2013年12月26日木曜日

アマテラスは宮崎出身?それとも福岡出身?

 暮れも押し迫り、なんとなくばたばたと忙しい今日このごろである。この時期になると追い立てられるように忙しくなるのはなぜだろう。それほど年内に解決しておくべき重要な案件が山積している訳でもないのに。そして気ぜわしくなればなるほど、あの疑問が脳裏に湧いてくる。強迫観念のように。 そう、「なぜ記紀は筑紫をヤマト王権のルーツとして扱わなかったのか」という疑問。気ぜわしさを紛らわせ、歴史を巡る時空撮影旅行にも出掛けられないフラストレーションを払拭すべく、梅原猛の「「天皇家の”ふるさと”日向を行く」を読んでいる。しかし、面白いが、ますます謎が深まり、気ぜわしさやフラストレーションから解放されてリラックスするどころか、古い漫才じゃないけど「それを考えると夜も眠れない」状況に陥ってしまっている。なんとも厄介だ。

この本の基本メッセージは『記紀に記述された「日向神話」は、戦前の皇国史観への反発から史実とは無縁だとされているが、必ずしも荒唐無稽な建国神話として全てが排除されるべきではない。その神話の背景にある考古学的な発掘成果、地元に伝わる伝承などを丁寧に読み解いてゆくと、そこには神話として伝承されたストーリーの背景に、ある歴史的な事実が読み取れる』というものだ。確かに戦前の「八紘一宇」や「天壌無窮」などの国家主義的なスローガンの発祥の地として利用されてきた歴史を払拭したいとして、神話の史実性の全否定という態度に理解を示すことも出来る。しかし、戦前とは逆の意味で、もう少し冷静かつ客観的に理解しようとする努力も必要であろうという。たしかに筆者が言うように記紀に描かれた物語は決して、皇国史観の聖典として神聖視されてきた、品行方正で、勇ましい武勇伝の記録ばかりではなく、むしろ本能の赴くままに行動する人間のおおらかさや、残虐さ、愚かしさが至る所に記述され、国史としてカッコ良く編纂されているとは言えないところが目立つ。そういう太古の人間臭いエピソードに見え隠れする事柄の中に事実を見つけ出していこう、そのためには現地を旅して歩け、という。この点は「時空トラベラー」たる私のモットーであり、大いに共感する。

しかし、私が引っかかっているのは、そうしたニニギノミコトの天孫降臨に伴う「日向神話」に何ほどかの歴史的な事実が隠されているかどうかというより、やはり、記紀では、なぜ南九州の日向が稲作農耕文明である弥生時代の発祥の地であり、そして農耕神であるアマテラスの誕生の地とされているのか。考古学的に検証されている我が国における稲作農耕文明(弥生時代)の発祥の地である筑紫(九州北部)が、何故そうした建国神話・歴史に登場しないのか。言い換えると、なぜアマテラスは筑紫に生まれなかったのか、なぜニニギノミコトは筑紫に降臨しなかったのか、ということだ。明らかに大陸からの渡来人(渡来の理由はさまざまであろうが)が稲作の第一歩を記したのは北部九州だ。「天孫降臨」神話が海の向こうから渡ってきた弥生文化の到来をシンボライズするものだとすると、その地は北九州であるべきであろう。決して土着ないしは、南方から黒潮に乗って渡来したであろう縄文系文化の国ではないのではないか。

この本の第5章「アマテラスは宮崎出身?」に次のような記述があるのに目が止まった。
梅原猛は記紀神話を三段階に分けて考えていた。(1)イザナギ・イザナミに時代、(2)アマテラス、スサノオ、ツクヨミノ時代、(3)ニニギ以降の時代。(1)を縄文時代、(2)を弥生時代前半、(3)弥生時代後半から古墳時代と考えていた。記紀によれば、イザナギの禊から生まれたアマテラス、スサノオ、ツクヨミの三貴子は日向のアオキ原にて生まれたことになっている。これを梅原は、ニニギノミコト降臨の地が日向の高千穂だから、単にその話に合わせて三貴子の誕生も日向にしたのだろう、と考えた。それにしてもなぜ「日向のどこか」ではなくて「日向の橘の小門の阿波岐原」と場所を特定したのか疑問に思ったという。そして現地を歩くうちに、昭和34年に発掘された弥生遺跡アオキ遺跡が、その後の調査で、日向におけるもっとも古い稲作農耕遺跡(弥生前期)であるとする研究成果に行き当たった。まさにこれが稲作農耕神たるアマテラスがここで生まれたとする神話の根拠だという。すなわち(1)から(2)の時代への転換点がこの日向の阿波岐原であったことを「発見」したという訳だ。これはバビロン捕囚、ノアの箱船の歴史性、事実性を発見したのと同じ意味を持つのでは、と興奮している。

しかし、もう一度頭を冷やして振り返ってほしい。日本でもっとも古い稲作農耕遺跡は福岡市のの板付遺跡であり、唐津市の菜畑遺跡である、弥生初期の遺跡で、最近の弥生時代の始まりを確定する学術検証によるとさらに500年ほど時代をさかのぼる可能性も出てきている。北部九州から全国への稲作伝搬の速度は比較的速かったようだが、南九州や東北では、自然環境などによる稲作定着失敗で、元の狩猟採集の縄文生活に戻った地域も多いとの研究がある。日向最古の稲作農耕遺跡の時代再検証が必要だろう。こうした神話のストーリーと宮崎県の地名、遺跡とだけをつきあわせてみても、真実はなかなかわからないだろう。農耕神アマテラスは北部九州で生まれていたほうがつじつまが合うのではないか。

それにしても記紀では北部九州をヤマト国家発祥の地であるとする認識はみじんも見られない。「筑紫神話」の存在すらもない。魏志倭人伝に見える邪馬台国に関する記述も無い。こうして見てゆくと、どうも魏志倭人伝に記述のある、北部九州に発展した弥生文化や、倭国のクニグニは、後のヤマト王権とは異なるルーツではないかと思い始めた。大陸からやってきた「弥生人」たち(大陸や半島から何らかの理由で移住してきた民、当然生活の手段としての稲作農耕技術を携え、鉄器製造技術を伴い渡ってきただろう。今で言う華僑のような人たちもいたかもしれない)が狩猟採集を生業とする縄文文化系の土着の民と融合して出来たクニグニが筑紫倭国連合であったろう。魏の皇帝に柵封、支援された国家連合だ。もちろん今のような国境や国民国家概念はないわけで、海峡を隔てて、人々は様々な形での往来があったのだろうから、華人、韓人、倭人などの厳密な区分もなかったかもしれない。

そうしたコスモポリタンな北部九州倭国と、在地の部族や南方からの異なった文化を背負って移住してきた部族で構成される地域(南九州)との間には、様々な融合もあっただろうが、軋轢もあったに違いない。倭国争乱や邪馬台国と狗奴国との対立などはそうした背景から生まれたものなのかもしれない。記紀の記述になにがしかの史実が隠されているとすると、日向高千穂への天孫降臨やその子孫の東征伝承は、稲作弥生文化を南九州に持ち込んだ一族(これも渡来系であっただろう)が地域における支配権を確立し(海彦/山彦伝承)、さらに何らかの形で北部九州倭国連合を制圧した。それが狗奴国であったのかもしれない。がその後に勢いをかって東征し、近畿大和に進駐したものかもしれない。ちなみに記紀によれば神武天皇は東征の途中、北九州の岡田宮に3年も滞在していることになっている。

だとするとヤマト王権のルーツは狗奴国と言うことになる。そしてやがて近畿大和に入った狗奴国の王、神武と、その子孫達は、「ヤマト王権」確立のための闘いの歴史を刻んで行く。であるから記紀においてはヤマト王権に繋がらない筑紫倭国連合の邪馬台国や卑弥呼の事績は記述されなかったのだ。そのヤマト統一のプロセスにおいては、皮肉にも一族の故地・ルーツである地域の熊襲や隼人の抵抗が激しくなり、それが日本武尊や神功皇后や応神天皇の九州全域平定のストーリーへとつながってゆくことになる。

しかし、なお、それは本当か?という疑問を払拭しきれない自分が居る。古事記では、「天孫降臨」の地は、すなわちニニギが三種の神器と三神を伴って降り立ったのは「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気」で「此地は韓国に向い笠沙の御前の真木通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉き地」だと記している。これが筑紫(九州)の宮崎県の日向をさすのか(今はそれが常識になっているが)、それとも筑紫の中でも福岡県の伊都国や奴国のあたりなのか。福岡県の糸島地方(伊都国)の日向峠からは東に福岡市(奴国)、西に松浦半島(末羅国)、壱岐対馬を隔てて北には朝鮮半島を望むことが出来る。南には神の降り立つ背振山がそびえる。この近くには弥生最初期の稲作農耕遺跡である、板付遺跡や菜畑遺跡が見つかっている事は先述のとおりだ。ここは弥生文化の発祥、稲作農耕の神々の「降臨」あるいは「渡来」にふさわしい土地柄であるような気がするが。稲作農耕神アマテラスはこの筑紫に生まれたのではないのか?と...


