2022年12月26日月曜日

年の瀬に山上憶良を憶う 〜「万葉集」 記紀が描かなかったもう一つの歴史〜



大宰府の山上憶良「子等を思ふ歌」歌碑

大宰府坂本八幡宮
大宰帥大伴旅人居館跡


この頃は、夜寝るときにNHK ラジオの聴き逃し番組を聴きながら寝る。これが結構ためになる。色々興味深いテーマで番組が構成されているのでどれを聴こうか迷うほどだ。聴き始めると、面白くなってなかなか眠りに入れないのが難点か。皮肉なことにオールドメディアと化したと言われて久しいラジオが、ネット時代だからこそ新たなメディアとして再登場していることが新鮮である。特に、最近の長編シリーズである「古典購読」鉄野昌弘氏の「歌と歴史でたどる万葉集」が大変が面白くて毎週楽しみに聴いている。以前から、万葉集は文学作品なのか、歴史書なのか、という問いを持っていたが、鉄野氏は、その両方の視点から解説してくれていて、万葉集を歴史書として読む楽しみを教えてくれる。詠人は、それぞれの心情や視点を持った生身の人間でありその歌の中にその時代の世相や個人的な思いが反映されている。古事記や日本書紀のような為政者の視点で編まれ、登場人物の個人の視点や心情が表現されない「正史」とは異なる点だ。詠人は、初期の頃は天皇や皇子達、それを取り巻く専門職であった宮廷歌人であるが、時代を下るに従って、天皇行幸などのイベントで歌を作るプロの歌人ではなく、普通の生活の中の官人や庶民になってゆく。これは大伴旅人やその子の家持が万葉集の中心になる頃からそういう傾向が強くなってゆく。特に巻の五の大宰府における旅人を中心とした大宰府官人たちの「筑紫歌壇」の歌は、これまでの「大和は国のまほろば」とか「やすみしし我が大王」といった王朝讃歌のようなキラキラトーンではなく、カッコつけない官人達の本音が歌われているし、歴史書からは見えてこない地方の実情が鮮明に描かれていて面白い。中でも山上憶良の歌は、官人、貴族には珍しく庶民の生活心情に目を向けた社会派の歌が多く異色である。歴史書には、その時代に生きる個人の生活や心情が反映されていないものだが、万葉集は、そういう意味では歴史の担い手であった貴族や官人による文学書であり、庶民を含む私人が登場する異色の歴史書であると言って良いだろう。

山上憶良は筑前守(ちくぜんのかみ)であり、官位は従五位下である。中納言大宰帥(だざいのそち)大伴旅人(正三位)の部下である。叙爵されているとはいえランクの高い貴族とはいえない。旅人が大納言(従二位)として出世して都に帰任したのに比べ、憶良は筑紫国守の任を終えて奈良の都に帰任した時には、官位が上がることなくリタイアーして、やがて世を去っている。まるで現代のサラリーマン人生を彷彿とさせ、そこに共感を得る人も多いのではないか。私もその一人である。いわば、福岡市店長を最後に地方単身赴任から解放され、本社に戻るとともに定年を迎えてリタイアーした、という現代のサラリーマンのキャリアパスに似る。彼の出自ははっきりしていないが、百済系の渡来人の子孫であるとも、大和添上郡山辺あたりの豪族出身とも言われているがはっきりしない。決して身分の高い名門一族の出ではなく、生活も豊かではなかったが、それでも粟田真人の推挙により遣唐大使使節の一人に選抜され、官位のない身分のまま唐に渡った。いわばエリート出身ではないが海外留学経験を持つ。そこで律令や漢詩、仏教や儒教を学び、帰国後は宮廷に出仕し、東宮の教育担当を経て伯耆守として地方赴任した。都に帰ると首皇子(のちの聖武天皇)の家庭教師の一人として漢詩を教えた。続いて筑前守として再び地方へ下向する。中央の高級官僚としてではなく、いわば地方官僚としてキャリアを積んだことになる。そうした知性と教養を具備した地方官僚としての憶良が万葉集の主役の一人として登場してくるところが面白い。ちなみに憶良は正史である続日本紀には冠位や伯耆国守任官など僅かな記録しかなく、筑前国守任官については記録されていないし、そのプロフィールに関する記述はない。万葉集のみにその名が残る官僚であった。

