2025年9月17日水曜日

古書を巡る旅(69)L. Hearn: A History of English Literature:小泉八雲『英文学史』 〜東京帝大英文科講義録〜

 







小泉八雲自身の手書きノート

演劇(drama)の進化ツリー
本講義録中唯一の図解

裏表紙に散りばめられた印影
これは遊び


今回紹介する小泉八雲『英文学史』は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が1896~1903年に東京帝国大学で英文学の講義を受け持った時の講義録である。彼自身がまとめたものではなく彼の教え子達が聴講し筆記したノートを共同編集したもの。当時の帝大英文科コースは3年で、ハーンは在任中2回のコースを受け持ったことになる。週12時間の講義を受け持った(すごい量だ!)。大変な準備が必要だったことだろう。5時間をミルトン、テニソン、ロゼッティーなどの購読、4時間を文学論講義、3時間を文学史講義という区分けであった。彼は自身で講義ノートを用意せず、時々ポケットからメモを取り出しながら滔々と講義したようだ(後掲の写真)。ハーンの脳内に整理されて収納されていた英文学の広大無辺な世界がノートなしでも溢れ出てきたのであろう。あるいは口承文学的講義、いや耳から入って行く英語のサウンドスケープ(音風景)を展開してみせたのかもしれない。これが異なる言語を持つ若者に対する英文学の伝え方だったのだろう。しかし、耳から入ってくるその溢れ出る言葉、講義を(もちろん英語での)細大漏らさず聞き取り筆記した学生もすごい。この出版された講義録こそその証拠である。この頃の大学講義による「学び」は、こうした筆記(すなわちノートを録る)、そして図書館での内容確認、書取り間違いの訂正であった。この頃の学生はよく聞き、よく読み、よく書く。本当によく勉強した。その上で自分なりに咀嚼し思考する。そして表現する。「学ぶ」ということはそういうトレーニングのプロセスであった。しかも全て英語だ。情報の一方通行で受動的とも見えるが、先人の作品を購読し、講義を聴き筆記し、図書館で復習する。そういう基礎的学習プロセスから次の思索と創造が生まれる。日本人は昔から論語の素読、音読が教育の基礎(読み書き算盤)であった。そういう基礎的トレーニングで初めて自分自身の知識と表現力と思想を生み出すことが出来るようになる。安易に得られる知識、情報など脳内ニューロンネットワーク、思考回路を形成せず、泡沫のように消え失せて身につかないのだ。今何も覚えていない自分自身の学生時代の知識のことを思い返してもそう思う。

ハーン(小泉八雲)の講義録は戦前には1939年と1941年の再版が最後であった。戦中、戦後にわたって長く復刊されなかったが、本書は戦後1970年になって東京の北星堂書店から復刻再版されたものである。発行人いわく(以下引用)

「本書発刊以来わが英文学界は勿論英米諸評家の絶賛を博し世界各国の大学及び図書館の必備本として歓迎され版を重ねること幾度、戦後再版中断していたところ学界の絶大なる要望に応えて茲に版を重ねることにした。英文学研究者必備の文献である」

この意気込みに感動する。本英文学史講義は日本人の学生向けに講義されているので、今読んでも非常にわかりやすい。ノルマン朝から始まり、チョーサーからディケンズ、ヴィクトリア朝の文学(現代文学)まで英文学史を網羅している。また19世紀末の時点での彼自身の英文学史論には独特のレジェンド作家に対する評価が随所に現れており興味深い。王政復古期のドライデンの評価など、偉大ではあるがミルトンとポープの間に位置していて劇詩に何か大きなinventを成したとは言えないと厳しい。さらにはポープの風刺詩(韻文)よりスイフトの風刺小説(散文)をより高く評価している点もハーンらしい。18世紀英文学界の巨像サミュエル・ジョンソンがエドマンド・バークを賞賛している点を強調し、彼の政治家としての評価に加え散文作家としての業績に多くの紙幅を費やしている。もっともドライデンの再評価が起きるのは20世紀に入ってからではあるのでハーンのこの時点での評価は異例ではないのかもしれない。ハーンの評価が高いバークがいまだに日本での評価がそこそこであるのは腑に落ちない。日本では中江兆民訳のルソー「民約論」の影に隠れてしまったのか。ともあれ日本での初めての英文学史講義の歴史はこうして始まった。

