口となった。こうして、家康が構想し、押し進めた、いわば重商主義的な日本のグローバル成長戦略、海洋国家としての世界への雄飛というビジョンは、その息子と孫によって幕引きされてしまった。


グローバル・ヴィジョナリー・リーダーとしての家康

我々が教えられてきた「日本史」の教科書的には、家康といえば、信長、秀吉に続く「天下統一」の事績が強調される。そしてキリスト教の脅威から日本を守るために鎖国した江戸幕府初代将軍とみなされている。しかし、世界史的には、見てきたように、家康は、大航海時代/大発見時代という世界のトレンドを視野に入れて、海外戦略を立案、実行した日本の「皇帝:Emperor」とみなされていたことを忘れてはならない。「鎖国」どころか、むしろ積極的に海外との交易を広げ、日本人の海外進出を進め、ヨーロッパとの交易を促進するために平戸、長崎に加え浦賀に港を開設するなど、日本がグローバル化する世界市場で生き残り、成長する道を模索した。そういう目線と視野を持った、今風に言えば、グローバル・ヴィジョナリー・リーダーであったと言えるだろう。しかし、彼の後継者は、その外交戦略を引き継がず、むしろ、国を閉ざす「鎖国」の道を選んだ。日本側の資料(江戸時代に編纂された「徳川実紀」等の、いわば徳川家の公式記録)には、その様な世界情勢に目を向けた「国際派」としての家康のプロフィールや事績は消され、家康を東照大権現として神格化して、家康の子孫たちが進めた「鎖国政策」のルーツを神君家康公に求め、徳川幕藩体制を維持するために、代々守り継ぐべき「祖法」であるとした。

しかし、家康の外交政策の事績は、海外の資料に顕著に見ることができる。宣教師の報告書や手紙、オランダ/イギリス商館の記録、手紙、アダムスの手紙、オランダ使節ニコラース・ボイクの報告書、イギリス使節セーリス航海記録などヨーロッパ側に残されている公式、非公式の記録、あるいはそうした一次史料を研究した後世の歴史家の著作に描かれた家康は、日本側の資料からは見えてこない「意外な姿」で描かれている。言ってみれば、彼は、大航海時代に新興の海洋国家として、重商主義的政策により、新興国であったイギリスの発展をリードした、エリザベス一世のような絶対君主と対比される人物として描かれていることが興味深い。例えば、ジョン・セーリスの駿府、家康への謁見記録には、その皇帝の尊厳ある佇まいにひれ伏し、その城がイギリスよりも壮麗であることに感動している様が記述されている(「ジョン・セーリス日本航海記」)。駿府の家康は「皇帝:Emperor」で、江戸の将軍秀忠は「王:King」と理解されている。駿河:Surugaはロンドンよりも大きく殷賑な都会で、街は清潔に整備されている。皇帝に謁見を求める諸外国の外交使節たちが、順番待ちで列をなしている。皇帝との謁見では、イングランド国王ジェームス一世の親書を皇帝に直接渡そうとして、アダムスに嗜められ、側近が皇帝に渡す礼儀となっている事に戸惑っているが、守備よく皇帝から貿易許可書をもらい、日本にイギリス東インド会社の商館を開くこと許可されたことに感謝している。次に、セーリスは、将軍秀忠に謁見するために、駿河から江戸に旅立ったが、その途中の街道は極めてよく整備され景色が美しい。そして江戸:Yedoは駿河:Surugaよりもさらに大きな都会であると書いている。もう一つ、スペイン人の見た家康像で、面白いエピソードとして紹介したいのは、スペインの宣教師が本国に送った報告書の中で、「日本の皇帝、家康が民間の商船に与えた朱印状は、決して相手の領土や植民地を侵略したり、艦船を襲撃して財物を奪ったりする事を許可するものではない。ただ相手国との貿易により商業的な利益を得ることが目的である」と報告していることである。イングランド国王の私掠船許可状(いわば海賊行為の公認)とのアナロジーを懸念する必要はないと本国に注意喚起しているわけだ。イングランドやオランダの私掠船に襲撃されて大きな被害を受けていたスペインらしい報告だ。しかし、家康の朱印船貿易の担い手である、日本人の航海者や商人達が、イングランドのホーキンスや、ローリー、ドレイク、キャベンディッシュのような冒険的航海者として世界に羽ばたいていたら、日本の江戸時代はもっと違った時代になっていただろう、と密かに妄想する。