(筑紫倭国のクニグニは、稲作を基幹産業とし、関連する鉄器製造や、生産物の流通、近隣諸国との交易など、弥生の経済大国としての存在感を誇っていた。ここ吉野ケ里遺跡に観る巨大な環濠集落やそれを取り巻く広大な耕作地、倉庫群はその筑紫倭国の繁栄を今に伝える遺跡だ)



(政祭一致の統治システムをシンボライズする巨大な神殿、3階の巫女が神の声を聞き、2階の王と有力者に伝え,意思決定をする。農耕神アマテラスとその執行者としてのニニギの関係を彷彿とさせる)



(こうしたクニの王は絶対君主ではなく、有力者達により共立された合議体の長であったのだろう。このようなクニグニの統治システムのうえには、倭国連合の女王として共立された邪馬台国の卑弥呼がいた)

2013年12月10日火曜日

錦秋の東京

 東京へ帰ってきてはや半年が過ぎた。大和路や京都の秋を愛でる気持ちはいささかも衰えないし、望郷の念に近いノスタルジアさえ覚える今日この頃だが、東京という近代的で忙しい大都会で、普段仕事や生活で行き来している皇居のお堀端や東御苑、東京駅赤煉瓦駅舎や行幸通り、日比谷公園を散策してみると、東京都心の秋もまんざらではないことを再発見する。もちろん名人の域に達する庭師や樹木医の手がしっかり入った京都の庭園や、自然のなかにおおらかに佇む奈良大和路の紅葉・黄葉は本当に美しい。しかし、ヒートアイランド化した都心の数少ない緑の中に点在する「錦秋」の発見は、その意外性もあってか、大きな感動を覚える。日常の雑事に忙殺される都会生活の中で接する非日常体験である。その気になれば、いたるところに「美」を発見することが出来る。江戸の武家文化と、明治の帝都東京の名残が、現代のGlobal Village Tokyoに確実に引き継がれている。

日比谷公園の紅葉・黄葉





(撮影機材:Nikon Df+AFS Nikkor 28-300mm, SONY RX100)



2013年12月3日火曜日

Nikon Df 降臨! 〜Ai Nikkorレンズ群 撮影最前線に復活!〜

ついにやって来た!Nikon Df! 厳かな箱に入った新たな守護神の降臨だ!「開封の儀」ももどかしく開封。ちょっと肥満体型になったFM3がそこに鎮座ましましている。寒い外気に冷やされて配送されてきたフュージョンの神は、触れるとひんやりして液晶画面がたちまち曇った。一眼レフの象徴である誇らしげなペンタ部と、そこに刻印されたNIKONのロゴは、由緒正しきF3の血統を受け継ぐものだ。これぞカメラの天ツ国から降臨した、まごうこと無き「天孫族」の子孫。しかし、こうして下界に下りたからには磐座に鎮座するのではなく、「山河を跋渉して寧所にいとまあらず」の活躍を期待される神だ。ちなみに、このDfを下界に勧請するにあたり、これまで守護神であったDXフォーマットのNikon D300ボディー+AF Nikkor28-300DXのセットを下取りに。天上界へお返しした。永らく我が写真道をお導きいただき感謝。


(ニコンDfカタログより)

まず手に持つと、思ったより軽い。Leica M240より軽い。そのゴツゴツとしたメカニカルな形状からは想像できない。そして、シャッター音が軽快で静か。セクシーな響きが撮影の満足感を満たす。さらに軍艦部のアナログな操作系が写真撮る意欲をかき立てる。露出補正ダイアルが左にあって、右手親指でクリック操作できない不便さも、Fシリーズからそのまま継承されている!しかし、背面液晶パネルでのデジタルの操作性も確保。その形状イメージに比べ、グリップがむしろ小さい感じ。D800の握りの感触と比べるからだが、往年のF3やFM3を考えるとホールドは良い。ファインダーは明るくて見やすい。ミラーレスのようなEVFではなく正当な光学プリズムファインダーだ。マニュアル撮影でピント合わせが楽だ。しかし、ちゃんとフォーカスアシスト機能もついている。

そして、ワクワクするのは、フィルム時代のAi Nikkorレンズ群の撮影現場への再登板だ。F3, FM,FEで活躍したレンズが生き返る。AFデジタル族に滅ぼされた銀塩マニュアルフォーカス族たちがよみがえる。もちろんD4やD800でも使えるのだが、Dfのデザインは、わざわざ旧ニッコールを装着するために生まれて来たようなものだ。お気に入りは、Ai Nikkor 50mm f1.2。早速装着して試写。開放のボケが何とも言えない。これはまだ現行レンズだ。これより古いAuto Nikkor 55mm f1.2も使える。話題をさらった35−70mmのクラシックズーム(通称ヒゲ)も使える。稀少な105mmf1.8の太い鏡胴が不思議なフィット感を醸し出す。発売当時、大人気で品薄だった28−85mmズームは、まるでDfの登場を予測していたかのごとき絶妙のバランス感だ。「ニッコール千夜一夜」に登場するニコン技術史のランドマーク的レンズ群がデジタルで復活する。

驚いたのは、フィルム時代の設計のレンズがフルサイズCMOSセンサーでとても味のある写りをしていること。コントラストでは最新のナノクリスタルコートレンズに一歩譲るにしても、決して古さを感じない。むろんノスタルジックなテイストではあるが、むしろ単焦点レンズの味、ズームにはない新鮮な写真表現を再認識させてくれる。なによりもそのレンズ鏡胴の細身で金属質な造りが懐かしい。フラッグシップカメラD4と同じセンサー、画像処理エンジンを搭載している。D4と比較したことは無いが、画質は非常に私好みのしっとりしたものにチューンされている。画素数を少なくしたフルサイズセンサーだけに、一画素あたりの光量が確保できているので、諧調、高感度特性に優れる、ってスペックを語る人も多い。その通りだが、むしろ余裕のあるCMOSセンサーを往年のMFレンズでも十分に生かしきれるところがうれしい。

よくニコンは、かたくなにFマウントを守ってくれたものだ。知らず知らずに防湿庫に蓄積されたレンズ達が、過去のものとしてジャンクにもならなず、我が家のレンズ資産として価値を維持し続けてくれることに感謝する。これはライカのL/Mレンズ群も同じだ。マウントアダプターも楽しいが、どこか邪道感に苛まれる。写真って、ロジカルなものではなくイモーショナルなものだ。ともすれば技術オリエンテッドでスキの無い合理性を追求して来た印象のあるニコンだが、そのDNAを活かしつつも、ユーザのノスタルジックな感性を呼び起こさせてくれるDf。大いに歓迎する。まさに温故知新の「時空トラベラー」カメラだ。





(早速、Ai Nikkor 50mm f1.2絞り開放で撮影。ピントは来てるがふわふわした紅葉の輪郭とボケが独特だ)



(同じシーンを,最新のAF-S Nikkor 28-300mm Gで撮影。やはりシャープでそつのない画造りだ)



(以降は最新28−300mmで撮影。皇居お堀端の光景。望遠側で撮影した鷺と鵜のシルエットもさすがにシャープ)



(日比谷通りを望遠側で撮影。グリップが少し小さいが望遠手持ちでもホールド感は悪く無い。)



(皇居東御苑の松と石垣のコントラストと、ほんのりとしたグラデュエーション。諧調豊かなデジタル「フィルム」の為せる技。)

2013年11月23日土曜日

筑紫・出雲・大和 〜記紀と魏志倭人伝と考古学のミッシングリンク〜

 日本の古代史を解明するには,かなりの想像力と推理力を必要とする。なにしろ古事記、日本書紀(記紀)と中国の史書である漢書・後漢書、三国志の魏志倭人伝くらいしか、文字に書かれた古代倭国に関する文献資料は残されていないのだから。この他は鉄剣等に刻まれた文字、金石文を含む考古学的な発掘の成果による「物証」で史実を検証する努力が必要となる。考古学にも年代測定法等「科学的な」評価方法が導入されて,時代考証の科学的客観性が増したようだが、それでも遺跡や出土品の持つ歴史的意味等、想像力の働く余地はあまり減っていない。歴史学と考古学の成果を突き合せて考察する必要があるが,それにしても日本の古代史にはあまりにも空白部分が多すぎる。これを埋めるにはやはり想像力と推理力に頼らざるを得ない。

 そもそも3世紀に編纂された中国の三国志で記述されている倭国の状況と、7世紀後期に編纂された日本の記紀の記述にはほとんど繋がりが観られない。なぜなのだろう? 日本書紀の神功皇后の章に、わずかに魏志倭人伝の引用(一書に曰く)があることから、明らかに日本書紀の編纂者は、この400年ほど前に編纂された中国の史書の存在を知り,読み込んでいたはずであるが、ほとんどの魏志の倭国に関する記述は無視されている。このわずかに現存する二つの歴史書ですら繋がらない。ミッシングリンクはまだ見つかっていない。これが日本の古代史を推理小説もどきの謎解き話にしてしまっている理由の最大のものの一つだろう。さらに日本の古代史において重要な役割を果たしてきた筑紫、出雲、大和の関連性にも謎が多い。なぜなら、魏志倭人伝には筑紫に存在するクニグニについての詳細な記述があるが、出雲、大和に関する記述は伝聞に基づくものか、位置についても不確実なものだ。一方、記紀では国家創世期における出雲,大和に関するストーリーは(神話という形であるが)詳細に語られているが、特に出雲神話が全体の三分の二をしめる。筑紫については、時代を下ったヤマト王権の勢力下の一地方としての記述しかない。

 いくつかの疑問をランダムに書き出してみる。

1)記紀には素戔嗚尊(スサノオノミコト)、大国主命を主人公とした出雲の記述(出雲神話)と、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の天からの降臨とその子孫神武の東征話(日向神話)は記述されているが、筑紫(北部九州)の記述が少ないのはなぜ?国家創世期のストーリーであるとしている神話の世界に「筑紫神話」は存在していない。

2)記紀では、なぜ「まつろわぬたみ」隼人の支配地域である筑紫の日向(南部九州)が天孫降臨の地とされたのか?何故出雲の大国主命が大和に國譲りをしたのに、天津国からニニギノミコトがわざわざ日向の高千穂に降りてきたのか(日向神話)。なぜその子孫、神武が日向から東征して大和に入った、というストーリーが必要だったのか?

3)さらにその日向から東征して大和に入ろうとした神武軍は、大和在地の強力な抵抗勢力に阻まれて苦戦している。なぜ出雲の「國譲り」で安定したはずの大和に、別の天孫降臨族である邇邇芸命とその子孫の神武が侵攻しなければならないのか。そもそも、先住の強力な在地抵抗勢力とはどういう勢力なのか?その抵抗勢力の長であるニギハヤノミコトも、河内に天の磐船で天下ってきたもう一つの天孫降臨族である事になっている。どうもストーリーが錯綜しているように思えるが...

4)一方、魏志倭人伝に記述されている筑紫の国々(ツマ国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国)、そして邪馬台国(既知のようにその位置が九州なのか近畿なのか不明であるが)、その女王卑弥呼に関する記述が記紀には見えないのはなぜか?また後漢書東夷伝に記述のある、金印(志賀島から発掘されている)を受けた「漢委奴国王」とは誰なのか?

