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2021年11月28日日曜日

古書を巡る旅(18)The Life of Sir Harry Parkes:「ハリー・パークス伝」 〜あまり著作を残さなかったもう一人の幕末/明治の立役者〜

ハリー・パークスの肖像と署名
この肖像写真は1883年7月に東京でS.Suzukiにより撮影されたとある。


お天気も良いのでぶらりと皇居お堀端を散策しながら神保町の北沢書店を訪ねた。ここに来ると、いつも洋古書の大海に揺蕩い、知の迷宮を彷徨い、日々の瑣末な雑事をひととき忘れさせてくれる。特にあてもなく書架を眺めていると、北沢社長が「面白い本が入りましたよ」と見せてくれたのが、このThe Life of Sir Harry Parkes:「ハリー・パークス伝」だ。1894年ロンドン出版である。言わずと知れた大英帝国の駐日公使ハリー・パークスの伝記だ。これが意外なことになかなか古書市場に出回らない貴重な本である。何故なのか?激動の幕末から、明治初期にかけて辣腕のイギリス公使として活躍し、あれほど歴史の教科書にも、小説や大河ドラマにも登場するハリー・パークスだが彼に関する評伝や、彼自身による日本に関する著作は少ない。したがって古書店でも滅多にお目にかからないというわけだ。前任者のラザフォード・オルコックや、ローレンス・オリファント、アーネスト・サトウ、ウィリアム・アストンなどは、多くの日本関係の著作を残している。オルコックの「大君の都」や、ジャパノロジストのサトウの「一外交官の見た明治維新」などは代表作である。彼らの評伝も日本では研究者によって数多く出されている。以前のブログで紹介したように、その著作は古書店でも割に常連メンバーで、手にすることができる。彼らが著した本は、幕末明治日本と西欧のセカンド・コンタクト(16世紀末から17世紀前半のファースト・コンタクトに対する)という時代の画期を描く重要な史料でもある。彼らは単なる歴史の観察者や評論者ではなく、まさに歴史的事件の当事者であった。それだけにその言行録、行動記録は、日欧関係史研究のみならず、幕末/明治の日本史を研究する際に欠かせない一次資料として重要である。しかし、どうもパークスに関しては、その著作、評伝は古書店の常連メンバーではなさそうだ。オルコックの後任として日本に赴任し18年滞在している。サトウの25年には及ばないものの、幕末から明治にかけて、日本の激動の時期に居合わせたイギリスの外交官であった。いや、単に居合わせただけではない。彼は明治維新の立役者の一人であった。明治新政府発足後は、日本の近代化にも大きな役割を果たした。もちろん大英帝国の、女王陛下の忠実なる公僕(しもべ)としての事績も残した。そうした人物が著作を残さなかったこと、その記録が刊本の形で残っていないのに驚いたものであった。歴史に名を残した人の多くは、リタイアー後に自分の人生を振り返って回顧録や自伝を書くことが多いのだが、彼の場合、あまり個人的な日記を残していないようだし、また、離日後、清国公使として北京在任中に(すなわち回顧するいとももなく現役中に)病死していることもあったのかもしれない。したがってこの本も、彼自身による回顧録ではなく、彼の日本時代の部下であったディンキンス(後述)によってまとめられた伝記である。これを日本語に訳したものは平凡社東洋文庫版の「パークス伝」高梨健吉訳1984年がある。このようにい彼に関する史料は意外に少ない。



ハリー・スミス・パークス:Sir Harry Smith Parkes (1828-1885)の略歴


イングランド、ミッドランド地方の中産階級の家に生まれる、早くから両親を亡くし、グラマースクールを出て、13歳で親戚を頼って中国へ。

1843年 15歳で広東のイギリス領事館に採用 アヘン戦争終結の南京条約締結に立ち会う

1854年 厦門領事 オルコックと出会う。エルギン卿の通訳としてアロー号事件に関わり、北京侵攻のなか清国に拉致され北京で投獄されるなど激震の真只中に 

1864年 上海領事

1865年 日本公使として着任 37歳 オルコックの後任として、対日政策は基本的には前任者を引き継ぐ(武力不行使)。兵庫開港問題に取り組む

1867年 大政奉還 大坂で徳川慶喜と会見 品川で攘夷派浪士に襲われるが難を逃れる

1868年 鳥羽・伏見の戦い。戊辰戦争。いち早く局外中立を宣言。江戸無血開城、 明治新政府成立。諸外国に先んじて新政府に信任状奉呈(明治新政府を承認)。明治天皇謁見。その御所へ向かう途上で暴漢に襲われるも難を逃れる。その後、条約改正交渉、近代化のための新政府支援 

