ジェームス1世 |
2013年発行の日英交流400周年記念金貨 イギリス東インド会社から発行された |
「古書をめぐる旅」でベーコンを二回にわたって紹介した。2024年8月10日「ベーコン書簡集」、2024年9月1日「ベーコン書簡集」(2) 特に(2)ではベーコン/コーク論争については少し立ち入って「法の支配」の歴史を辿ってみた。そこで、そもそもベーコンやコークが活躍した時代、すなわち国王ジェームス1世治世とはどういう時代だったのか。ともすればヘンリー8世やエリザベス1世というチューダー朝の国王/女王のカリスマ性の陰に隠れて印象が薄いイメージがあるジェームス1世とはどのような国王であったのか。少し振り返ってみたい。
徳川家康とジェームス1世
ジェームス1世は実は日本との関係が深く、イングランド国王(在位1603年〜1625年)として初めて徳川家康に使節を送り、日英の交易を始めた国王である。1600年、豊後に漂着したオランダのリーフデ号の航海士であったイギリス人、ウィリアム・アダムス(三浦按針)が家康の側近、外交顧問として活躍した時代である。アダムスはイギリス東インド会社を通じて国王に手紙を送り、日本との通商を勧めた。この手紙が国王に届くまでには10年の時間を要したが、ついにイギリス東インド会社のジョン・セーリス率いる第二艦隊(グローヴ号を旗艦とする)が、国王ジェームス1世の使節として日本に派遣されることとなる。1613年、セーリスは無事に日本に到着し、徳川家康に謁見してジェームス1世の親書を渡した。イギリスは貿易許可証である家康の朱印状を得て平戸に商館を開設し、日英の交流と通商活動が始まった。
ジェームス1世は、先行するポルトガルやスペイン、あるいは新興国オランダとの対抗上、東洋との北西航路(北極海経由ルート)開拓に強い関心を持ち、アダムスもこれを強く支持した。というのも徳川家康も同じ構想を抱いていたからだ。イギリスと日本を直接結ぶルートができれば最短コースとなることから競争優位に立てるし、スペインを刺激することも少ないと考えた。家康もスペインやポルトガルがすでに確保している南回りよりもヨーロッパとの最短コースである北西航路の方が優位と考えた。これは多分にアダムスの助言によるものと考えられ、家康は彼に外洋船の建造、イギリスとの交易のハブ港として浦賀港築造を命じた。しかし、イギリスはこののちオランダとの東インド交易をめぐる争いに負けて(アンボイナ事件)、1623年には東インド市場から撤退し、平戸の商館を閉鎖して日本から撤退する。これ以降はアジアはインドに集中することになるが、この時のジェームス1世は、高価な陶磁器や絹、刀剣などの工芸品を買い付けできる日本、中国との交易にこだわったという。ジョン・セーリスの「日本航海記」を繰り返し愛読したと言われている。1673年、彼の孫であるチャールズ2世(王政復古後の)の時代に再度日本に使節(サイモン・デルポー率いるリターン号)を送るが、この時は幕府側によって拒絶されている。以来、250年後の幕末の安政五カ国条約の時まで日英の正式な国交はない。この時にジェームス1世から家康、秀忠に贈られた献上品(望遠鏡、茶器セット、毛織物等)は現存しない。また家康、秀忠から贈られた金屏風10隻は行方不明だが、甲冑2式はロンドン塔に展示されている。
ジェームス1世の事績
このように日本に関心を抱き、交易を目指した英国王ジェームス1世だが、彼はイングランドではどのような国王であったのだろう。そもそも王位継承から波乱含みであった。エリザベス1世崩御後、女王に子供がいなかったのでスコットランド王であったジェームス6世(処刑されたスコットランド女王メアリー・スチュアートの息子、ヘンリー8世の姉の子孫)が、1603年にイングランド王位を承継し、ジェームス1世として即位した。イングランド、スコットランド同君連合の始まりであり、チューダー朝からスチュアート朝に代替わりした最初の国王である。フランスにいたメアリー・スチュアートは帰国してスコットランド女王に即位する。メアリーはイングランド貴族のダンリー卿と結婚し一子を設ける。それがジェームスである。メアリーはカトリックで、イングランド王位の正当な承継者であることを主張してエリザベス1世の王位を継承することを主張していたが、スコットランド国内でのプロテスタントの反乱や、宮廷内の陰謀に巻き込まれてイングランドに亡命。エリザベスの庇護を求めた。しかし、エリザベスへの叛逆の疑いあり、という陰謀により1587年に処刑される。ジェームスはこの悲劇のスコットランド女王メアリーの息子である。そしてついにイングランド王となり、スコットランド王を兼ねる。その在位中の事績を振り返ってみよう。