憶良は大宰府で大伴旅人(大宰帥大伴卿)と共に歌人としても活躍し、多くの漢詩や和歌を読んでいる。万葉集には憶良の歌は78首撰録されており、柿本人麻呂、旅人、家持などと共に主要な万葉歌人の一人してその名が記憶されている。筑紫においても旅人と双璧をなす、いわば「筑紫歌壇」の中心人物と言って良いだろう。元号「令和」の起源となった巻五の「梅花の宴」も実際には憶良が旅人に代わって読んだという説を唱える研究者もいる。その歌風は、天皇を寿いだり、官人として天下国家を歌ったり、というよりは、筑前国守として地方行政に携わる中で見聞きした庶民の生活や心情、地元の説話を読んだものが多い。また、大宰府官人達が共通に持っていた「早く都に帰りたい」や、出世への執着、都への憧憬についても包み隠さず歌っている。そもそも「歌」というものが朝廷や官僚達にとって重要な文書行政手段であったわけだから、都からやってきた使者や、都に戻る同僚などに託したメッセージとして読まれたとしても不思議ではない。

一方で、彼は儒教や仏教の影響を強く受けていたので、生と死、社会問題についての歌が多い。しかし、仏道に精進して現世の煩悩を解脱することを希求するといった歌よりも、むしろ煩悩に苛まれるリアルな人間を姿を歌っている。これは太宰府で読んだ有名な「子等を思ふ歌」に見事に表現されている。子どもへの愛情や執着は、仏教的には現世へのこだわり、煩悩であるのだが、それを恥じるのではなく、ストレートに「子供を大切に思う」心情を歌っている。また任地の筑前各地で歌った歌(嘉麻、松浦など)が多く収録されており、神功皇后の朝鮮出兵伝承にまつわる地元の祭りや、習俗を、煩悩を交えた庶民目線で歌っている。そして、奈良の都に帰って後に読んだのが「貧窮問答歌」である。里長(さとおさ)の呵責のない税の取り立てで虐げられる地方の庶民の生活や、貧困や災害、疫病にさいなまれる人々の苦悩を謳っている。これも我と我が身をモデルに、知性あふれる才能がありながら社会的には認められない貧者の目線を共有する憶良の人間性がよく現れている。こうした社会派の歌、個人の心情を赤裸々に表明した歌が採録されている万葉集という歌集の性格を見ると、初期の頃の官選和歌集、天皇讃歌の書としての万葉集が変化していった様子が見えて興味深い。一方で、旅人や憶良が大宰府に赴任していた頃は、都では「長屋王の変」が起き、朝廷における藤原氏一族の台頭が顕著になっていった時期である。憶良はともかく、名門一族大伴氏の長である旅人にとっては、その事件に関わることなく遠く太宰府に時を過ごし、一族の復権のために何もできないかったことの無念さを感じていた。そうした心情を滲ませた都思いの歌を読んでいる。そういう意味では、この時代の万葉集は、社会問題を地方の現場目線で描いている他、都を離れた地点から中央政界を遠望する視点を取り上げるなど、歴史を別の視座から描いた「歴史書」としての性格を持っている。初期の頃にはこのような個人の心情や社会情勢を歌ったものが少なかったのだが、いつの頃からか官選和歌集という性格から離れてゆく。万葉集には序文がなく、そもそも誰が撰者であり、編集者であったのかは今でも謎であるのだが、憶良の歌の登場がその謎の鍵を握っているようにも思える。大伴旅人の息子、大伴家持がのちに万葉集全体を編集し、新たな歌を撰録したとも言われている。そうかもしれないと思う。おそらく父旅人に伴われて下向した太宰府の大宰帥居館で家持は幼少の頃、憶良とも交流したはずである。家持の歌への想いと庶民への目線は、この時の憶良によってインスパイアーされたと考えてみるのは如何だろう。

