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2021年6月12日土曜日

古書を巡る旅(11)A Diplomat in Japan:「一外交官の見た明治維新」〜倒幕/維新のシナリオライター? 若きアーネスト・サトウの記録〜

 


A Diplomat in Japan 1921初版

岩波文庫の邦訳版は「一外交官の見た明治維新」
こちらは絶版、中古市場でゲット

ラザフォード・オルコックの「大君の都」岩波文庫版
こちらは岩波から復刻版が出ている


最初の英国公使館が置かれた高輪の東禅寺
東禅寺事件の現場となる。
オリファントとサトウが滞在した

Ernest Mason Satow
(1843-1929)

対日外交の主役はアメリカからイギリスへ

前回4月のブログ(下記参照)ではアメリカの初代駐日公使タウンゼント・ハリスの「日本滞在記」:The Complete Journal of Townsend Harrisを取り上げたが、今回はイギリスの外交官アーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」:A Diplomat on Japanを紹介したい。これは彼の1862年(文久2年)の日本着任から、1869年(明治2年)の一時帰国までの記録である。すなわち幕末の動乱と明治維新直後までが語られている。ハリスの記録は、下田から江戸へ公使館を移したところまでとなっており、徳川幕府との外交交渉が主となっていて、その後の幕府の崩壊、新政府樹立には触れられていない。この対比は興味深い。というのもペリー、ハリスと日本の開国、そして通商条約締結を主導したアメリカにかわって、幕末から明治の対日外交の主導権はイギリスへと移っていったからである。タウンゼント・ハリスは徳川幕府を日本の交渉相手として尊重し、開国交渉を他の列強諸国に先んじて主導、日米修好通商条約を締結した。これが安政五カ国条約の雛形となった。しかし、こうした急速な開国の動きが尊王攘夷派の過激な活動の発火点となり、外国公館の襲撃(東禅寺事件)や外国人襲撃(ヒュースケン殺害など)へと展開してゆく。そしてついには井伊直弼の暗殺、開国派幕府官僚の解任へと繋がり、徐々に幕府の統治権威、対外代表権は揺らぎ始める。しかも幕府の外交を支えてきたハリスの帰国。さらには幕府は孝明天皇からの攘夷決行圧力と横浜閉港、安政条約締結五カ国からの開港圧力の板挟みになり、決断できない幕府の権威失墜と、外交的にも手詰まり状態になっていく。一方で、水戸、長州などの攘夷派によるテロは過激化し、ついは御所襲撃と天皇拉致企図にエスカレートする。しかしこうした「禁門の変」における長州の敗退、水戸天狗党の挙兵、天誅組/十津川の乱などの失敗、さらには幕府による第一次長州征討で「攘夷運動」も大きな転機を迎える。そして薩英戦争、馬関戦争を契機に、薩摩、長州は「攘夷」から「倒幕」へと舵を切り、新政府樹立へと政治的なムーブメントを転換させていった。こうした動きのさなか、各国外交団の中で主導的な位置に躍り出てきたのがイギリスであった。アメリカは1853年のペリー艦隊派遣以来、ハリスの活躍もあり対日外交の先手を取っていたにもかかわらず、その後遅れをとることになった。その背景にはアメリカの国内事情、すなわち南北戦争:The Civil War(1861〜64年)の勃発があり、終戦後もその後の国内建て直しに手間取ったという事情がある。しかし、それだけではない。イギリスの対日外交戦略の動きにそれが読み取れる。初代英国公使はラザフォード・オルコック。そして次にハリー・パークス、その通訳官/書記官として着任してきたのがアーネスト・サトウであった。パークスは日本の内戦状態(戊辰戦争)をみて、国際法上の「局外中立」を宣言し、欧米外交団をリードした。やがて内戦の収束を見て幕府(大君の旧政府)を見限り、天皇/薩長(ミカドの新政府)をいち早く承認(信任状提出)するなど、先が見通しにくい時局において先見的な洞察力と決断力を示した。すなわち自由貿易体制を担えるのは封建制と統制貿易を基盤とした幕府ではなく、新しい近代的政治体制を創出しようとする薩長勢力であることを喝破した。幕府の外交政策を推したアメリカに代わり、イギリスが対日外交の先頭を走ることとなった。