ハーンはダーラム大学のカトリック系カレッジに在籍したが家庭事情や経済的理由で退学しているので、正式な大学教育を受けたわけでもないし、イギリスで著名な文学者と交友関係があったわけでもない。フランスに渡ってフランス語を学び、19歳でアメリカへの移民船に飛び乗ったいわば放浪者であったにも関わらず、その知性と感性と批判的評論は驚くべきものがある。彼の文学的才能を開花させたのはアメリカだ。アメリカではいくつかの出版社や新聞社に勤務し、図書館に通って多くの書籍に触れ、書くことでジャーナリストとして、小説家として頭角を表してゆく。いわば独学独歩の人である。しかもそれはシンシナチであり、ニューオーリーンズであり、西インド諸島であって、東部ニューヨークではなかった。クレオール文化に触れたことが大きかった。彼の必ずしも恵まれているとは言えない生い立ちと彷徨に加えて、いわばアメリカという新天地が偏狭な知性主義や権威主義に対する批判的視点を涵養したのであろう。いわば「俯瞰的視野」「外の眼」を持てたのだろう。そして初めての日本で彼の「外の眼」を開かせたのは東京ではなく、松江や熊本であったことも示唆的であろう。一神教カトリックへの懐疑、ケルト原点志向、多文化主義。研究者でも学究の徒でもない彼の英文学史論は、どんな文学研究者や歴史家のそれにも劣らぬものであり、それが明治日本の若い学生に講じられた意味を噛み締めてみる必要がある。ハーンという人物の在野の知の巨人ぶりが共感を得たに違いない。帝大を解雇されたとき、多くの学生が彼を惜しみ抗議し、後任が夏目漱石だと聞き、「夏目などいかほどの人物であるか」と抵抗したエピソードが残っている。彼は、気難しい性格で人懐こいほうではなかったようだが、どこか人間的な魅力があったのであろう、アメリカで出会った女流ジャーナリストで世界一周を成し遂げたエリザベス・ビズランドはハーンに日本行きを決意させ、生涯にわたって交友し、またハーンの死後、彼の伝記を出版している。ニューオーリンズ万博で出会った内務省の服部正三は彼を松江中学に推挙し、かのバジル・ホール・チェンバレンは熊本の第五高等学校、帝大英文科教師に推挙している。松江や熊本の同僚教師、地元の人々。小泉せつの実家、横浜の実業家マクドナルド家など。なんと多くの人々が彼を支援し続けてきたことか。最後は喧嘩別れしたチェンバレンも学問上の対立は別に友人としてはレスペクトしあった。日本に帰化し愛妻のせつとの間には3男1女をもうけ現在もその子孫の方々が活躍している。子供の頃親や親戚に捨てられるという悲惨な生い立ちだけ見ると決して恵まれた人生とは言えないが、なんとその後の人生は人々に支えられて幸せだったのだろうと思う。こういう偉人だからこそ親しみを感じるのだ。それは日本における「小泉八雲」としてだけではない。世界中で愛される文学者としてである。

黎明期の東京帝国大学文科英文学科の初代教師に、ハーンのような研究者でも学者でもない人物を抜擢したのも、いかにこの頃の大学が即成で立ち上げられたにせよ、画期的なことであった。招聘したチェンバレンの慧眼ともいうべきか。彼の講義は学生に人気があり高く評価されていたし、その教え子ものちに多くの英文学者となっている。本書の共編者である田部隆次もそのひとりである。しかし大学(井上哲次郎学長)は2期で彼を解雇した。理由は明確に説明されていないが、外国人教師の給料で3人の日本人教師が雇えたことなどがあったようだ(のちに井上は色々弁明している)。ハーンは失意のうちに帝大を去り、坪内逍遥に早稲田に招聘されるがその年に亡くなっている。井上はロンドン留学帰りの夏目漱石をハーンの後任とした。先述のように学生の間で抗議運動が起き、転学したり講義をボイコットするものが続出した。夏目漱石の講義は最初は評判が悪くボイコットする学生が多発した。ハーンの残像があまりにも大きかった。のちにシェークスピアのマクベスを購読で取り上げる頃から評価が変わり、逆に人気講義となったという。ハーンの原書購読を漱石も重視した。ハーンと漱石は17歳の差があり、個人的な接点はなかったようだが、漱石は文学の先達としてハーンの影響をひしひしと感じていた述懐している。ちなみに漱石は熊本の第五高等学校でもハーンの後任でもある。ふたりは不思議な縁で繋がっている。


過去ログ:

古書を巡る旅(66)2025年7月5日『神国:An Atempt of Interpretation of Japan』

古書を巡る旅(2)2020年6月12日 ラフカディオ・ハーンを訪ねて