1872−73年 岩倉遣欧使節団をエスコートして英国へ 条約改定交渉

1874年 清国との対立 台湾出兵

1874ー84年 朝鮮開国問題 江華島事件、日鮮修好条約締結

1877年 西南戦争や不平支族の反乱に遭遇 盟友薩摩の反乱として憂慮 日本アジア協会会長就任

1879−82年 賜暇帰国

1883年 清国公使に転任 離日

1885年 任地の北京で死去(57歳)

日本在任は18年に及ぶ。その間、幕末から明治へという激動の日本に身を置き、開国を主導し、安政五カ国条約締結の当事者である徳川幕府の行く末に限界を感じ取り、むしろ攘夷を叫んでいた薩摩、長州とのつながりを深めていったことで知られる。彼は薩摩や長州が西欧諸国との交易拡大を望んでいることを察知していた。特に薩摩とは薩英戦争後に提携関係を強化していった。大阪城で慶喜と会見している。パークスは彼を「有能な人物」として高く評価しているが、ショーグン:Shogunを戴く幕府の統治能力や、幕藩体制の限界をいち早く認識し、新生日本の誕生に期待を寄せ倒幕派を支持。ミカド:Mikadoを戴く新政府を支援した。鳥羽・伏見の戦いでの幕府敗退、慶喜の江戸への逃亡という事態がこれを決定的にした。

よく言われるように、清国でのアヘン戦争やアロー号事件を契機としたイギリス始めとする列強諸国の、帝国主義的な植民地化の動きを見聞して危機感を抱いた尊王攘夷の志士が、外国人を不倶戴天の敵であり、ハリスやオルコック、パークス等を日本を植民地化しようとする手先のように受け止め、尊王攘夷運動が起こり、それが明治維新の原動力になったと理解されることが多い。「司馬遼太郎史観」によるところが大きいのだろう。大河ドラマや維新小説などでは、日本を恫喝する「悪辣な異人」として描かれることが多い。たしかに清国でのエルギン卿やオルコック、パークスの剛腕と強硬策が清国を弱体化させ、植民地化の動きを加速させたが、その前に既に清朝による国内統治体制、外交能力が破綻に瀕しており、国内の地域勢力の分断と対立が極限に達していた。しかも近代化を担う次世代が現れなかったことが大きい。こうした清国の実態を見聞し、実際に外交交渉、武力行使に携わった彼らは、日本でも同様、幾多の交渉の過程で、徳川幕府という旧体制の行き詰まりを早くから感じ取っていた。しかし、過去のブログでも分析したように、日本を「植民地化」することの政治的効果と経済的効果を分析、評価すると、必ずしもその判断に合理性があるとは考えなかった。資源もない、マーケットも小さい。清国と同様に東洋の旧世界の価値観に属しているが、一方で隣国の有様に学び、世界に目を開き変革を求める若いパワーに満ち溢れている。知性と能力ある人物も豊富である。有力大名の雄藩は分断から連合へと進む潜在的ムーブメントを有していた。こうした要素を勘案すると、植民地化などという手間とコストのかかる、しかも統治リスクの高い選択肢を取るよりも、貿易関係拡大を優先し新日本を大英帝国の極東のアライアンスにした方が良い(対露、対仏戦略、あるいは新興国アメリカ戦略上)。清国とは異なる戦略をとる方が大英帝国の国益に叶うと考えた。これは、前任者オルコックの路線の踏襲、サトウのアドバイスや提言が大きかったと考えられるし、本国ももはや極東の日本にまで戦線を拡大する余裕はなかっただろう。パークス自身も、幕府と新政府との間で起きた戊辰戦争のような内戦に、中国で行ったような武力を用いた介入が有効に働くとは考えず、いちはやく局外中立を宣言した。一方で新政府側を支持して新体制に向けての影響力、経済的な権益を期待した方が有利と考えた。明治新政府樹立とともに、諸外国に先駆けて信任状を奉呈し、新政府を国家として承認した。この辺りが幕府側に立って箱館戦争にまで参戦したフランスのロッシュと異なる点だ。また、日本の開国を主導しながら、自国の内戦(南北戦争)で出遅れたアメリカにも先行することができた。現に、パークスとサトウの戦略は新生日本の近代化には有効な結果をもたらした。もちろん、インドや中国、ビルマ。マレーなどアジア諸国で大英帝国の版図を拡大し、維持するためにこれまで費やした血と汗と資金、繁栄のための代償の大きさを考えると、大英帝国の国益にも合致するものであった。やがて1902年の日英同盟へと結実してゆく。その後の日本の軍事的な脅威拡大、アジアにおける大英帝国の領土、権益への脅威に発展するシナリオまでは、この時に描けなかったのかもしれないが、少なくとも、幕末から明治初期という時期におけるイギリスの対日戦略は、パークスやサトウによって描かれ、実行され、そして有効に機能していた。