私は山上憶良こそ万葉集最高の歌人ではないかと考え始めている。疫病や戦争、貧困や社会的不正義などに満ち満ちた一年が終わろうとしている。


参考:2019年4月13日のブログ「万葉集とは?〜文学書なのか歴史書なのか〜」



山上憶良の詠みし歌2首

「子等を思ふ歌」

瓜食めば 子供念おもほゆ 栗食めば まして偲しのはゆ 何処いづくより 来たりしものぞ 眼交まなかいに もとな懸りて 安眠やすいし寝なさぬ(『万葉集』巻5-802)

反歌

しろがねも 金くがねも玉も 何せむに まされる宝 子に如しかめやも(『万葉集』巻5-803)


「貧窮問答歌」

風まじり 雨降る夜よの 雨まじり 雪降る夜は 術すべもなく 寒くしあれば 堅塩かたしほを 取りつづしろひ 糟湯酒 うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげかきなでて 吾あれを除おきて 人は在らじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻ぶすま 引き被かがふり 布肩衣ぬのかたぎぬ 有りのことごと 著襲きそへども 寒き夜すらを 吾われよりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒からむ 妻子めこどもは 乞ひて泣くらむ この時は いかにしつつか 汝なが世は渡る

天地は 広しといへど 吾あが為は 狭さくやなりぬる 日月は 明しといへど 吾がためは 照りや給はぬ 人皆か 吾われのみや然る わくらばに 人とはあるを 人並に 吾あれも作なれるを 綿も無き 布肩衣の 海松みるのごと わわけさがれる かかふのみ 肩に打ち懸け 伏いほの 曲いほの内に 直ひた土に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲みゐて 憂へ吟さまよひ かまどには火気けぶりふき立てず こしきには 蜘蛛の巣かきて 飯炊いひかしく 事も忘れて 奴延鳥ぬえどりの のどよひをるに いとのきて 短き物を 端きると いへるがごとく 楚しもと取る 里長が声は 寝屋処ねやどまで 来立ち呼ばひぬ かくばかり 術無きものか 世間よのなかの道(『万葉集』巻5-892)

反歌

世の中を 憂しとやさしと おもへども 飛びたちかねつ 鳥にしあらねば(『万葉集』巻5-893)

2022年12月16日金曜日

古書を巡る旅(28)Ernest SatowとA.B.Mitford 〜二人の英国外交官の幕末維新風雲録〜

 


幕末維新の時代に日本に赴任してきたイギリス外交官にはアーネスト・サトウの他にA.B. ミットフォードがいる。日本ではサトウは有名だが、ミットフォードはあまり知られていない。ミットフォードはイギリス公使館二等書記官、サトウは日本語通訳生。幕末維新の時に横浜と江戸の公使館に勤務していた同僚である。年齢は彼がサトウより6歳上だが、着任はサトウの方が4年早い。このミットフォードは上流階級名門の出身で、イートン、オックスフォード出のエリート。後に男爵リーズデール卿となる。一方のサトウはのちにナイトの称号を得たが、ラトビアからの移民の子。ロンドン大学在学中に外務省の日本語通訳生試験に合格して日本に赴任した。階級社会であるイギリス的な感覚で言えば、身分と出自の違いがある訳だが、この二人は激務の日本勤務を通じて生涯の友人となる。さらに言えば。この二人は、庶民階級の出で学歴もない、現場叩き上げの辣腕公使ハリー・パークスの下で働いた。幕末明治の日本の若者と同じで、時代の歯車が大きくまわる時期には旧来の身分や出自などの違いを超えて活躍する若者がここにもいた。また同時期にはアイルランド出身のウィリアム・ウィリスが公使館付医官として、サトウ、ミットフォードと横浜の公使館の宿舎で共に過ごしている。彼は戊辰戦争の負傷者の治療に当たったほか、山内容堂の診察をしたことでも知られ、後に鹿児島の医学校創設にも関わった。ウィリスに関する参考資料としては「幕末維新を駈け抜けた英国人医師 甦るウィリアム・ウィリス文書」大山瑞代訳 創泉堂出版 2003年がある。