5)考古学上、筑紫には、吉野ヶ里遺跡や奴国須玖岡本遺跡などの大規模かつ広範囲のな弥生集落(クニ)の存在が確認されているにもかかわらず、記紀の記述にその痕跡も無いのはのはなぜ? 特に北部九州は考古学上明らかに弥生稲作文化最先進地域(板付遺跡、菜畑遺跡のような最早期の稲作地跡、大規模な環濠集落(クニ)、甕棺墓、鉄器製造、大陸との強いつながり)であったにもかかわらず、記紀にそのような歴史認識が見てとれないのである。

6)日本書紀の神功皇后の章に記述のある、「魏書にいわく倭国女王の遣使」はなぜ挿入されたのだろう?これは日本書紀の編者は中国の三国志の存在を知っており、編纂にあたり読んでいた証拠である。なのに、それ以上の邪馬台国に関する記述は日本書紀には反映されていない。引用を意図的に避けたのだろうか?

7)記紀における筑紫(北部九州)に関する記述は、宗像三女神がアマテラスの子孫であること。景行天皇、その子日本武尊の熊襲征伐。仲哀天皇、神功皇后の熊襲隼人征伐、三韓征伐、応神天皇の筑紫出生、筑紫国造磐井の乱、斉明天皇・天智天皇の百済救援、白村江の戦い、水城、大野城、基城構築、といったヤマト王権の支配が筑紫地方に及んだ話しの記述しか無い。なぜ?

8)中国の史書に倭国関連の記述が途絶える「空白の4世紀」に倭国に何がおこった? また何故,中国において倭国の記述が途絶えたのか?

 3世紀に編纂された中国の三国志、その魏志倭人伝における倭国と、それを構成する伊都国や奴国等の北部九州のクニグニ。その盟主であったとされる邪馬台国,その女王卑弥呼。敵対国である狗奴国に関する記述は、2000字ほどの文章ながらも生き生きと当時の倭国の情勢を伝えている。しかし、7世紀後期の日本の天武天皇により編纂された古事記、日本書紀におけるヤマト王権の歴史を語る正史の中には、先述のように、この邪馬台国も卑弥呼も全く触れられていない。まるでヤマト王権とは無関係なクニ、事蹟,歴史であるかのように。北部九州を中心とした筑紫文化圏、王権の存在は無視され、むしろ熊襲や隼人といった南部九州のヤマト王権に「まつろわぬ」国、日向が天孫降臨の地であり、初代天皇である神武が東征に出た地であるとしている。いわば夷荻の跋扈する地こそヤマト王権、皇統のルーツの地であるという。

 最近、岩波新書から「出雲と大和」という興味深い本が出ている。著者は村井康彦氏で国際日本文化研究センター名誉教授という学界の重鎮である。本の帯にもあるように「邪馬台国は出雲勢力が立てたクニである」とする。そして、出雲勢力は大和へ進出した(國譲り)が、日向から攻め込んできた新しい勢力(それを神武東征というストーリー化した)に滅ぼされた。これがヤマト王権の起源である、と。したがって邪馬台国とヤマト王権に連続性は無い。だから記紀には邪馬台国も卑弥呼も登場しないのだ、と。興味深い考察だ。学界の顕学が何故今このような大胆な説を発表したのかよくわからないが、私の疑問はこれでもいっこうに解き明かされない。即ち、魏志倭人伝に出てくる筑紫(北部九州)のクニグニの位置付けに関する考察は依然として抜けているからだ。なぜ筑紫は日本の歴史書から、いわば抹殺されたのか...

 ミッシングリンクを解明する旅はまだまだ終章に近づいてはいない。一つの章が終わると、その次に,さらなる暗闇が広がる。終わりの無い時空旅が続く。日暮れて道遠し。



(福岡空港を南方向へ離陸すると,すぐ右手(西)に日本最古かつ最大の弥生稲作環濠集落遺跡、板付遺跡が見えてくる。この南には奴国の王都であったと言われる岡本須玖遺跡や鉄器製造コンビナートであった比恵遺跡などが連なっている。大陸との窓口に位置する北部九州筑紫は、倭国の最先進地域であった。)

2013年11月3日日曜日

Nikon Df 発表! 〜オールドニコンファン待望のデジタルF3?登場〜

ニコンは常に堅実で技術オリエンテッドな製品を世に出し続けてきた。たまにクールピクスやニコン1のような畑違いな製品群を出して、「鎧着た武士」がチャラい女の子にモテようとしたことはあるが。その結果ライバルであるキャノンや最近は富士フィルム、ソニーなどにシェアーを奪われデジカメ市場で苦戦しているようだ。硬派は硬派で通した方がブランド価値が高まるというものだ。

 最先端のデジタル技術とプロに絶大な信頼を有するニコンブランド。どっちかと言うと武張っていて、あまり遊びの要素を感じないブランドイメージに一石を投じようと、企画されたのがこのDfだそうだ。5日の製品発表会では、登壇した開発者は「肩肘張らずに気軽に持ち出してください」とアピールしていた。「肩肘張ってたのはオタクでしょう」とか、「これでも気軽に持ち出すには大きすぎるんじゃあ」とか、あまのじゃく言いたくなるが、そんなことよりも私は一目で気に入った。無骨で堅牢でしかもクラシックな往年のニコンテイストを兼ね備えたDf。F3に憧れ、FMで我慢してようやくF3を手に入れたら、デジタル一眼レフD70が出てきてフィルムF3はお蔵入りしてしまった、という切ない経験を持つ私。待ってましたよ、デジタルF3!こういうものは一目惚れで決まる。私の一目惚れは間違いないのだから。カクカクシカジカまじめなニコン!まじめな私にぴったり!

 Dfのfは、fusionのfだそうだ。すなわち最新のデジタル技術とクラシックな伝統と融合させてみた、ということだ。D4と同じ1625万画素フルサイズCMOSセンサーと画像エンジンを搭載している。背面のパネルや操作系はD800やD4を彷彿とさせる。一方で外見はペンタプリズム部など往年の名器F3にもFMシリーズにも似た雰囲気だ。軍艦部にはアナログチックなダイアルが所狭しと並んでいてゾクゾクする。旧Aiレンズはもちろん、非Aiレンズも使用できる。永久不滅のFマウントがしっかり生かされている。ニコンレンズ資産を防湿庫の奥に死蔵していたファンにはうずうずする話だ。まさにフュージョンだ。ボディーはシルバーが鮮烈なイメージだが、やはり黒の方がいい。この無骨で堅牢な形状が何とも言えない。

 アメリカの人気カメラブロガーSteve Huff (http://www.stevehuffphoto.com/2013/11/05/nikon-df-is-here-pre-order-with-special-edition-lens-now-2996-95/)が、Facebook上にNikonDfとSony α7とLeicaM240の外見比較写真を載せている。彼の評論はいつも比較的フェアーで面白いのだが、この意図的な比較写真に寄せられた読者のコメントがとりわけ面白い。

 「ニコンは大きくてゴツゴツしている。ライカの方が美しくてカッコいい」
 「ライカはセクシーだがニコンはアグリー(醜い)」
 「ニコンはなぜ軍艦部にこんなにゴテゴテとダイアルを乗っけているんだ。ライカの方がシンプルでいい」
 「やっぱりライカを愛する気持ちがより確かになった」
 「ニコンののDSLR機能に期待するが価格が法外だ」(ライカの価格はそっちのけにして...)
 「ライカはカメラ界のアップルだ」(アップルは地図以外はそんなにバグは無いぞ)
 etc.

と、おおむねライカをひいきするコメントの羅列だ。こういう実機が手に入らない段階での外見比較自体がそういうファーストインプレッション的なコメントを誘導するものなので、Leica好きのSteveの意図通りなのだが。国によってカメラの好みや評価が違う点が面白い。ちなみに、一眼レフ市場では日本では先述のように、デジイチの市場ではセクシーな(?)キャノンが無骨なニコンの人気を上回っているが、欧米ではニコンの方が上だ。dependable, durable, robust Nikon(ナイコン)のブランドイメージが染み付いている。私の知り合いでカメラに凝ってるヤツは皆ニコン!ニコンを所有することがステータスになっている。一方のファンがライカを所有する喜びをかみしめるように。

 私はライカもニコンも両方のファンだから、偏った評価は下したくない。そもそもニコンとライカは相互に対決する二者択一関係ではなく、シチュエーションにより使い分ける相互補完関係だと考えている。気合いを入れて撮影に出かけるとき、じっくり撮る風景写真や自然写真はニコン。おしゃれに街角スナップや人物ポートレートはライカ、というように。だから、技術論は別にして、比較して論争することにそれほどの意味がある訳ではない。まして上から見た外見比較だけで、優劣を論じるのはナンセンス。

 しかし、ここまで「ライカだから好きです」的なライカファンのニコンブーイングコメントが羅列されると、ニコンファンでもある私も、冷静な論理よりも感情が先に立って、つい熱くなって反論したくなる。まことに大人げないと思う。趣味人の世界の議論にそれほどの合理性は無いのだが、あえてプロニコンコメントすると、

 「そりゃ道具としての信頼性はやっぱりニコンでしょう」
 「堅牢なニコンが好きだ。バグが多くて信頼性に欠けるライカより...」
 「ライカはもっとデジタル性能の向上と安定性の努力してほしい」
 「コストパフォーマンスを考えるとニコンだ。ライカの価格合理性は疑問」(レンズは別だが...)
 「ライカはデジタル化にまだ逡巡があるんじゃないか? Mレンジファインダーの亡霊から抜けきれていない」

 ああ、とうとう言うてやった!さらに、冷静さを失った熱狂的なライカ原理主義者たちに冷水を浴びせるとすると次の言葉がいいだろう。

 "Das Digital Leica ist der Koenig, Aber der König ist ja nackt!"

 もっとも、私の心の中にいるもう一人の自分は、「ライカは技術的合理性や、価格合理性で論ずるカメラにあらず」と言っている。ニコンの新製品の話をしているのに、最後はライカの悪口になるくらい、ライカは気になる存在なのだ。結局、趣味人の「好きだから好きだ」、「嫌いだから嫌いだ」みたいな論争だってことか。

 ともあれ、ニコンの、「カメラは家電製品ではないぞ」メッセージを前面に押し出したようなDf、ビデオ機能など削ぎ落とした硬派なDf。いいねえ!これからもキャノンともソニーともパナソニックとも富士フィルムとも異なる頑固な道を歩んでほしい。ミラーレスなんてコスト削減軟弱路線に妥協せず、堂々とペンタプリズムを搭載するところなど、レンジファインダーにいまだにこだわっているライカと相通じる生き方かもしれない。



(クラシックな雰囲気のNikon Df.シルバーと黒、どっちもいいなあ!)





