1900年(明治33年)東京・裳華房(しょうかぼう)より出版 1899年にフィラデルフィアで出版されたものの日本再版 |
新渡戸稲造は、日本精神を世界に紹介するために、1899年「Bushido The Soul of Japan:武士道」を米国・フィラデルフィアで出版した。その翌年、1900年には日本・東京で英語版で出版した。「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」という書き出しで始まるこの本を通して、当時、条約改正という幕末以来の課題を解決する必要があったし、日清戦争に勝利し、日本がアジアの脅威になる恐れありとの西欧諸国の「黄禍論」という時代背景に、未開の野蛮国と見られていた日本にも、武士道という優れた精神があることを世界の人々に紹介したもの。その本はやがて、ドイツ語、フランス語、ロシア語など、多くの言語に訳され、新渡戸の名は一躍、世界の知識人に知れ渡った。その時代背景をもとに西欧列強諸国を強く意識して、日本が野蛮な国でも、文化的に遅れた未開国でもないと主張する著作が次々と英語で表された。岡倉覚三(天心)の「日本の目覚め」(3月のブログで紹介した。2024年3月29日「古書をめぐる旅(48)」「日本の目覚め」岡倉覚三)、「茶の本」、内村鑑三の「典型的日本人」が代表的であり、「日本人の精神とは?」「日本文化とは?」時代を代表する知識人各氏の共通したテーマであった。
特に札幌農学校の同級生でクラーク博士の影響でキリスト教徒となった新渡戸や内村の著作は、多くの欧米の知識人に受け入れられ、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトも愛読した。異教徒よりも同じキリスト教徒が英語で説く「武士道」は、彼らにとってまず第一段のハードルがクリアーという効果があったのかもしれない。著者にそのような意図があったかどうかはわからないが、この点で岡倉覚三の英文著作で、明治維新を説いた「日本の目覚め」(日本精神の基層にあるのはキリスト教でも、仏教でも、儒教でもない。まして武士道でもない)とは一線を画すものである。西洋諸国の知識人の間では、「文明開花」とは「キリスト教の教化により未開文明から脱することである」という特有の「共通理解」があり、従って異教徒である日本の「文明開花」は単なる西欧技術や制度の模倣に過ぎない。初期の頃の御雇外国人の多くもこうした視点で日本の「文明開花」、すなわち近代化を見ていたきらいがあった。やがて、キリスト教によらずとも文明開化は起きうると考える西欧知識人も出てくるようになる。我々日本人、アジア人(そして異教徒)から見れば、そんなことは自明のことで、「てやんでえ!」と西欧人の歴史認識の欠如と傲慢を指摘するのだが、西欧人の中には近代主義的な知識人ですらキリスト教徒であるか否かは「大きな違い」であると認識されていた。東西文明のファーストコンタクトの時代16〜17世紀には、アジア(異教徒)の文明と経済規模の方がヨーロッパ(キリスト教徒)のそれを遥かに凌駕していたことをお忘れか。大航海時代とは、そのアジアの文明と富と知識に群がってきた辺境ヨーロッパ人のムーヴメントであったことをお忘れか、と言いたいが、18〜19世紀のセカンドコンタクト時代には、アジアとヨーロッパの立場が逆転し、アジアは遅れた文明などとみなされるようになる。彼らはファーストコンタクトの時代をすっかり忘れてしまった。その中でいち早くアジアにおいて西欧流近代化に取り組んだ日本の有様をまざまざと観察し、そのキリスト教によらずとも文明は開けるという事実を突きつけられて「文明開花」の固定概念を変えた西欧知識人が現れるようになるのである。少しファーストコンタクトの時代を思い出したか。日本人の外来文明の受容と変容、習合という歴史。従って多神教的な世界観が形成され、そこに息づく精神と力の開花が今起きている。一神教的な世界観からの解放である。キリスト教/近代合理主義視点から日本を分析するチェンバレンを批判したハーン。グリフィスの日本観。古代、中世、近世に遡って日本とヨーロッパの交流史を研究したマードック、サンソム、ボクサーの日本史観にもそれが表れている。