サトウの日本滞在記録 「A Diplomat in Japan」:邦訳版「一外交官の見た明治維新」は、以前のブログ2021年6月12日「古書を巡る旅(11)で紹介したので、今回はミットフォードの「回想録」:「Memories」を紹介したい。この回想録は、ミットフォードが、その晩年に男爵リーズデール卿として自らの生涯を振り返ったものである。したがって、日本についての回想だけが収められているわけではない。邦訳の「英国外交官の見た幕末維新」はここから日本部分を抜き出して翻訳したもので、サトウの「外交官の見た明治維新」と並ぶ幕末維新の時代の記録となっている。サトウの著作は彼の日記をベースとした詳細な記録に基づいており歴史研究の一次史料としての価値が高いと評されている。一方、ミットフォードの回想録における記述はそれに比べると縮約版的であるが、流麗な文章で叙述されており歴史の物語を読むようである。またサトウの日記を借りて当時を振り返ったとも書いており、時間の経過とともに過去の出来事の記憶が薄れている部分があったであろうと推察する。とは言え、日本の幕末維新という激動期に外交官として横浜、江戸に駐在し、数々の歴史の現場に立ち会ったミットフォードは、サトウと共に幕末明治と日英交流の歴史の重要な証人であることは言うまでもない。この二人の著作を読み合わせることで補完しながらより多元的に幕末維新を振り返ることができるであろう。サトウは1862年(文久2年)から1884年(明治17年)までの、賜暇休暇を入れて22年日本に滞在したが、一方のミットフォードは1866年(慶応2年)から1870年(明治3年)までの4年の滞在ということで、サトウよりははるかに短い滞在であった。またサトウの邦訳版「外国人の見た明治維新」は彼の賜暇休暇までの7年の記録である。一方のミットフォードの邦訳版「英国外交官の見た幕末維新」は彼の4年の滞在記録で、共に「王政復古の大号令」明治維新政府の樹立を見届けた1870年前後までの記録となっている。その後、ミットフォードは帰国し、外務省を辞している。一方のサトウは、タイ公使を務めるなどの外交官としてのキャリアを積み、駐日全権公使まで務め知日派ジャパノロジスト「サトウ」の名を高めることになる。

この二つの著作でも、お互いの存在に言及しながら書いている。先述のように、ミットフォードは、回想録を書くに当たって、サトウの日記を借りて参考にしながら書いたことを述べているし、サトウの日本に関する深い理解と洞察力、人脈、そして彼がパークスの政策に与えた影響力を高く評価している。一方のサトウは、ミットフォードの外交官としての資質、能力と語学能力の高さに驚嘆している。確かに、回想録に引用されている幕府や新政府の布告などの公式文書を正確に英訳している。ミットフォードの方がサトウよりはランクが上の書記官で、形式的には上司であったため、ランクが重んじられる公式会見や、将軍や天皇との拝謁に全権公使のパークスと同席する機会はミットフォードの方が多かったようだ。例えば明治天皇の謁見はパークスとミットフォードの二人に限られた。しかし、一方で日常的な日本側の重要人物や草莽の志士との接触はサトウの方が多く、いわゆる「サトウ詣」が行われていた。こうした立場による情報ソースの違いや、相手方の建前/本音の違いが浮き彫りになるなど興味深い。また細部にこだわる「スペシャリスト、サトウ」と、全体の流れを掴む「ジェネラリスト、ミットフォード」というキャラクターの違いも見え隠れするので読み合わせてみると面白い。