(Steve HuffのFacebookページに掲載されている比較写真。うえからNikon D610, Nikon Df, Sony α7, Leica M。いずれもフルサイズセンサー機。それにしてもSony α7の小ささが際立っている。)

2013年10月31日木曜日

奈良盆地の原風景 〜古代奈良湖の残影〜

以前から不思議に思っていたことがある。近鉄奈良線に乗って生駒トンネルをくぐり、奈良まで行く場合の全線の高低差の話である。電車は上町台地の地下(大阪上本町駅)を出て鶴橋方面へやや下ると、あとは平坦な河内平野を真東に進み、やがて枚岡、瓢箪山、石切と急激に高度を上げて、生駒山の斜面をやや北方向に駆け登ってゆく。まるで登山電車並みの勾配を軽快に走る近鉄電車の醍醐味を味わえる区間だ。しかもここらからの大阪市街地の風景は絶品だが、その話はまたにして、やがて生駒トンネルをくぐると再び真東に進路を取り、生駒、東生駒、富雄、学園前と進む。しかし、生駒トンネルを通過すると不思議なことに電車は下降せずにほぼ水平に奈良に向けて快走する。あれだけの急勾配を登ってきたのに。と言うことは奈良盆地の標高は河内平野の標高より高い、ということなのだろうか?

早速調べてみた。奈良盆地の標高は40mから60mほど。一方、生駒山を隔てた河内平野のそれは1〜3m。やはりこれだけの高低差があるのだ。ちなみに上町台地は一番高いところが38m(大阪城のあるあたり)、天王寺あたりで16mだそうだ。生駒山は642m、二上山が517m、山辺の道の東にそびえる龍王山は517m、三輪山は467mである。奈良盆地はこれらの山塊に囲まれた比較的標高の高い盆地(上町台地よりは高い)であることを認識した。

現在の河内平野は、かつては河内湖、さらに時代をさかのぼれば上町台地(砂嘴であったという)を挟んんで瀬戸内海とつながった海水湖であった。したがって海抜が0に近いのも理解できるような気がする。やがては流入する土砂で湖底が上がり、干上がって平地になっていった。今は大阪のベッドタウン、日本の製造業を支える東大阪の町工場群、河内のおっちゃん、おばちゃんでにぎわうソウルフルな地域である。もはや河内湖の痕跡も面影もないが、上町台地か生駒山から展望すると確かにここがかつては海、湖であったとしても不思議ではない地形に見える。

一方、河内平野とこれだけの比高差がある奈良盆地には、かつて古代奈良湖があったとされている。周辺の山々から流入する水が溜まった巨大な盆地湖があったと言うのだ。奈良盆地は東西16km、南北30km、矢田丘陵、馬見丘などはあるものの総面積300平方キロメートルの比較的平坦な盆地である。今は初瀬川、富雄川、飛鳥川、高田川など、枝分かれた150余の小河川が張り巡らされており、そのどれもがやがては大和川に合流し、王寺から亀の瀬と言われる生駒山系と葛城・金剛山系の切れ目、すなわちあの二上山のある穴虫峠のあたりから高低差を一気に下り河内平野に流れ込んでいる。200万年前の二上火山の噴火に伴う地形変化で古代奈良湖の水が河内へ流出し始めたと考えられている。さらに、古代奈良湖は、縄文後期から弥生時代にかけて、地底の隆起や大和川からの流出増(これには農業のための人為的な流路変更も考えられるとする研究者もいる)などにより、水位が下がり続け、やがては干上がって消滅してしまったと言われている。何時頃まであったのかの確認が研究課題となっているが、後述のように様々な考古学、歴史学上の事績、記述にもヒントが隠されているようだ。

なるほどこういう地形の大きな変遷があったのか。世の中にはこのようなことを研究しておられる先生方もいて、様々な研究成果が発表されている、特に最近は南海トラフ地震の被害想定や、海抜0メートル地帯である上町台地西側の大阪の中心部(難波八百八橋の水の都であった)や、東の河内平野(かつて海。湖であった)の防災対策、亀の瀬地域の大和川の土砂災害対策などの現実的な要請から、古代の地形変動に関する研究が盛んだ。また歴史学の視点からも様々な研究がなされている。私は研究者ではなく、通りがかりの「時空旅行者」なので、その詳細には立ち入らないが、太古の地形が歴史上のいくつかの出来事や風景描写、考古学的な発掘の意味を説明してくれている点はとても興味がある。

いくつかのエピソードを並べると、
⑴ 奈良盆地に見られる縄文遺跡は例外なく標高45m以上の微高地に検出されている。それ以下には見つかっていない。やがて稲作農耕を主体とする弥生時代に入ると、弥生遺跡は標高40mでも見つかるようになる。すなわち、縄文後期から弥生時代にかけて徐々に奈良湖の水位が下がり、湖畔の湿地帯は肥沃な地味で稲作に適していたことから弥生人が定住し始めた証拠だと言う。湖畔に豊葦原瑞穂国の風景が生まれた。
⑵ また、古代の山辺の道がほぼ標高60mの高さで山麓を南北に通っているのは、かつての湖や通行に支障のある湿地帯をさけて形成された証拠だと言う。当初は人々の頻繁な自然往来で踏み分けられた道であったのだろうが、その重要性から権力者により官道として整備されていったのだろう。その後平地に造られた上津道、中津道、下津道より時代をさかのぼる最古の官道と言われるゆえんだ、と。
⑶ 万葉集巻の一に舒明天皇御製の歌がある。
「大和には群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は煙立ち立つ 海原は鴎立ち立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきつしま) 大和の国は」
この「海原」はかつて香具山の北にあった埴安の池のことを指している、と唱える万葉集の研究者もいるが、この池も埋め立てられて、今香具山に登っても海や湖はおろか,池もも見えない。6世紀当時ははるか北に奈良湖の姿があったのであろうか。だとすると山と湖と水田で満たされた盆地はさぞ美しい風景だったことだろう。
⑷ 斑鳩の法隆寺の南大門の前に鯛石という1×2メートルの踏み石が表面を露出させて埋まっている。地元ではこの鯛石まで水が来ても大丈夫と言い伝えられている。今見るとどこに水があるのか、という法隆寺界隈だが、創建当時は消滅寸前の奈良湖はこの斑鳩辺りに存在していて、創建時の斑鳩宮、法隆寺は近いところに建っていたのかもしれない。そうなると聖徳太子は飛鳥京へ毎日太子道を馬で通っていたとされるが、実は斑鳩からは船で飛鳥へ渡っていたのではないか。ちなみにこの鯛石のある地点の標高は50mで大和川の水位40mよりは高い位置にある。

たしかに地形的に見ても、歴史的に見ても、「古代奈良湖存在説」はあまり荒唐無稽な感じではない。現在の奈良盆地の150余の中小河川の大和川一局集中の地形を見ても、かつての大きな水源の存在の痕跡を感じることが出来よう。さらに稲作農耕中心の生産手段と富の所有分配という経済体制、政治的支配機構、社会システムが確立されていったヤマト王権の時代の下部構造には、こうした水運に役立つ古代湖や河川とそれに連なる肥沃な湿地帯、神の権威を感じる甘南備型の山に囲まれた「まほろば」すなわち奈良盆地(大和盆地)が無くてはならなかった。まさにそうしたステージの一角、山懐(山の処)すなわちヤマト(大和)にヤマト王権が成立していったと考えれば、やはりこの盆地の舞台設定は、箱庭的であるが、国家誕生の揺籃としてはパーフェクトな設定ではないかと思う。


(奈良湖推定図。この図によれば、縄文遺跡は水辺、湿地帯をさけて山麓の微高地に分布しているが、弥生時代の農耕集落(唐古鍵遺跡など)は湿地帯に分布している。面白いのは古墳時代から飛鳥時代の古墳や宮殿・宮都跡は稲作生産の拠点である水辺・湿地ではなく三輪山の山辺に分布している。やがては湿地の無い盆地南の飛鳥の地に遷っている。この図はネットの図形検索で出てきた図で、あちこちのブログで引用されている。しかし、いくら調べても出典が明らかでない。以前「近畿農政局のHP」に掲載されていたものではないかと思う。作者不詳だがよく出来ているので引用させてもらった)



(奈良湖から亀の瀬を通って河内平野に流出する大和川の構造を示した図。高低差がある分だけ、亀の瀬地区は古代より大和川の流水による地盤崩壊などの災害の多いところであったようだ。奈良湖は最後は斑鳩の辺りに小規模に残り、やがては消滅していったのだろう。これも上図同様、出典が明らかでないがわかりやすいので引用させてもらった)


(上町台地大阪城付近から展望した河内平野の今。高層マンション辺りが近鉄八尾駅前。かつてはこの辺り一帯は河内湖であった。二上山と左手の生駒山との切れ目あたりが亀の瀬、穴虫峠)



(山辺の道の背後にそびえる龍王山山頂から奈良盆地を俯瞰する。この一帯に古代奈良湖があったと言われている。正面が二上山、その右側の山稜の切れ目が亀の瀬、大和川が河内平野に流入する所だ。手前の緑は崇神天皇陵。他にも箸墓古墳、景行天皇陵など大型の古墳がずらりと並ぶ大倭古墳群)



(龍王山からの二上山の展望。右奥の山向うに,うっすらと河内平野の町並みが見える)






2013年10月15日火曜日

鎌倉 〜週末はカオスの迷宮〜

生活基盤を東京に戻してしまうと、やはり関西にいるときのように気軽に古代史への時空旅が出来なくなってしまった。特に週末の時間を有意義に使えない。これが一番のフラストレーションだ。関東には「鎌倉があるではないか」と人は薦める。確かに首都圏で一番歴史を感じるところと言えば鎌倉。鎌倉は若き日には彼女とのデートコースであったし、今は親戚縁者の住む町なので時々訪れる町だが、あまり「時空旅」と言う視点で散策したことがなかった気がする。意外に知らないところが多い。「そうだ,鎌倉行こう」しばらくは鎌倉を探検することにしよう。