アーネスト・サトウはオルコック、パークスの二人の上司に仕え、この激動の日本で経験を積むこととなった。彼は1862年に日本に着任した。あの憧れのローレンス・オリファント(後述)の著作に啓発されて、彼の後任としての江戸着任であった。しかし、時はまさに外国人襲撃テロ事件が横行する不穏な幕末の日本。横浜上陸は多難な人生の幕開けであった。と同時に彼の日本の歴史の証人、いや新しい歴史の創造者としての数奇な人生の始まりでもあった。以来、通算して25年日本に在任した。


Sir Ernest Mason Satow: アーネスト・サトウの略歴

1843年(天保14年)ロンドン生まれ。父はスウェーデン、ドイツ、フランス、ロシアと当時の国際情勢から国籍が変わったが、イギリスに渡りロンドンに定住した。姓のSatowはスラブ系の希少姓であり、日本語のサトウ:佐藤と音が近いが偶然にすぎない。ただ、彼はのちに、この姓の故に日本人からは親しまれて、大いに親善友好に役立ったと書いている。日本名を「佐藤愛之助」と称した。

1861年(文久元年)サザンプトン出港、日本へ。(18歳)

1862年(文久2年)横浜着 江戸の英国公使館ラザフォードオルコックの通訳官として着任。のちに書記官に。(この間、生麦事件、第二次東禅寺事件、薩英戦争、馬関戦争、禁門の変、大政奉還、鳥羽・伏見の戦い、上野戦争など幕末の主要事件の生き証人となる。1865年にはハリー・パークスがオルコックの後任として着任。)

1869年(明治2年)明治維新を見届けてひとまず賜暇帰英(26歳)この間6年半の日本滞在の記録が本書。

1870年(明治3年)再来日。書記官として東京の公使館勤務(不平氏族の反乱、西南戦争、維新後の日本各地を旅行)

1883年8明治16年)賜暇帰英(13年滞在)

1884年 シャム総領事バンコック赴任

1885年 同 公使に昇任

1887年 帰英 弁護士資格(Barrister)取得

1889年 ウルグアイ公使

1893年 モロッコ公使

1894年(明治28年)日本公使として再び東京に赴任(日清戦争直後の三国干渉、対露政策、1902年の日英同盟 締結への準備)

1895年 爵位を授けられSir Ernestとなる。

1900年 清国全権公使として北京に転任(1904年日露戦争勃発)(6年滞在)

1906年 帰英 枢密顧問官(Privy Councillor)、ハーグ国際仲裁裁判書英国代表評定委員

1921年(大正10年) 本書をロンドンで出版

1929年(昭和4年)晩年の隠遁先、英国南西部のデボンシャー、オタリー・セント・メアリーで永眠(享年86歳)

生涯独身。正式な籍は入れなかったが日本には日本人の妻(武田兼)がおり子孫を残した。イギリス帰国後も、頻繁な手紙のやりとりや子弟の英国留学など家族としての交流は続いた。

(岩波文庫版「一外交官の見た明治維新」掲載の略歴を参考に編集)