先述のように、日本では圧倒的にサトウの方が知名度が高いが、イギリスではむしろミットフォード、のちのリーズデール卿のほうがよく知られている。しかしそれは若き日の日本での外交官としての業績や、日本の歴史を変えた「幕末維新」における活躍のためではなく、彼の英国社交界での華々しい名声のためである。国王エドワード7世の友人で、人品骨柄卑しからぬイギリス紳士の代表のような人物として評価を受けていたことによる。そしてもう一つは彼の後継者である次男ミットフォード卿の六人の姉妹のためである。この姉妹は「ミットフォード姉妹」として戦前のイギリスでは知らぬ人はないと言われる有名人であったようだ。すなわち、ヒトラーの信奉者、ファシスト、共産主義者、作家、上流階級夫人などとして常に話題を振り撒き、数々のスキャンダルで新聞紙上を賑わす人物としてである。特に三女は不倫の末にヒトラー、ゲッペルス立会の元にイギリスナチ党党首と結婚した。また四女はヒトラーの親しい友人としてドイツに移住し、イギリスの対独宣戦布告で自殺を図るなど政治問題にもなった。イギリスには貴族でナチ信奉者が少なからずいたことは、カズオ・イシグロの小説「日の名残」でも取り上げられている通りであるが、こうした形でミットフォードの名が知られていたとは。ミットフォード家の資料はグロースターシャーの資料館に収蔵されているが、残念ながら彼の日本での外交官としての活動の記録はあまり残っていないようだ。


(1)ミットフォード/リーズデール卿の略歴

Algernon Bertram Mitford, 後にLord Redesdale (1837~1916)

1837年 ロンドン生まれ

ミットフォード家はフランク王国シャルルマーニュ大帝(742〜814)に繋がる名門の家柄で、著名な歴史家ウィリアム・ミットフォードは曽祖父にあたる。3歳の時、家族で大陸に移り、フランクフルト、パリ、トルービルに住んだ。

1854 年 イートン校卒業

1858 年 オックスフォード・クライストチャーチ卒業 外務省入省

ロンドンの社交界ではプリンスオブウェールズの交際仲間の一人にもなり、花形的存在

1863 年 ロシア ザンクトペテルスブルグ英国公使館二等書記官

1864 年 帰国 オリエントの旅へ

1865年  中国 北京英国公使館へ 中国語をトーマス・ウェイド代理公使(のちのケンブリッジ大学中国語教授)につき猛勉強

1866 年 日本へ転勤 横浜/江戸英国公使館 ハリー・パークス、アーネスト・サトウと共に幕末維新の激動期に駐在

1870年 賜暇休暇で帰国

1872 年 外務省を退職  ダマスカス、イタリア、アメリカ・ソルトレイクシティー、ロッキー山脈、カリフォルニアを経て、日本へ2度目の旅行

1874 年 ディズレイリ内閣の建設大臣

1886 年 従兄弟のリーズデール伯爵の名前、紋章、遺産を継ぎフリーマン・ミットフォードと名乗る。ロンドンを引き払い、領地のコッツウォルド バッツフォードに転居。日本風のバンブーガーデン開園 保守党の下院議員となる。

1902年 従兄弟の爵位を継承し男爵リーズデール卿に 上院議員となる。ビクトリア女王崩御に伴い王位継承した国王エドワード7世の良き友人であった(皇太子プリンスオブウェールズ時代からの友人)

1906年 明治天皇へのガーター勲章奉呈ミッションでエドワード国王の名代としてコンノート卿が訪日。その主席随行員として40年ぶりに日本へ。この時に明治天皇から菊花大綬章をもらっている。