1)スコットランドとイングランドの統合問題
両国の王を兼ねているため、即位早々、統合に熱心で、議会の協力を得ようとするが、イングランド、スコットランド双方からの抵抗でうまくいかない。しかし、同君連合を象徴すべく、1604年にはグレート・ブリテン王:King of Great Britainを自称した。また1606年にはユニオンジャック旗(現在も使われている旗の原型、アイルランドが入っていない)を制定した。アイルランドは以前からイングランドの植民地とされ、各地で反乱が起きたがスコットランドのプロテスタントを入植させ(アルスター、ロンドンデリー)、カトリックの土地を奪い、公職から追放するなど、アイルランドの抵抗運動を徹底的に弾圧した。
2)宗教政策
ジェームス1世はカトリックであった。カトリックと国教会と非国教会プロテスタント(ピューリタン)の融和を図ろうとするが、これもそれぞれから抵抗を受け、結局はカトリックとピューリタンを排除する。このためカトリック過激派からは命を狙われ、議会に仕掛けられた爆発物で暗殺されそうになる(Gun Powder Plot:ガイフォークス事件1605年)。またピューリタンは圧政を逃れ、新大陸に移住する集団が現れる(メイフラワー号、ピルグリム・ファーザーズ1620年)。この間スコットランドでは長老派プロテスタントが勢力を伸ばす。
3)議会対策
無視はしなかったが相互不信関係にあり、議会は開催したものの(彼の子のチャールズ1世は議会を開かず無視したが)、たびたび国王大権侵害を主張して解散した。特に王妃の浪費癖と贅沢三昧は民衆の非難の的となり議会でも問題視された。また寵臣バッキンガム公の身内優先、情実政治への議会の反発も激化し、大法官ベーコンの失脚につながる。さらに議会を無視した課税や資産の売却などがやがては国王に対するコークらの「大抗議:Protestation」1621年へと発展する。この議会の反王権闘争は、その子チャールズ1世の専制政治に対する「権利の請願:Petition of Right」へ、そしてついには清教徒革命(1642〜1649年)へ。反王党派のオリバー・クロムウェルによって国王チャールズ1世が処刑される事態につながってゆく。
4)コモン・ロー/司法の独立
イングランド伝統のコモン・ロー優位(法の支配)を受け入れず、「王権神授説」に立って「国王は法の上にある」「裁判官は国王の廷臣である」として国王大権の優位を主張して司法とも対立する。大法官フランシス・ベーコンは一貫して国王大権擁護にたち、コモン・ロー優位を主張するエドワード・コークと対立する。結局コモン・ロー裁判所のトップ、コークを罷免するが、コークは議会に論争の場を移して王権に抵抗する(コーク/ベーコン論争)。また大陸法のスコットランドとの統合にはコモン・ロー側からも強い抵抗があった。
5)海外進出、交易拡大
エリザベス時代と異なり、スペインに対する融和策(弱腰姿勢)で、海軍力強化を怠り、私掠船を禁止するなど交易活躍が停滞した。これを批判するウォルター・ローリーを政敵の密告により投獄、やがてはスペイン王の圧力に屈して処刑する。1604年にはエリザベス1世時にアルマダ海戦でスペイン艦隊を撃滅したにもかかわらずスペインと和解。スペイン艦隊復活を許してしまう。さらに、反スペインで関係を強化していたオスマン・トルコ帝国とも対立するなど東方貿易に支障をきたす事態を招いた。一方で、新大陸、北米植民地開拓事業はバージニア会社(1606年)設立し、ジェームスタウンの建設、ロンドンからの移住植民地が建設されたが、南米ギアナでの金鉱山探索にはスペインとの確執で失敗に終わる。先述の通りスペインとの戦闘を口実にウォルター・ローリーを処刑する。東インド(アジア)には強い憧れを持っていたが、先述のように日本に進出するが、アンボイナ事件でオランダとの競争に敗れ、日本、東インドから撤退する。
英国史における評価:「最も賢明にして愚かな王」?「平和王」?