開国まもない日本に憧れて江戸に赴任

駐日英国公使のオルコック、パークスが清国の領事から日本に転任してきた中国通の腕っこきの外交官であるのに対し、サトウは、最初から日本への赴任を目指して外交官になった。このA Diplomat of Japan:「一外交官の見た明治維新」は、1921年(大正10年)ロンドンで出版された。晩年になってからの著作であるが、彼の抜群の記憶力とその時代の文書、日記やジャーナルに基づき正確に復元されている。彼が1862年(文久2年)から1869年(明治2年)までの期間、外交官としての日本駐在第一期(彼曰く、我が生涯で最も興味ある期間)の日本での体験、見聞を綴った回想録である。なんと当時サトウは19歳から26歳の青年であった。その内容はまるで歴史の現場に立って日本の幕末明治史を振り返るようなビビッドな記述に溢れている。冒頭に彼が日本を目指した理由が記述されている。彼がロンドンのユニバーシティーカレッジの学生(16歳)であったときに、図書館で出会ったローレンス・オリファントの「エルギン卿遣日使節録」(下記ブログ参照)に感銘を受けて日本に憧れたという。ちょうど募集があった外務省の日本語通訳生試験を受けて見事合格した。この時期は大英帝国は植民地インドにおける反乱の勃発、清国におけるアヘン戦争、アロー号事件など血生臭い戦争が相次ぎ、大英帝国の海外進出、植民地経営にも明るい未来というよりは暗雲と流血の事態が見え始めた時期であった。そんななか、新たに開国した極東の島国、日本の姿に、西欧諸国は一種の憧憬と新鮮な感動を覚えた、これはエルギン卿の秘書官であったオリファントが清国に続いて日本を訪れて、その記録である「エルギン卿遣日使節録」に(特にインド、中国との対比において)日本を東洋の暗黒の中に忽然と現れた「光」のように描いたことにも表れている。若き学生であったアーネスト・サトウは強い感銘を受けた。そして憧れた。江戸着任後のサトウにオルコックは、雑用に忙殺されるのではなく、日本語と日本の実情を研究するよう十分な勉強の時間を与えた。日本語を漢学と蘭学の素養のある武士から習った。これがのちのジャパノロジスト、サトウを産む基礎となった。オルコックは優れた上司だった。サトウはオルコックに大いなる尊敬と感謝を示しつつも、おそらく彼にとって一番勉強になったのは、実際の外交交渉、通訳、文書翻訳の現場の仕事であったろう。彼の能力を遺憾なく発揮した。


日本の現実 外国人襲撃という攘夷の嵐

こうして憧れの日本に着任したのであるが、しかし、現実の日本はそのような夢のような国ではなかった。サトウ(当時19歳の若者)が降り立った日本は、先述のように外国人へのテロが横行する「攘夷」の時代にあった。着任の一週間後には英国民間人が薩摩藩士に斬り殺される生麦事件が起き、さらに英国公使館が襲われた第二次東禅寺事件が起き、これを端緒とした薩摩藩との薩英戦争、長州藩による四国艦隊砲撃事件に端を発した馬関戦争、数々の攘夷派による外国人殺傷事件(彼自身も襲われている)の真っ只中にあった。彼の著作の前半は、着任早々にこうした血生臭い事件の後処理、首謀者の逮捕と処刑、賠償金の請求、責任の追求などの幕府や薩摩、長州との交渉の模様が細かく記載されている。ここでは然るべき英国の権益の確保と居留民の安全の確保を要求する断固とした外交官の姿勢が見て取れる。テロ犯人の処刑(Harakiri)にも立ち会っている。また英国艦隊の鹿児島砲撃という薩英戦争には彼自身も参加しており、鹿児島湾での砲火の応酬と、英国艦船の被害、薩摩船の拿捕、その中での五代才助、寺島宗則との出会い、交渉模様などが記述されている。また馬関戦争では、伊藤俊輔、井上聞多(遣欧使節の一員でこのとき急遽帰国していた)との交渉、全権代表高杉晋作との交渉模様が記録されている。しかし、この時のこうした外国留学経験を有する、あるいは海外へ雄飛する若き薩摩人、長州人との出会いが、のちに彼らの倒幕、維新決行の英国側の支援者、アドバイザーとしての「アーネスト・サトウ」の登場につながってゆく。双方ともに20代の若者である。若い感性にお互いに共鳴しあったのであろう。それにしても「攘夷」とはなんであったのか?幕藩体制の矛盾が生んだ下級武士フラストレーションが、折りからの排外的な尊王思想と結びつき、開国に伴う物価高騰や外国からの感染症の蔓延など直接的に目に見える「敵」外国人に向かったテロリズムが攘夷であった。しかし、やがてはこのムーブメントは先述のように「倒幕」へと目的が鮮明化していった。