 で、先日の源氏山、扇が谷、鶴岡八幡に続き、この連休、鎌倉初心者コース第二弾として高徳院の鎌倉大仏と長谷寺を訪ねた。しかし、時期を選ばないと鎌倉が静かな雰囲気の中で歴史を振り返り、思索を巡らすのにふさわしくない場所であることを、たちまち思い知らされる結果となった。

 その混雑ぶりである。まず、普段なら余裕で座れる横須賀線の電車は、休日の今日は品川から既に満員。鎌倉駅に到着すると、一本しかないホームは下車した人々の群れで身動きが取れない。上りの電車を待つ人とぶつかりながら改札へ出るのに押すな押すなの渋滞。ようやく江の電ホームにたどり着くと、今度は電車待ちの列がホーム下まで並んでる。なんと車両の乗降口を示すラインに沿って人が何重にもとぐろを巻いて待っている。一本目の電車には満員で乗れず。15分待って次の電車にようやく乗れたが、最近珍しいほどのぎゅうぎゅう詰め。長谷寺駅でなんとか人をかき分け降りると、これまた出口に向かって渋滞。改札を出るのに5〜6分ほどかかる。駅からの道は狭くてそこに車と歩行者が充満していてこれまた大渋滞。歩道など人がようやくすれ違い出来るほどしかない。当然車道を歩く人もでてくる。通りの両側は土産物屋がぎっしり...もうこれ以上記述したくないほどの大混雑。カオスとはこのことだ。長谷寺も高徳院ももちろん観光客でいっぱいだ。帰りはちょうどバスが来たので飛び乗り、一目散に鎌倉駅まで、と思ったが、甘かった。乗ったは良いが渋滞の中で立ち往生。動かない。鎌倉時空旅に最初から高いハードルが立ちはだかり、前途に暗雲が垂れ込め始めた。

 鎌倉という町は、三方を山と谷に囲まれ、海に面した狭い町だ。守るに容易、攻めるの難しい、そのような土地だからこそ武家政権が幕府を開設、統治の拠点に選んだ訳だから。しかし、首都圏3000万人の人々にとって、手軽に出かけられる「歴史の町」として人気があり、休日ともなればこの狭い町に電車や車でどっと押し掛ける。明治以降は、静かな郊外の住宅地、別荘地であった町だけに、町中は交通機関もそれなりのトラフィックしか想定していない。切り通しと狭い道が特色の町だし、人気の江の電がいい例だ。こののどかな海岸線を走る単線のローカル電車に、怒濤のように押し掛ける観光客を許容できるキャパはない。狭い土地で拡張の余地もない。元々そういう風に出来てないのだ。

 つくづく東京生活は、どこへ行っても大勢の人の波との戦いだ。移動も居住も食事も観光も休息も... 新幹線や高速道路が出来て郊外や地方の観光地へも簡単に行ける。それだけに軽井沢や富士山のようなリゾート地へ行っても人出だけは都心並みだ。シーズン中の京都の混雑も新幹線で2時間の首都圏からの人の流入が大きい。「心の休日」なんてキャッチコピーが心に響かない。鎌倉が世界遺産に選ばれなかった理由の一つに、この大渋滞問題があったとも聞く。鎌倉の住人にとっては迷惑な話だろう。

 という訳で、いきなり愚痴の方が先立ってしまい、長谷寺の十一面観音も高徳院の阿弥陀如来(大仏)も、その混雑ぶりの印象が強すぎる分、参拝のご利益が薄れてしまったような気もする。いや、雑踏くらいでめげていてはいけない。ただ、よくよく世俗の欲望と煩悩の沼に足を取られた私のような凡人には、仏の道は遠い。

(1)長谷寺の十一面観音立像(長谷の観音様)

 長谷寺の観音様は大和の長谷寺の観音様によく似た立ち姿で美しい。言い伝えではこの十一面観音像は奈良時代723年に二体造られ、一体を大和の長谷寺に、もう一体は海に流した。それが15年後に鎌倉に流れ着いてまつられたのが鎌倉長谷寺の観音様だと。しかし仏像の制作年代を測定してみてもこの伝承の真実性は疑わしいが、その由来、創建の歴史があまり解明されていない寺、仏像であるが故に、このような言い伝えが後世になって語られたのだろう。寺伝によれば長谷寺の開基は藤原房前、開山は徳道とされ、奈良時代の738年の創建とされているが、鎌倉時代から室町時代、江戸時代の建物や仏像が多く、中世以前の歴史は謎である。

 大和の長谷寺は、平安時代に入ると観音信仰の霊場として、都の貴族たちの人気スポットとなり、長谷参りが盛んになった。一方、鎌倉時代に開かれた武家の町鎌倉に何時頃から観音信仰が盛んになり、誰がそのブームを支えたのか興味深い。武家の町らしく臨済禅の寺が多い土地柄だし、また日蓮宗発祥の地で日蓮宗寺院も多い。鎌倉はあまり商業地や町人の住む地域の少ない政治都市であったので、庶民による観音信仰が盛んになったとしても鎌倉幕府滅亡以降、室町時代のことであろうか。ちなみに大和長谷寺は現在は真言宗豊山派の総本山。鎌倉長谷寺はどの宗派にも属さない単立寺院である。長谷寺からは由比ケ浜が展望出来る。海の見える古刹というのも鎌倉ならではだ。

(2)高徳院の阿弥陀如来座像(鎌倉の大仏様)

 一方、奈良東大寺の大仏様に並ぶ有名観光地である鎌倉の大仏様の方も、その創建の起源は謎に包まれている。創建時は真言宗、今は浄土宗である高徳院は、その開基、開山、時期を含めて不明である。大仏建立の由来についてもあまり多くの記録が残ってないと。吾妻鏡などいくつかの記録を寄せ集めてみると、創建当初は木造仏であったが、大風で仏殿もろとも倒壊し、再建したのが金銅仏である現在の大仏だとされている。やはり同時期に再建された大仏殿は、明応7年1498年の明応地震、津波で倒壊し、金銅仏のみが残った。以来500余年のあいだ露座のままとなったと言われている。

 大仏鋳造にあたっては、当時日本で産出量が少なかった銅の確保が課題であったと言う。結局、中国の宋から多くの銅銭を輸入し、これを鋳潰して鉛を混ぜて使ったと言われている。一説に一人の僧が勧進元となり民衆の喜捨による再建であったと言われているが、これだけの金銅仏を鋳造する技術、宋からの銅銭の大量輸入、やはり時の権力者、すなわち鎌倉幕府のイニシアティブとコミットメントがなければ出来まい。しかし、それらに関する記述は残されていない。いったい何のために誰が建立したのか謎なのだ。ちなみに、鎌倉の大仏様は阿弥陀如来だ。奈良東大寺は盧遮那仏を本尊とする華厳宗で、鎮護国家思想の下にいわば国家事業として聖武天皇により創建された官寺である。鎌倉の大仏様は、浄土信仰、阿弥陀信仰の盛んになった平安時代の以降の創建なのだろうか。

 ところで明応地震では、このように長谷が津波に見舞われ、大仏殿が流され倒壊している訳だから、今でも鎌倉の町は津波の警戒を怠ってはいけないということだろう。

 長谷寺も大仏様もこのように大勢の人が、大混雑をものともせずに押し掛ける有名観光地なのに、その由来、歴史的背景がこれほど解明されていないことも珍しいのではないか。長谷観音様は奈良時代、平安時代にさかのぼる「大和由来」に思える節があるものの、それを示すきちんとした記録が見つかっていない。東国の武家の都に、上方の都の歴史に起源を求め、その文化との繋がりと信仰を移植しようとした痕跡なのだろうか? 週末に鎌倉に押し掛ける群衆にとっては、きっとそんな曰く因縁などどうでもいいのだろうが。



Kannon

(鎌倉長谷寺の十一面観音立像:寺のHPから引用)

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(大和長谷寺の十一面観音立像:寺のHPから引用)


週末の江ノ電ホーム

海の見える寺長谷寺

鎌倉の大仏さま
高徳院阿弥陀仏如来坐像

このアングルで見るとすごく末広がりの安定感がある
上記の写真のフォルムとこんなに違うとは...

後ろ姿はどこか哀愁漂う

上空から見る鎌倉


スライドショーはここから→


 
 (撮影機材:Nikon D800E+AF Nikkor 24-120mm f.4)

2013年10月7日月曜日

Leica Mのライブビュー撮影 〜邪道と言われても〜

ここのところLeica M Type240の出番が非常に増えている。最近の「時空旅」のお供はもっぱらコレ。そして、ライブビューで撮影することが圧倒的に多くなったことに気づく。距離計レンジファインダー(ライカMのライカMたるゆえんである)はたまにしか覗かなくなってしまった。これはどうしたことか?結局ライカMにライブビューが加わったことによる「レンジファインダーカメラ」の革命的な使用感の変化と言わざるを得まい。熟練したライカ使いにとっては、ライブビュー撮影など邪道なのだろう。しかし、撮影結果を撮影前に目視確認できる便利さをいったん味わうと病み付きになることも事実。レンズの焦点距離の制約も感じずピント合わせも簡単... ライカ保守主義者はそれが怖くてライブビューを忌避しているんじゃあ?なんて邪推したくなってしまうくらいだ。
 
 「ライカMにライブビュー」は、マウントアダプターの世界(これも邪道の極みなのだろうが)にも大きな変化をもたらした。これまでマウントアダプターというと、ライカのL、MマウントレンズをAPSサイズセンサーのFujifilm XシリーズやSONY Nexシリーズ、マイクロフォーサーズのボディーに付けて撮るためのアダプターであった。それが逆になり、フルサイズセンサーのライカMがマザーボディーになる訳だから、天地がひっくり返るほどの驚きだ。ライカMにニコンやキャノン、往年の銘レンズであるアルパやヤシカコンタックス、ひいてはM42レンズを付けて撮ると言う撮影スタイルが可能となったのだからビックリする。これまで、距離計連動カムがあるレンジファインダーライカMでは考えられなかったことだ。

 ライブビューになったとたん、様々なライカの既成概念をぶちこわすことが出来ることとなった訳だ。すなわち、これまでのレンジファインダーライカMの制約から来るレンズの「三つの壁」を取っ払うことが出来る。(1)最短撮影距離1mや70cmという壁。(2)そして望遠レンズという壁。(3)さらにはズームレンズという壁。まるでフルサイズCMOSセンサーのミラーレスカメラになったようなものだ。

