「大君の都」全2巻 ハーフカーフ、マーブルボード装の美しい本である |
幕末/維新史を研究するときに必須と考えられる、英国外交官三部作(アーネスト・サトウ、ハリー・パークス、ラザフォード・オルコック)のうち、これまで手に入らなかったラザフォード・オールコックの「大君の都」初版をついに入手することができた。神田神保町では見つけ出すことが出来ず、ネット検索で、札幌の古書店にあったのを取り寄せた。これでアメリカのペリー艦隊日本遠征記、タウンゼント・ハリス日記に始まる「幕末/維新」史の主要史料が揃った。オールコックの「大君の都」オリジナルはクロス装のはずだが、本書は革装、マーブル模様、ギルトという豪華な装丁である。蔵書票が添付されており、Hector Stewart Richardson Oramsと記された紋章がある。どこかの名家の蔵書であったのであろうか。蔵書家としてオリジナルの装丁に仕上げたのだろう。来歴、素性は不明である。各ページには読んだ形跡もあり、ところどころに鉛筆による下線が見受けられる。しかし、全体的には痛みもなく極めて上程度の古書だ。
The Capital of The Tycoon A Three Years' Residence in Japan:「大君の都」。1863年にロンドンで出版された初版本。初代駐日イギリス公使オールコックの、1859年から1862年まで賜暇休暇で帰国するまでの3年間の日本滞在記である。この時期の日本は、1853年のペリー来航に始まる幕末の激動と混乱の時期で、15年後に訪れる幕府崩壊、維新の前夜という時代である。横浜開港後、特に攘夷派による外国人へのテロ事件(ヒュースケン殺害など)が横行し、生麦事件と薩英戦争、下関戦争が起きた時期である。以前紹介した初代駐日アメリカ領事タウンゼント・ハリスの日記が、1854年から1857年までの開国直後の事情を知る貴重な文献史料であるが、残念ながらアメリカ領事館の下田から江戸善福寺への移転で終わっている。したがって攘夷の嵐に翻弄される外交団については触れられておらず、このオールコックの記録はそれに続く詳細な幕末史を語る貴重な資料である。さらにオールコック離日後の、大政奉還、戊辰戦争、明治維新とその後の出来事を語った資料としては、アーネスト・サトウの「一外交官が見た明治維新」があり、またオールコックの後任の第二代駐日イギリス公使ハリー・パークスの「パークス伝」がある。こうしたハリスからオールコック、サトウ、パークスと一連の英米外交官による記録を読み進めることで日本の幕末/維新の流れを通史として俯瞰することができるというのも皮肉だ。もちろんすでに気付かれたように、この間、アメリカ領事ハリスの帰国に伴い、対日外交の主導権がアメリカからイギリスに移って行った様子も確認できるであろう。オールコックの業績は、もちろん幕末におけるイギリスの対日政策の立案と実行である。特に他国に先駆けて日本を開国に導いたアメリカのハリスが、あくまでも交渉相手として幕府を重視したのと異なり、早くも幕府の先行きを危ぶみ、Tycoon(徳川将軍)の絶対権力を疑問視した。彼は、幕藩体制を、これを彼の言うところの前近代的封建体制であり、それは絶対王政とは異なり、徳川将軍家以外の諸侯が政権を奪取することを可能とする体制であると理解した。とりわけ薩摩や長州といった反幕府勢力との接近、そして同盟による、政権交代を支援した。これも皮肉なことにイギリスと戦火を交えた相手であった。換言すれば、すでに西欧諸国の近代的政治体制、産業資本主義、グローバリズム、自由貿易体制の襲来に、東洋の諸国が「攘夷」などと言い募っていつまでも門戸を閉ざしているわけにはいかないことを知らしめ、政治体制、経済構造の変革を促した。中国においては武力行使による帝国主義的な方法を取り、オールコックはその先兵として働いてきたわけである。しかし、日本においては、本国の厳格なポリシーが適用され、武力行使は禁じられた。それをオールコックは守り、内戦勃発(戊辰戦争)にも、彼の後任ハリー・パークスはオールコックの政策を引き継いで「局外中立」を宣言。一貫して武力介入を避ける方針を維持した。幕府側(特に慶喜は)も列強諸国の介入を徹底して回避する方策をとった。これが日本における「革命」/「王政復古」の性質を決めたといったも過言ではない。唯一の例外が馬関海峡における四国艦隊砲撃事件である。この事件は「大君の都」には記載されていない(出版後の事件であった)が、この武力行使の決定には、オールコックの強いメッセージが込められているように感じる。それはアヘン戦争やアロー号事件での武力による開港、領土割譲や外国租界の設定で清朝政府を屈服させたやり方ではなく、近代的な武力を見せつけることで、「攘夷」の非合理性を可視化する演出あるいは戦略である。事実、結果的に交戦相手であった薩摩や長州は攘夷からイギリスとの同盟関係へと転換することとなったことは衆知の通りである。