Tycoon:大君による支配(徳川幕藩体制)の終焉を確信

若きアーネスト・サトウはそうした激動の日本において、やがては倒幕、新政府樹立を陰で支える(シナリオライティングしたとさえ言われる?)英国外交官として、またたぐいまれなる日本学者:ジャパノロジスととして歴史に名を残すことになる。徳川幕府に象徴される武士を頂点とする封建的、重農主義的な政治経済体制(幕藩体制)がすでに機能を失い、19世紀に世界的に展開し始めた産業主義、帝国主義的な自由貿易体制にとって、こうした旧体制はもはや排除されるべき障害以外の何者でも無いものとみなされた。こうしたグローバル市場経済(現在の自由貿易体制とは異なる植民地を想定した帝国主義的なそれではあるが)の中にあっては東洋諸国も「太平の眠り」に身を委ねていることを許さなかった。徳川幕府を頂点とする幕藩体制はもはやこうした新時代に対応できない政治体制であることをオルコック、パークス、サトウは感じ取った。ここはフランス公使ロッシュが最後まで徳川幕府を支持し(イギリスに対抗する意味でも)、結局明治新政府における外交戦で英国に敗退した点と大きく異なる。またアメリカ公使タウンゼント・ハリスも幕府との交渉を優先した。しかし、先述のように日本の開国においては先駆的、主導的な役割を果たしたアメリカも、本国の内戦(南北戦争)勃発で外交が停滞し、ハリスの帰国を契機に英国の後塵を廃することになってしまった。こうした英国の外交戦略の基本は、清国において大英帝国の求めるグローバリズムに頑なに抵抗した東洋的秩序「中華思想/朝貢冊封体制」を武力で崩壊させた動きの延長線上にある。したがって日本においてはTycoon:大君/徳川幕府の幕藩体制の機能不全を見て、これを打倒する動きを支援し、Mikado/天皇を新たな君主といただく中央集権的な新政府体制への変革「明治維新」「王政復古」へと転換すべきことを確信していた。ただ清国で行ったような強引な武力行使ではなく、いわば「革命勢力」支援という形でことをなした。こうして16世紀末に西欧人が初めて日本と出会った時(ファーストエンカウンター)以来の支配者、Tycoon:大君(将軍)は19世紀のセカンドエンカウンターによりその座を降り、Mikado:天皇の時代に移行することとなった。ただ、インドや清国のような武力とアヘンによる直接的な植民地支配への動きではなく、大英帝国の同盟国として関係再構築する動きとなっていった。そしてこれがのちに日英同盟へと発展していった。両国にとっての仮想敵はユーラシア大陸の北辺から南下を試みるロシアであった。後述する。


維新の志士との交流と人脈形成

彼の記録によると、幕末動乱の中で、我々が知る西郷隆盛、大久保利三、小松帯刀、勝海舟、桂小五郎、後藤象二郎、坂本龍馬などの維新の英傑といわれた薩摩、長州、土佐などの諸藩の志士、そして開明的な幕臣の多くが彼とかなり頻繁かつ濃密に接触していた様子が記録されている。あるときは交渉相手として、あるときは非公式の会合で。彼の側からも接触していたが、志士の側からのアプローチがこれほど多かったのかと認識を新たにさせられた。一種の「サトウ詣」が行われていたようだ。年代的に見てもほぼ同じ世代である点が面白い。やはり日本語が堪能であったことが大きな要因であっただろう。しかし、それだけでは無い。先述のように、彼は歴史的な事件の現場に多く立ち合っている。薩英戦争、馬関戦争、禁門の変、鳥羽・伏見の戦い、慶喜の各国公使謁見、そして慶喜の大坂城脱出。上野戦争、まさに神出鬼没で、歴史の現場に立ち会いその情報収集活動たるや凄まじいものがある。また当時日本に駐在していた各国公使館員の中でも、彼ほど日本の地理や社会、文化、人脈に長けていた人物はいなかった。時代の動きを俯瞰的に把握していた。後に新政府において活躍する若き人士が寄ってくる所以であったのかもしれない。特に薩摩、長州は薩英戦争、馬関戦争以降、英国との関係を強めてゆくうえでもサトウの存在は大きかった。彼が維新を仕掛けたのではないか、などと今流行りの「陰謀論」がまことしやかに語られる所以であろう。影のフィクサーとまでは言わないにしても少なくとも彼がイギリスの外交官として倒幕、明治維新に果たした役割の重要性は否定できない。イギリスのインテリジェンス機能はこの時すでに健在であったようだ。