1916年  バッツフォードで死去

訃報記事には、「若き日にロシア、中国、日本での外交官として活躍し、上流階級、社交界で華やかな人生を送り、時代を代表する英国紳士であった」と紹介されている。


(2)書籍紹介

1)「Memories」2 volumes 4th Edition 1915

Lord Redesdale:リーズデール卿著

邦訳版「英国外交官の見た幕末維新」 長岡祥三訳 講談社学術文庫

ミットフォード、のちのリーズデール卿の「回想録」上下2巻は、816ページの大著で、出生から1914年の第一次世界大戦までの回想録である。このうち第18章から26章までが日本に関する回想で、邦訳版はこの部分を抜粋、翻訳したもの。1866年(慶応2年)から1869年(明治2年)までの幕末・維新の激動の日本でのイギリス公使館勤務時代を振り返っている。若き日にパークス、サトウと共に活躍した思い出、天皇や将軍他のさまざまな人物との出会いが描かれており、幕末維新の日本の動向や人物像がイギリス外交官の視点で生き生きと描かれている。先述のように、サトウの著作と並ぶ、幕末維新史、日英外交史の一級の一次史料と言える。とりわけ、1867年(慶応3年)の慶喜との大坂城での会見(大政奉還についての慶喜からの説明)、1868年(明治元年)の明治天皇に謁見のことが詳細に記述されている。また明治天皇への謁見のため、京都御所を向かう英国公使パークスをはじめとする英国デレゲーションが、その途上で攘夷派の暴漢2名に襲われた事件など、当事者にしか語れない緊迫した模様が伝わってくる。サトウの日記に基づく記述にもことの顛末が詳細に語られているが、明治天皇との謁見にはミットフォードだけがパークスに同伴することを許されたので、紫宸殿の中のことはサトウの記録にはない。ミットフォードもサトウが謁見に同席出来なかったことを残念だと書いている。これはイギリスでの国王への謁見の経験の有無が問われたようで、ミットフォードにはそれがあったということのようだ。

彼はこの他にもいくつかの重要な著作を残している。中でもミットフォードの名前で著した「Tales of Old Japan, London, Macmillan, 1871」:「日本昔ばなし」は、日本に伝わる「忠臣蔵」などの昔の物語を紹介した代表的な著作としてイギリスでは重版されており、邦訳もされている。外交官としてだけではなく日本の文化に対する造詣の深さを示すものである。またもう一つの興味深い著作は、講演集「A Tragedy of Stones and Other Papers, London, John Lane, 1912」である(後に書籍を紹介する)。彼が公使館に勤務した若き日々に見聞した日本(幕末維新の激動期の)と、その後、1906年に明治天皇へのガーター勲章奉呈使節の主席随行員として40年ぶりに訪日した時に見た日本(あの日清/日露戦争に勝利した後の)とのギャップ。攘夷サムライのテロに怯える日々から、再び明治天皇に謁見することになった今という、すっかり変わってしまった日本に対する驚きと印象を語った「A Tale of Old and New Japan」と題した講演記録が採録されていている。特に興味深いエピソードは、英国王名代のコンノート卿使節団が横浜から新橋に列車で到着した時に、明治天皇が駅まで出迎えたことだと振り返っている。Forbiden Palace:禁裏から一歩も出ず、人々に姿を見せない神聖な存在であったMikado:天皇が、「あろうことか」外国人の一行を出迎えるために新橋駅頭に姿を表している。幕末攘夷の嵐の中、白刃を掻い潜って命を拾ったあの頃、維新後の明治天皇謁見の際にすら攘夷の浪士に襲われたあの頃には考えもつかなかったことだと振り返っている。彼の晩年の日本観は、この「脅威的な変貌」の衝撃によって規定されている。これはサトウも同様であり、この時期を日本で過ごしたチェンバレン、ラフカディオ・ハーン、フルベッキ、マードックなどの外国人に共通する日本観であったように思うが、彼のように40年ぶりの再訪であればその感慨はひとしおであったろう。その「変貌」の良し悪しの評価は、個々人で異なっているが。このガーター勲章ミッションの日本訪問については、別に「The Garter Mission to Japan, London, Micmillan, 1906」を著している。このため回想録、講演録では、日本再訪時の旅程や詳細には触れられておらず、機会があればこの「ガーターミッション」についても読んでみたいものだ。