だが、やはり、家康の10年余りの駿府外交だけではそれは無理であった。残念ながら、後継者にその器量と目線がなく、有力な重商主義的な経済思想家も、彼の意志を継ぐ重臣も生まれなかった。家康に育てられた航海者、冒険的商人たちは、花咲く前に海外に打ち捨てられた。東インド会社のような株式会社も生まれなかった。結局、家康の後継者たちは、重商主義的な貿易拡大という積極策による幕府政権の強化よりも、封建領主的な守りの姿勢、幕藩体制強化に傾倒していった。海外との貿易が持続可能な国家事業として育つにはもう少し時間が必要だった。そういう間に「鎖国」してしまったのでその成長のチャンスはなくなってしまった。それにしても、家康は、天下統一、江戸開府の「将軍」であっただけでなく、世界史に名を残す日本の「皇帝」であったことは記憶されるべきであろう。そして、日本史的にもその事績を再評価すべき時が来ているのではないか。日本とイングランド。こうしたユーラシア大陸の東西両端に出現した絶対君主の政策と事績は、其のありようの違いこそあれ、同時代を共有する歴史のSynchronicity(共時性)、Co-Incidences(共に事を起こす)の典型的な事例の一つである。この後に日本とイングランドがたどった道は大きく異なってしまったが。日本史を世界史の視点で見直すことで、新たに発見することは多いし、未来を見据える視点を養うこともできる。



参考:家康の駿府外交政策関連の年表

1600年 オランダ船リーフデ号豊後に漂着 のちにウィリアム・アダムス(三浦按針)、ヤン・ヨーステン(八重洲) 家康の外交顧問に

1600年 関ヶ原の戦い 征夷大将軍に

1603年 江戸幕府 江戸開府

1604年〜 日本商船の海外渡航の許可 ルソン、アンナン、トンキン、シャム、カンボジアなど19地域と「朱印船貿易」を開始

1605年 将軍職を秀忠に譲り、駿府へ。1607年駿府城修築 大御所政治、駿府外交の始まり

1606年 朝鮮との国交回復 講和成立

1607年 朝鮮通信使に接見

1606〜1609年 薩摩が琉球侵攻し支配下に

1610年 琉球国王尚寧 家康に謁見

1610年 明国に勘合貿易復活を要求 拒否

1614年 琉球国王を仲介に明国との国交回復を打診するも拒否

1609年 オランダ・オラニエ公の使節来訪 アブラハム・ファン・デン・ブルック、ニコラス・ボイグが家康に謁見 オランダと交易開始 アダムスの仲介で平戸にオランダ商館開設

1609年 スペイン船漂着 フィリピン総督ドン・ロドリゴ 家康に謁見

1610年 ロドリゴ、アダムス建造の船で、家康のスペイン国王宛の親書を持ってメキシコへ帰国

1611年 スペイン国王フェリペ三世の親書を携えてセバスチャン・ビスカイノ来訪 家康謁見 しかし交渉決裂

1612年 これを受けて、寛永異教令 キリスト教布教の禁止 ただ、これは「鎖国」の前触れではない

1613年 仙台藩の支倉常長 メキシコへ 1615年スペイン本国へ

1613年 イギリス国王ジェームス一世の親書を携えてジョン・セーリスが家康に謁見 イギリスと交易開始 アダムスの仲介で平戸にイギリス商館開設 浦賀案は実現せず

1614〜15年 大坂の陣 豊臣家滅亡

1616年 家康、駿府にて没す

1616年 家康死後、秀忠により「元和二年八月八日令」キリスト教禁止 ヨーロッパ船は平戸、長崎に限定 諸大名による海外貿易の禁止 朱印船貿易の制限 「鎖国」への第一歩