明治になって日本への2度目の赴任となったサトウは、その人脈と豊富な知見に着目した新政府高官(若き維新の志士たちであった)から、帰化して政府官僚のポストにつかないかという誘いや、明治政府の外交顧問のポストのオファーがあったと記述している。彼の知見、人脈から見れば宜なるかなである。しかし彼は、どのような名誉なポジションであれ、たとえ高額の報酬であれ、日本の新政府に出仕するつもりはない。なぜなら「私は女王陛下に忠誠を誓った公僕であるから」と述べている。彼は最後まで「女王陛下の外交官」として日本の歴史的な転換に関わった。それは正しい選択であった。


大英帝国の対日外交戦略の実相

この時のイギリスが、かつて清国でとったようなアヘンによる市場撹乱と武力による植民地化といアプローチを採らなかったのは、もちろん日本側の志士たちが「前車の轍を踏まない」という覚悟と慧眼、そしてその対抗力が大きいことは言うまでも無いが、オルコック、パークス、サトウといったイギリスの外交官の現地日本の事情に即した外交政策があったことも否定できない。これは英本国政府の方針でもあったようで、むしろオルコックが馬関戦争で下関砲台を砲撃し、長州藩を降伏させたことが本国政府の方針(日本国内/近海で自衛以外の場合を除いて武力行使を禁じる)と異なる、として日本公使を解任されている(ちなみに薩英戦争時はオルコックは本国へ一時帰国中であった)。サトウはこの解任は理不尽だとして憤慨しているが、武力による紛争介入を極力避けようとする本国の方針があったことがわかる。ちなみにオルコックはこのあと清国全権公使に栄転している。こうした外交方針は後任のパークスにも引き継がれ、倒幕勢力を支援するが直接的に武力介入することはなかった。また、最後の将軍慶喜の大阪脱出と恭順について、サトウは著作の中で「とても容認できない負け方」「ヨーロッパにおいてもこのような不名誉な降伏は受け入れられないだろう」と述べている。一方で天皇を敬う慶喜が、徳川体制最後の将軍として幕引きの役割を担い、ミカド:Mikadoを国家の君主と認め、大政奉還により大君:Tycoonの地位から降りたこと、国内が内戦状態となることを避けるために、新政府軍に対して幕府側からの抵抗をやめるように動いたことを評価もしている。慶喜自身は後年、徳川家の影響力の存続よりも、英国やフランスなどの列強の内戦介入を避けることが最優先であったと述べている。戊辰戦争時には駐在各国は局外中立の立場をとっていたが、混乱すると自国居留民保護や権益保護を名目に内戦に介入してくるケースが十分想定されるので(清国の例をあげるまでもなく)、とにかく内乱状態に陥ることをを避けることが必須と考えた。結果的にはフランスは徳川幕府とともに敗退し、イギリスは薩長とともにあって明治維新の影の立役者となったが、外国軍隊が具体的な戦闘に介入してくることはなかった。。こうして日本は列強の介入による混乱と植民地化を避けることができた。大英帝国の戦略も、資源のない国日本の植民地化よりも徳川幕藩体制を見限って、日本を全近代的な封建制国家から近代的な国家へ脱皮させることによって、その日本を大英帝国の極東におけるアライアンスに組み込む。これが緊迫する国際情勢にあって英国の国益に資する(対ロシア、対フランス戦略上)との考えであった。まさに「地球儀を俯瞰した」戦略思考である。ただ皮肉なことに、そのよちよち歩きの子供であったはずの日本が1902年の日英同盟と米国の戦費支援(戦争公債引き受け)で1904年の日露戦争に勝利すると、やがて朝鮮、満州の地に勢力を広げ始め、中国における権益を脅かされるまでに成長する。1914年の第一次世界大戦で日本は日英同盟に基づきドイツに宣戦布告し、終戦後はドイツが持っていた山東半島、青島の権益を得ることとなる。こうして徐々にイギリス、アメリカは日本に対する警戒感を抱き始めることになる。1922年のワシントン軍縮会議の後1923年には日英同盟は更新されることなく消滅する。時代は第一次世界大戦の勝利に貢献したアメリカが大英帝国に代わるリーダーの時代へと転換してゆく。こうした事態の変遷を、晩年のサトウはどのように見ていたのであろうか。