 早速、まずはKIPON製のアルパアダプターをゲットして、保管庫に眠っていた我が家のお宝レンズ、アルパ用のケルンマクロスイーター50mmを着けてみた。これは最短30cm、三分の一倍まで寄れる標準マクロレンズだ。スイス製の一眼レフカメラアルパでのみ、そのとろけるようなアウトフォーカスに酔いしれることができた。フィルム時代以来しばらくお目にかかることが出来なかった画像にライカMでお目にかかれるという。久しぶりの高揚感だ。

 ライカRレンズ用の純正アダプターもライカ社から出る予定だが、発売予定が、6月が9月になり、9月が11月になり、どんどん遅れているが... もっともM Type240自体が市場への供給が間に合わず受注停止状態だと言うから、Rアダプターを今出しても意味がないのかもしれない。何とも悠長な営業だこと。これでも顧客を失わない自信があるのだろう。ともあれ、このRアダプターが出ればRシリーズの望遠レンズやマクロレンズ、果てはズームまでMボディーで使用可能となる。これがライカ社の言う、Rユーザ対策だった訳だ。

 ちなみに、定番のL/M変換アダプターだが、従来のElmar, Summitar, Summicronなどの無限大ストッパー付きレンズ用の干渉対策を施した半月切り欠き型リングは、Mボディー側の6ビットコード認識窓を塞がないため、Type240では「レンズなし」と認識し、撮影が不可能になる。対策としては認識窓に白い紙、テープなどを当てる必要がある。黒光りした精悍な顔に絆創膏貼ったような何とも間抜けな面相となるが。今後ファームウエアーで改善してもらいたいものだが、これもものすご〜く時間がかかるのだろう。Rayqualなどサードパーティー製で、6ビットコードを自分で設定できる(いや、ただ自分で黒い塗料を入れるだけだが)ブランクコードつきL/Mリングが出ている。今わざわざこれを購入する気にはなっていないが。

 このように、保守的なライカユーザばかりではなく、ライカでもやっぱり便利なものは便利に使いたい、というデジタルカメラ世代のハイアマチュア層が形成されてきているのだ。こうして、ライカはMにこだわって距離計ファインダーにライブビュー機能を追加して、結局Mでなくしてしまったのかもしれない。このMはドイツ語のMessucher(距離計ファインダー)のMなのだから。しかしこうしたパラドックスが、またライカMを面白いカメラにしているのも事実だ。どうも製品の市場「合理性」は日本製デジカメのそれとは異なるようだ。しばらくこの底なし沼にはまり込んでみよう。




 (旅のお供はライカM。定番のズミクロン50mmとともに)




 (アルパのケルンマクロスイター50mm f.1.9をKIPONのマウントアダプターを介して装着。結構良い佇まいだ)




 (ライカM+マクロスイターによる絞り開放での近接撮影。ライカMのライブビューでこのような新らしい撮影の世界が広がる)

(参考文献)
オールドレンズ・ライフ Vol.3 (玄光社MOOK)オールドレンズ・ライフ Vol.3 (玄光社MOOK)
価格:¥ 2,100(税込)
発売日:2013-09-09

2013年9月30日月曜日

博多聖福寺、京都建仁寺、鎌倉寿福寺 〜栄西の足跡をたどる旅〜

 栄西の足跡をたどる旅。今津の誓願寺、博多の聖福寺に始まり、京都の建仁寺、そしてついに鎌倉の寿福寺にたどり着いた。寿福寺は鎌倉扇ガ谷にある静かな佇まいの古刹だ。今の姿は、聖福寺や建仁寺のような往時を彷彿とさせるような壮大な伽藍や広大な寺域を誇る訳ではない。源氏山一帯は文字通り源氏ゆかりの土地であり、源義朝の居館があったと言われている。源平の戦いに勝利し、鎌倉入りした頼朝が鎌倉幕府創設を企図した土地である。その一角に境内を公開もせずにひっそりとたたずむ。

 現在扇が谷と呼ばれるこの一体には、花の寺で有名な英勝寺や海蔵寺があり、源氏山に登れば頼朝の像がある。化粧坂やその他の山間谷筋の道は鎌倉独特の狭い切り通し。武家の墓である岩壁を削った「やぐら」も至る所に見受けられる。内陸の盆地である京都や奈良とは異なる独特の佇まいを見せる。武家の拠点らしい、攻めるに難しく、守るに容易な海に面した山と谷の連続の地形が鎌倉の特色だ。

 栄西は、当時宋で盛んであった臨済禅を学び、1191年に帰国後は天台教学復興のために禅を広めようと努力する。しかし京都ではなかなか臨済禅の布教を支持してもらえず、京都での禅寺の創建を一時はあきらめる。鎌倉幕府初代将軍源頼朝の支援を受け、1195年にようやく博多に聖福寺を創建する。やがては武家政権の中心である鎌倉に遷り、北条政子創建の寿福寺の初代住持となる。京都に建仁寺を創建できたのは宋からの帰国後11年を経たときのことである。これも武家の棟梁である鎌倉幕府二代将軍頼家の開基によるものだ。このように臨済禅は武家社会の支持によってようやく我が国に受け入れられた。

 当時の京都は比叡山延暦寺の力が強く、なかなか新興の禅宗は受け入れられなかったと言われている。栄西自身は比叡山に学び、宋の天台山万年寺に留学している、最澄の延暦寺は天台教学、戒律、密教、禅の四宗並立で、いわば当時の総合大学のようなものであった。そこでは栄西の他にも法然(浄土宗)、道元(曹洞宗)、親鸞(浄土真宗)、日蓮(日蓮宗)などの鎌倉期から室町期の新興宗派の開祖たちが学んだ。しかし、その「卒業生」が海外留学の後に持ち込もうとした臨済禅が、お膝元でなかなか受け入れられなかったとは... 仏の御心の寛容性、オープンネスの実現は、現世の人が関わると容易なものではなさそうだ。


これまで巡った栄西ゆかりの寺を創建の順番でおさらいをすると、

(1)聖福寺
 宋から帰国後の1195年、時の将軍源の頼朝に許可を得て、博多の宋人居留区であった博多百堂に我が国初の禅寺を創建。開山となる。後鳥羽上皇のご宸筆「扶桑最初禅窟」の扁額が掲げられている。創建当時ほどではないが、秀吉の博多都市整備の中で削られた後も、比較的広大な寺域を維持している。室町時代には五山十刹の第二刹に序されていた。その後臨済宗建仁寺派の寺院となるが、江戸時代には黒田藩の指示で妙心寺派に転派した。

(2)寿福寺
 1200年、頼朝の菩提を弔うために北条政子により創建された寿福寺の住持となる。創建当時は鎌倉五山第3位。七堂伽藍15の塔頭を擁する大寺院であったが、その後の火災などで現在のようなこじんまりした静かな寺になっている。南北朝時代の再建によるものと言われている。この地は源氏ゆかりの地(源氏山亀が谷)で、義朝の館があったと言われる。現在は扇ガ谷とよばれている。

(3)建仁寺
 鎌倉幕府二代将軍頼家の開基、1202年に京都では初めての禅宗寺院を創建。開山となる。臨済宗の本山ではあるが、真言、天台、禅の三宗並立の寺であった。これは当時比叡山の力が強かった京の都に禅宗を普及させることはきわめて多くの抵抗にあったため、他宗派との協調、牽制による立ち位置の確保が必要であったことによるという。京都五山の第3位。応仁の乱などでことごとく消失し、創建当時の建物は残っていない。

 現在臨済宗は15派7000末寺あり。京都だけでも建仁寺の他にも妙心寺、南禅寺、東福寺、天竜寺、相国寺などの有名な大寺院が臨済宗各派の総本山として崇敬を集めている。また鎌倉には建長寺や円覚寺がそれぞれの臨済宗派の本山として君臨している。鎌倉時代に栄西によりもたらされ臨済禅は、鎌倉幕府崩壊後も足利将軍家の室町幕府により篤く保護された。さらに徳川将軍家の江戸時代に入ると白隠禅師により現在に至る臨済宗の禅が確立された。

 それにしても、木漏れ日の中に続く山門からの長い石畳と、中門を閉ざした寿福寺仏殿の密やかな姿が印象的である。まるで禅寺というよりは尼寺のような佇まいだ。ちなみに隣の英勝寺は鎌倉では数少ない尼寺の一つだ。この源氏山の麓の亀が谷(扇が谷)の地形がまるで隠れ里のような雰囲気を漂わせているせいだろうか。少なくとも大伽藍を展開するだけのスペースが確保出来ない地形だ。それ故に頼朝も、源氏父祖の地であるにも関わらず、幕府をここに設ける事を断念している。



(博多の聖福寺。勅使門は博多の総鎮守櫛田神社に通じている)




(聖福寺山門。後鳥羽上皇御宸筆の「扶桑最初禅窟」の扁額がかかる)




(再建なった聖福寺法堂。中国風の屋根の勾配が美しい)




(京都の建仁寺法堂、天井の双龍図が有名)




(建仁寺庭園。簡素だが力強い禅宗様式の庭園だ)




(鎌倉の寿福寺山門)




(寿福寺参道。木漏れ日の中の石畳が美しい)




(寿福寺法堂。簡素な作りだ。ここから先は入れない)


鎌倉扇ガ谷散策スラードショーはこちらから→



(撮影機材:Leica M Type240+Summilux 50mm f.1.4, Elmarit 28mm F.2.8. Sony RX100)

2013年9月24日火曜日

筑前の珠玉 秋月

 秋月は、今は福岡県朝倉市秋月になっているが、かつては朝倉地方一帯を治める城下町であった。地元の観光パンフレットにも「筑前の小京都 秋月」と記されている。しかし私はこの「小京都」という形容に出会うたびに違和感を感じる。地方に古い町並みが残っているとなんでも「小京都」という。島根県の津和野などもそうだ。「山陰の小京都 津和野」という具合だ。多分、ある時期の観光キャンペーンの時に誰かが言い出したキャッチフレーズなのであろう、歴史的には何の根拠もない形容だ。秋月は京都のコピーでもなければ、小さな京都でもない。れっきとした黒田家秋月藩5万石の城下町だ。「小京都」とか「なんとか銀座」とか、中央の成功モデルをそのまま地方に展開コピーするその手法と思考は、そもそも分国化されていた時代のそれぞれの国の「国府」であった町を形容するにふさわしく無いのは明白だと思う。秋月は、その美しい名前と、城下町としての景観、古処山と美しい田園風景、自然環境とがうまく調和した独特の魅力を持った町だ。