1620年 ウィリアム・アダムス 平戸にて死去

1623年 イギリス 平戸から撤退 

1623年 家光、第三代将軍に 矢継ぎ早の「鎖国政策」

1624年 スペイン人の来航禁止

1633年 日本人の海外渡航、帰国の禁止

1635年 中国船の寄港は長崎に制限

1637〜38年 島原の乱

1639年 ポルトガル船の来航禁止

1641年 オランダ商館の平戸閉鎖、長崎出島へ いわゆる「鎖国政策」の完成


参考:過去の関連ブログ

2022年1月8日 東西文明のファーストコンタクト カピタンの世紀②イギリス

2021年12月28日 東西文明のファーストコンタクト カピタンの世紀①オランダ


2023年8月15日火曜日

終戦から78年目の夏 〜酷暑と台風の中で思うこと〜




終戦から78年。今年もまた8月15日の終戦の日がやって来た。コロナ禍は少し収束に向かったものの、今年の夏はほぼ1ヶ月も続く35度前後の連日の猛暑。そして台風6号、7号の連続襲来で、九州、関西中心に大きな被害が出ている。長崎の原爆被害者慰霊祭も、東京の全国戦没者追悼式も、台風を避けての縮小慰霊祭となった。日本は戦後の78年にわたる平和な時代を享受してきたが、高度成長期が終わり、少子高齢化、人口減少、30年以上続く経済の縮小という、衰退先進国の道を歩み始めている。軍事大国から敗戦を経て経済大国へ、というドラマチックな「奇跡の物語」は終わった。徳川幕府の崩壊、天皇の明治維新体制が成立してから、敗戦によるその崩壊までが78年である。今年はその敗戦から78年である。新しい時代への節目なのかもしれない。軍事大国から経済大国へ、そしてその次はどのような国になってゆくのか。

振り返ってみると、この戦争は、始まりも、終わりも、誰が判断し決定したのかも曖昧であるし、どのような勝利の前提条件をもとに開戦を決定したのかも不明である。合理的意思決定とは程遠いものであったように思う。というか、誰も対米開戦して勝てる見込みがないことは分かっていたが、リーダーもおらず、誰も何も決めず、問題先送りして様子見であった。そのうちに、状況は悪化し、選択肢がなくなってしまい、「やむを得ない」と意思決定なき開戦になだれ込んで行った。そもそも宣戦布告もなく政治の意思決定もないまま、現地の軍部のなすがままにずるずると拡大していった満州事変とそれに続く日中戦争が始まりである。政治意思の不在が現場の実力部隊を統制できなかった。中国権益と南方資源を同時に得るために、戦線を拡大して、泥沼と化した中国との戦争に加えて、米英と戦争をすることが可能なのかについての冷静な判断、それがなかった。いやあったのかもしれないが開戦回避に向かわなかった。最後は、合理的に考えれば絶対に勝てないことが分かっていたのに、「一撃講和」パターン(日露戦争勝利という僥倖で憶えた)を信じて開始した対米戦争。敗戦必至になってもなお特攻自爆攻撃でアメリカを恐れさせて講和に持ち込むという、この後に及んでの「一撃講和」を信じ続ける軍部。ドイツと同盟関係を持ちながら独ソ開戦を予見できなかった外交インテリジェンス。ドイツが降伏し、日本の負けがはっきりしているのに、ポツダム宣言を黙殺。全く当てにできるはずもないソ連の仲介によるアメリカとの講和を期待した外交。この外交センス、優秀であっただあろう国のリーダーには悪いが、笑止千万と言わざるを得ない。仮にそんなことができたとすれば、戦後の日本は分裂国家となり、東半分はソ連領となり「日本人民共和国」になっていただろう。最近の研究では、この時期にアメリカ国務省高官から内々に(ソ連の脅威を意識した)日本に配意した講和条件打診が、バチカンの外交ルートを通じてであったことが明らかになっている。しかし外務省内で有耶無耶にしてしまった。日本にとって有利な方向に変化しつつある世界の情勢を読みきれていなかった証拠だろう。結局、連日の都市空襲、沖縄の地上戦、広島の原爆投下(8月6日)、長崎の原爆投下(8月9日)、そして、当てにしていたソ連の突然の参戦(8月9日)。さらに大勢の国民が亡くなった。それでも「本土決戦」「一億総玉砕」を叫んで戦争を止めようとしなかった軍部。ついに天皇の聖断で8月15日にポツダム宣言受諾、無条件降伏となる。最後にようやく世俗権力を超越する聖権威を持ち出さねばこの戦争は終わらなかった。終戦の意思決定においても、誰も決めない、見通しもなく問題先送りで様子見を決め込もうとした。「わかっちゃいるけどやめられね」ってわけだ。