「Memories Vol I,II 」4th edition 1915


リズデール卿肖像

28歳の時のリーズデール卿/ミットフォード肖像

表紙
リーズデール卿の訃報記事が添付されている

リーズデール卿の孫娘ユニティー
ヒットラーの信奉者でナチスドイツに移住
彼女の服毒事件の記事

ミットフォード家の祖先
フランク王国シャルルマーニュ大帝肖像


Old Japanの挿絵

邦訳版「英国外交官の見た幕末維新」長岡祥三訳



3)A Tragedy of Stones and Other Papers 1912

Lord Redesdale著

リーズデール卿のエッセイ/講演集。10編のうち5編が日本関係の講演集でロンドンのジャパンソサエティーでの講演や彼が創設に関わった学校での講演が採録されている。先述の通り、ガーター勲章ミッションで40年ぶりに日本を訪問した時の印象を語った講演記録は貴重な資料である。ちなみにこの書籍には蔵書票があり、第5代ローズベリー伯爵、ビクトリア女王時代のイギリス首相アーチボルト・プリムローズの蔵書であったことが判っている。

A Tale of Old and New Japan ガーター勲章ミッションで40年ぶりに再来日した時の印象

Three hundred Years Ago ウィリアム・アダムスの話

Fudalism in Japan 日本の封建制について

A Holiday in Japan Nearly Fifty Years Ago Part 1 鎌倉/箱根への紀行文

A Holiday in Japan Nearly Fifty Years Ago Part2


「A Tragedy of Stones and Other Papers」1912




蔵書票には「Earl of Rosebery Archbald Phillip」とある
第5代ローズベリー伯爵、
前英国首相アーチボルト・フィリップ・プリムローズ (自由党、在任期間1894−1895)
の蔵書であったことがわかる






左ページにリーズデール卿の著作リストが掲載されている

「A Tale of Old and New Japan」1906年ロンドンのジャパン・ソサエティーでの講演


3)「A Diplomat in Japan」 First Edition 1921 

Ernest M. Satow:アーネスト・メイソン・サトウ著

邦訳版「一外交官の見た明治維新」 坂田精一訳 岩波文庫

日本では幕末維新史に関する有名な著作であるが、詳細は以前のブログで紹介したので、ここではあくまでもミットフォード著作のカウンターパートということで取り上げておきたい。巻頭でサトウはミットフォードに言及している他、本文中では度々ミットフォードの名前が登場する。先述のようにミットフォードも、彼の回顧録の中で度々サトウについて言及している。二人の外交官の体験に基づく両著を併せて読むことで、あの時代が万華鏡のように映し出されるであろう。


德川の葵の紋



アーネスト・サトウの肖像(1869年と1903年)



表紙と将軍慶喜肖像



大阪での集合写真
サトウ(前列左)とミットフォード(後列右から2番目)


下関砲台占拠




今回もこれらの貴重な書籍の収集に関しては、神保町の北澤書店にお世話になった。あらためてそのことに謝意を表して結びに替えたい。

2022年12月9日金曜日

2022年名残の紅葉を愛でる 〜日比谷公園と蘇峰公園の紅葉定点観測〜

 日比谷公園と蘇峰公園の紅葉

今年も京都や大和の紅葉を愛でる旅は叶わなかった。コロナのせいもあるが、どこか関西まで出かける心のゆとりが生まれなかった、といったほうが当たっているだろう。良い旅立ちにはやはり心がそのように動くということが必要である。そうならなかった。どうも引きこもりモードが定着しつつある感じが良くない。やっぱりコロナのせいだ。