 1)秋月氏の時代
 秋月は、古くは箱崎八幡宮の荘園秋月荘であったが、鎌倉時代に入ると豪族秋月氏が山城を構えた。秋月氏は鎌倉時代以来の武家一族で、秋月の町の背後にそびえる古処山城を拠点に朝倉地方を支配していた。戦国乱世の世、秋月氏は豊後の大友氏の支配下にあったが、やがて大友氏に反旗を翻し、島津氏と組んで筑前、筑後、豊前11郡36万石の戦国大名に成長する。しかし、大友方の立花道雪や高橋紹運に阻まれてついに対外交易の拠点博多には進出できなかった。戦国時代の九州は豊後の大友氏。肥前の龍造寺氏、薩摩の島津氏の三つ巴の争いの渦中にあった。日向の支配権を巡って島津氏と大友氏が激突、耳川の戦いで大友氏が破れる。こうして島津氏は薩摩、大隅、日向三国の支配を確立。さらに九州全域の支配に向けて大きく前進する事となったが、その島津氏の北上を阻止したのは大友宗麟の救援要請を受け出陣した豊臣秀吉の軍師黒田官兵衛であった。黒田官兵衛は島津を南九州に追いやり、戦乱で荒廃した博多の町を復興した。こうして秀吉の九州平定は終わった。このとき島津側についていた秋月氏は豊臣軍に降伏する。やがて秀吉によって秋月氏は日向高鍋3万石に移封される。

 ところで、戦国時代の九州における覇権争いの歴史は意外なほど後世に語られていない。これも司馬遼太郎史観のなせる技だろうか。司馬が取り上げたストーリーだけが日本の歴史であるかのように。どうしても近畿/中国/東海/信越/関東を中心とした天下統一物語りがメインになるのは仕方ないとしても、平家の財力の根拠地であった博多や九州の荘園領地の跡目争いと、源平合戦以降、鎌倉から派遣されて来た西遷ご家人達の末裔である西国武士団と地元の国人武士団の動きが、なぜ天下統一物語りのもう一本の伏線にならないのか。中国の覇者毛利氏の背後には、豊後の大友氏や、薩摩の島津氏、肥前の龍造寺氏といった有力大名がいて、天下の形勢に影響を与えていた。しかし大陸との交易上も重要な国であるはずの筑前は、太宰府以来の少弐氏や、肥前の龍造寺氏、さらには長門の大内氏、豊後の大友氏など、博多を巡る権益争いは熾烈であったが、一国を支配する大名はなかなか現れない。名島城に入城した小早川隆景が初めての筑前国主となるが、本格的な筑前一国統治は関ヶ原後、黒田氏の入国を待たねばならない。いずれも「天下人」となった豊臣秀吉や徳川家康の九州支配のプロセスの結果なのだ。やはり島津氏の薩摩や龍造寺氏の肥前(後には鍋島氏に引き継がれるが)、そして毛利氏の長州が「天下」に影響を及ぼすのは明治維新を待たねばならなかったようだ。

 2)黒田氏の時代
 関ヶ原の戦いの後に、東軍勝利に功績のあった黒田長政は52万石の大大名となり、筑前に入国した。長政(孝高すなわち官兵衛すなわち如水の長男)はまず小早川隆景が築いた名島城に入城。手狭であったことからすぐに福崎に新たな居城を築き、一族の出身地である備前福岡の名を取って福岡城とした。このとき長政は叔父の黒田直之を筑前のもう一つの重要な拠点である秋月に配した。直之は孝高と並ぶ敬虔なクリスチャンであり、教会を建て、宣教師を集め、秋月は信者2000人を数える九州の布教拠点となった。しかし直之は秋月に遷りわずか10年で世を去った。

 その後、長政は死に臨んで、3男の長興に秋月藩5万石を分知するように遺言する。長男で二代福岡藩主忠之は、遺言通り長興を秋月5万石の藩主とした。これが黒田秋月藩の始まりだ。その後,福岡本藩藩主忠之による、秋月藩の「家臣化」、すなわち大名として認めずとする措置や、幕府の一国一城令で,黒田筑前領内のの東蓮寺藩などの支藩が廃止されたりしたが、秋月藩は幕府から大名としての朱印状を貰い、藩主は甲斐守の官位を朝廷から授けられた。こうして秋月黒田家は江戸出府が認められる大名として明治維新まで存続する。

 秋月藩は初代の長興(ながおき)や中興の祖と言われる8代長舒(ながのぶ)など、領民に慕われる名君を生んでいる。もともと秋月藩領内には豊かな田園地帯も殷賑な商業地もなく、藩はのっけから財政難に見舞われていた。長興はそれでも狭い山間部の新田開発を取り組み、山林事業を起こし、領民の年貢を低く抑え、まさに治山治水、質素倹約、質実剛健を旨とした藩政に取り組んだ。島原の乱では、財政が苦しい小藩ながらも藩主家臣一丸となって乱鎮圧に当たり、武功を上げた。またその恩賞を公平に分け、以来、藩主としての長興のリーダーシップ、君主としての名声を確立したと言われている。

 一方、この時期、福岡本藩の藩主をついだ長男忠之は、その不行跡や暴君ぶりが、遂には御家騒動に発展する事態を招いた。孝高以来の忠臣栗山大膳は、幾度も君主に諫言したが取り入れられず、ついに窮余の一策として幕府に「我が君主に謀反の疑念有り」と訴え出る。いわゆる「黒田騒動」である。幕府は結局、筑前一国を一旦黒田家から召し上げ、ついで再度黒田家に知行するという苦肉の策で事態を乗り切る。栗山大膳は奥州盛岡藩お預けとなり、そこで生涯を閉じる。栗山大膳は盛岡藩では罪人として扱われるのではなく、忠義の人として厚く遇されたという。こういう事もあって、人はよく忠之と長興を比較する。長政は長男忠之ではなく、有能で人望も厚い3男長興に福岡本藩を継がせたかったのだ、と言われている。

 秋月藩中興の祖と言われる8代藩主長舒は、米沢藩上杉鷹山の甥に当たる。この偉大なる叔父を尊敬し、その志を藩政に生かし領民に善政を施した。学問を重視し、7代藩主長堅の時に創設された藩校稽古館に福岡本藩から亀井南冥などの高名な学者を招聘し、その弟子、林古処を訓導として多くの弟子を育てた。やがて稽古館は、文人墨客の集まるいわば「秋月文化サロン」の中心となり、米沢の興譲館に勝るとも劣らない繁栄を謳歌する。

 秋月藩は福岡本藩同様、幕府から長崎勤番を仰せ付けられており、長舒の時代には長崎の警備の任に当たった。小藩としては厳しい役務であったことであろう。しかし、したたかに長崎で多くの西欧文化を吸収し、秋月に医学や土木技術を導入した。現在野鳥川に架かる眼鏡橋は、長崎から石橋の建築技法を取り入れ築造したのもである。野鳥川が氾濫するたびに橋が流されて困っていた領民の悲願達成で大いに感謝されたと言う。

 ちなみに長舒は日向高鍋藩の秋月種実の次男であった。秋月家と言えば、あの戦国武将にして秋月朝倉の領主であった秋月氏の子孫である。秀吉の九州平定で降伏し、祖先伝来の地秋月から遠く日向高鍋3万石に改易された無念の歴史を持つ家である。時代をへてその子孫が、養子とはいえ秋月黒田家8代藩主として父祖の地のに返り咲いた訳だから感慨無量であった事だろう。

 3)秋月の乱
 時代は下り、明治になっても秋月は歴史の表舞台から退場していない。明治新政府の廃藩置県、廃刀令、俸禄廃止が強行される。すなわち武士が士族としての身分は残すものの、サムライとしてのアイデンティティー、生活存立基盤を失うことになるのだ。新政府内の征韓論の路線対立もあって、下野した薩摩の西郷や肥前の江藤、長州の前原らの参議有力者を中心に西南諸藩の士族の間にしだいに新政府への反感が募り、不平士族の反乱に発展して行くことになる。江藤新平らの佐賀の乱を皮切りに、ここ秋月でも、熊本の神風連の乱に呼応して宮崎車之助等が蜂起する。秋月の乱である。豊前豊津の同志が決起に呼応するはずであったが裏切りに会い、新政府の小倉鎮台軍に制圧され失敗する。ちなみにこのときの鎮台司令官は若き日の乃木希典。その後、前原一誠の萩の乱などの不平士族の反乱が遼遠の火のごとく広がってゆくが、その最大にして最後の乱が西南戦争である事はいうまでもないであろう。秋月には決起士族が結集した田中神社がある。しかし、今はそんな血気にはやった人々がいた事が信じられない穏やかさだ。

 4)エピローグ、そしてプロローグ
 廃藩置県、秋月の乱でラストサムライ達が去った秋月は、静かな田園集落へと変貌してゆく。そして、歴史の表舞台から静かにフェードアウトして行く。今ここ秋月の地に立つと、往時の黒田家居館跡や稽古館跡、杉ノ馬場(いまは桜の名所となって桜馬場と呼ばれている)、眼鏡橋やわずかに残された武家屋敷に往時の面影を見ることが出来る。しかし驚く事に、今も残る城下町としての縄張りは初代藩主黒田長興が行った縄張り以来ほとんど変わっていない。士族が城下を去ったため、武家屋敷の多くが田畠になったが、今日まで大きな災害もなく、都市化の波にも洗われず、昔の城下町の構造をそのまま残している。奇跡のようだ。かつては文化の中心として古処山麓に栄えた秋月文化サロンも、今は自然との調和が美しい静かな田園集落となっている。秋月城趾に位置する秋月中学の生徒達の元気な「こんにちわ」の挨拶が心地よい。秋月人の礼節とその矜持と心は時代が変わっても残っているのを感じる。さてこれからの秋月はどんな歴史を歩むのだろう。


 秋月への行き方:
 福岡から車なら高速で甘木インター経由であっという間に到着出来る。しかし、秋月を訪ねるなら,もう少し「遥けき所へ来たもんだ」感を味わうべきだろう。やはり「ローカル線と路線バスの旅」が一番だ。