終わらせ方のシナリオを持たずに始める戦争ほど愚かな戦争はない。最後は、超人的なパワー「神風」が国を守ってくれる。「神州不滅」神話に逃げ込む。そんなバカなと思いつつも、どこか万に一つの僥倖を期待する。そんな「根拠のない楽観主義」もまた日本人の宿痾なのか。国のリーダーは国民を総力戦に駆り立て、出征兵士には「お国のために死ね!」と言う。町に空襲があっても、老人、女性、小さな子供しか残っていない市民を避難させるのではなく、バケツとハタキで消火せよ、と焼夷弾降り注ぐ街中にからの退去を許さなかった。学童疎開は、貴重な戦力の温存としか考えなかった。大学生の徴兵猶予廃止、学徒動員が話題になるが、その前に少年航空兵を確保するため、中学生の予科練志願という動員ノルマが全国の中学校に課せられていたことも、最近、記録が発見されてわかってきた。もはや戦争に勝ち目はない、と分かっても、誰も止められない。「やむをえない」「仕方がない」と。「国家」が起こした戦争で多くの「国民」を死に追いやった責任を「国家」はどう取ったのか。「統帥権」を盾に、戦争をなし崩しに進めた軍部は、敗戦で連合国に武装解除はされたが、国民に対して敗戦の責任を取っていない。「一死を以て大罪を謝し奉」と割腹した陸軍大臣は、国民に謝罪したわけではない。天皇、いや陸軍に謝罪した。戦勝国による「極東軍事裁判」は、敗戦国の戦犯に「人道に対する罪」を問うた。それならば戦勝国側にも戦犯がいるだろう。日本人の手による「国民」に対する戦争責任の総括が無いまま、戦後の冷戦構造の中での免罪符を得て、朝鮮戦争特需で経済復興し、「高度経済成長」などに浮かれて、かつての失敗の責任と贖罪を忘却の彼方に追いやってしまったのではないのか。無条件降伏の譲れぬ「一線」であった「国体」が守られたので、「国民」に対する戦争責任はどうでも良くなったのか。そんな「国体護持」も戦後はなぜか忘れ去られて、誰も「国体」の「こ」の字も言わなくなる。国民に命をかけて守れと言っていた「国体」ってなんだったのだ。明治維新の幕藩体制を終わらせるために持ち出されたイデオロギー、スローガンであったに過ぎなかったのか。そんなものの為に「国民」は死んだのか。「根拠のない楽観主義」「不確かな前提条件に基づく判断」「意思決定と結果責任の不在」。これはこの戦争に限った話ではない。

日米開戦を回避するために、主戦派の陸軍を抑えることが枢要と考えた元老たちは、日米交渉に失敗し、政権を投げ出した近衛首相の後に、東條陸軍大臣を首相に据えた。開戦回避が彼の最大のミッションであったはずだ。しかし、東條は、関東軍憲兵隊司令出身で、満州で反日、反満の取り締まりには辣腕を振るったが、陸軍内部でもそれほど実力を認められた将軍ではなく、まして政治家でもない。そんな彼に、陸軍を統制し、日米開戦を回避できるリーダーシップと実行力があるとはとても思えない。むしろ、東條陸軍大臣が首相を兼務、という人事は、いよいよ日米開戦に向けて総力戦体制を整えた、というメッセージを内外に発出したに等しかった。現にマスコミは国民を「いよいよ米英との戦争だ!」と煽り、アメリカ側は、日本は近衛の外交交渉路線を捨てた、と見做した。こうした、密室で元老達により決定された人事のロジックは、外の世界には全く通用しないどころか、反対のメッセージを送ることとなった。こうした巨大組織の内部での「見えないルール、ロジック」が世間、世界には全く通用しない例は、今でも珍しくない。一方、戦後、旧陸軍の幹部が回想で、陸軍上層部もアメリカとの戦争は絶対に勝てないと言っていたという。しかし、当時は国民の開戦への熱狂と、突き上げが激しく、これを抑えることができなくなっていた、と。「よく言うよ」である。国民を開戦へと焚き付けたのは陸軍幹部とその広報機関と化したマスコミではないか。そういう情報統制下における反米プロパンガンダがミラーリングして軍部と政府に帰って来ただけだ。まるで国民が開戦に責任があるかのような言説には呆れ果てる。