ということで、今年もまた近場の紅葉ということに相成った。今年の東京の紅葉は、例年よりは少し早めに始まったようだ。しかし、紅葉が真っ盛りになる11月下旬の連日の雨と曇天で、鮮やかな紅葉を愛でる間もなかった。やはり青空を背景に、透過光に輝く紅葉、黄葉の織り成す錦を楽しみたい。そう思って待ちに待って12月に入り晴れ間を狙って、乾通りの通り抜けに加えて日比谷公園に行ってみたが、既に池畔の紅葉は散ってしまっていた。残る木も色乗りが悪くほぼ終わりであった。例年だとこの頃が見頃なのだが残念。ここの紅葉を見ないと一年が終わる気がしないのだが。地元愛だ。

一方の蘇峰公園の方は、なかなか色づかないなと思っていると、早くも茶色になって散り始める樹が。狙い目の樹には赤い葉もあり、銀杏の黄色とのコントラストが美しい。あまりお天気が回復しないので少雨の中の紅葉を狙ってみたが、やはりイメージする煌めきが感じられない。かろうじて一部の赤い部分をクローズアップして紅葉らしさを演出してみた。全体的には「コレはコレはの錦の間に間に」というわけにはいかないので、「寄り」で名残の紅葉を楽しんだ。

ということで、今年の定点観測地点での「名残の紅葉」をご披露いたしたい。


観測地点1)日比谷公園(12月7日撮影)

落葉してしまった

(同じ地点から3年前の2019年12月5日の撮影)







観測地点2)蘇峰公園(11月24日、29日、12月8日撮影)

以下、2枚は11月24日撮影(晴れ)




以下、6枚は12月8日撮影(晴ときどき曇)








以下、6枚は11月29日撮影(少雨、曇天)









以下、2枚は12月16日撮影(快晴)






(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-120/4, Nikkor Z 70-200/2.8)



2022年12月3日土曜日

2022年皇居乾通り通り抜け(紅葉編)〜3年ぶりに再開〜

 



恒例の春と秋の2回の皇居乾通り通り抜け。2019年を最後にコロナ禍で中止されていたが今年3年ぶりに再開された。前回の訪問は桜の季節であったが、今回は紅葉狩である。

さぞや皇居外苑に長い待ち行列、と思いきや全く並ぶこともなく、待ち時間ゼロでスムースに入れた。中も比較的ゆったりで写真撮影も楽しむことができた。人出が少なかったのは連日お天気が不安定で曇り空や雨が続いたせいだろうか。今日は雲が切れて少し陽が差し始めたのでそのわずかな瞬間を狙って駆けつけた。しかし薄陽の中の紅葉といった趣で、期待したような青空を背景に鮮やかな色のりというわけにはいかなかった。今年の紅葉は例年よりも少し早く進んでいるのか、乾通りの紅葉は真っ盛り。早くも散り始めた樹も。750mの通り両側に、イロハモミジ、トウカエデなど8種類750本の紅葉があるそうだ。珍しいフユサクラも開花していて彩を添えていた。今回は東御苑へ抜けるルートは設定されておらず、乾門から北の丸公園へ出るルートだけであった。前回、写真に収めることができなかった富士見三重櫓も正面から見ることができたし、白鳥堀に聳り立つ高石垣と多聞櫓もしっかり写真に収めることができたので満足のいく散策であった。

帰りに東御苑を抜けて帰ったが、ここの紅葉も真っ盛りであった。

前回行った2019年3月31日の皇居乾通り通り抜け(桜編)はこちらから→ 皇居乾通り通り抜け(桜編)




皇居外苑には誰も並んでいない

坂下門から入る

富士見三重櫓がしっかり見える

局門




多聞櫓

シキザクラ


皇宮警察官の警備ご苦労様です


そこそこの人出であるがゆったり見物できる

乾門出口



乾門脇の銀杏




オマケの東御苑の紅葉





東京駅丸の内行幸通り





(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-120/4)