一方でまた、そうした日本の幕末/維新史に与えた影響とは別に、オールコックのわずか三年の滞在期間中に、日本中を精力的に巡り、外国人として初めて富士山にも登り、数多くの日本人と接し、膨大な日本美術品を収集し、英国におけるジャポニズムのブームを巻き起こした功績にも触れねばなるまい。ロンドン博覧会へ幕府使節団派遣や日本美術品コレクションの出展は彼の企画であった。日本の文化に対する欧米諸国の理解の増進に貢献したといえよう。かといって彼が日本を、東西文明「ファーストコンタクト」時代のルイス・フロイスなどポルトガル宣教師やウィリアム・アダムスなどのように、地球の反対側に見出したもう一つの文明国、と見做した訳ではない。かといってケンペルやツンベリー、シーボルトのような学者的好奇心で見ていたわけでもない。興味を引かれる魅力的な世界ではあったが、決して西欧文明に対抗するようなものとは見做さず、12〜3世紀の古い封建制が東洋的に変容して支配する世界であり、またキリスト教的な「神の救いがもたらされない未開の異教徒」であり、文芸作品の繊細さは我々のそれの足元にも及ばないなどという評価は、当時の西欧人の東洋観の基底にある価値観の表明であったとも言える。これはのちの明治になってから来日した「御雇外国人」が示した日本理解の「基準」にも引き継がれている。例えば著名なジャパノロジスト、バジル・ホール・チェンバレンですら同様の視点が示されている。もっともラフカディオ・ハーンのようにそれに真っ向から異論を唱えるジャパノロジストも現れるのだが。本書にはオールコックの日本観、日本人観が克明に記述されているが、それは彼が信じる神の愛による慈しみの目ではない。キリスト教的世界観、価値観はどこまでもついてまわる。現代の多様性を重要な価値とする世界観とは異なる。それにしても彼の文章は「悪筆」の誹りを免れないだろう。段落もなく、長々と叙述が続き、話題が変わってもそのまま書き続けるので非常に読みづらい、メリハリのない書きっぷりと、意味不明な比喩の連発に悩まされる。これは英文読解力という語学能力の問題ではないと自分を慰めることができる。
本書には多くのイラストや挿画が掲載されている。その中には当時流通していた日本の浮世絵などから引用したものも多く、特に庶民の生活スタイルや風俗習慣に関するものが多数引用掲載されている。こうして見てみると、この頃の江戸の浮世絵師のビビッドな描写とウイットに飛んだ表現は西欧人でなくとも大いに感じるものがある。ましてオールコックも、すっかりこの日本のアルチザンにハマったことであろう。しきりに引用している。日常的に見る庶民の生活の様子がまるでスナップ写真のように記録されているので、彼が日本人の事細かな風俗、習慣を言葉で説明するよりも、絵で見せる方がより効果的で説得力あると考えたのであろう。実際、江戸の浮世絵師の表現は写真のようなリアリティーがあるし、漫画のような親しみやすさが溢れている。また一方では、「ロンドン画報」の特派員画家である、チャールズ・ワーグマンの絵もふんだんに掲載されている。これは貴重である。ワーグマンの好奇心に満ちた観察眼と細密な描写には驚かされる。長崎街道を旅する途中で出会った人々の日常を、これは取りこぼしてはならじ、とばかりにスケッチし彩色絵にしている。特に富士山登山の様子を描いたものは貴重である。この頃の登山はいかなる装束と装備で行ったのかがよくわかる。庶民の生活の様子も写実的に描かれており、まだ写真技術が普及していなかった時代には貴重なビジュアル表現であった。その描写は浮世絵師に負けていない。またオールコック自身も絵の心得があり、彼自身によるスケッチも含まれている。文章が悪筆なだけに、イラスト集としてパラパラ眺めるだけでも楽しい。彼のイラストは秀逸なので、そもそも漫画版「大君の都」を再版してくれたら、とさえ思うほどだ。冗談だが。