毎年この戦没者慰霊の時期になると、戦争を忘れるな、近隣諸国民と国民の苦悩を忘れるな、二度と戦争は繰り返すな!とマスコミで終戦日記念特集が組まれるが、「戦争」は感情論で議論するのではなく、まさに国の政治であり外交の問題である。冷徹に敗戦の歴史に学ばねばならない。歴史に学ばない国の行く末は心許ない。ただこれは、中国共産党や北朝鮮の権力の場にいる人間たちが言う「歴史認識」問題などとは全く異なる。彼らは彼らの権力維持ロジックから仮想敵国の「悪逆な歴史」を利用しているだけなのだ。本当の被害者は、アジア諸国においても、日本においても、「国家」が引き起こした戦争に翻弄された「国民」なのだ。その国民感情を権力維持に利用することではない。2年目に入ったロシアのウクライナ侵略戦争が、21世紀になっても、「国家」による戦争の脅威が去っていないことを示している。ふと我が国の周辺を見渡すと、核とミサイルを手に軍事的威嚇を続ける国や、軍事力で東アジア秩序の現状変更と海洋進出を試みる国、武力で他国を侵略する国が日本を取り囲んでいる。軍事力を「国家」の存立基盤に据えているかの如き態度である。これらの国々は、かつて「日本軍国主義」の脅威を声高に非難していたのでは無いのか。日本は過去の歴史を直視せよ!と言っていたのではないのか。しかも、どれも強権的な専制主義国家である。民主主義、人権、法治主義という価値観を共有しない国々である。彼らの振る舞いこそ、日本の過去の負の歴史に学んでいるとは思えない。これが戦後78年の夏の日本を取り巻く現状である。こうした国際情勢の中、今後、日本は自ら他国に戦争を仕掛けることはなくても、自国に襲いかかる侵略者に対してどう対峙するのか、その覚悟と対処が問われている。これがウクライナの戦いの教訓だ。アメリカに守ってもらう、などといまだにナイーヴに他力本願を信じているのか。「戦争は良くない」。そんなお題目だけを念仏のように繰り返していても、問題の解決にはならないし、平和は実現できない。戦争に巻き込まれないためには、世界の動向をよく見、事実を知り、正しい分析と判断する眼力を持つ、これに尽きる。それに基づき、自らの外交戦略と情報戦能力、防衛力の強化で、集団的安全保障を図らねばなるまい。ウクライナの祖国防衛戦争を見てわかるのは、21世紀の戦争は、平時からの外交戦、情報戦であるということ。それをゼレンスキーと政権幹部がよく認識して実行していることである。防衛力強化は、NTT株売ってその金でアメリカからミサイルを買うことではない。そして何よりも、民主主義、人権、法の支配といった人類が獲得した価値観を共有する国々との国際連携を平時から強化しておく事だ。また日本の舵取りを行う人材問題、「意思決定プロセス」/「リーダーシップと責任」の問題に向き合うことだ。そしてポピュリズムの「熱狂」を避けるためにも国民の情報リテラシーを高めねばならない。いつまでも「外交下手」「戦争下手」「平和ボケ」の日本、なんて自虐ネタをやってられない。戦時は平時の延長だ。戦時は突然やってくる。


(今日正午、酷暑と台風の「全国戦没者追悼式」鎮魂 黙祷 )


参考:
半藤一利「昭和史」「日本の一番長い日」他
保阪正康「昭和史の論点」他


2023年8月6日日曜日

「ロシア 衝突の源流」を観て考えたこと 〜皇帝の支配する国家、戦争で成り立つ国家とは〜


ピョートル大帝 (Wikipedia)



NHKで特集番組「ロシア 衝突の源流」を観た。プーチンのウクライナ侵略戦争の背景を歴史学、国際政治学、戦争学の視点から分析・解説した番組で、ロシアという国の有り様について、改めて考えさせられる番組であった。4月にも放映されていたがしっかり観なかったので、今回は、1時間半、真面目に見た。曰く、ロシアの歴史は戦争の歴史だった。国家存続に戦争が不可欠であった。領土拡大という強迫観念に突き動かされた国家である。国民国家、民主主義が根付かず、常に「皇帝」という独裁者が支配した国家である。そういうショッキングなモチーフが歴史の基層部に横たわっていると言う。ロンドン大学キングス・カレッジの国際政治学者、戦争学者であるリチャード・ネド・レボウ:Richard Ned Lebow、オックスフォード大学の歴史学者アンドレイ・ゾリン:Andrei Zorinの分析をもとに考察する番組である。


私なりにその論旨を整理、要約すると(極東部分の動きは新たに追加した)、

ロシアという国家は、882年にヨーロッパの辺境に発生したスラブ民族などの小国、キーウ公国(現在のウクライナの首都キーウが首都)が起源と言われる。支配地域は現在のキーウ、モスクワ近辺の限られた地域であった。現代のロシア、ベラルーシの国名はこのキーウ公国の別名「ルーシ」が起源である。

1223年には、スラブ民族は、東方のモンゴル民族、タタールに征服され、キーウ公国は滅亡した。以降250年にわたって異民族の支配下に置かれた。この苛烈で悲惨な経験が、ロシアの歴史上のトラウマとなっており、現在まで尾を引いている。いわゆる「タタールの軛(くびき)」と言われるものである。

その後、17世紀のモスクワ大公国時代には東のシベリアまで領土を拡大するが、西ヨーロッパ諸国が「大航海時代」を迎えて盛んに世界に進出するのを横目に、文明に取り残された辺境国家としての存在感しか発揮できなかった。隣の大国ポーランドとの戦争に明け暮れる日々が続く。