ジェームス1世の国王として事績をこのように列挙すると、まるで失敗続きの暗君にしか見えない。英国史の中でその評価は必ずしも定まっていないが、概して評価の高い国王とは見做されていないようだ。エリザベス1世というカリスマ性を持った君主の後継者としてその権威を維持しようと苦労したがうまくいったとは言えない。ベーコンやシェークスピアを育んだ知性ある啓蒙君主であるとする評価もあるが、「王権神授説」の熱烈な信奉者として国王大権を振りかざす余り、伝統的に議会とコモン.・ローが優位なイングランドにあって、さらに王権を制約する「イギリス革命」の時代の幕開けを果たした王として記憶されることになる。こうしたことから「最も賢明にして愚かな国王」と揶揄された。ただし在位中、対外戦争をしなかったので「平和王」などと称されることもあるが、むしろスペインの挑発や威嚇に対する「弱腰外交」というべきであろう。エリザベス1世時代に築いたイングランドの世界進出のポジション(特に対スペイン)を拡大させるどころか、スペインに譲歩し、スペインから独立を勝ち取った新興国のオランダとの競争にも負け、停頓の時代の国王となってしまった。彼の長男であるヘンリーはウォルター・ローリーにも薫陶を受けた英明な皇太子で人望があり議会からも将来が期待されていたが、18歳で夭折。跡を継いだ次男のチャールズは、父親の専制主義をそのまま引き継ぎ、さらに議会を無視してフランス、スペインとの戦争のために税金を課し戦費の借金する。これに抵抗するものは逮捕監禁処刑するという暴君ぶりを発揮。ついには反王党派のオリバー・クロムウェル率いる議会勢力と衝突、戦闘になり国王軍が敗北。1649年捕えられて公開処刑される(清教徒革命)。歴史にたらればはないというがが、もしヘンリー皇太子が次期国王になっていたら、イギリスはどのような歴史を歩んでいたのだろう。
ジェームス1世は、王権神授説の信奉者という中世的な一面を持ちつつも、最新の科学や海外情報に関心を持つ知的で啓蒙君主的な一面もあった。自身の著作も残している。フランシス・ベーコンはジェームス1世の絶対王権を支持する大法官であった一方、この時代が産んだ経験論哲学、科学の祖であり、ジェームス1世も彼を重用すると共に彼の著作のファンであり影響を受けた。また、エリザベス時代の精華とみなされているウィリアム・シェイクスピア(1616年没)もジェームス1世時代には国王が劇団のパトロンとなり、「国王一座:The King's Men」、すなわち宮廷官として厚い庇護を受けた。一方で、コモン・ローの守護者で、ジェームス1世に抵抗した主席司法官:Chief Justice(コモン・ロー裁判所所長)エドワード・コークもこの時代の人物である。彼は国王の裁判所長を罷免され、議会に移ってからは王権の専制に抗議する「大抗議:Protestation」のリーダーとなる。また「権利の請願:Petition of Right」の起草者であり、名誉革命の「権利章典:Bill of Rights」に引き継がれるなど近代法思想の原点である「法の支配」を確立した法律家として歴史に名を残している。これもジェームス1世という「王権神授説」の専制君主があったればこそである。皮肉なことであるが、やはり「最も賢明にして愚かな王」であった。イギリスが産んだ世界の歴史に名を刻む偉人たち。ウィリアム・シェイクスピア、フランシス・ベーコン、エドワード・コーク。いずれもジェームス1世治世下の人物である。そして彼らに影響を受けたトマス・ホッブスやジョン・ロック、アイザック・ニュートン、さらにはデヴィッド・ヒューム、アダム・スミスを産むことになる。イギリス啓蒙主義の始まりである。時代は中世から近代へと転換する過渡期であった。しかし、そういった変化の時代に啓蒙君主として存在感を示すことはできなかった。
「ファースト・コンタクト」と「セカンド・コンタクト」
徳川家康とジェームス1世。徳川家康が磐石の徳川幕藩体制(封建領主体制)を打ち立て、また徹底した管理貿易体制(いわゆる「鎖国政策」)をとって250年の(平和な)江戸時代を築いた一方で、ジェームス1世はむしろ絶対王政から立憲君主制へと移行する時代の入り口にいた。それは彼が積極的にその歴史の歯車を回す役割を果たした、あるいはその歴史的転換を受け入れたと言う意味においてではなく、彼の専制主義的支配と混乱を、息子のチャールズ1世に引き継ぎ、「イギリス革命」の発火点となったという意味においてである。そして立憲君主制の大英帝国繁栄への道を歩む第一歩の時代を皮肉な形で築いた。この徳川家康とジェームス1世の「ファースト・コンタクト」から250年後、その日本とイギリスは再び出会うことになる。日本にとっては、この「セカンド・コンタクト」が「ファースト・コンタクト」以上に衝撃的な出会いであったことは言うまでもない。かたや「七つの海を支配する大英帝国」。かたや「太平の眠りから寝覚めたばかりの日本」であった。ただ皮肉なことにその閉ざされた日本の門を最初に叩き「セカンド・コンタクト」の第一歩を記したのはイギリスではなく、ジェームス1世の時代にはイギリスのバージニア植民地であったアメリカであった。
2022年1月8日「ファースト・コンタクト」カピタンの世紀(イギリス編)
ジェームス1世の徳川家康宛の親書(「英国ニュース・ダイジェスト」より) |
ロンドン塔収蔵の家康/秀忠からの甲冑(「英国ニューズ・ダイジェスト」より) |