背表紙 |
ここにもマーブル模様 |
蔵書票 |
表紙 ワーグマンの筆になる「村の美人」 |
箱根からの富士山 |
吉原からの富士山 |
富士登山 |
小田原とあるが... |
大坂 |
村の生活模様 |
長崎街道の宿場 |
旅の途中の小休止 |
嬉野温泉 |
日本地図 |
武士の身支度 |
警護の若い武士 |
女性の剃刀 |
浮世絵からの引用 |
庶民の日常 彼は日本人の休息の取り方は我々にとっては苦痛でしかない、と驚いている |
食事中の船乗り 「魚の骨」が... |
Sir Rutherford Alcock (1809-1897) |
ラザフォード・オールコックの略歴:
1809年ロンドン西郊外の医者の家に生まれる
1830年 イートン校卒業後、外科の開業医免許取得
1832年から軍医としてスペイン反乱鎮圧に従軍 しかし病気のため辞任
外務省に入省し東洋勤務を志望
清国時代(1844〜59年)
1843年 廈門領事館一等書記官
1844年 福州領事
1846年 上海領事 イギリス租界の設定 領事裁判権、関税制度に活躍
1855年 広州領事 首相パーマストンに、第二次アヘン戦争ともいうべきアロー号戦争を進言、実施(1856年)
日本時代(1859〜1864年)
1859年 初代駐日総領事 のちに特命全権公使に 麻布の東禅寺に英国公使館開設
長崎に入港したのち、江戸、開港予定地である神奈川、函館など視察
1860年 富士山登山 愛犬トビーが熱海で熱湯を浴びて死去 地元での手厚い埋葬に感動
1861年 ヒュースケン殺害事件 江戸から横浜へ移転、1ヶ月後に江戸に戻る
1861年 ロシア軍艦の対馬占領に対応、幕府の許可を得て9月に英艦隊を派遣してロシアを対馬から退去させた。
1861年 7月第一次東禅寺事件 攘夷派浪士14名がイギリス公使館を襲撃 辛くも難を逃れたが、一等書記官オリファント、と長崎領事モリソンが負傷
兵庫開港延期に反対するも、事態を察し幕府遣欧使節団を支援。この頃幕府の権力の低下を実感する
1862年 ロンドン万博に幕府使節団を派遣、日本館出展。彼の日本美術コレクションを出展。英国におけるジャポニズムブームのきっかけとなった。賜暇休暇で帰国。この時サーの称号を得る。
1863年 「大君の都」をロンドンで出版
1864年 日本に帰任
留守中に「生麦事件」1862年9月
「薩英戦争」1863年8月 イギリス公使代理のジョン・ニールが賠償金を幕府から取り、その上でイギリス艦隊とともにを鹿児島に乗り込み砲撃戦となる 本国から批判
1863年 下関事件、1864年8月 四国艦隊下関砲撃事件勃発 下関砲台占拠
日本に帰任したオルコックは、長州藩による攘夷継続が長崎貿易に大きな影響を与えること、幕府の開国政策に影響を与えかねない(横浜閉港の動き)との危惧。また幕府に西欧諸国の武力を示す必要から長州藩への懲罰攻撃を決定。しかし本国は日本との全面的武力衝突に発展することを危惧し攻撃を否認と訓示。しかし訓示が届く前に攻撃開始となり、砲台が四国艦隊の陸戦隊に占拠された。
1864年12月25日 訓令違反を問われて駐日公使を解任され、本国召還。
その後彼の判断が正しかったと名誉回復されたが、駐日公使へは復職せず、後任としてハリー・パークスが江戸に着任。
第二次清国時代(1865〜69年)
清国全権公使に栄転 1865年
1869年の帰国後は、王立地理学協会の理事長、イギリス北ボルネオ会社会長などを歴任
執筆活動に勤しむ。
1897年ロンドンにて没
彼の駐日全権公使としての事績、幕末の歴史的な事件についてはこれまでのブログ(下記に列挙)を参照願いたい。特に「江戸高輪東禅寺 最初の英国公使館」にはオールコック着任から退任までの出来事をまとめた。
過去の関連ブログ:
2022年12月16日 古書を巡る旅(28)アーネスト・サトウとミットフォード
2021年11月28日 古書を巡る旅(18)「ハリー・パークス伝」
2021年6月12日 古書を巡る旅(11)「一外交官が見た明治維新」アーネスト・サトウ
2021年4月14日 古書を巡る旅(10)「タウンゼント・ハリス日記」
2020年9月25日 古書を巡る旅(6)「エルギン卿遣日使節録」ローレンス・オリファント