18世紀になると、ピョートルが初代皇帝に即位し(1721年)、ようやくロシアは帝国としての国家形態が整う。ピョートルはロシアの近代化を強力に推し進め、西欧諸国に負けない一等国を目指して急速な改革を断行した。プーチンが最も憧れる皇帝である。ピョートルは辺境の大陸国家であったロシアを、海外(文字通り海の外)へ進出させるべく、イギリスの海軍に学び海軍力の強化に邁進した。この為に自らイギリスのポーツマスの造船所に出かけ、労働者として働き造船技術を学んだ。皇帝としてのピョートルはまず、バルト海への進出を果たすべく、制海権を握っていたスウェーデンとの戦いに挑み、勝利する。いわゆる「大北方戦争」(1717〜21年)である。1703年には帝都サンクトペテルブルクを建設し、ロシアが大国への道を歩む第一歩踏み出したとともに、領土拡大の戦争の歴史の始まりであった。

この領土拡大、海外進出路線をさらに強力に推し進めたのが1762年に皇帝に即位した女帝エカテリーナ二世である。エカテリーナは、ピョートルが北のバルト海の覇権を確立したのに続き、不凍港を求めて、南の黒海への進出をめざし、クリミア半島の支配を狙った。いわゆる「南下政策」である。これが、以降1918年まで続く12回に渡る(クリミア戦争を含む)オスマン・トルコ帝国との戦争「露土戦争」の始まりである。またこの「南下政策」「領土拡大政策」が西欧諸国、特にイギリスやフランスの警戒感を産み、反ロシア感情を生み出す原因となった。エカテリーナは黒海沿岸のウクライナやクリミア、ルーマニアなどを武力で占領し、交易を独占し、ロシア帝国の版図とした。エルミタージュ美術館の財宝コレクションに象徴される帝国の富を誇ったのはこの時代である。このようにプーチンがロシアだと主張している領土や、ロシア人だ(兄弟だ!)と見做している人々は、エカテリーナの時代に武力で侵略して占領した領土/人民である。また、この時代には、フィンランドやバルト三国を占領、統治下においた他、極東ロシアの領土拡大にも力を入れ、北米のアラスカ、清朝の弱体化のスキを狙って中国沿海州、黒竜江省への領土野心をあらわにした。また極東における「不凍港」を求めて、樺太、千島列島、日本の蝦夷地、後には満州、朝鮮にまで触手を伸ばしていった。大黒屋光太夫、ラックスマン、レザノフの来航、露寇事件、ゴローニン事件、高田屋嘉兵衛の物語を通じて日本人にも記憶されている。

しかし、エカテリーナの野心は、安全保障や経済的利権を動機とした領土獲得戦争だけではなく、ロシア正教を異教徒(オスマン帝国)から守る、という大義名分を戦争の旗印として振りかざすようになっていった。これはロシア正教こそ、そしてスラブ民族こそ東ローマ帝国・ビザンチン帝国のキリスト教の正当な継承者であり、首都コンスタンチノープル(オスマン帝国の)を攻略する野望すら持っていた。これはもはや恐怖からの安全保障や富への欲望だけでない、西欧諸国からの大国としての承認を得ること、戦争の正当性を諸国に認めさせることが目的となった。これが現代のプーチンの国家観、戦争の正当化主張に引き継がれており、以降のロシア独特の大ロシア主義精神論、スラブ・ナショナリズムを形成する元となっている。

1812年には、ロシアはフランス・ナポレオンの侵攻を受け首都モスクワが陥落する。しかし、ナポレオンは、ロシアの広大な領土における補給と兵站に失敗し、冬将軍に阻まれて、ロシアから敗走する。これがいわゆるロシア人が言う「大祖国戦争」である。このときの侵略の恐怖は、かつての「タタールの軛」を思い起こさせ、そのトラウマと、領土の広大さが敵を打ち負かしたという確信が、さらなる領土拡大に走るという強迫観念にも似た行動原理のもととなった。

20世紀になると戦争の様相が大きく変わっていった。大量殺戮兵器の登場や、国家総動員体制、戦死者の急増、食糧不足、経済の破綻など、戦争が国民の生活に直結するようになった。この事による国民の疲弊と不満を、皇帝ニコライ二世は読み切れなかった。あくまでもロシアの威信をかけた対外戦争を強行したが、1904年の日露戦争の敗北をきっかけに、第一次世界大戦に参戦するも途中で離脱し、1917年にはロシア革命でロマノフ王朝は滅亡。帝政ロシアは終焉を迎える。社会主義のソビエト連邦共和国の誕生である。皮肉なことにマルクスが予言したた階級闘争とプロレタリア革命は、西欧諸国のような「市民社会」ブルジョワジーの成立もない国で起き、いきなり帝政からプロレタリア国家となったわけだ。この矛盾が歪みを生むことになる。