話を戻すと、日本でも「武士道」が邦訳されて発売されるや、たちまちにしてベスト・セラーになった。明治天皇の天覧の栄誉にも輝く。それは「明治維新以後、西洋文明に圧倒されていた日本人に、自分たちにも世界に誇れる高い精神性、道徳性があることを自覚させ、誇りを与えるものだったからだ」と言うのが大方の受け止め方であっただろう。しかし、西洋文明に圧倒されていたという日本人が自覚した「武士道」が日本の精神性と道徳性を語る全てであったのだろうか。西洋人に「なるほど文明開花の鍵は武士道であったか!」「西洋で廃れてしまった騎士道精神が日本では生きているのか!」と民族的尊厳と愛国心をくすぐられると、すぐに「日本は武士道の国である」と元気になる。もう少し冷静になってみるべきではないのか。
日本の「文明開花」すなわち近代化が西欧の模倣であり、またその野蛮な性質が西欧の脅威になりつつあるという主張に対し、日本人の根底にある価値観、倫理観を説き起こし、長い歴史に培われた独自の精神性と道徳性があること。そしてそれが明治維新の原動力であったと説いたのは画期的であるし、こうした自我の目覚めは「一等国への道」をひたすら歩む時代の要請でもあったろう。しかし、「武士道」が日本人の全てを物語るキーワードであるかは疑問なしとはしない。岡倉覚三(天心)は「茶の湯」の精神を日本人が誇るべき文化だと紹介している。花鳥風月を愛でる精神を説く。チェンバレンも新渡戸の「武士道」は日本を正しく表していないと批判的であった。明治維新で600年以上続いた武家政権の時代と武士中心の社会が崩壊したはずなのに、皮肉にも明治以降になって「武士道」が日本人のアイデンティティーだとする理解が広まる。それを海外にも喧伝し、その反射効果として国内的にもその精神を自覚させる。新渡戸の著作はこれに拍車をかけた。これはどうしたことなのか。武家時代へのノスタルジアなのか。武士階級に虐げられてきた庶民にまで「武士道」「尚武」を教え、「富国強兵」「国民皆兵」「忠君愛国」の根底をなす日本民族の基本精神であるかのように教えられてきた。武士道精神が、パッと咲いてサッと散る桜の花に象徴される自己犠牲、滅私奉公、死ぬことを厭わない潔いものだけでないことは理解するが、日本の精神文化にはもっと平和でおおらかな要素もある。万葉集を紐解けば、武士道とは異なる精神文化の地平がひらけているではないか。また武士道の根底をなす仏教的な悟り・死生観、儒教的な倫理・秩序観によらない異なった倫理観もある。しかし、今でも日本人は勇ましいサムライの物語が大好きである。現代でもNHK大河ドラマの主人公は戦国時代の英雄か幕末維新の英雄とほぼ決まっている。どれもサムライが主人公である。今年のように平安時代の紫式部が主人公になるということは初めてのことだ。戦国もの、幕末維新ものもネタ切れなのか。そろそろ司馬遼太郎史観の賞味期限切れかもしれない。平安時代でなくともそれを遡る古代における日本人の精神とはどのようなものであったのか。サムライでない人々の精神性や道徳観がどのようなものであったのか。維新から戦前に教えられた皇国史観に基づく「八紘一宇」「大和魂」などとは異なる、あるいは、その源流ともいうべき江戸時代の国学ブーム、尊王思想のような流れとも異なる、はるか有史以前に遡る日本人の自然の一部として暮らしてきた記憶をもっと呼び覚ましてみるべきではないのか。その上での外来文明の受容と変容の歴史。日本人の多神教的世界観や精神構造を振り返ってみるのはいかがだろうか。これは日本人と他民族を比較し、民族の優越性とやらを論ずるための考察ではない。日本人はどこから来てどこへ行くのか?気がつくと混迷と停頓の時代に立っている日本の行く末を考える、その答えの一部も見えてくるのではないかと思うが。
新渡戸稲造 1862年(文久2年)〜1933年(昭和8年)略歴
1862年(文久2年)盛岡藩士の三男として生まれる
1875年(明治8年)東京英学校(大学予備門)
1877年(明治10年)開拓使農学校(札幌農学校)
1881年(明治14年)卒業 開拓使御用掛
1884年(明治17年)米国ジョンズ・ホプキンス大学留学
1887年(明治20年)札幌農学校助教授 ボン大学、ベルリン大学留学
1891年(明治24年)札幌農学校教授
1900年(明治33年)「Bushido」出版 1899年米国フィラデルフィアで出版
1901年(明治34年)台湾総督府殖産局長
1903年(明治36年)京都帝国大学法科教授 兼東京帝国大学教授(殖民政策)
1906年(明治39年)第一高等学校校長
1918年(大正7年)東京女子大学学長
1920年(大正9年)国際連盟事務局次長
1933年(昭和8年)カナダ・ヴィクトリアにて客死
本書に掲載されている肖像 |
皇紀2500年、西暦1900年 |