参考ブログ:2021年6月21日アーネスト・サトウ「一外交官が見た明治維新」

パークスの人物像は、癇癪持ち、フランス公使ロッシュと対立、芸者遊びに興じる、夫人同伴で富士山に登山など、様々である。部下からの評判も必ずしも良くなかったようだが、大英帝国の外交官としての能力を遺憾なく発揮する公僕としての人物像が描かれている。条約改定に関しては強面ぶりを発揮している。徳川慶喜を高く評価した反面、岩倉、西郷、大久保、木戸、伊藤などとは緊密に交流。長崎のトーマス・グラバーとも親交があり薩摩藩とのつながりはここを使った。アーネスト・サトウの「サトウ詣」と言われるほど、パークスが維新の志士に人望があったわけではないが、交流は活発であった。彼も、外交官として信任状を奉呈した幕府だけではなく、反幕府勢力にも大いに人脈を広げ生かしていった、まさにしたたかで辣腕の外交官であった。ただ彼の伝記からは、個人としてのパークスの人柄やエピソードはあまり伝わってこない。これは彼の心情や感情を表す日記や手紙があまり残されていないことによると、著者のディンキンス自身が巻頭で認めている。

部下はアーネスト・サトウ、アルジャーノン・ミットフォード、ウィリアム・ジョージ・アストンなど、有能なジャパノロジスト達である。彼らはオルコック、パークスの指示で1日の執務時間のうち午後は日本研究に時間を割いた。アストン、サトウはのちにパークスの後任の駐日公使になっている。こうした人材の育成と輩出という点でも大きな功績があった。もっともサトウはパークスを外交官としては高く評価していたが、上司としてのパークスには批判的であったという。これは「彼の出自や属する階級の問題だ」(サトウのチェンバレンへの手紙で)としている。確かに上流階級や、高等教育を受けたエリート層出身ではない。早くから(13歳で)中国に出て、帝国の外交尖兵として修羅場を掻い潜ってきた、いわば叩き上げである。アメリカ的には立志伝中の人(サクセスストーリー)であろうが、こうした出自問題が人物評価に絶えず付き纏うのはいかにも「階級社会」であるイギリス的である。

本書は、先述のようにパークスが最後の任地の北京で亡くなってから9年後にロンドンで出版された。パークス自身の日記や真筆原稿、回想録によるものではなく、Frederic Victor Dickins:フレデリック・ディッキンス (1838-1915) が、パークスの日本公使時代(1865−1883年)について執筆した伝記(第二巻目、ちなみに第一巻は中国公使時代の記述)である。彼は、パークスの残した手紙(彼宛の手紙を含む)やメモ、ジャーナルなどを収集し、またサトウ、ミットフォード、アストンなど関係者からのヒアリングをまとめて描いた。しかし、ディッキンス自身が巻頭言で述べているように、伝記とは言ってもパークスの人となりや、個人像よりは、彼が関わった歴史的な事件や出来事に関する記事や記録に力点を置かざるを得なかったとしている。それだけに、我々から見ると歴史資料としての興味をそそられる。ディッキンスはロンドン大学の副学長で、「百人一首」「竹取物語」「方丈記」「忠臣蔵」などを翻訳した日本文学研究者、翻訳家であった。かつて海軍軍医で、かつバリスター(法廷弁護士)の資格を持った法律家として、パークス時代の日本の領事裁判所に赴任していた。こうしてみるとサトウやアストンだけでなく、前出のチェンバレンなども含め、いかに多くの知的レベルの高い有能な人物が日本に赴任、来訪していたことにも気付かされる。世界に関心が向いていた欧州にとって開国したばかりの日本は、ジャポニズムブームに限らず一種東洋への憧れの第一対象であった。これは16〜17世紀の日欧交流史のファースト・コンタクトの時の、イエズス会・オランダ東インド会社が、知性と好奇心に溢れた有能な若者や研究者/学者を日本に送り込んだことと通じるものがある。

ちなみに、本書は東京大学国史学教授であった下村富士男博士(1907−1970)の蔵書であった。下村教授は東大最初の近代史講座の教授であり外交史が専門であった。日本史の教科書も書いている。本には随所に鉛筆書きの下線や、細かい字での書き込みがあり、研究の痕跡が見られる貴重なものだ。古書はこうした所有者の生きた証というか、その人の物語を纏っている。そこがまた大きな魅力である。


二巻からなる「パークス伝」1894年ロンドン刊

第一巻表紙 中国公使時代からはじまる
第二巻 日本公使時代
下村教授の印が押してある。

日本地図