しかし、ロシアに皇帝はいなくなっても、ロシアの本質は変わらない。スターリンは皇帝とかわりのない苛烈な独裁者となり、彼の支配する共産党は専制的な統治機構を構築し、戦争で守るべき大義が「ロシア正教」から「社会主義」に変わっただけである。むしろ粛清により多くの自国民を死に追いやった。ナチス・ドイツとの戦争では「第二の祖国戦争」に勝利し、ベルリンに進軍、チェコ、ポーランド、ハンガリー動乱への介入、東ヨーロッパ全域を支配圏におく。そして極東においては、満州、樺太、千島列島に雪崩れ込み占領....領土拡大の野望は留まるところを知らない。1989年のソ連の東西冷戦敗北、1991年のソ連邦崩壊にあっても、結局はロシアには民主主義も国民国家も根付かず、市民社会も成立しないまま相変わらず「皇帝」が独裁的支配を続ける専制国家のままである。しかも今度は「核」という禁断の兵器を保有する専制国家である。ロシア人は、敗北の後には、必ず強い皇帝が現れて強いロシアが復活する、という「神話」化された歴史を信じたがっている。

リチャード・レボウ教授によれば、国家が戦争を起こす動機には3っある。恐怖:Fear,  威信:Spirit,  欲望:Appetiteである。ロシアの戦争をこれで分類すると、

恐怖による戦争: モンゴル民族による侵略、支配「タタールの軛」、フランス・ナポレオンによる侵略「大祖国戦争」、ナチス・ドイツによる侵略

威信による戦争:ピョートル大帝の「大北方戦争」、エカテリーナ女帝のクリミア戦争、オスマン帝国との12回にわたる「露土戦争」、ニコライの戦争

欲望による戦争:エカテリーナの「南下政策」、武力によるクリミア、黒海沿岸諸国領土簒奪、中国沿海州、樺太・千島占拠、満州・朝鮮への領土的野心による戦争

この3つのカテゴリーで見るように、ロシアはいつも他民族、他国に侵略されてきたという被害者意識と恐怖が基底にあり、領土拡大が最大の防衛だとする、一種の強迫観念が生まれた。そして、一等国、大国と認知されるためには戦争で海への出口を確保し、対外戦争で領土を広げる必要があるという、いわば大国としての「承認欲求」が戦争の動機となる、やがて、戦争の大義を、領土拡大や経済的利権獲得だけではなく、ロシア正教の正当な継承者としてのスラブ民族の自衛のためであると主張し始める。ここにロシア独特の「大ロシア主義」が生まれる。恐怖と領土拡大強迫観念、そして大国としての権威の承認欲求の連鎖。こうして戦争がなくては国家として成り立ち得ない国家「ロシア」が誕生したと、レボウ教授は説明する。そして、これがプーチンの大ロシア主義の源流である。

アンドレイ・ゾーリン教授は、歴史家の自分が言うのもおかしいが、国の指導者が政策意思決定をするときに、あまり歴史を蒸し返すのは止めたほうが良い、と含蓄のあるコメントをしている。「歴史に学ばない」のではなく、「都合の良い歴史を振りかざさない」ということだ。「史実の神話化」、すなわち自らに都合の良い史実だけを選び出し、繰り返し称賛し、民族の誇りに祭り上げることの危険性を説いている。ロシアに限らず、どこの国、民族にもありがちで心せねばならない。プーチンは、ソ連崩壊の後の「強いロシア」復活という神話の世界を生き直そうとしているとも。ピョートル大帝やエカテリーナの戦争、ナポレオン撃退やナチスドイツ撃退戦争(大祖国戦争)を取り出して、繰り返し国民に「強いロシア」を刷り込み、神話化する。それが危険な妄想に繋がることは容易に予見できるだろう。「大ロシア主義」、「汎ゲルマン主義」、「八紘一宇」、「偉大なる中華民族」、こうしたナショナリスティックなスローガンが、真実性を伴わないフィクションでるあることに気づきながら、国民はそれに酔いしれてしまう。独裁者はそれを知っているのだ。そしてそれが独裁者の存在意義(レーゾンデートル)となる。やはり、ロシアに皇帝がいなくなっても、ロシアの本質に変わりはない。独裁者という「皇帝」が居座り続け、一度も真の国民国家、民主主義が成立したことがない。そして、故に「皇帝の威信をかけた戦争」が国家の存立の基盤であるという妄想から抜け出せない国であり続けている。