ジャパノロジストとしてのサトウ

サトウは、このA Diplomat in Japan:「一外交官の見た明治維新」だけでなく、日本の文化/芸術/言語/地理/歴史関係、日英外交史に関する数多くの論文/著作を残しており、日本学者:ジャパノロジスとしても名を残した人物である。のちにこうした一連の著作の成果が評価されてオックスフォードから博士号が、またケンブリッジから法学博士号が贈られれている。興味深いのは旅行案内で著名なMurray社から1884年に刊行されたA Handbook for Travelers in Central and Northern Japan, London, 日本語訳は東洋文庫の「明治日本旅行案内」である。共著ではあるがこんな旅行案内書が書けるほど日本国内を知り尽くしていることに驚く。また個人的に興味深い著作にThe Voyage of Captain John Saris to Japan 1613:「ジョン・セーリス艦長の日本への航海」1900年ロンドン刊がある。17世紀初頭に、英国人航海士ウィリアム・アダムスが日本にやってきた時代に、英国艦隊のジョン・セーリスが通商を求めて徳川家康/秀忠に英国王の親書を持って来日した際の記録。当時の航海日誌や手紙を掘り起こし、日本人研究者とともに文献研究を進めた著作である。イギリスのハクルート叢書の一巻として著された。これは近世日欧交流史研究という歴史学者の仕事そのものである。その研究姿勢と探究心に驚嘆する。ちなみにこの中で、彼はウィリアム・アダムスの功績についてあまり紙幅を費やしていない点が興味を惹く。これは外交官としての立場からくる評価なのか、それとも彼独自の歴史観のゆえか。

こうした、のちにジャパノロジストと呼ばれる人材の輩出の基礎にあったのは、先述のような初代公使オルコックの公使館員に日本語と日本研究に十分な時間を与えるという方針があった。これは後任のパークスにも引き継がれ、サトウやミットフォード、アストンなどの日本専門家を生み出す。こうした「日本語研究」「日本研究」そして「人材育成」が公使館の重要な任務の一つとして位置付けられていた。いわばオルコック/パークス・スクールである。こうした方針は、日本に限らず中国やインドなどでも行われていて、というよりその経験が日本に持ち込まれたといって良いのかも知れない。こうした地域研究(Regional Study)や開発研究(Development Study)、植民地経営研究はイギリスのアカデミズムの一分野となり、ロンドン大学アジア・アフリカ学院(SOAS:School of Asia and African Studies)がその中心となっていった。これが大英帝国経営戦略にとって重要な研究であったことは言うまでもない。ただ、イギリスにおける日本研究は、「日本学」としては確立されず、対日関係に課題が発生する都度の研究となったようだ(日英同盟、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦、戦後日本の高度経済成長など)。この辺の事情、「イギリスにおける日本研究」は項を改める必要がある。

ところでサトウに限らず、日本にやってきた外国人の日本語習得能力、文化吸収力、理解力、そして発信力には舌を巻く思いだ。バジル・チェンバレン、ラフカディオ・ハーンなどのジャパノロジストの先駆者から、戦後のサイデンステッカー、ドナルド・キーン、さらには現代のロバート・キャンベルに至るジャパノロジストの系譜には感銘すら受ける。アメリカの場合は戦争中の日本語情報将校を育成した海軍ボルダー学校の卒業生、すなわちオーティス・ケリー(GHQ、のちに同志社大学教授)、エドワード・サイデンステッカー(コロンビア大学教授、川端康成作品の英訳)、デルファー・ムック(占領地テニアン島の日本の子供向けのテニアン・スクール創設)、ドナルド・キーン(コロンビア大学教授、日本に帰化)などの、いわゆるボルダー・ボーイズがいる。日本はどうだったのか?その話はまた別途。


参考:過去の関連ブログ

2020年9月25日 古書を巡る旅(6)「エルギン卿遣日使節録」

アーネスト・サトウが読んで日本に憧れるきっかけとなったローレンス・オリファントの著作

2020年10月1日 江戸高輪の東禅寺 最初のイギリス公使館跡を探訪

日本初のイギリス公使館跡、東禅寺事件の現場となり、オリファントが重傷を負った場所

2021年4月14日 古書を巡る旅(10)The Compete Journal of T.Harris 伊豆下田玉泉寺から江戸麻布善福寺へ

日本初の米国領事館が置かれた下田玉泉寺と江戸麻布善福寺。タウンゼント・ハリスの「日本滞在日誌」の紹介