 西鉄福岡天神駅からは天神大牟田線急行で小郡下車(約25分)。レイルバス甘木鉄道(旧国鉄甘木線。通称あまてつ)乗り換えで甘木駅下車(約20分)。ないしは天神大牟田線宮の陣乗り換えで西鉄甘木線経由甘木というルートもある。甘鉄駅前のバス停から甘木観光バス(路線バス)で野鳥、だんごあんへ(約25分)。

 JR博多駅からなら、鹿児島本線快速で基山下車(30分)。ここが甘木鉄道の始発駅。甘木までは25分。あまてつは一時間に2本、バスは一時間に1本しかないので、乗り換え時間がた〜ぷりある。ゆったり、のんびり、せかせかせず、辺りの田園風景を眺めながら旅すべし。ちなみに甘木/朝倉地方は邪馬台国九州説の比定地である(甘木駅前に卑弥呼の碑、日本発祥の地の石碑有り)。また、バーナード・リーチ絶賛の小石原焼の窯元も近くだ。



(左が黒田家の居館、秋月城。壕を隔てて右は杉ノ馬場、今は桜が植えられて桜の馬場と呼ばれている。春は九州でも有数の桜の名所となる)



(黒門。元は秋月城の大手門であったが、後に初代藩主長興を祀る垂裕神社への門となっている。秋の紅葉が美しい)



(古処山の麓に広がる田園風景。コスモスが秋の訪れを告げる)



(実りの秋。桜の馬場沿いの田圃に彼岸花が咲く)



(眼鏡橋。野鳥川に架かる石橋)

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(撮影機材:Leica M Type 240+Summilux 50mm f.1.4, Elmarit 28mm f.2.8 歴史ブラパチ散歩に最適のセット)



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2013年9月17日火曜日

野分け そして茜雲

台風18号は愛知県豊橋付近に上陸し、本州を縦断するように北東に進路を取った。東京は16日午前中から暴風域に入り、我が家の植木鉢も盛大にひっくり返っていた。久しぶりの首都圏直撃の台風である。フライトキャンセル、新幹線の運転見合わせ。鉄道各社も運休や間引き運転で交通網がマヒ。3連休の最終日で大勢の旅行客が立ち往生した。幸い帰省していた娘夫婦は前日夕刻に成田からJFKに向けて帰途に付き、間一髪で東京脱出に成功。ようやく午後3時頃には風雨も徐々に収まり、西の空に薄日が射し始めた。

テレビの映像は、京都の桂川が氾濫し、景勝地嵐山が水浸しになっている様子を映し出していた。あの普段は観光客であふれる渡月橋は濁流に洗われ、あわや崩壊か、と思われるほどであったが、さすがに見かけは古風な欄干を持つ橋も、しっかりしたコンクリート製の橋脚に支えられていて、激流にも微動だにせず立ち向かっている姿が感動的だった。しかし、近畿、東海あちこちで猛烈な豪雨に見舞われ、人的被害も甚大だ。ここのところ日本全国でゲリラ豪雨、落雷や竜巻など、「今までに経験したことのない」災害が多発していている。今年は記録的な猛暑であったし、そうした事態に対応するために新たに設けられた「特別警報」が頻繁に発せられた。

野分とは台風の古語である。野を分けるほどの大風というところから名付けられたらしい。台風と言うより野分と言った方が風雅な響きがする。源氏物語の28帖「野分(のわけ)」や、夏目漱石の「野分(のわき)」で取り上げられているのせいだろうか。しかし、昔から大きな被害をもたらす自然の猛威であることに変わりはない。過去に台風で倒壊した歴史的な建造物は枚挙に遑がないほどだ。古代人は、人知を超えた自然の猛威に神の意志を感じたことだろう。ただ「野分」という言葉の語感に神への畏れのニュアンスが感じられないのは何故なのだろう。

しかし、台風一過。ふと見上げれば、なんと美しい夕焼け空だろう。こんなに美しい東京の空を観るのは久しぶりだ。普段は霞んでいてスッキリとした青空が見える事は少ない。高村光太郎の妻千恵子がゼームス坂の病院で「東京には空がない」と言った意味がよく分かるのだが。この野分はさんざん暴れ回ったあとに、こんな穏やかで美しい茜色の雲の切れ端を置いていった。試練をくぐり抜ければあとには安らぎと感動が待っている、と言わんばかりに。ところで、野分の後の夕焼け空をあらわす風雅な言葉はないのだろうか。












(撮影機材:Nikon D800E+AF Nikkor 24-120 f.4, Leica M Type240+Summicron 50 f.2)




2013年9月6日金曜日

甘樫丘 〜神聖なる山の変遷〜

 奈良県高市郡明日香村にある甘樫丘は標高145メートル、比高約50メートルの小さな丘である。飛鳥展望所として飛鳥巡りには欠かせない人気のスポットとなっている。この丘がかつての飛鳥における要害の地であることは、その頂に立ち、周囲を見回すとすぐに理解することが出来る。東には飛鳥川を隔てて蘇我氏創建の飛鳥寺(法興寺)が。さらに談山神社のある多武峰、藤原一族の地小原の里。南に目を転じると飛鳥古京の中心、天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮、斉明天皇の飛鳥川原宮、蘇我入鹿が殺害された乙巳の変の舞台飛鳥板蓋宮などの宮都跡が並ぶ。また蘇我馬子の石舞台古墳も見える。西には推古天皇の豊浦寺(豊浦宮)、小墾田宮、畝傍山、さらには二上山、葛城山。その向こうには河内、難波の地が。北には、間近に雷丘、飛鳥川、耳成山、天香具山、そして藤原京跡、さらには、斑鳩の法隆寺、生駒山が展望できる。右手には神聖なる三輪山がそびえている。このようにここからは「飛鳥世界」が一望できる。

 仏教伝来以前の倭国では、甘樫丘は照葉樹である樫の木に覆われた神聖な場所とされ、宗教上極めて重要な地であった。記紀によると、盟神探湯(くがたち)が行われた場所として知られる。これは神裁裁判、呪術的裁判の一種であり、とりわけ国家の大事や、謀反の有無などの重大事案にかかる審判が執り行われた神聖な場所であった。このような山や丘が神聖視されるのは、自然崇拝を元とする古神道の常である。延喜式に甘樫坐神社の存在がみえ、甘樫丘が神南備山として祭祀の重要な場でもあった事をうかがわせる。他にもここ飛鳥には、畝傍、耳成、香具山の大和三山はじめ、雷丘やミハ山などの小さな山・丘が点在している。三輪王朝以前から三輪山が神聖で千古斧を入れぬ聖山として崇められてきたが、飛鳥時代に入ってからもこうした聖山信仰があったのだろう。

 しかし、飛鳥世界の中心にあり、その「権威」の象徴であった山・丘は、その地の利から、同時にその世界を支配する「権力」の象徴ともなりうる。大王家は平地に宮殿を構え、祭祀を執り行なう際に山・丘に上っていたのであろうが、大陸伝来の宗教である仏教を導入、擁護し、倭国の東アジアにおける安全保障と、国内統治の中心思想に位置づけようとした蘇我氏は違っていた。既成の「ドメスティック」な価値観にはとらわれぬ「グローバル派」であったと言う訳だ。

 日本書紀の記述によれば、蘇我蛦夷とその息子入鹿は、大胆にもこの神聖なる甘樫丘に砦ともいえる居館を築いたとされている。権力基盤の確立を図るため戦略的に最も枢要な場所に一族の拠点を確保するという合理性はもっともであるが、これは、とりもなおさず神をも恐れぬ不遜な振る舞いであったことだろう。古来より神の降り立つ聖山として大王家に恐れ崇められてきた場所を占拠し、世俗的権力の拠点化したのだから。しかし、彼らは新興の外来宗教を押しすすめる革新勢力である。倭国古来の権威(さらにそれを重んずる氏族たち)と対抗し、あらたな思想、統治の理念をかざそうとした彼らに取って、甘樫丘の占拠は軍事的な拠点化であると同時に、既成の権威の否定、新秩序確立のシンボルにもなったのだろう。最近の甘樫丘東側の発掘調査で、大掛かりな居館や兵器庫などの遺構が見つかっていることから、日本書紀に記述された蘇我氏の居館の実在が確認されたものと考えられる。

 こうして、蘇我氏による現世的な開発の進行により、何時しか甘樫丘の神聖性は薄れ、乙巳の変での蘇我氏滅亡後も、その神の山としてのステータスが復活することはなかったようだ。その後、宮都も、いわゆる「大化の改新」後、難波へ、大津へ、藤原京へと遷り、飛鳥の政治拠点としての地位も徐々に低下してゆくことになる。

 それにしても蘇我入鹿は、大王家を凌ぐ権力者として、また逆賊として歴史において記述されているが、多くの渡来人勢力をバックに有する蘇我一族の長として、その世界観、時代を読み取る先見性、革新性、行動力は抜きん出たものがあったのだろう。時代を切り開く革新者にして、果てに政治的敗者となったものは、こうしていつも勝者側の歴史書においては悪役として記述されることとなる。飛鳥寺の西側に入鹿の首塚があるが、そこからは甘樫丘を見上げることができる。ここから、展望台に立ってこちらを見下ろしている人々の姿を遠望することができる。入鹿は何を思ってここに眠っているのだろうか... 歴史に「もし...」はないが、もし入鹿が生きて「大化の改新」ではない政治制度の「改新」を断行していたらどのような倭国、日本が出来ていたのだろう。



(東は飛鳥寺を含む明日香村の集落を見下ろす)




(西は畝傍山と二上山を望む。麓には豊浦寺が。)



(北は耳成山、天香具山。手前の飛鳥川近傍に雷丘。遠くに生駒山も見える。藤原宮跡もこの方角)




(甘樫丘の東麓、飛鳥寺付近で発掘調査進む飛鳥の里。)




(飛鳥寺西端にある入鹿の首塚。甘樫丘を見上げて何を思うのだろう)

スライドショーはここから→



(撮影機材:Leica M(Type 240), Voiktokaender 50mm f.1.4)




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甘樫丘への行き方:近鉄橿原神宮駅から徒歩20分。カメバスという飛鳥循環バスもあるが、一時間に一本くらいの運行なので時刻表を確認しておく必要がある。