こうした俯瞰的な通史分析は、ロシアが戦争に取り憑かれた国であり、周辺国にとっては危険な救い難い国であるかの印象を与えるであろう。私の限られた在欧経験だけで判断してはいけないが、振り返っても、フィンランドの友人の露骨な反露感情、ポーランド人留学生のソ連の属国ではないというアイデンティティー主張、イギリスBBCのロシア番組「Hungry Bear Next Door」の人気、亡命ウクライナ軍人のシニカルなロシア論など、ヨーロッパにおけるソ連やロシアへの警戒感情を日常的に感じたものである。同じことはユーラシア大陸の反対側の日本にも言えるだろう。歴史的に、ロシアは隣人であっても真の友人であったことはない。フィンランド人とトルコ人が親日的である理由を知っているだろうか。彼らが学んだ歴史の中に、日露戦争と日本のイメージがある。その意外な評価と反響に驚いたことも。洋の東西、知らない国の人同士が、皮肉なことにロシアという「隣人」を通じて共感関係を生み出しているのだ。確かに、現在のロシアの聞く耳もたぬ態度とウクライナの惨状を見ていると、こうした戦争の歴史が、ロシアの源流であるという説明に納得させられるし、プーチンの政治思想にそういうDNAが刷り込まれていることも間違い無いだろう。しかし、私は、かつて紹介したクロパトキンの「ロシアから見た日露戦争」や、ゴロヴニンの「日本幽囚記」でも触れたように、ロシア知識階級の啓蒙主義的な思考様式や、倫理観、事態を客観視できる「公平な観察者の視点」、相手に対する共感力やレスペクトを有す人間の存在に期待している。トルストイやドストエフスキー、チェーホフ、チャコフスキーのロシア文化のヒューマニズムにも期待している。18世紀末から19世紀初頭、ロシアでは貴族や知識人たちの西欧旅行が盛んになり、カントやゲーテに接して共感し、感性の西欧化が進んだと言われている。(H.M.カラムジン「ロシア人旅行者の手紙」)。啓蒙主義的な思想だけでなく、西欧流の立憲君主制や議会制度についても研究が進んだ時期があったとも言われている。ロシア帝国の領土拡大の尖兵として極東にやってきた、海軍士官ゴロヴニンやリコルドにそうした西欧流の知性と教養の片鱗を見るのは、こうした時代背景があったからであろう。「国家としてのロシア」と「ヒューマンなロシア人」のパラドキシカルなギャップを感じる。国家のありようと、そこにいる人間のありようは分けて考えなくてはならないようだ。

ロシアは、おそらくこの先、衰退の時期に入り、プーチンが夢見るような「偉大なるロシア」はやって来ないだろう。プーチン亡き後、経済の停頓と縮小により国家の衰退と、社会の混乱、国民の困窮を経験することになるだろう。現代の戦争は、必ずそういう副作用を伴い、大国といえど、衰亡の道を歩むきっかけとなるという歴史の教訓(アフガニスタン戦争がソ連崩壊につながったことを経験しているのではないのか)は誰もが知っているところだ。その中から政治体制の激変が起こるであろう。しかしその再生の道の先にあるのは、今度こそ戦争によって成り立つ大国ではなく、平和によって成り立つ普通の国になってほしい。幾度かの試練を経て今度こそは国民国家、民主主義国家、平和国家へと脱皮してゆくことを期待したい。間違っても「欲望の資本主義」の道を歩んではならない。そのためにもウクライナを見捨ててはいけないし、今度こそロシアの市民による民主化(すなわち市民革命)を支援しなければなるまい。そしてこれはロシアに限った話ではないということにも気づくであろう。

(広島原爆投下から78年の今日、東京にて)


メモ:

1945年(昭和20年)

7月26日 ポツダム宣言発出 日本は無視

8月6日広島原爆投下

8月9日長崎原爆投下

同日 ソ連、不可侵条約を破り満州、朝鮮、樺太、千島列島に侵攻

8月14日 ポツダム宣言受諾 無条件降伏

9月2日 降伏文書調印


参考文献:

Richard Ned Lebow :

「A Cultural Theory of International Relations」

「The Challenge to Contenporary International Plotics」

「なぜ国家は戦争をするのか」